Filo Dough

落雑

Filo Dough

 あの時も確か、パイを食べていた。

 私はそんなに食べる方ではないから、あの子から一口もらうだけだった。正直そこまで美味しいとは思わないが、いつも勧めてくれるその笑顔が好きだったから。あの子がパイを食べる日は特に決まっていなかった。大抵、三日に一回くらいのペースだっただろうか。

 今日もさっきまで、パイを食べていたんだ。


 日が落ちかかっている。大学の近くの山の側に、燃えているのだかよくわからない、ぺたりとした夕日がある。曇り空がじわじわと色を変えていく。

 祥子は私の隣に座る。学生が作った木製のベンチは、私のお気に入りだった。祥子が袋からアップルパイを取り出すのを、いつも通りぼうっと見ていた。

「ねえ、あなたはどう思っているの」

 不意に聞こえた、突然落とされた彼女の台詞に、私は固まった。脈絡も前後関係も何もなく、私には罪悪感や後ろめたさがあるだけだった。

「ぼーっとしないの。由希も悪い癖よ」

 同年代なのに、お姉さんみたいにしっかりしている祥子。私も口を開く。

「……どう思っているって、何のこと」

 薄々気づいてはいるのだ。食堂とか講義の前とか、ひそひそ囁かれる噂が、自分のものだってことくらい。祥子は優しい。私の、汚い汚い本当の噂が、嘘かどうか確かめようとするだろう。それはきっと優しいからこそ残酷なんだ。

 何度も失敗してきた。それでやっと、漫画であるような、普通の女の子同士が普通に恋人同士になることはありえないのだと理解した。幾層も重ねた経験はしかし、しばらくすれば容易に崩れ去る。また、失敗の繰り返し。

 恋愛には失敗が付き物なのはおそらく男女でも同じだが、同性だとさらにここにマイナスイメージが加わる。そういうものだ。そして女子の場合、悪いことはすぐ広まるという、そういうものなんだ。

 祥子はパイを口にして、いつものように「一口食べる?」と勧めた。私は断った。多分初めてのことだ。祥子は目を瞬かせ、前を向いて呟くように言った。

「私たち、友達だよね。あなたにとって私は……」

「わからない」

 私の声で祥子はこちらを向いたように思う。目を合わせることはできない。下を向いて話す、弱いのだ。意思が、心が、行動が。

「私が同性愛者ってウワサ聞いたでしょ。女の子を散々酷い目に合わせたっていうのも……」

「うん。私のこと、どう思ってるのかなって」

「ホントだよ」

 噛みつくように、言った。

 恋愛っていうのは、失敗グセが付きやすいらしい。何度も傷つけて何人も傷つけたし、私も傷ついた。みんな怒っていたのに、私は泣いて訳のわからない自己擁護をするだけ。

「噂。悪いこと全部本当のことだよ。客観的に言って私は危険人物。言われてるみたいにね」

「それで?」

 祥子は表情を変えていないみたいだった。そして繰り返す。

「私のこと、どう思ってるの?」

「……わからない」

 好きだとは言いたくない。付き合うのは怖いし、このまま一緒にいるのも少し怖い。それなのに一緒にいたい。うつむいたまま悩んでいると、祥子が話し始めた。

「私にとってね」

 パイを食べる。いつもよりゆっくりと少しずつ。そして私の名前を呼ぶ。

「由希。私にとって、由希はパイだと思うの」

 ポロポロこぼれるパイ生地。スカートを払って地面に落とす仕草に、少し心がぞくりとする。

「さっき聞いた話で一つ、層ができてるでしょう。毎日会う由希の顔とか、由希の話すこととか、私の中での由希のイメージが、いくつも層をつくってるの」

 ぱくり。ポロポロ。残りのパイは半分くらい。

「由希のパイの全部は知らないけど、一部はわかる。でも、わからない部分は食べずにとっておいてる、これからのための部分だと思う。それでね、由希」

 祥子はパイを食べず、じっと見つめていた。

「パイって、重なってるからおいしいんだと思うわ」

 照れたような子供っぽい笑顔。反則だと思う。

祥子は私にとって何だろう。無理に擁護することなく、目を背けるでもなく。ただ隣にいて認めてくれて、悪いことをしたらきっと叱ってくれる、友達みたいなパートナーみたいな家族みたいな、存在をたくさん重ねた人。

「ねえ、パイ、一口食べる?」

「うん」

 今度は、私がパイを買ってみてもいいかもしれない。

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Filo Dough 落雑 @rakuza330

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