第229話 月が綺麗ですね

 その反応の大きさに、シンジは思わずキョロキョロと彼女たちの様子を確認してしまう。

 セイもマドカも、それを言うのか、と目を見開いていた。


「まぁ、別に……」


「わ、私も名前で呼んでください!」


 セイが、ぐぐぐとシンジに近づく。

 鼻息が荒い。


「ちょっ!?」


 セイが近づきすぎて、シンジは思わず仰け反った。

 いつもそうだが、セイのような美少女に近づかれるのは男として悪い気はしないが、セイの動きが急すぎて生き物としての警戒心が働いてしまうのだ。

 ユリナは、そんなやり取りを見て、シンジを自分の方にスッと引き寄せる。


「ダメですよ。これは私が先輩に貸している貸しの利息でもあるんですから」


「利息?」


「ええ、ヒロカを生き返らせるのにお金を使いましたからね。……ああ、さっきの回復薬も追加ですね。おかげで私はスッカラカンになったのです。これはその分の利息です。貸した分に比べればこれくらい安いモンですよね?」


 ユリナは、ニコリとシンジに微笑みかけた。


「え? まぁ、名前で呼ぶだけでいいならそれくらいするけど……」


「じゃあ、私も……」


「セイも名前で呼ぶんなら、貸しの利息は別の事で払ってもらいますよ?」


 また、セイとユリナはにらみ合いを始める。

 せっかくチーム分けの争いが終わったのに、今度は下の名前についてだ。


 この終わらない争いはどうすればいいのだろうか。

 シンジが遠い目で穴の空いた天井から空を眺めた。

 潜入を開始した時は雲が出ていて暗かったが、雲が晴れたようだ。


 月が光っている。


 月が綺麗ですね。

 とか言ったら、この二人の争いは終わるだろうか。

 コタロウが女の子に囲まれている時にそんな事を言ったら、自分に言われたのだ!と女の子たちが血みどろの抗争を始めた事を思い出し、シンジは静かに首を振った。

 どうしてこうなったのだろう。

 シンジは目を閉じた。

 コタロウが女の子に囲まれている時は、うらやましいなコイツ。という気持ちを持っていたが、いざ自分がそうなると正直困惑する。


 名前など、どう呼んでも別にいいのだが。


 今、シンジの両手はセイとユリナがそれぞれつかんで自分の方に引いているため、実はシンジの手の甲は、彼女たちの胸に当たっている。

 両手に花。

 ならぬ

 両手におっぱい。

 である。

 セイの方の手は柔らかくて暖かい反発に包まれていて、ユリナの方は柔らかさの奥にちょっと硬い感触がある。


(……ひっくり返して、揉んでみようか)


