坂口家《終幕と開幕》

 計画は完璧であったし、滞りなく進んでいた。


 坂口章吾の逮捕、その混乱に乗じて美紗は離婚の成立に向けて話を進めていたし、息子・教生と共にどこか遠くの山村へと移住することも正式に決まった。


 具体的な場所や日程こそまだ決まってはいなかったが、どれも坂口家の息のかかった人々が所有する確かな設備の整ったところではあるらしかった。


 そう、美紗は坂口の家を味方につけたのだ。

 

 あの時、離れから北川昌子を伝令に遣わしてまで一族の人間に示したのは、自分ならばこの坂口の家の窮地を救う事ができるといった内容だった。


 本来ならば自分が直接出向いて演説したかったところだったが、なにぶん軟禁状態の身だ、迂闊に美紗が出て行ったところで、神経質になっている今の彼らの心を逆なでするだけだろうと予想した。


 それならば当主でさえそれなりに一目置いている家政婦の北川昌子なら少なくとも自分が話すよりは聞く耳を持つのではないかと考えた。


 その時の美紗にとっては唯一の味方で、唯一信頼のできる人間でもあった。


 緊張気味に出て行ったので多少心配はしていたが、もはや彼女に託すしか手はなかった。

 

 しかし、昌子は美紗が思っていた以上にうまくやってくれたようだった。

 

 美紗がベビーベッドの縁で瞑想状態にいると、慌ただしく幾人かの坂口が昌子と共にコテージにやってきた。


 具体的な話を聞きたいので母屋に来てくれとの事だった。


 『よろしくてよ』とでも言いたげに、美紗は優雅な微笑みを彼らに向けた。

 

 彼女の独壇場が始まった。


 美紗が十数名の坂口関係者の前でプレゼンテーションした計画や話の内容を要約してみると、彼女はまず、皆が神のように頼り切っている坂口章吾への崇拝から脱却させるところから取り掛かった。


 彼は今や法に背いたただの犯罪者だ。


 確かに見事な錬金術や家の巧みな舵取りを公然と披露してきた。


 しかし、もはや彼は崇高で義を重んじてきた名門・坂口の冠を汚すただの愚者にまで成り下がってしまったのだ。


 それも小汚い政治家とつるんで企てた下品な金銭がらみの犯罪だ。


 殺人や強盗などよりはその罪は軽いのかもしれない、更生し、償うチャンスはいくらでもあるだろう。


 しかし、その醜態を見た世間は一体どう思う?


 これまで坂口の家は一族が結束し、死に物狂いで働いてこの繁栄を築いてきた。


 だが公衆は思う。


 その財産は全て小狡い事をして貯めたものではないだろうか?


 坂口という姓が付く人々は全て、金を儲けるためには手段を選ばぬ汚らしい金の亡者なのではないだろうか?


 そんな汚名を着せられることだろう。


 人の噂は怖い。


 あるいは一族崩壊の危機にだって陥るかもしれない。


―― この時は大きなどよめきが起きた。女性陣は悲鳴まであげた。なんてことだ、ひどすぎる、皆口々に悲観の声をあげた。美紗のねらいどおり会場が温まってきた ――。


 それではどうすれば家を守れるか?


 話は簡単だ。


 坂口章吾を切り捨て、絶縁しなければならない。


 夫に対し、自分もこんな事を言うのは心が痛む。


 皆一丸となってこの苦難を乗り越えていければどれほど素晴らしいかと思う。


 しかし、日本の経済のため、ひいては世界の経済のために坂口一族は未来永劫まで続いていかなければならない。


 そのためには苦渋の決断をしなければならない事もしばしだ。


 坂口章吾と縁を切らなければならない。


 それはおそらく大英断としてこの先の長い歴史の中で語り継がれていくことだろう……。

 

 場は一時、水を打ったように静まった。


 その場にいた誰もが息を飲んだ。


 美紗だけが確かな手応えを感じてほくそ笑んだ。富裕層の人達がどれだけ体面を重んじるか、美紗は経験から嫌というほど学んでいた。


 もうひと押しだと思った。

 

