光武大帝伝
称好軒梅庵
序章 白河酒楼
新の
今から約二千年ほど前のことである。
夜空には
その一つ、ここ『
集まった人々は南陽の名だたる豪族――大地主、ときに武力をも持つ――であり、かつては皇帝の一族であった
座の中心にいるのは白の交じった髭をしごきながら早口でまくしたてている壮年の男である。
「皆様、疑っておられるようですが、
男は
予言書を
この時代、
席を並べている者の中で、話にならん、とでも言うようにフンと鼻を鳴らした男がいる。皆の注目がこの若い豪族に集まると、男は腕組みをしたまま傲然と口を開いた。
「そんなもの、おおかた“陛下”が自分で作らせたのだろうよ。いかにも腐れ儒者の考えつきそうなことだ。くだらん。実にくだらん。
この発言に周囲は大いにざわめいた。
現皇帝の
皇室の信任を得た儒学者の王莽があれよあれよという間に位人臣を極め、ついには臣下の分を踏み越えて幼帝を廃し、
はじめ孔子の生まれ変わりだと信じられたほどの人気を博した王莽。しかし、王莽の行なった古代を理想とした復古的な政策、或いは妄想を具現化したような突飛な政策の数々は、現実に即していなかった。
土地を国有として均等配分する王田制は早期に破綻し、多くの農民が土地を失って奴隷に身を落とす結果となった。
頻繁に価値が変動される三十種類もの貨幣は経済を混乱させ、多くの商人が首を吊った。それでいて、漢代の貨幣で取引したものは死刑だった。
刑法は日毎に改変された。変化についていけない者が違法と知らずに罪を犯し、奴隷にされたり、処刑された。
異民族を侮蔑し、嘲弄するような外交政策は、対外戦争の勃発を引き起こした。見栄にこだわる王莽はその度に数十万の動員をかけ、農地から働き手となる男が消えた。
夫を失った未亡人やその娘は、春をひさいで生きるしか道はなかった。
無謀な戦争や経済危機に翻弄される中で、民衆の期待は次第に失望に変わっていった。
反乱を企てる者も現れたが、その全てが失敗し、首謀者は聞くにも耐えない惨たらしい方法で処刑された。
そんな事情を皆が皆もちろん知っているはずだが、敢えて気炎を揚げたこの男の名は
南陽の若い豪族であり、先に滅んだ漢王朝の宗室に連なる
堂々とした体躯の持ち主であったが、態度は体躯よりも更に大きい。
年長者もいる中で腕組みをし、眉間に皺をよせて不機嫌そうに弟に出発を促す。
呼ばれたのは、対象的に穏やかな面差しの青年で、名を
歳のころは十八、九であろうか、目がつぶらでやや額が広い。
口がやけに大きいので眉目秀麗とはいかないが、小ぶりだが高い鼻のおかげで全体として見ると整った顔立ちと言える。
対して兄である伯升は顔の作りは弟と共通するところが多いにも関わらず、険しい表情のせいか彫りが深く見え、恐ろしげな印象でさえあった。
劉秀は居並ぶ親戚の一人にチラと視線を送る。相手も気づいたらしく、立ち上がって言った。
「伯升、文叔が困っている。俺も困っている。
お願いだから、蔡少公殿にお詫びして大人しく席につけ」
伯升の姉の夫である
腕組みをしたまま頭を下げたことを幾人かが囁き合っていたがすぐに収まった。
目をくりくりさせて市場に引かれていく牛のように不安げな表情をしていた劉秀は、ありがとうございます、と口の形で謝意を鄧晨に伝え、はにかんで席に戻る。
声を発しなかったのは、自分に謝意を伝えたことが兄に伝わると後で詰られるからであろう、と鄧晨は推測する。
劉秀は難儀な兄を持ったものだが、兄に振り回されているうちに機転が利くようになった。
「
蔡少公は髭を盛んにしごいて、
「おお、おお、
『劉秀が天子になる』、先頃新たに見つかったこの
居並ぶ豪族達はいっせいに劉秀の顔を見たが、いやこれはないなといった顔ですぐに目を逸らした。
鄧晨は少し考えると、
「
と尋ねた。
国師公の
鄧晨も
ただ、伯升と違ってそれを不用意に表に出したりしないだけだ。
王莽の政治を支える大臣のひとりである劉歆がそのような予言を広めているとすれば、国盗りの意志があるということか。
あるいは、王氏の
大富豪陰家の跡取りと目される
「
皆が一斉に声の主を見ると、うっかり声を出してしまったとでも言うように口を押さえる青年、劉秀、字は文叔がそこにいた。
このとき若年の劉秀は一人称を「
後にこの事をからかわれたりもしているので、素で言ってしまったというのが真相であろう。
一瞬の静寂の後、
「そいつぁ良い!
と誰かが膝を叩いて大笑すると、座は堰を切ったように笑いの渦に包まれた。
はじめに大笑したのは鄧晨の甥の
山のように大きく筋肉質な身体を震わせて大笑いしている。丸い顔の目尻には笑いすぎて涙まで浮かべている。
他所に聞かれてはまずい、とか、あまり笑っては秀がかわいそうだろ、などと言ってあたふたと鄧奉をたしなめているのは
鄧晨は性格の噛み合うところのなさそうなこの三人が親友らしい、という話を日頃から意外に感じていた。
鄧晨は笑いの渦の中で一人、劉秀を見つめていた。
真面目で大人しい、敢えて見るべきところを探せば機転が利くところだろうか。
およそ始皇帝や高祖のような
光武大帝伝 称好軒梅庵 @chitakko2
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