とある一人の母親の手紙

 この手紙を手にしているあなたは、一体いくつになっているのでしょう?

 中学生?高校生?それとも成人していたり、もうおじいさんになっていたりするのかもしれませんね。

 

 私がそんな事を思うのは、他でもありません、この手紙を私は生きている限り、絶対にあなたに手渡す気はないからなのです。


この手紙は紛れもなく遺書です。


 文字通り、私が死の床に伏した時、はじめてあなたの目に触れるようにしたいと思っています。ちなみに、これを書いている横で、すやすやと気持ちの良さそうな寝息を立てているあなたは、ようやく人並みに外を駆け回れるくらいにまで丈夫になった、十歳の小さな男の子です。私はその可愛らしい寝顔を見ているうち、あなたの成長を身近で見続けているうちに、ずっとモヤモヤとしていたこの想いを、遺書という形を借りて書き留めておこうと決心したのです。

 

 私のモヤモヤ……それはあなたの実のお母様の事です。


 あなたのお母様はとにかく強い女性でした。どんな困難にも果敢に立ち向かい、負けや泣き言を言うのを極端に嫌いました。時にその強さがアダとなり、周りの人達の誤解を招くことも多くありました。


 確かに、人の見方によってはそれはワガママで冷たく、とても嫌味のように見えたかもしれません。けれど、私はその強い精神を純粋に尊敬していました。ああ、この人は真面目に自分と向き合っているんだ、人生を本当に一生懸命に生きているんだと感心しきりでした。

 

 あなたが一歳になったばかりの頃です。ある事情から私があなたを引き取り、私の故郷で育てていくことになりました。


 ……申し訳ないとは思いますが、ある事情としか書けません。


 お母様との約束があるのです。お母様は自分の事もそこで起こったことも全て、あなたには絶対に秘密にしてくれと私に頼みました。あなたを巻き込んではいけない、それがあなたを守る事になるのだからと確信を持って言っていました。知りたい事、言いたい事はたくさんあるかと思います。けれど、約束は約束なのです。それがあなたを守る事になると、聡明なあなたのお母様がそう言ったのなら、それは絶対に間違いはないのです。

 

 しかし、一つだけ禁を破らせてください。

 一つだけ秘密を語らせてください。


 お母様は、あなたが無事生まれてきてくれた事を本当に喜んでいました。教生が笑った、教生が喋った、教生がハイハイした、口を開けばあなたの事ばかりで、そばでずっとお世話してきた私はとても心が和み、そこに底なしの愛情を感じました。そう、私がこの手紙で何よりもあなたに伝えたかったのは他でもない、あなたのお母様はあなたを心の底から愛していたという事なのです。


 どんな事情であれ、我が子を手放してしまう事を最後の最後まで躊躇い、何とか母子二人、安らかな日々を送れるようにとギリギリまで奔走し、頑張っておられました。決してあなたの事を嫌い、放って捨てたわけではないのです。文章では書き表せないほど、その愛情は深く清らかなものでした。それだけはわかってあげてはもらえないでしょうか?私が大事な約束を破ってまであなたに示したかったのは『母親の愛』なのです。

 

 これまで一緒に過ごした十年、あなたは一度も自分の出生や実の両親の事を私に尋ねてはきませんでしたね。優しいあなたの事ですから、私に気を遣って自分の想いを口にできなかったのでしょうね。そう思うと私も胸が痛み、今すぐあなたを叩き起こして、洗いざらい全ての真実を教えてあげたい衝動に駆られます。本当はそうした方がいいのでは?教生にとってそれが一番なのでは?と迷う事も多々あります。あなたが将来、悩んだり苦しんだりするのがどうしても目に浮かんでしまうのです。

 

 ですが私はいつも最後の最後で思い留まります。


 『教生を守るため』というあなたのお母様のその言葉が魔法のように、私の開きかけた口を静かにまた閉ざさせてしまうのです。何故なら、私もあなたを守りたいのだから。


 最後に、あなたがまだ幼い時分、私にもしもの事があった場合(明日何が起こらないとも限りません)の手筈もきちんとお母様は整えているそうです。それを話してくれた時はもう時間的に余裕がなく、詳しい事は聞けなかったので、私にも内容はよくはわかりませんが、そこにもお母様の愛が存分に注がれている事を決して忘れないでいてください。

 

 そして、その後に残ったほんの僅かな隙間で構いません、本当にそれだけで構いませんから、この私も確かにあなたを愛していたことを、忘れないでいてくれれば幸いです。


 ――さて、これをどこに隠しておこうかね

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