第252話 セイが泣く

(……もう少しだ)


 全身に神を……気を、チャクラを、怒りを漲らせながらセイは呼吸を繰り返す。

 浅く。長く。深く。短く。


 セイの姿は昨日シシトがさらしを破ってしまったため、パンツにピンク色の患者衣をまとっただけであったが……羞恥心などはもはや雑念としてセイは切り捨てていた。

 ここから出て、シンジを生き返らせることが出来ればそれでいい。

 見ている奴は、シシトを含めて後で殺せばいい。


 時刻は十二時を過ぎただろうか。


 コトリは今日も来て、食事を渡して、そして下げていった。

 特に何もない。

 あったと言えばなぜかコトリが食事を運んで来たとき、張り付けられていたセイに近づき、軽くセイの胸を揉んだ後に悔しそうに「……くっ」と呻いただけのことだ。

 大したことではない。


 変化があったといえば……それはセイだけが気づいたことであったが、そろそろこの拘束からセイが脱出出来そうだということだ。


 今日、コトリが食事を運んできた時に、気づかれないようにこっそりとセイは『神体の呼吸法』を使い右腕に力を込めてみたのだが、少しだけ、壁から手を離すことが出来たのだ。

 もう少しで、拘束されても関係なく動けるようになるだろう。


(……必ず助けます。先輩。待っていてください)


 完全に体を神で満たされているのをセイは感じる。

 あとは、この状態をどれだけ保って動けるか。

 セイはゆっくりと目を開けて立ち上がる。


 視界が広い。

 その状態でセイは拳や蹴りを繰り出してみる。

 時間としては5秒ほどだろうか。

 神がいなくなった気がして、セイは動きを止めた。


「ここまでか。まだまだ長くしないと」


 せめて一分は動けるようになりたい。


 セイはふぅと息を吐いて、洗面台の蛇口をひねる。

 すでに部屋の中はセイの汗でサウナのようになっている。

 水分を補給しなくてはならない。

 セイは流れ落ちる水に口を付けて飲んでいく。

 はしたない飲み方だが、どうでもいい。

 それよりも早く水分を取って訓練を再開したいのだ。


 ガブガブと体から無くなった水分の補給を終えたセイは、手で口を拭う。


 その時だった。

 視界の端で、セイはドアの近くの電球が赤く光るのをとらえた。


(……こんな時間に、誰? シシトもコトリもまだ来る時間じゃ……)


 すぐに壁に貼り付けられるだろうとセイは身構えるが、何も起きない。

 それから一分ほど経過して、セイの手と足がくっついた。

 それは、トオカが食事を運んでくる時以外では、起きない出来事。


(……誰? トオカさん? でも、トオカさんをアイツらがよこすなんて……)


 ドアが開く。

 水蒸気が外に出て、徐々にドアを開けた人物の輪郭がはっきりとしてくる。

 女性だ。

 背はセイと同じか少し低いくらいだが、背格好からコトリやトオカではなさそうだ。


(……誰?)


 部屋にやってきた人物に心当たりがなくて、セイは目を細める。

 そして、水蒸気が晴れていくに従って、やってきた人物の様子がはっきりとしてきて……セイは目を見開いて驚いた。


 やってきたのは、ここにいるはずのない人物だからだ。

 いると思っていなかった人物だからだ。


 淡い桜色のスーツを身にまとい縁の無いメガネをかけたその女性は、黒く、まっすぐに長い髪を揺らしながらゆっくりとセイに近づいてくる。


「……お、母さ……ん?」


 セイが母と呼んだその女性は、柔和な笑みを浮かべて、セイを優しく抱きしめる。


「……久しぶり、セイちゃん」


 その声は、間違いなく母親の声だった。

 セイの母親。

 常春 葵の声だった。


「お、お母さん。なんでここに? えっなんで、なんで……」


「質問は後にしましょう」


 すっとセイから離れたアオイは、メガネをキラリと光らせる。


「……お母さん?」


「……セイちゃん。ごめんなさい。ちょっと我慢出来ないから先に言うわね」


 セイの母親。アオイは『最適の弁護士』とも呼ばれる、テレビにも出るような有名で有能な弁護士だ。

 だから、実のところセイはアオイと会う機会が少なかったりする。

 だが、その少ない機会の中においても、セイは少々アオイの様子に違和感を覚えた。


「……お母さん? 何?」


 警戒度を引き上げて、セイは自分の母親の言葉を待つ。

 アオイは、ふぅと息を吐いて、溜めて、溜めて、言った。


「セイ……あなた、汗臭すぎるわ」


「お母さん!?」


 セイは叫んだ。

 約一ヶ月半ぶりにあった母親に、言われるような言葉ではないはずだ。


「いやぁ、臭いわぁ。マジで臭いわぁ。我慢していたけど、これはキツいわぁ」


 アオイは鼻をつまむ。


「お母さん!? お母さん!? お願いやめて言わないで! 鼻を摘まないで! というかお母さんそんなことを言うキャラだった!?」


 セイはもう泣いていた。

 なぜ実の母親にここまで言われないといけないのだろうか。


「ふふふ……大丈夫。久しぶりにお母さんが洗ってあげるね」


 アオイは、どこに持っていたのかわからないがシャンプーなどの洗髪具を取り出して、セイに向かってニコリと笑った。

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