第221話 セイが怒っていたわけ

 セイは腹が立っていた。

 それはまだ続いている。

 しかし、今このときだけは、それを忘れる事にした。


 ヒロカは、ちゃんと戦う事を望んだ。

 薬で無理矢理操られているのではなく、『殺して』なんて馬鹿げた願望を口にしているのでもなく、正面からセイと戦い、死ぬ事を望んでいる。


 おそらく……ヒロカがこうしていられる時間は長くない。


 いくらセイに殴られ、その傷を治すのに薬を消費したおかげで薬の影響が弱くなっているとはいえ、『幸せ』になりたいというヤクマの薬による欲求は、長時間押さえておけるモノではないはずだ。


 あと十秒。持つか持たないか。

 そうヒロカも判断していたのだろう。

 お互いが構えてすぐに、ヒロカは動いた。


 ヒロカの移動は、すり足……のようなモノだった。

 なぜ、ような、とつくのかというとヒロカの移動が足の指だけで行われたからだ。

 まったく足を上げることなく、よって重心の移動から動くそぶりを察知されることもなく、足の指で地面を蹴っただけで、ヒロカはセイの前まで移動していた。

 刹那の間。

 人間が反応できる限界を越えた速度で。


 それはドラゴンの膂力とヒロカの研鑽によって産み出された超高速の移動術。


 中段に構えた右拳を、ヒロカは突き出す。

 漫然と振り下ろしていた爪の一撃とは違う。

 研鑽を積んだ構えからの拳は、衝撃が宙を走り、数十メートル後ろにある校舎の壁を粉々に破壊した。


「……ドラァ?」


 しかし、その拳はセイに当たらなかった。

 ヒロカの拳は、セイに当たる直前に方向を変えられていたからだ。

 セイの横に立っていた、セイの分身が持っていた杖によって。


「……ラァアア!?」


 その事態を認識した瞬間。

 ヒロカの体は誰かに押し倒された。

 セイの分身だ。

 ヒロカの四肢をセイの分身たちが押さえつけている。


「今の正拳突き……まったく見えなかった」


 倒れたヒロカを見ながらセイは分身から杖を受け取る。


「でも、見え見えだった。どんな攻撃か。どんなタイミングで来るのか。当然よね。ヒロカに武術を教えたのは私で、ヒロカが頑張っていたのを私はずっと見てきたから」


 セイは、ヒロカの胸の中心に、杖を……『|真摯な紳士(ジェントルマン)』を押しつけた。


「卑怯かもしれないけど……分身も見せていたし、言ったわよね? 全力で殺すって」


「ド……ドラァ……」


 ヒロカはセイの分身を退けようとするが、動いていない。

 あの攻撃で、ヒロカは力を使い切ったのだろう。

 直前にヤクマが薬の補充をしていたが、セイに散々殴られたのだ。

 今のヒロカは満足にドラゴンの力を発揮出来ていない。

 だから、この攻撃で、ヒロカは死ぬはずだ。


「……最後に一言。言っておくね」


 セイは倒れているヒロカの目をまっすぐに見て、微笑んだ。


「強かった。ヒロカの最後の攻撃は、文句なく、最高の拳だった。まるで、『ヒーロー』の必殺技みたいだったよ」


 セイの言葉を聞いて、それから、ヒロカは静かに目を閉じた。


「……はっ!」


 セイは、空間を回転させた。

 シンジに杖を借りてから、セイは練習を繰り返してきた。

 操りやすいようにモノを弾くだけの弱い回転から、全てのSPを使ったあらゆるモノを破壊できる強烈な回転まで自在にコントロール出来るようになっている。


 その回転は、ヒロカの体をセイが押さえつけていたこともあって、一瞬のうちにヒロカの体を粉々に破壊した。

 胴体の部分は完全に消え去り、残ったのは手足の先と、ヒロカの顔だけ。


 薬の効果を使い切ったヒロカでは再生も出来ないはずだ。


 セイは分身を消し、その場に力なく座り込んだ。

 SPを回復する栄養薬を飲み、ジェントルマンの発動に使ったSPを回復させていく。


 その間に戦いの興奮が冷めてき、徐々に感情が戻ってきた。


 ずっと腹が立っていた事も……そして、新しく芽生えた消失感や罪悪感も、同時にセイに戻っていく。

 残されていたヒロカの顔は、目尻が下がり、満足そうな顔をしていた。


「……ふぅ」


 その顔に、こみ上げてくる思いは正直ある。

 だが、セイは泣かなかった。

 自分で決めた事だからだ。

 シンジの出来ないことをするということは……ヒロカを殺すということは、セイが自分で決めた事だ。


 セイは、自分が何に腹を立てているのか気づいていた。

 人をゴミのようにバカにしていた奴らでも、殺せない事でシンジを苦しめたヒロカでも、そんなヒロカを生み出したヤクマでも、ガオマロでもない。


 自分だ。


 セイは、自分自身に腹を立てていた。


 シンジがセイに自分の意志を……意見をしっかりと持って欲しいと思っていた事を、セイは薄々とだが分かっていた。

 でも、それが出来なかった。

 好きだった人に殺されてしまった衝撃で弱まった心は、守ってくれるシンジの優しさに依存する事を選択してしまった。

 シンジに嫌われることを恐れてしまった。

 それは今も変わらない。

 シシトのように、シンジから捨てられる事を、セイはもっとも恐れている。

 自分の意見を主張した瞬間。シンジと逆の意見を述べた瞬間。

 捨てられるのではないかと恐れている。


 だから、セイはシンジに服従する事にした。

  ユリナのように……シンジが求めたように、シンジの意見に別の視点から意見を言うのではなく、シンジには思いつかない意見を言うのではなく、シンジがやりたくても出来ない事をしようと決めたのだ。


 それがシンジの求めている事と少し違うことは分かっていたが……それでも、それしかセイにはなかった。

 そのことに、セイは腹を立てていた。

 分かっているのに出来ない自分の弱さに、腹を立てていたのだ。


「……行こう」


 セイは立ち上がる。

 感情の整理は出来ていない。

 だが、それは関係無い。セイの意思は、シンジのモノだ。

 だから、シンジの元へ早く行かなくてはならない。

 ヒロカの次は、ヤクマとガオマロを倒さなくてはいけないのだ。

 自分は何をすれば良いのか。

 シンジの指示を仰ごうとセイがシンジの元へ向かおうとしたその時だった。


「ァア」


 小さな声のような音がした。


「……ああ、そうか。まだ終わってなかったわね」


 セイは声が聞こえた方を見る。


 ヒロカの頭が、頭だけで動いていた。

 額には角が生えている。

 口がぱくぱくと空き、時折何か漏れるような声が聞こえてくる。

 声というよりかは、音であったが。

 意味のない、ただ「アァア」という声がヒロカから漏れていた。


「そんな姿になっても死鬼化するのね。体まで戻されると後々面倒だし……殺すって言ったしね」


 セイはヒロカの額に生えた角に杖を向ける。


「今度こそ、本当にさようなら……」


 そして、角を折ろうとしたそのときだった。


「待ってください!」


 駆け寄ってきたユリナの声が、セイを止めた。

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