第七話・秘密、わけあって
「あの時、この辺りに住んでいたみんなで、ノリちゃんはここで育てる、全員で親代わりをしてやるんだって話し合っていたのよ」
この女性は僕の幼馴染だったみっちゃんのお母さんだ。
若々しくはあったけれど、記憶の中のおばさんよりも確かに二十歳位老け込んで見えた。
あれからもう二十年経ったんだ。
「だから私たちがノリちゃんを養子に加えて、
「ええ、わかってます。ここでの僕の記憶はどれもこれも良いものしかありませんから。僕は本当に恵まれた環境で育ったんだなって、大人になった今、改めて思います」
「……ありがとう」
おばさんは言葉を詰まらせた。
お礼を言わなければならないのはこちらの方だ。
みっちゃんの一家は僕が集落を出てからというもの、ずっと他の親族のいない養母の眠るお墓の管理をしてくれていた。
お盆はもちろん、月命日にも欠かさず花を供えてくれているそうだ。
この家の仏壇には、みっちゃん一家のご先祖様と並んで、養母の遺影も一緒に飾られていた。
僕が……僕らが愛した北川昌子の変わらぬ満面の笑顔がそこにあった。
そう、養母はずっと変わらない。
あれから二十年、僕はようやく親子として街を歩いても違和感のない年齢になった。
何事もなければ、いずれは僕も養母の歳を追い越して行くのだろう。
そう思うとなんだか不思議な気分になった。
養母の事を思い出すとき、そこにいる僕はいつでもひ弱でぜんそく持ちの小さな男の子なのだ。
積もる話もあったけれど、とにかくもう遅い時間だった。
結局僕らは片道三時間のドライブをした挙句にようやくここに辿り着いたのだ。
みっちゃんもおじさんも用事で何日か集落を離れていたのだけれど、明日には帰ってくるそうだし、宿までレンタカーのガソリンが持ちそうになかった。
近くの給油所も朝にならなければ開かなったし、僕とハツミはそのまま、みっちゃんの家に泊まらせてもらう事となった。
墓参りも明日の朝一番で行くことにした。
だけど、ハツミとおばさんが楽しげに談笑している(ハツミは誰とでも直ぐに仲良くなれる)隙に、僕はこっそり抜け出して、少しだけ夜道を歩いてみる事にした。
かつて毎日歩いたり走ったりしていた道は二十年でどれ位変わったのか、明日まで待ちきれなかったのだ。
吹き抜ける夜風は都会とはまるで違って本当に冷たかった。山並みの木々は随分葉が落ちていたし、森の中で何かの動物がどこかに何事か遠吠えする声もよく通った。
これから長い長い冬がやってくる。
驚いたことに、ここら辺りの景色は記憶しているものとまるで変ってはいなかった。
少し離れたところではポツポツと真新しい家が建っていたり、反対に建っていたはずの家屋がなくなっていたりというのはもちろんあった。
携帯電話の電波が圏外にならないところを見ると、どこかに電波を中継する高い鉄塔も建ったのだろう。
それはそうだ、二十年もあれば街が一つ生まれ変わる事だってできるのだ。
しかし、僕の暮らしていた近辺には目新しい変化は見られなかった。
空気はとことん澄んでいた。
僕らが雪玉をぶつけて遊び、少し曲げてしまったカーブミラーもいまだに曲がったままそこにあった。
この辺りで唯一ある商店の古びた飲料水の看板も古さまでそのままに残っていた。
相変わらず街灯が極端に少なかったので薄暗く、いまいちよく見えなかったというのもあると思うけれど、それでも村は僕の記憶のとおりの村だった。
それがなんだか嬉しかった。
あの楽しかった日々が何度もフラッシュバックしてきた。遊んだあとの帰り道、養母の待つ我が家の小さな灯りを探して歩いたあの日々の……。
そして僕は再び驚いた。
なんと僕らの住んでいた家もそのまま残っていたのだ。
さすがに人が住んでいる様子はなかったのだけれど、元々かなり年期の入っていた平屋の日本家屋だっただけに、よもや残っていようとは思ってもみなかった。
気が付けば僕の足は走りだしていた。
門構えも、貧相な竹垣も、赤い郵便受けも、やはり昔のまま何も変わっていなかった。
二十年前のあの頃のように、中では僕と養母とがすやすや身を寄せ合って穏やかに眠っているのではないかと思われるくらいだった。
僕は立ち尽くした。
一体どういう事なんだろう?