 彼らの心が揺らぎ、ほぐれてきたところで次に彼女が取り上げたのは、息子・教生の処遇だった。


 一同は余裕をなくし、そんな赤子の事など気にも留めていなかったが、美紗がこの子こそが坂口家の救世主だと説くと一斉に反応し、皆で教生を凝視した。


 当人はすやすやと母の胸で気持ちよさそうに眠っていて、そんな視線には構いもしなかったが。

 

 偉大なる坂口の血、その中でも天才・坂口章吾の血を引いた教生はおそらくとてつもない才を持っていることだろう。


 弱冠、一歳にしてその片鱗を見せつつもある。


 将来の一族の発展をより揺るぎないものにするには彼の存在が必要不可欠であろう――一同は唸った――。


 そのためには熱心に教育しなければならない。


 しかし、いかんせん体が弱い。


 どれほど優秀な脳でも土台が脆ければ話にならない。


 だからまずはもう少し大きくなるまでの幾年か、大自然のキレイな空気を吸わせ、体を丈夫にしなければならない。


 もちろん自分もついて行く。


 及ばずながら自分は某大学を首席で出ている。


 田舎暮らしをしたとしても、自分がきちんと教育をすれば遜色はないはずだ。

 

 

 話の殆どはハッタリだったのだが、美紗の滑らかな舌と人の感情を効果的に揺るがせる話術、何よりも行く先の不安に押しつぶされそうになっていた彼らの困窮した心でもって、会場は新たな神の降臨を歓迎するムードに包まれた。


 悪徳商法でもやってるみたい、と美紗は自分に向かって冷笑した。

 

 とにかく、彼女の企てた計画はうまくいった。


 出来過ぎているくらいだった。


 体裁の為ならばこうも簡単に身内を切り捨てられるものかと、彼女は改めて華族の薄情さを蔑んで嫌な気分になった。


 しかし、顔をしかめている暇はない。


 すぐさま実行に移す旨で皆が動き出した。


 美紗は慎重だった。


 まだ浮かれるわけにはいかない。

 何せ相手はあの坂口章吾なのだから。


 早急に全てを済ませてしまわなければ……。

 


      *

      *

      *

 


 私は今、離れのコテージへと続く細く長い石畳を足早に駆けている。


 屋敷の外へと幾つか用事をたしに出かけ、今しがた帰ってきたところだ。


 なんだか胸が騒いだ。

 多分表情も固く引きつっている事だろう。


 ふと見上げた夜空には心なしか赤みを帯びた、大きな大きな満月が浮かんでいた。


 妖しい月明かりは夜の世界を隅々までくっきりと浮かび上がらせていた。


 しかし、その明るさの裏にある黒い影は底なしに深かった。

 

 こんな私など簡単に飲み込んでしまいそうだった。


 ―― どこから間違えてしまったんだろう ――


 私は確かに坂口章吾を愛していた。


 その想いは一人で戦い続けてきた私の心を芯から温めてくれた。


 彼になら自分をありのまま曝け出してもいいと本気で思った。


 私は少女のように浮かれていた。

 

 夫となってみても坂口章吾という人間の実像を把握しきる事は出来なかった。


 むしろ近づけば近づくほどに彼の存在はますます謎めいて行く一方にみえた。


 まるで歩けば歩くほど暗い深みへと誘う迷いの森のように。

 

 それでも構わなかった。


 夫婦に会話らしい会話はなくとも、愛情の疎通が乏しくとも、顔を合わせる機会すら殆どなくとも、理解者がいてくれるというだけで私は十分だった。


 坂口章吾はこの世界でただ一人自分の気持ちをわかってくれる味方なのだと私は疑わなかった。


 自分が敵わない唯一の相手だとその能力を尊敬し、憧れた。


 恋心は私の脳を盲目にさせ、彼から醸し出される、何か得体のしれない物の気配から私の注意を逸らさせた。

 

