第145話 耳掻きが始まる

「う……うう」


「どうしたの? 来なよ?」


 顔を真っ赤にしたまま、セイはその場で動けないでいた。

 確かに、耳掻きと膝枕はシンジとセイとの間の約束事であり、むしろセイ自身が望んだことでもある。

 そして、その先も。

 だが、いざ、そうするとなると、心臓が動きすぎてセイは体を動かせなくなっていた。

 一度、学校でシンジに膝枕をしたときは、シンジが無理矢理させたため問題無かったのだが。


「あ……あの、耳掻き。耳掻きを準備しないと。探してきますね!」


 時間稼ぎ。

 覚悟を決めるための猶予を得たくて、セイは場所も知らない耳掻きを探してこようとする。


「もう、準備しているよ。耳掻きと、綿棒と、あとウェットティッシュとか必要そうなモノも全部」


 シンジが座っているソファの前のテーブルに、耳掻きに使いそうなモノが一式置いてあった。


「う……」


「早く来てよ」


 他に、時間を稼げそうな事はない。

 セイは、おずおぞと、なぜか音を立てないようにしながら歩き、ソファの前に到着した。


「ううう……」


「どうぞ」


 ソファの前に到着したまま、固まり、動かないでいたセイに、シンジは着席を促す。


「失礼、します」


 ゆっくりと、まるで砂で出来たイスに座るように、セイは慎重にソファに座る。膝の上で堅く拳を握りしめて、セイは動かない。


「あの」


「ひゃい!?」


 シンジに声を掛けられ、セイは飛び上がるように、体を反応させた。


「な、なんでしょうか?」


「いや、手。退けてくれないと、頭を乗せられないんだけど」


 シンジは、セイの膝の上に頑なに乗っていた手を指さす。


「あ……すみません」


 固まっていた筋肉をほぐすように、膝の上で手を握ったり開いたりしたあと、セイは手を太股の横に移動させる。


「……どうぞ」


 息を吐いて、覚悟を決めて、セイは言う。


「よいしょ」


 迷い無く、遠慮なく、セイの太股の上にシンジはテーブルの方に向けながら頭を乗せた。


「ひぅ!?」


 瞬間、セイにしびれが走る。

 スカートの布地越しから伝わる、シンジの頭部の重み、温もり、髪の毛の感触。

 それらの情報が混ざり、信号となってセイの脳に届いていく。

 鼓動がより早くなる。より、感触が鮮明になっていく。

 シンジの髪の毛一本一本の感触でさえ、セイを刺激し、振るわせてしまう。

 それらの感触は、信号は、感触は、刺激は、以前に一度シンジを膝枕したときよりも強力であり、そして、

(温かい……)

 セイに、安らぎを与えるモノであった。


「……どうしたの?」


「……いえ」


 徐々に、セイは落ち着きを取り戻してきた。

 そうすると、不思議と今セイの太股の上に乗っているシンジの頭に、何かをしてあげたくなってくる。

 セイは、約束通りシンジの耳掻きをしようとした。


「あ……」


 だが、セイは何も持っていない。

 耳掻きは、目の前のテーブルの上に置いてある。

 座るときに、取り忘れていたのだ。


(……届くかな?)


 少し、遠くに置かれていた耳掻きに、セイは身の乗り出して、手を伸ばした。


「うーん……っと。取れた」


 伸ばした手が震えるほど、ギリギリの位置にあった耳掻きをなんとか入手したセイは、やり遂げた満足感と共に、シンジを見た。


「……どうしたんですか? 鼻を押さえて」


 いつの間にか、シンジは顔を上に向けていて、そして、自分の鼻を手で押さえていた。

 その顔は、若干赤い。


「いや、想像していたよりも、凄かったから……」


「凄かった?」


 シンジは、何の事を言っているのだろうか。

 少し考えるセイ。


「……あっ!?」


 答えを導き出したセイは、慌てて、自分の胸を押さえる。


「もしかして……」


「えげつないほど、押し当てて来たよね。ちょっと死ぬかと思った」


 死ぬかと思った、と言っている人物にしては満足げな笑みを浮かべているシンジである。


「わざと、ですか?」


 その笑顔に、少しだけ苛立ちの感情が沸いてきたセイは、シンジを問い正す。


「さてね。それより、さっさとしてよ」


 シンジは、はぐらかすように顔をテーブルの方に戻した。


「……もう!」


 セイは、気を取り直して、シンジの耳掻きを開始する。

 他人の耳を掃除する、というのはセイにとって初めての経験であって、そう言う意味で別の緊張があったのだが、いざ始めてしまうと、耳掻きというのは意外と楽しいモノであった。