 そうすれば、二人はシンジの手を離すだろうし、この争いも終わるだろう。

 多分。


 そう思い、シンジが実行に移そうとしたとき。


「もう。ちょっと、二人とも落ち着いて」


 見るに見かねたのだろう。今までネネコと一緒に遠巻きで見ていたマドカが近づいてきた。


「ユリちゃんもそんなに意地悪を言わないで。皆で名前を呼び合えばいいじゃない。私も一緒に。皆仲良く。ね?」


 マドカの実に平和的で当たり前の提案に、セイとユリナはお互いに顔を見合わす。


「マドカは絶対ダメです」


「マドカさんはちょっと……」


「何でよ!」


 ユリナとセイはシンジから手を離し、マドカに向き合う。

 今度は二人とマドカの言い合いが始まった。


「アナタが本当に名前で呼ばれたい人は別にいるではないですか。図々しいマネはやめてください」


「いや、そうだけど……別に仲良くしたいだけだから、図々しいとかじゃなくない?」


「……仲良くしないで」


「セイちゃん!? セイちゃんがユリちゃんよりキツイ事言わないで!」


 マドカ一人でユリナとセイに叶うわけがない。

 マドカの尊い犠牲によって、セイとユリナの争いは収まった。


「……落ち着いた? そろそろこの部屋とかを調べたいんだけど」


「そうですね。いいかげん始めましょうか」


 ただし、とユリナが人差し指を立てる。


「まずは一回。私とセイの名前を呼んでもらいましょうか。そうすれば先輩の言うとおりに調べますよ」


 ユリナの提案に、セイもコクコクと頷いた。


「……私は?」


「私とセイの名前を呼んでください」


「ちょっと! ユリちゃん!」


 ユリナは、完全にマドカの事を無視している。


 幼なじみ同士のやり取りなので、あまり口を出せることではないだろう。

 ……セイもユリナに加わっているが。

 三人の仲が悪いわけではないので、別にいいだろう。

 ひとまず、ユリナの言うとおり、セイとユリナの名前を呼ぼうとシンジは口を開く。


 まずは提案者のユリナからだ。




「んー……わかった。じゃあ、ユ……」




 そのとき、じっ……っとセイはシンジを見ていた。


 シンジの口の動きはとてもゆっくりで、まるで時間が止まっているかのようだ。

 シンジに名前を呼ばれることを想像すると、心臓がやけに早く鼓動している。

 下の名前で呼ばれたいな。とはセイも前から思っていた事だ。

 何となく、名字で呼ばれると距離感を感じるし、特にシンジからはその印象が強かったのだ。

 なので、きっかけを作ってくれたユリナに、実はセイは感謝している。

 ユリナだけ呼ばれるのは絶対許容出来ることではないが。

 でも、感謝はしているので、ユリナが最初に呼ばれるのは、我慢しよう。


 そうやってセイは自分を納得させていた。

 代わりに、シンジの名前はユリナよりも先に呼ぼう。

 そう決意をして。




…………まだ、名前を呼ばれない。




 いくら興奮と感動で、舞い上がっているにしても、ここまで時の進みが遅いものなのだろうか。


 ゆっくり、ゆっくり。

 セイの感覚の中で、シンジの唇が動いていく。

 ふいに、じ……っと集中していたセイの視界が広くなった。


 唇から、シンジの顔全体へ。


(……ほくろ?)


 セイの意識が、シンジの額にある黒い点に着目した。

 シンジの頭がほんの少しだけ後ろに傾き、その後ゆっくりと前に動き始めた。


(……倒れる)


 すぐに、セイの体は動いた。

 シンジが倒れると、なぜか思ったのだ。

 ゆっくり、ゆっくりと倒れてくるシンジの体をセイは受け止める。

 不自然なほどに重い。


 だが、その重さに気づくよりも前に、セイはシンジの後頭部に手を当てた。


 クチャっとした感触が掌に伝わる。

 セイはシンジの後頭部を見た。


 ポッカリと、穴が空いていた。

 空洞だ。

 拳が二つか三つ。余裕で入る。


「あ……」


 セイは、今度は自分の掌を見た。

 赤くて、白くて、ピンクにも見える何かがこびりついている。

 セイは、慌ててその何かをシンジの空洞に入れた。

 後頭部の空洞に擦り付けた。

 入れなくてはならないモノだと思ったからだ。


 シンジの肩にも。背中にも。床にも。


 その何かは散らばっている。


「あっ……あっ……!」


 セイはその何かをかき集める。

 急がないと。急がないと。

 シンジがビクビクと痙攣している。


 赤と白とピンクの何かをかき集めて、空洞に入れる。


 硬い何かもあった。

 それは蓋だと最後に入れた。

 蓋は中に落ちるだけで閉まらなかった。


 当然だ。

 蓋はバラバラに壊れているのだから。

 この蓋が閉まらないと、大変な事になる。


「どうしよう……どうしよう!」


 誰も答えてくれない。

 ユリナもマドカもネネコも、目を見開いたまま動かない。

 困った時は助けてくれたシンジも、何も言ってくれない。


 当然だ。


 シンジはすでに死んでいるのだから。


 頭の後ろ半分が吹き飛んでいる。


 どう見ても、即死だ。



「……死んでいるね。良かった。さすがはロナが作った『|鋼鉄の女神(デウス・エクス・マキナ)』。一撃だ」


 ふいに、そんな声が空から聞こえた。

 セイは声が聞こえた方を見上げる。


 輝く月の横に。


 彼はいた。


 彼は白い学生服のような服を着ていて、白いライフルをこちらに向けて構えている。

 ライフルからは白い煙がユラユラと上がっていて、彼の周りには、羽根のような光がキラキラと舞っていた。

 それは幻想的で、神秘的で。


 まるで遅れてやってきたヒーローのように。

 主役のように。

 主人公のように。


 彼を照らしていく。


「遅くなってごめん。助けに来たよ」


 ラブコメ主人公。

 駕篭獅子斗は、そう言ってニコリと笑った。

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