第32話 幼い頃の夢が教えてくれた
「うわあああああ」
山奥に響く、子どもの悲鳴。
少し間が開き、地面に人が倒れる音が響く。
倒れている幼い少年の前には、スーツ姿の男がいた。
男は、真面目そうで柔和な顔をしているが、その立ち姿には幾年もの月日を重ねた古木のような厳かな雰囲気がある。
シンジは、その光景を見ながら思った。
これは、夢だと。
懐かしい、昔の、自分が小さい時の記憶だと。
倒れているのは幼い頃のシンジだ。
幼いシンジは泣きながらつぶやく。
「い、痛いよぉ」
「立ちなさいシンジ。お前が犯した罪の重さはこんなモノじゃない」
スーツの男が、シンジの服をつかみ投げる。
「うわぁあああああ!!」
目に刺さりそうになる木の枝などは手で払いのけ、シンジは木に突っ込んだ。
十数メートルは飛ばされただろう。
「ううう……僕が何したっていうんだよぉ。おとうさぁん」
ボロボロになりながら、シンジは、木の上から自分の父親。スーツの男に抗議する。
「私が知らないとでも思っているのか?」
シンジの父親がスルスルと木を登ってくる。
柔和で、無表情な顔が、逆に恐い。
「ひぃいいいい」
シンジは逃げようとするが、ここは木の上。逃げ場はない。
「お前は、男として絶対やってはいけない事をした」
シンジの父親はシンジを猫のようにつまみ上げる。
「それは…………女性を殴ったことだ!」
「ぎゃぁあああああああああ!」
シンジの父親は、シンジを木の上から放り投げる。
マジか! と、シンジは自分の夢の事なのに思う。
ドンドン迫る地面。
ものすごいスピードだ。
最小限のダメージで抑えるためシンジは受け身をとろうとする。
しかし、この高度と速さだ。
確実に痛い。
幼いシンジは、恐怖で目を閉じる。
「…………」
いつまでたっても予想していた痛みはこなかった。
「……あなた、何をしているんです?」
シンジは、目を開け、顔を上げる。
そこには、シンジを抱きしめているエプロン姿の女性がいた。
ウェーブのかかった髪はやや赤みがあり、それが温かみを連想させる。
「おかあさん……」
シンジを抱きしめている女性。シンジの母親は、木の上にいる自身の夫をにらみつけていた。
「何って、男の教育だよ」
シンジの父親は、木の上から飛び降り音もなく着地する。
「男の教育、とは?」
シンジのお母さんがお父さんに詰め寄る。
「シンジが、女性を殴ったのでね。それはいけないことだと教え……ぶっ」
シンジのお父さんが、シンジのお母さんにビンタされ、吹き飛んでいく。
「話になりません。まったく。たかが幼稚園の子と喧嘩したくらいで、実の息子を木の上から投げるなんて」
シンジのお母さんは幼いシンジを地面に下ろす。
「大丈夫? ケガは……しているわね。あとでお薬を塗ってあげるから」
「やれやれ、君はシンジに甘いな」
吹き飛んだはずのお父さんが、いつの間にかシンジ達のすぐ横にいた。
ビンタされた側の頬はしっかり腫れているが。
「あなたが厳しすぎるんです。だいたい、今時女性は殴ってはいけないなんて思想、流行りませんよ」
シンジの母親がシンジの頭をなでる。
「流行りの問題じゃないだろう。これは生き様の問題だ」
「その生き様が古いんです。『楽』を『楽しめ』だとか、『男なら女性を殴るな』とか。そんな決まりを作るのは流行らないですよ? 毛根も古いのに、生き様まで古くてどうするんですか」
「ふ、古くない!……古くないよなぁ」
目を上にしながら、自分の毛根を見ようとするシンジの父親。
気になるのだろう。
「おかあさん」
シンジは、自分の母親に話しかける。
「何?」
「女の子って叩いちゃいけないの?」
「女の子だけじゃなくて、男の子もダメ」
シンジの母親は、優しく微笑みながらシンジを諭す。
「男の子も?」
「そうよ。お父さんがいつも言っているでしょう? 『楽』を『楽しめ』だとか。ちょっと難しい言葉だけど、簡単に言うとこれはよく考えなさい。ということなの」
「……考える?」