周辺の風景といい、ここといい、あの日から時間が止まってしまったみたいだった。
養母の時間を死が永遠に止めてしまったのと同じように。
施錠されていて戸は開かなかった。
けれど、僕はもしやと思って家の横手にある小さな庭にまわり、そこの地面に雑然と置かれた幾つかの大きな漬物石の一つを持ち上げた。
石の下の土からはブルーシートの切れ端が見え、そこを少し掘ってみるとシートの下には透明なビニール袋に入れられた小さな鍵があった。
やはりあった。
いつだか気まぐれを起こして突然家の合鍵を作ってきて、もしもの時のためにここに一本鍵を隠しておく、と養母は言った。
もしもの時が一体どんな時なのかはわからなかったけれど、多分、テレビで防犯の特集か何かを見て触発されたのだろう。
いつも鍵なんてかけないくせに、と僕がポツリと言ったら思い切り頭を叩かれた。
だから養母は直ぐにそんなもの忘れてしまっただろうけれど、僕は痛さと共に鮮明に覚えていた。今でも僕の方が正論だったという自信がある。
僕はその鍵を使って家に入った。
当然、イの一番に養母が倒れていた場所に目がいってしまった。
玄関で倒れていたのだからそれは避けようがなかった。
けれど、僕は各別感傷的になることもなく、ゆっくりと歩を進める事ができた。
感傷に浸るにはあまりに記憶がボンヤリとし過ぎていたからなのか、それとも僕がその死をキチンと受け止める事ができたからなのか、その理由はわからない。
とにかく僕はそこをしばらく見つめた後、力強く真っ直ぐに顔を上げた。
――大丈夫だ。
やはり人が暮らしているような生活の匂いはしなかった。
さすがに家の中まで手つかずというわけにはいかず、僕らが暮らしていた痕跡は全てキレイに運び出され、家はがらんとしていた。
何も靴の入っていない下駄箱には誰かが置いていったものか、半分ほどガスの残った赤い使い捨てライターがあった。
空気に黴臭さはまるでなく、床の埃も薄っすらとしか積もっていなかった。
多分、これも三ちゃんの家で定期的に掃除をしてくれているのだろう。
いつ訪れてくるともわからない僕のために、家を残しておいてくれた、みっちゃんたちの心遣いが本当に嬉しかった。
ボロボロだったはずの畳もあれから張り替えられたのか、思いのほか新しそうだった。
いくらがらんどうになったとしても、僕はここにあった物を一つ一つはっきりと思い出す事ができた。
居間にあった丸いちゃぶ台や黒電話、継ぎはぎだらけの座布団、刺繍が得意だった養母の裁縫セットとミシン、誰かから貰った映りの悪いテレビ、僕らが並んで眠っていた薄くて重たい布団。
壁には僕が図工の時間で描いた下手くそな養母の似顔絵と、器用な養母が貼り絵で作った野球のユニフォームを着た僕が掛け時計の横で笑っていた。
そう、僕らはいつでも笑っていたではないか。
僕はようやく確信できた。
この家で僕は幸せだった。
やっぱり僕は養母とこの土地を愛していた。
そして養母とこの土地は僕を愛してくれた。
その愛に偽りなんかなかった。
その思い出は決して虚像なんかではなかった。
ふと僕は、縁側と庭とを隔てる引き戸の柱の一つに目をやった。
そこには昔はどの家庭でもよく見られたであろう、あの傷が無数に付いていた。
そう、僕の誕生日が来るごとに養母は僕をそこに立たせて身長を計ってくれた。
踵を付けろ、顎を引け、背筋を伸ばせ……養母が兵隊のように威勢よく言う掛け声に合わせて僕はピタリと柱に体を付けた。
毎年、自分が一年でどれ位成長したのかを見るのが楽しみで楽しみで仕方がなかった。
そんな記録も十一歳で止まっていた。
そしてそのもう少し上には養母の名が刻まれていた。
僕はその頃、とにかく養母の身長を抜くことを目標にしていたんだ。
僕は柱に踵を付け、顎を引き、背筋を伸ばし、持っていた鍵を使って自分で自分の背丈を柱に刻み込んだ。
振り返って見てみると、今はもう、僕は養母の身長をはるかに越えていた。
「こんなに小さかったんだ」
僕はそう呟きながら、養母の名前をそっと指で撫でた。
「お母さん……」
僕は静かに涙した。
ついこの間、ハツミに引っ込められてしまった分も一緒に、僕は誰にも憚ることなく泣いた。
僕は生まれてはじめて自分のために泣いた。