 そんな百年の恋から醒めたのは、妊娠が発覚した時だった。


 注意深く避妊してきたにも関わらず唐突に訪れた妊娠は、私を激しくうろたえさせた。


 子供など欲しくはなかった。


 仕事に熱くなっていたというのもあるけれど、何よりも幼少期を哀しみのうちに過ごしてきた私は、子供とどう接し、向き合っていけばいいのかがわからなかった。


 自分もあの両親と同じ血が流れている。


 だから彼らと同じように無償の愛情なんて抱けず、冷たく突き放してしまうかもしれない。


 それが子供にとってどれ程辛い事か、身に染みて理解していた。


 不確定要素が多すぎた。


 私は自分がされてきたことを平気で自分も子供に繰り返しているイメージを何度頭に描いたことか。


 イメージはとめどなく溢れ出てきた。


 だったらいっそのこと生まれてこない方が子供のためなのだ。


 この考えを私は幼い頃から一貫して持っていた。


 だから中絶に反対する夫との話し合いでも、私は譲れなかった。


 いくら辛辣な言葉の言い合いになって、互いを傷つける事になったとしても、そこだけは頑として譲れなかった。

 

 しかし、夫はわかってくれなかった。


 彼は私の過去の哀しみを汲み、その切実な想いを理解してくれるはずではなかったのか?


 付きまとう男から守ってくれた時のように、自分を助けてくれるはずではなかったのか?

 

 二人はパートナーではなかったのか?


 夫は相変わらず無感情な目を私に向け続け、相変わらず必要最低限の事しか話さなかった。

 

 ―― ……結局、この人もそうなんだ ――

 

 私の心はより固く閉ざされた。

 あの時はもう、あらゆる事がどうでもよくなった。

 

 私の恋はそこで終わった。


 案外、哀しい気持ちになったのには私自身驚いた。


          *   


 ……いまさら私は何を立ち止まってまで回想しているのだろう。


 もう恋は終わったのだ。


 はじめからあったものかどうかも分からなくなる位、それは大昔に起きたお伽話なんだ。


 今は前に進んで行かなければならない。

     

 

 「いい月夜だ……そうは思わないか?」


 そうして声が聞こえる。


 私の語るお伽話の王子様はいつでも暗闇に紛れてやってくる。

  


     *

 


 「本当にいい満月だ。愛する妻と逢引きするには絶好の夜だ……なあ、そうだろ?」


 坂口章吾が木陰からするりと現れた。

 

 明る過ぎる月の下で晒された彼の姿は、いつもよりも余計に謎めいて見えた。


 多分、妖しい月明かりのせいだろう。

 

 「どうしてあなたがここに?」


 驚いて口も聞けないかと思ったけれど、自分を客観視できる位に私は落ち着いていた。これは十分に予測できたことだ。


  「どうして?ずいぶんご挨拶じゃないか。ようやく保釈されて家に帰ってくる事ができたんだ、その夫が愛しい妻に会いに来るのに何か問題があるのかな?」


 坂口章吾の声はいつもより楽しそうだった。弾んでいると言ってもいいかもしれない。ただその顔だけがいつものように無を纏っていた。


 「それともどうして私が無事保釈されたのか?という事ならば話は簡単だ。私は何もしていないから、それだけだ。未公開株……なぜ私がそんな物を欲しがらなくてはならない?私が金や権力にはまるで興味がない事など考えなくともわかりそうなものだが……それとも私は自分で思っているよりも強欲で下品な面構えをしているのかな?父や兄たちのように」


 やはり今にも笑い出さんばかりの調子だった。

 こんなに饒舌な彼をはじめて見た。


 嫌な予感がまたふつふつと沸きはじめた。

 

 「もちろん、あなたが何もしていないのは解ってた」


 私は言った。

 何でもいいから声を出さなければと思った。


 口をつぐめば彼の支配するこの赤い月夜に捕らわれてしまいそうだったから。

 

