第350話 逃げるが勝ちだが
空が、目に落ちてきた。
絵の具で描かれた、滝本が描いた空の絵だ。
同時に、多発的に苦悶の声が漏れてくる。
ヤクマを呼ぶ『幸せ』の声をあげる際に、空を見上げていた宮間や、守屋、エモンにも同様に空が落ちている。
滝本が描いていた絵が、絵の具が彼らの視界を遮っている。
「俺の職業は『絵師』だからな、絵の具くらいは生成できるし、空くらいは簡単に描けるんだよ。たとえ、走りながら、逃げながらでもな。もっとも、気付かれないように配置させるのは面倒だったが。『風景映写』の応用技で、疲れるんだよ。範囲も狭いしな」
「……っ!アイツを捕らえろ!」
『男の娘』に、ヤクマは命令する。
振り返り、襲いかかろうとする異形の少女。
一見美しい外見の至るところに、不気味に男性の体の部位が蠢いているおぞましい少女の顔が、滝本をとらえる。
その瞬間、滝本は手に持っていた酒瓶を向ける。
すると中から、酒瓶の容量を遙かに越える、大量の絵の具が吹き出した。
「やっぱ、見るに耐えねーよ。コレ」
色とりどりの絵の具が、『男の娘』に降りかかる。
体に、顔に、そして当然、目にも。
視界をつぶされて、明らかに『男の娘』の動きが鈍る。
「簡単に落ちるとは思うなよ? 空中にも絵を描ける絵の具だ。拭っても落ちないし、水にも溶けない。さてと、ここまでは上等。あとは……」
滝本は『男の娘』の後方に少しだけ目線を動かす。
そこでは、音を立てないように皆逃げ出していた。
ブレンダとミサコ。彼女たちが先導している。
バトラズなど、ほかの協力者も一緒だ。
皆、滝本が何をするのか理解し、信頼し、動かずに待っていてくれたのだ。
滝本は、自分のお腹に手を当てる。
先ほど飲んだ酒が、熱を帯びた気がした。
「……へっ。なるほど、酒が美味いはずだ……仕事が上手くいった。しかも、こんな、男冥利に尽きる場面で飲んだんだからな!」
滝本は、空になった酒瓶をヤクマの頭にぶつける。
「ぐっ……ナメるな!」
機関銃で穴だらけになってもすぐに再生したヤクマに、酒瓶をぶつけてもダメージなんて与えられるわけがない。
だから、今の滝本の行為は完全にヤクマを怒らせただけ。
でも、無意味な行為ではない。
ヤクマの狙いを、滝本自身に集めることが出来たのだから。
視界を潰した『男の娘』が、両手を広げて滝本に襲いかかる。
いくら視界を奪っていても、巨大な化け物の攻撃を避けることなど、滝本に出来るはずがなかった。
「皆、急いで」
大きな声は上げず、しかし怯えて動けない者が現れないようにミサコは皆を誘導する。
滝本が自分を囮にして、ほかの皆を避難させるつもりであることは、彼があの化け物の前に立った時からわかっていた。
彼がそのような行動をする人物であることは、とっくの前にわかっていた。
だから、泣かない。取り乱しもしない。
ただ、逃げるだけだ。
その思いはブレンダも一緒である。
彼女たちの目に水が溜まって、体が震えていても、泣いてないし、取り乱してはいないのだ。
逃げ出している者たちは、実にスムーズに3つの組に分かれていた。
一番近い脱出口に向かう組。二番目に近い場所に向かう組。
そして、もっとも遠い場所に向かう組。
滝本の絵を利用した目潰しは、上手くいった。
ヤクマや『男の娘』だけではなく、宮間や守屋なども、滝本の目潰しに苦しみ、その場から満足に動けていない。
もう、一番近い脱出口まで50メートルもないのだ。
この調子でいけば、彼らが絵の具を拭い、視界を回復させた頃には、皆、地下に潜り、無事に町の外へと抜け出せるだろう。
ここまでは、順調だった。
そう、ここまでは。
一番近い脱出口に向かい、皆を先導しながら走っているのは、ユリナの母親である火洞 トオカである。
一軒家の床を加工して隠されている脱出口は、すでに開かれて、確保されている。
玄関を開けて脱出口から、慌てず、押さず、しかし素早く降りれば、複数人が通れるように広めに作ってあるため、50人ほどの人数でも数分で地下にたどり着けるはずだ。
