強者語 ―TSUWAMONO GATARI―
泡沫泡
其の壱
ふと、
ふたりの酔っぱらいが、歩道の真ん中で盛んに言い争っている。どちらも四十がらみの、でっぷりとした体格の男だった。まだ夜の
周囲の人々はふたりを避け、歩道の端を足早に通り過ぎていく。見ず知らずの他人の喧嘩を止めるようなお人好しは、このご時世、滅多にいないのだ。
いきなり、一方――
通行人たちの「ひぃっ」「うお!」という悲鳴が、ここまで聞こえてくる。
口喧嘩くらいなら見て見ぬふりをすることもできるだろうが、殴り合いとなると、話は別だ。巻き込まれては
鼻をおさえてうずくまる白髪に、禿頭が踏みつけるようなキックを浴びせる。足元がふらついているせいで、体重はあまり乗っていないが、それでも、頭に何発も食らえば、命を落としかねない威力があるだろう。しかし、すっかり逆上している禿頭は、そんなことを気にする素振りも見せない。何かにとりつかれたような形相で、一心不乱に蹴り続ける。
ようやく禿頭が息切れし、キックの雨はおさまった。だが、白髪はピクリともせず、肘と膝をついた四つん這いのまま、彫像のように固まっている。死んだり、気を失ったりはしていないようだが、痛みで身体が動かないのだろう。
禿頭は遠目にもわかるほど顔を真っ赤にし、肩を激しく上下させている。十数秒経って呼吸が整うと、やにわに、ぶるぶると身震いし始めた。興奮して酔いが醒め、自らの所業に怖気づいたのかもしれない。あるいは、暴力の快感に、武者震いを禁じ得ないのか。
どちらにせよ、喧嘩は閉幕した。野次馬たちはスマホをしまいながら徐々に散らばっていき、無迅も、つまんねーの、と舌打ちして再び歩き出した。
そのとき、まったく唐突に、白髪が身を起こしたのである。それも、ただ立ち上がっただけではない。禿頭の胸に、勢いよく頭突きを食らわせたのだ。
遠くから見ていた無迅でさえ驚いたくらいだから、禿頭がまったく反応できなかったのも、無理はない。白髪が一矢報いたのだ。禿頭は無様によろめき、ちょうど後ろにいた革ジャンの男にぶつかった。
「うぉい、てめぇっ!」
革ジャンが吠える。甲高い、耳障りな声だった。
ぶつかられてキレるくらいなら、
革ジャンは禿頭の胸ぐらをつかみ、頬に拳を叩き込んだ。それを、二発、三発と繰り返す。
四発目でようやく気が済んだのか、禿頭を放り投げ、今度は白髪を
よくよく目を凝らすと、革ジャンは、結構いいガタイをしている。身長は一八〇くらいあるだろうし、胸板の厚さも相当なものだ。
酔っているわけでもないだろうに、公衆の面前で易々と人を殴るあたり、おそらく喧嘩慣れもしている。
――いいね。こーいうのが出てくるのを待ってたんだ。
無迅はニヤリと口角を上げた。すぐさま走り出し、革ジャンたちのいる歩道へと、半ば落ちるようにして階段を駆け下りる。散りかけた野次馬連中は再び密集していたが、構わず、強引にかき分けて進んだ。
「やめるんだ、喧嘩はよくない!」
人ごみを抜けると同時に、そう叫ぶ。もちろん本心ではないが、揉め事への乱入には大義名分が不可欠なのだ。それさえあれば後から警察に事情を訊かれても、自分は善意の第三者である、と言い切ることができる。
革ジャンは白髪の胸ぐらをつかんでいたが、まだ殴りつけてはいないようだ。いきなりの
「ほら、その手を放して。ね、オニイさん。暴力は何も生まないよ。話し合えばわかるからさ、いやほんとマジで」
立て板に水を流すが如く、適当な言葉を並べながら、無迅は悠然と歩み寄る。
呆けていた革ジャンも、無迅が目と鼻の先まで近づくと、さすがにハッと我に返った。
「大きなお世話だ、ガキ」
空いていた右手で無迅の肩を押す。
「正当防衛だから」
「あ?」
無迅は革ジャンの右肘をつかみ、指で