 「もちろん解ってくれていただろう。なにせ君は頭がいい。本当にいい。そこら辺の官僚や政治家連中などよりもずっと。君は今まで出会ってきた人間の中で唯一私が認めた人間だ。だからこそ私は君を選んだ。いつから認めていたか?はじめからだ。私は初入省の時から君に目を付けていた。だから君の研修期間が終わるとすぐに私の直属に置かせた」

 

 私の体を悪寒が駆け抜けた。

 凄まじい寒気だった。


 そのまま全身が凍り付いてしまうのではないかと思えるくらいに。


 実際、体の中で何かが凍っていく感覚があったのだけれど、今は坂口章吾の語る言葉に集中しなければならない。


 隙を見せてはいけない。

 

 「君は私を追いかけて文部省に来たのだろう?最初のうちは燃えたぎる競争心が全身からほとばしっていたものな。どこかで私の噂を聞きつけ、気高きプライドを刺激された君は私を打ち負かす事だけをずっと考えていた。私を羨む人間は数いれど、反骨心をむき出して向かってくる奴は初めてだった。そして君は向かってこれるだけの高い能力と資質もあった。それで私に相応しいか、直接下に据えて見極めようと考えていたが、君は私の期待以上の優秀さと更なる成長の糊しろを見せた」

 

 「……そして私の成長を阻むものは排除する」

 

 「その通り、だからあの男には遠くへとお引き取り願った。彼は今頃どうしているかな?おおかた、家族にも見放され酒に溺れる情緒不安定な日々を過ごしている事だろう。生気もなく、しかし死ぬ勇気もなく、虚ろな毎日をただただ無益に消費している事だろう。気の毒だとは思うが、いかんせん自業自得なのだから仕方がない。大樹の資質を備えた若木の発育を阻むものは剪定して切り落としていかなければならない。それが成長を見守る者の勤めだ」

 

 「あなたに人事を好き勝手に操作できる権限があったって言うの?」

 

 「君らしからぬ愚問だな。もちろん表立った権限などない。それどころか人事など我々の管轄の大外だろう?だが不思議な事に私が望むように人々が配置転換されていく。私が何気なく、彼はこっちの方がいいな、彼はあっちの方がうまくやれるな、と呟けば何日か経った後に彼らはその呟き通りに異動していく。……私は多分、運がいいのだろうな」

 

 坂口章吾は私の方に一歩踏み出した。

 夜がまた一つだけ深くなったような気がした。

 

 「私を安易に陥れようとした老政治家が脳の病気で倒れた。長らく不摂生な生活をしてきたせいだろう。とりあえず命に別状はないらしいが、顔の半分の筋肉が言う事を聞かず、もうまともに話す事はできないんだそうだ。口八丁、手八丁で政治家をしてきた彼にとっては致命的なダメージだ。もう二度とは浮かび上がってこれないだろう。それどころか野心を取り上げられてしまった先生は一気に老け込んでしまったらしい。肉が落ち、髪は抜け、皮膚はカラカラに乾き、病室に面会に行った検事はまるで別人になっていたと教えてくれた。……この検事君、そこそこ優秀な男らしく、終始私の無実を一人で主張していた。他の検事連中は私の起訴を急がせた。何故ならどこでどう拵えたものか、出てきた二、三の証拠品、そのことごとくが私の事件への関与を確実に裏付けていた。あの先生の財力とコネクションの広さには本当に舌を巻く。それだけ見れば私の起訴は免れなかった。だが、例の担当の検事は待った。どうしても腑に落ちなかったらしい。ただでさえ特捜部が絡んでいる事件だ、上からも下からも相当な圧力があっただろうに。その点で彼は少しだけ評価に値するかもしれない。そして彼はその粘りと正義感を持って倒れた先生の病室に押しかけた。面会謝絶などお構いなしに検事の職権を濫用してドアを開けさせた。それからは何てことはない。ほぼ抜け殻みたいになって日々を窓の外ばかり眺めながら過ごしている老人に、私に罪をかぶせたか否かを問うたら簡単にうなずいて認めた。もはや人生を諦めていたようだな。立会人を設け、補佐官も病室に呼び寄せ、口がうまく聞けない分は筆談や仕草で会話を続け、それを正式な調書に仕上げ、上司に得意げに付きだした。……実際に現場を見たわけでもないのに申し訳ない。得意げというのは私の脚色だ。彼にはどうも英雄願望があるらしく、時折その佇まいが大げさで芝居じみて見える事があるものでね。とにかく、私の無実は証明され、憎き汚い策略者は病床に伏した。本当に私は運がいい」