それは世界さえ変えてしまえるかもしれない力を持った、温かで神聖な涙だった。
僕はもう、どんな愛も疑わない
*
みっちゃんの家に戻ると、玄関の前の道路までハツミが出てきていた。
僕が遠くから歩いてくるのを見つけると、こちらの方を向き、心配そうな表情を浮かべて僕を見つめていた。
彼女が愛おしかった。
こんな風に、僕がまたこの場所に来れたのは彼女のおかげだ。
僕を孤独という狭くて冷たい箱の中から救い出し、ここに導いてくれたのは紛れもなく彼女だ。
「どこに行ってたの?」
ハツミがそう尋ねるのを無視して、僕は近づくなり思い切り彼女を抱きしめた。
彼女の体は僕と同じ位冷えていた。
ずっと待っていてくれたのだろう。
「ハツミ」
「なぁに?」
「前から君に言いたいことがあったんだ」
「つむじならこの間褒めてもらったわ」
「愛してる」
「……その愛してるは、初めて言ってもらったわ」
「心から愛してるんだ。ハツミ」
「……うん、私も愛してる」
僕は誰かに初めて、偽りのない心からの愛を告げた。
……記念すべきその場所は、みっちゃんの実家の前という素晴らしくロマンチックなところだった。
*
あくる日、みっちゃんとおじさんが朝早くに帰ってきた。
僕が泊まっていると聞き、いてもたってもいられず、夜が明けるよりも早くに車を飛ばしてきたそうだ。
二十年ぶりに見るみっちゃんは相変わらず体が大きくてたくましかった。
おじさんの方は幾らか髪の生え際が後退していたけれど、こちらも変わらず元気そうだった。
二人とも村役場の職員として日々、集落のために朝から晩まで働いているんだそうだ。
「忙しくって結婚してる暇もないんだぜ。まぁ、嫁不足ってのが一番の原因だろうけどな。女の子は年頃になったらみんな村を出て行っちまう」
と、みっちゃん。
「すたってこの前小学校さ赴任すてきた若い女の先生、村ば案内すて回った時、おめさずんぶ色目ば使ってたべや。わのわらすのくせさして女心のすとつもわがらねぇってが?はぁ情けねぇ」
と、おじさん。
「なして俺があんなみったくねぇのと」
と、憤慨してみっちゃん
「いづまでもいいふりこいで選んでっとあまされんぞ。いっつも言ってっけや、女は顔でねぇえ。母ちゃんば見ればわかるべや?だいずなのはハートだハート」
と、笑いながらおじさん。
「……ごめんね、ハツミちゃん。何言ってるかわからないでしょ?」
と、呆れておばさん。
「まぁ、ニュアンスはなんとなく」
と、楽しそうにハツミ。
「すたけどノリちゃん、ずんぶめんこい嫁さんば貰ったんだな。昨日母ちゃんから電話で『ノリちゃんが嫁っこば連れて帰ってきた』って聞いて、はえぐどんな娘か見たくてあわくってきたんだ。いやぁめんこいわ」
と、ことさら感心しておじさん。
「いや、僕らは……」
と、僕。
「はい、北川ハツミっていいます。お世話になってます、おじさま」
と、ニッコリ笑ってハツミ。
「おじさま?……ずんぶいいとこの娘っ子ば貰ったんだな、ノリちゃんよ」
と、驚いたようにおじさん。
「ハハハ」
と、苦笑いの僕。
その後、墓参りを無事に済まし、レンタカーのガソリンも満タンにし、夕方までみっちゃん一家と当時を知る近所のなつかしい面々とでやいのやいのと明け方まで騒いだ翌日、僕らが帰る時間となった。
名残惜しかったけれど、休暇の日数は限られていたし、宿もほったらかしておくわけにはいかなかった。
……それに、僕の目的は達した。
「ノリちゃん、元気でな。またこっちに帰ってきてくれよ。まだノリちゃん家もそのまま残しておくからさ。今度はそこでもっとゆっくり酒盛りしてたくさん語り合おうぜ」
「うん、みっちゃんも元気で。例の女教師と早く結婚して、おじさんとおばさんを安心させなくちゃね」
「ノリちゃんまでそんなこと言うのかよ」
僕らは固い握手を交わし、再会を約束した。
「ノリちゃん……」
帰り際、車に乗り込み、いざ出発だという時に、みっちゃんのおばさんが運転席の窓を開けさせ、僕の方に屈みこんでささやいた。
「ノリちゃんと昌子さんが住んでいた家をね、色々片づけてたらこんなものが出てきたの」
そう言うとおばさんは僕にボロボロに黒ずんだ封筒を手渡した。
元は何の変哲もない茶封筒だったのだろうけれど、その腐敗具合はかなりのものだった。表に書いてある宛名も黒く滲んでいた。