玄関にたどり着くことさえ、出来れば、だ。
トオカは異変を感じ、すぐに足を止めた。
一軒家が、かすかに動いたのだ。
「……そういうこと」
トオカはすぐに、状況を把握する。
油断していたわけでも、想定していなかったわけでもない。
ただ、そうであるならば、ただの絶望であったというだけである。
「しぃぃいおおじょおおおおおおおおおおおお!!」
雄叫びと共に、一軒家が破壊される。
一軒家の中に隠されていた脱出口が瓦礫に埋もれる。
崩壊した一軒家の瓦礫と共に現れたのは、複数の男性を組み合わせたとしか思えない大きさの、そして至る所に女性の性的な部分を再現した男性。
その男性の顔の部分が誰であるのか、トオカはすぐにわかった。
娘が通う学校で、もっとも警戒すべき男の一人だったからだ。
処女が好きな……いや、処女のみしか愛せない男性教諭。
埴生。
彼が、化け物になって現れた。
「……最悪」
3体の化け物になった男たちが飛んできたのだ。
当然、他の場所にも同様に男たちを飛ばしていたと考えるべきだ。
そして、ヤクマと本体を呼ぶ声を上げていたのならば、当然、別の場所に飛ばしていた男たちも呼び寄せていると考えるべきである。
埴生の登場と共に、周囲を囲むように、埴生と同様の見るに耐えない風貌の男性たちが、建物を崩壊させながら現れる。
「おんあぁあだあああああにおおおおいがああああおんなああああああ」
「ひぃひいいいいいいいいいいいわせたいい」
「しょうじょうおじょうじょう……しぃいおおおおおおおおじょおおおおおううおおうおうおおう」
汚らわしい。
外見もだが、それ以上に内面が。
ヤクマが造り上げた少女型の化け物『男の娘』を構成している男たちは、最初、ヤクマの研究室に通っていた男たちを組み合わせて作られたモノだ。
つまり、ヤクマによって『幸せ』にされていた女性たちに、乱暴を働いていた男たちである。
真っ当な……例えば、町の娯楽になりつつあったセイの盗撮映像に、しっかりと拒否反応と嫌悪、抗議の活動をしていた者たちは、男性も女性も、すでに町の外に避難している。
ゆえにこの『男の娘』から派生したと思われる男性たちは……足止めをしていた兵士たちを除くと、大半がクズである。
その足止めをしていた兵士たちは、宮間などヤクマの研究室に通っていた者を除き、『男の娘』本体に組み込まれていた。
おそらく、抵抗しているからだろう。
人として、死ぬために。
滝本は脱出する機会を作ると同時に、そんな彼らに最後の酒を振る舞っていたわけだ。
「……ここまで、か」
トオカの後ろで、バトラズがつぶやく。
その顔は、諦めずに何か出来ることがないか必死に考えてはいるが……目の前の現実に、思考が潰されている様だった。
「っ……ぁああああああ!」
爆発のような破裂音と共に、絶叫が響いた。
そちらの方を見ると、滝本の絵の具によって顔を汚され、視界を塞がれていたはずのヤクマと『男の娘』の顔が、綺麗になっていた。
「な、んで……」
滝本が作り出した絵の具は簡単に落とせるモノではない。
なのに、綺麗な顔のヤクマと『男の娘』。
それは、まるで新品のようで……
「まさか、潰した? 自分の顔を? すぐに再生するからって、そんな」
目の前にいる埴生たちでも最悪なのに、後ろではヤクマと『男の娘』も復活した。
前門の狼、後門の虎どころではない。
「どうする……どうする……」
トオカは、混乱していた。
いや、トオカだけではない。
逃げ出していた者全てが、まともな思考が出来なくなっていたのだ。
埴生が出てきても、ヤクマが復活しても、わき目もふらずに逃げていれば、数名は生き残ることが出来たかもしれなかったが……足を止めてしまった今、周囲は完全に化け物たちに包囲されてしまっている。
逃げ場は、ない。
逃げるチャンスを作ることも、彼女たちには出来ない。
「ぐあっ!?」
「滝本っ!?」
『男の娘』の右手に、滝本が捕らえられていた。
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