 坂口章吾は更にもう一歩私に近づいた。


 「さて、もう一人、こちらは麗しき策略者になるわけだが……また私は運に恵まれるのだろうか?」

 

 私は後ずさりたかった。

 なりふり構わずこの場から逃げ出したかった。


 こんな戦慄を覚えるほどの恐怖を感じたのは生まれて初めてだった。


 しかし、私は動けなかった。


 足の裏がピタリと地面に張り付いてしまったようだった。


 全身の筋肉が極度の緊張のために強張っていた。


 私は思わず生唾を飲み込もうとしたのだけれど、それさえも叶わず、私はただ立ち尽くすしかなかった。

 

 これが坂口章吾なのかと私は思った。


 彼という人物の実体を恐怖の中でようやく理解した。


 圧倒的な存在感が放つプレッシャー、催眠術のようなするりと意識の隙間に入り込む巧みな話術とそれに合わせた無機質な声と顔、卓越した洞察力と俊敏な状況判断能力。


 そして天賦の知性とカリスマ性。


 全てが合わさった時、彼のささやきは呪術のごとく人の心に影響を及す力を帯びる。まずは恐怖心を植え付けるところから始まり、そこを入り口に簡単に人の深層心理にまで辿り着き、そこを支配した。


 弱い人はただそれだけで気がおかしくなったし、例え私のように鍛錬をしてきた比較的タフな人間にでもそれはゆっくりと作用し、やがては全てを侵食してしまう。


 一種のマインドコントロールみたいなものかもしれない。


 坂口章吾はただ待っていればよかった。


 彼はいつでも何もしてこなかった。

 何一つ特別な事はしなかった。

 

 ある人は彼のために奔走した。

 ある人は勝手に彼の影に怯え勝手に沈んでいった。


 畏怖と畏敬、そう、坂口章吾は信仰すべき神だった。


 私たちは彼の周りで喚いているただの崇拝者、ドーナツの輪の周りのただの一片だったのだ。

 

 「君こそ私のベスト・パートナーだった」


 坂口章吾はもう一歩前に出た。


 私と彼はほとんど鼻先が触れ合うほどの近距離で向かい合った。


 「君の過去をとやかく詮索することはしない。そんな物、君と君のご両親を見ていれば一目瞭然だ。君の親も私のところの親兄弟と同じような人種らしいな。最初にお目にかかった時、お互いに親子よりも似通っていて私は可笑しくて堪らなかったのを覚えている。そんな家で育ったのだ、君はおそらくずっと孤独だったろうな。それも光さえ食い物にして己の滋養にする深く暗い闇のような圧倒的孤独だ。他人に愛想を尽かしたのは一体幾つの時だった?見渡す景色が平坦でつまらない物に見えていただろう?何もかもが下らなかっただろう?私には君の気持ちがよくわかる。手に取るようにわかる。それは何故か?これも簡単な事だ」

 


 坂口章吾は私をそっと抱いた。


 それは本当に包み込むように静かで、なおかつ死神の訪れを思わせるような冷たい抱擁だった。

 

 「我々は似た者同士だという事だよ、美紗。私は君のように孤独だったし、君は私のように孤独だった。我々は孤独の最も深いところまで辿り着く事のできた稀有な人間だ。他の人間には決してわかるまいな、常人ならばそこに至るまでの段階のどこかであまりの重たい圧力に耐えかねてリタイアしてしまうだろうから。したがって我々は我々以外にこの孤独を共有することはできない。我々は唯一の同士であり、唯一の理解者であり、唯一のパートナーだった。愛情などという陳腐なものではない、我々は互いの生命そのもので結びついていたはずだ。なあ、そうだとは思わないか?」