しかし、なんとか『教』という一文字だけは解読できた。
それだけでこれが誰から誰に宛てられたものかがわかった。
養母らしく力強く躊躇いのない字だった。
「見つけたのは最近なの。神棚の奥の方に隠すようにして置いてあってね、ちょうど雨漏りがひどい場所だったからこんなに黒くカビちゃって。中は開けてないけど多分、手紙か何かだと思う。ちゃんと読めればいいんだけど……見た限り難しいかもね」
「直接言わないでわざわざ手紙に残すだなんて、かあさんらしくないな」
「それでも何か口からは言い辛い事があったんでしょう。昌子さんが小さいノリちゃんを抱いて村に帰ってきた時、誰にも何も詳しい事情は話さなかったの。みんなもちろん心配したから最初のうちは一体何があったのかって何度も尋ねたんだけど、絶対に言わなかった。『悪いとは思うんだけど、誰にも言わないって約束をしたんだ』って言ってね」
「約束?」
「そう、約束。ずいぶん大事な人との約束だったみたい。ほら、昌子さんって昔から頑固だったし、そのうちみんな、それだったらまあいいじゃないって事になってね……昌子さんの愛される人柄があったからそう許されたけど、でも内心ではみんな気になっていたはず。あの時、急にノリちゃんを引き取るって出てきた人達のこともそう、昌子さんは色んな秘密を抱えたまま死んでしまった。何よりノリちゃんにだって秘密にしてたこと、たくさんあったでしょ?もしかしたらその手紙に全部書いてあったのかもしれない。ノリちゃんの知りたいことが全部。だからもしそれが読めなかっ……」
「ありがとう、おばさん」
僕はおばさんがそれ以上言うのを制した。
「本当に心配してくれてありがとう。でも、もう大丈夫。僕は北川教生、コーヒーとビールが大好きなごくごく平凡なサラリーマンで北川昌子の自慢の息子だ。それでいいじゃないかって、つい最近思いはじめたんだ」
僕はおばさんに、最上の笑顔を向けた。
「……そう、それなら良かった」
おばさんも少し涙ぐんだ大きな笑みを返してくれた。
そして僕らは村を後にした。
途中、やっぱり気になったので例の封筒を開けてみた。おばさんの予想通り、中の手紙らしき五枚の紙は黒いカビと滲んだインクとで全体のほぼ九割が読めなかった。
一文字一文字がとびとびになった残りの一割からでは、一つまみの内容も汲み取る事ができなかった。
試しにハツミにも見せてみたけれど、勘のいい彼女でもさすがに解読はできなかった。
「まぁ、仕方がないさ。でも本当にもう大丈夫だよ。僕は僕だ。その思いに嘘はない。それにあんな見つかりにくい神棚の奥なんかに隠していたくらいだから、本当は読んで欲しくなかったのかもしれない」
僕らは再び一路、宿を目指した。
しばらく会話もなく走っていると、ハツミはおもむろにこちらを向き、まじまじと僕を観察しはじめた。
足先から脳天まで、ゆっくりと時間をかけて眺められてなんだかむずむずとしたけれど、僕は我慢して彼女の気の済むようにやらせた。
そしてふうん、と一つ、満足したのか不満だったのか判別しにくい、曖昧な声をあげた。
「さて、鑑定結果はいくらでしょう?」
と僕は茶化した。
「ノリオ君、変わったわ」
ハツミは真面目な顔でそう言った。
「それは栄転だろうか?それとも暗転?」
「……宿まであとどれ位で着く?」
「多分、あと二時間と少し」
「……今度は私の過去について話していいかしら。今まで誰にも話したことがないんだけど」
「もちろん。僕の耳は君の過去を聞くためだけに付いている。それもなんと二つも付いているんだ、幾らでも話したらいい」
「ホント、あなたの中のキザ工場はいつでもフル稼働なのね。そのうち労働組合に訴えられるわよ」
ハツミの強張った表情が緩んだ。
「聞かせてくれないか、君の過去を?」
ハツミが過去を語り始める。
だけど、それは僕だけの秘密。
そうハツミと約束したんだ。
世の中はたくさんの秘密で溢れている。
この時代になっても相変わらず墓荒らしが後を絶たないのは、多分、死者がどこかに一緒に持って行ってしまったそんな秘密を、みんな知りたいからなんだと僕は思う。
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