 丸六日、掃除されていないシンジの耳は、思ったよりも耳垢が溜まっていて、少し掻き出すだけで、面白いように耳垢が取れていく。

 気が付けばセイはシンジの耳掻きに夢中になっていた。


「ん……っと、ティッシュは……」


 取り出した耳垢を拭こうと、シンジがテーブルの上に用意していたウェットティッシュにセイは手を伸ばそうとする。


「あ……」


 そこで、セイは思い出す。

 このまま手を伸ばせば、また、シンジに胸を押し付けてしまうだろう。

 セイは手を伸ばそうとしたまま、動けなくなる。


「どうしたの? 早くしてよ」


「くっ……」


 シンジがテーブルの方を見ているため、その表情を伺うことは出来ないが、今のシンジはおそらく意地の悪い笑顔を浮かべているだろう。


「う……っく」


 ハメられて、悔しいが、いつまでもこのままではいけないだろう。

 セイは背筋を伸ばし、なるべくシンジの顔に自分の胸が当たらないようにしながら、テーブルの上のウェットティッシュに手を伸ばす。


「う……ううう」


 でも、それだと、届かない。

 シンジの顔に当たらないようにするにはテーブルの上にあるウェットティッシュは遠すぎるし、それに、セイの胸がデカすぎる。


「うう……もう!」


 ゆっくり動かす方が、筋肉は消耗する。

 耐えきれなくなったセイは、素早く体を伸ばした。

 同時に、胸に何か強く当たる感触が広がる。


「ううう……!」


 セイは、なんとかウェットティッシュを入手する事が出来たが、顔は真っ赤になってしまった。


「……ごちそうさまでーす」


 そんなセイの事など自分は知らないとでも言うように、気の抜けた声が、シンジから聞こえる。


(こ……の……!)


 その声を聞いて、苛立ちが、怒りに変わろうとするのを、セイは必死に抑える。

 胸には、シンジの顔が当たった感触が痺れるように残っていた。


 セイは耳掻きを再開する。

 苛立ちも、怒りも感じたが、それ以上に楽しみを感じつつ、セイはシンジの耳を綺麗にしていく。

 そして、粗方耳垢を取り終えたと思ったセイは、またしても自分の失敗に気づいた。


「綿棒は、テーブルの上だよ」


 察したのか、それともこれも計画の一部なのか。

 シンジがセイの失敗を指摘する。

 シンジは顔を動かして、セイを見た。


「頑張れ」


 シンジは、手を握って小さく自分の顔の横に持ってくる。


「ううう……」


 三度ハメられた悔しさと、気づかなかった自分のマヌケさを恨みながら、セイはテーブルの上の綿棒に手を伸ばし、ニヤついているシンジの顔に自分の胸を押し当てた。


「はぁ……これで、こっち側は終わりです」


 その後、綿棒を使い、仕上げをしたセイは、

 散々な目に遭いながらも何とかシンジの片側の耳掻きを終える。

 綿棒もティッシュも、ちゃんと箱ごと手に入れたので、もうテーブルの上には、耳掻きに使えそうなモノはない。

 もう、シンジに胸を押し当てる心配はない。


「そっか、じゃあ」


 終わったというセイの言葉を聞いて、シンジは少し頭を上げる。

 それに合わせて、セイも腰を浮かそうとした。

 シンジの反対側の耳を掃除するために、ソファの座る位置を変えようと思ったのだ。

 だが、シンジは、頭を少し上げると、顔の向きを変えて、再びセイの太股の上に下ろしてしまった。


「へ?」


 シンジが顔の向きを変えた事で、確かにセイはシンジの逆の耳を掃除出来るようになった。

 だが、今までテーブルの方を向いていたシンジが、逆の方を向いているということは、つまり、今シンジはセイに顔を向けている。


 太股に顔を乗せて、セイの方と向いているということは、したがって、今シンジの顔のすぐ前には、セイの股間があるということ。


「ひえ!? ちょっと、先輩!? 流石にコレは……」


「良いから、続き。早く」


 シンジは、目を閉じていた。

 セイの抗議を聞いて、動いてくれる気配は、まったくない。

 セイは、収まったはずの自分の鼓動が、今まで以上に早く動いているの感じながら、シンジの逆側の耳掻きを始めることになった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る