「そう。何か起きてもカッとなって行動しない。何が『楽』か。何が『楽しい』かよく考えるの。シンジは女の子を叩いて『楽しかった』?」
幼いシンジは、首を振る。
人を叩いて、楽しいワケがない。
「楽しくなかった。嫌な気分だった」
「そう。なら叩かないようにしなさい。それがシンジの『楽』なんだから」
シンジの答えに、シンジのお母さんは嬉しそうに微笑む。
「でも、みわちゃんがいきなりぼくを叩いたの。そんな時はどうすればいいの?」
「叩きなさい」
笑顔のまま。シンジのお母さんが即答した。
徐々に。笑顔のままシンジのお母さんから恐怖があふれ出てくる。
シンジのお母さんは立ち上がる。
「あの女ぁ……何が『お宅の息子さんが、うちの娘を叩いたみたいですけど、ぜんぜん気にしてませんからぁ』だ。ヘラヘラ笑いやがって、そっちが先に殴っていたのか……許せん」
「お、落ち着け。男が女を殴ったんだ、こっちが悪……」
「男も女も関係あるかーーーー!」
「ぶへっ」
シンジの父親が、再び殴り飛ばされる。
「どうしてくれよう……まずは関係者全員呼び出して……指を一本一本……」
悪魔と見間違えるような表情にシンジお母さんは変わる。
「うう……おかあさん、怖い」
「はっ!」
シンジのその言葉で、シンジのお母さんは、正気を取り戻した。
「ご、ごめんね、ごめん。怖いところ見せちゃったね」
シンジのお母さんは、必死にシンジの頭をなでる。
「うーん。おかあさん、もう大丈夫だよ」
「ごめんね、ごめんね」
シンジが大丈夫といっても、シンジのお母さんは、何度もシンジの頭をなで続けた。
「……おかあさん。だいじょうぶ?」
「……うん。ありがとうね」
しばらくして、シンジのお母さんは落ち着いたようだ。
「……シンジ」
「何、おかあさん?」
「男の人も、女の人も、叩いたり蹴ったりしちゃダメ。これはいい?」
「うん」
「でも、やり返さないと自分が危ないって思ったら、反撃しなさい。『楽』じゃなくても。『楽しく』なくても。」
「……それはダメだ。『楽しく』ないと思ったら……」
「あなた、うるさい」
母親にしかられ、口をつぐむシンジのお父さん。両側の頬が腫れ、リスのようになっている。
「……まぁ、でも。そうね。これはお母さんからのアドバイス」
「あどばいす?」
「女の子が、困ってたり、危ない時は、助けてあげなさい。きっと良いことがあるから」
「うん」
「ただ……」
シンジのお母さんに、また悪魔的雰囲気が出てくる。
「自分の事を利用しようとだけしてきたり、悪意や敵意のある奴、なんとなく嫌だなと思う奴には何もしなくていいからね。女はズル賢いから、それはしっかり見極めるのよ。まぁ、シンジはお父さんの子供だから、気付けるようになると思うけど。おかあさんは……おかあさんは……ああああの女ぁああああ!」
「かあさん、落ち着いて」
「う、うわーん」
再び、悪魔と化したシンジのお母さんを見て、幼いシンジは泣き出した。
(……)
夢はそこで終わった。
(また、懐かしい夢を見ていたな)
親からの教え。
そういえば『楽』を『楽しめ』と同じくらいに、事あるごとに父親から言われていた気がする。
文字通り、体にたたき込まれたこの教えが女子の死鬼を殺そうとしたときに、無意識にシンジの体を止めていたのだろう。
(『楽』を『楽しめ』。まぁ、良いこともあったしこのまま行こう)
そう思いながら、シンジは、抱きしめているモノに力を込める。
マドカだ。
初めてミナミを抱きしめて眠って以来、シンジは、こうして誰かを抱きしめて眠っていた。
(柔らかいし、いい匂いだし。もし女子の死鬼も殺してたら、こんな事出来なかったもんな)
そう思いながら、シンジは二度寝に突入しようとする。
それは、至福の時。
「……先輩?」
「…………」
その至福は、あっさりと破られる。
助けた女子に説教をされながら、シンジは親の教えを守った事を少しだけ後悔した。
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