「……っ!」革ジャンは一瞬、驚愕に顔をゆがめたが、次の瞬間には般若の如き表情を浮かべていた。怒り心頭である。「――てめぇ、なめたマネしやがって!」
革ジャンは、白髪を地面に放り投げた。肩を怒らせ、無迅と正面から相対する。
禿頭
「ささ、先に手を出してきたのはそっちじゃないですかぁ! ぼくは闘う気なんてこれっぽっちも……」
「うるせぇ!」
この
だが、大した速さではない。
――これで、思いっきりやれる。
無迅は右足を踏み込み、左の
革ジャンは、九十度に曲げた膝で無迅の蹴りを受け止めた。しかし、踏ん張りきれず、よろけて体勢が崩れる。その隙を見逃す手はない。
右、左、右と、三発の掌底突きを顎に向けて放つ。いずれもぎりぎりのところで弾かれたが、それらがフェイントになって、四発目の水月への掌底は命中した。革ジャンが「おぅっ」と短く呻き、身体をくの字に折る。
畳みかけようとしたが、ふと足元に嫌な気配を感じ、慌てて内股になった。そこに、革ジャンの右足が飛んできた。
水月を打たれながら、金的蹴りを放ったのだ。並の精神力ではない。
「強いね、オニイさん」
嘲りや挑発の意図はない、純粋な
――でも、ぼくはもっと強い!
無迅は一歩後退し、右足を下げて半身になった。左手は相手との距離を測るため、
これ
革ジャンはリズミカルに上体を揺らしながら、徐々に間合いを詰めてくる。
無迅は心を研ぎ澄まし、待つ。ひたすら待つ。
野次馬たちが「早く警察を!」などと喚いている声が、段々遠くなっていき、やがて消えた。革ジャンを残し、視界から一切の景色が失せる。極限の集中状態、ゾーンというやつだ。なにも、特別な現象ではない。闘いに熱中したときはいつも起こる。
革ジャンが右足で地面を蹴った。
回避行動はとらず、左足で甘んじて受ける。鈍器で殴られたような痛みと衝撃が襲ってきたが、たった一発で倒れるほど、
一歩踏み込む革ジャン。入った。鉄鐘の間合いだ。
右の踵を思いきり地面に押しつけ、そこを中心に、右足を反時計回りに回す。ここからだ。生じたエネルギーを増幅しながら、滑らかに伝達するため、全身の関節をベストなタイミングで稼働しなければならない。まずは膝。続いて股関節。腰。胸。いい調子だ。右肩。そして最後に、右肘――
――ズレたっ!
「勁っ!」
溜めに溜めたエネルギーが、明後日の方向へ散らばってしまうような感覚があった。正拳は狙い違わず革ジャンの胸に命中したが、これでは、鉄鐘が成功したとはいえない。無迅は下唇を噛み、悔しげな表情を浮かべた。
放たれた不完全な鉄鐘は、それでも、革ジャンを二、三メートル吹っ飛ばし、昏倒させるだけの威力を秘めていた。ノック・アウト。この喧嘩は、無迅の圧勝だ。
しかし、ただ勝っただけでは意味がない。実戦の中で鉄鐘を成功させるために、わざわざ闘う相手を探していたのだ。試合に勝って勝負に負けた――とは少し違うが、とにかく、収穫はなかった。
とはいえ、相手への敬意を忘れてはならない。
(ナイスバトル、オニイさん)
無迅は心の中でそう告げ、踵を返した。
何も言わずとも、野次馬たちは勝手に道を空けてくれる。その心中にあるのは恐れか、はたまた畏れか。どうでもいいことだ。モーゼにでもなった気分で歩きながら、無迅は、正面からふたりの警官が駆けてくるのを見た。
「あー、めんどっ!」
再び踵を返し、逆方向へと走りだす。この落ち込んでいるときに、うざったい事情聴取は
どこかで少し身体を休め、その後はいつも通り、夜の繁華街に繰り出そう。あそこには、血に飢えた無法者どもがいくらでもいる。闘って闘って闘って、一刻も早く鉄鐘をものにするのだ。立ち止まっている暇はない。
※※
「いいわぁ。彼、すごくいい」
陸橋の上で、
強者語 ―TSUWAMONO GATARI― 泡沫泡 @odat
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