 

 似た者同士……その響きが私に何かを思い出させようとしていた。私たちは似ていた。


 彼もずっと孤独だった。


 私たちは似ている。

 彼の顔は私に似ている。


 ……ああ、そうだ。彼の顔は確かに似ている。


 あの時の私に。

 あの日、夕方の西日が弱く差し込んだ部屋の中で私をじっと見ていたもう一人の私。

 

 まるで無を浮かべていたもう一人の私の顔に彼は似ていた。


 どうして今まで気づかなかったんだろう。


 もう一人の私と彼は似ている。

 という事は、彼と私が似ているなら私ともう一人の私も似ているのだろうか。


 私もあの無感情な能面のような顔と似ているのだろうか。


 うん、きっと似ているはずだ。


 A=B、B=C、故にA=Cなのだ。


 こんな単純な事だったんだ。


 そう、こんなにも……こんなにも……。 

 

 「それで、教生はどこにいる?」

 

  ―― ……教生! ――

 

 私は息子の名を聞いた瞬間に呪縛から解かれ、はっと坂口章吾から身を引いた。


 その名前はどんな呪いや魔法にも負けない勇気を私にくれた。


 動悸はかなり激しく打っていたが、それでこそ生きている証なのだと私はかえって嬉しくなった。


 危うく坂口章吾の世界に取り込まれるところだった。

 

 坂口章吾は格別驚いた風でもなかったけれど、こめかみの辺りが一瞬、ほんの僅かにピクリと動いたのを私は見逃さなかった。


 静まり返った月夜の中で、その反射的に閃く反応は妙に目立って見えたのだ。


 「今度は私からの質問よ。似た者同士、もう少しフェアにいきましょう」


 私は強い口調で言い放った。


 まだ恐怖を完全に拭い去ったわけではなく、脂汗がじんわりと額に浮かぶのがわかった。


 でももう大丈夫。


 私は息子を守らなければならないんだ、どんな犠牲を払ってでも。


 私はまた一回り強くなったようだ。


 「それで、あなたは何故そこまで教生にこだわるのかしら?この一年、いえ、私の妊娠がわかった頃からずっと考えていたのだけれど、これだけはどうしても解らなかった。あなたからは教生に対する愛情を感じない。それどころかどんなものに対する愛情も感じない。それなのに頑なに教生を傍に置きたがる。何故?説得力のある仮説も予想も一つたりとも浮かばなかった。ただ何か良からぬことを企てているのではと思ってはいたけれど」

 

 坂口章吾が笑った。

 ……多分、笑っていた。


 少なくとも彼の口元は深紅の三日月のように不吉な弧を描いて吊り上っていた。

 

 それでもやはりその顔を言葉で模写するとなれば、無表情だ、という表現になってしまうから不思議なものだ。

 

 「まったく、君の精神力の強さにはほとほと感服する。それでこそ我が妻であり、我が息子の母親だ。さて、そんな君に敬意を払ってフェアに答えよう。私が何故、教生にこだわるのか?だったな。それは愛しているからだ。息子は私にとってこの世の何ものにも代え難い存在だ」


 「ふざけないで」


 私は思い切り坂口章吾を睨みつけた。


 「ふざけてなどいない。君が教生を愛するように、私も教生を愛している。例え君にはそう見えなかったとしてもだ。この想いがどれほど純粋な物か、そっと胸から取り出して君に手渡せれば一番いいのだが、そうもいかない。だから信じてもらうほか術はない。私は教生を愛している。……ただし、その愛が君に理解できるかどうかはまた別の話だ」


 「さっきは愛情を陳腐だと言ったわ」


 「そう、愛は陳腐だ。突然湧いて出たり、突然枯渇したり、伸縮や膨張を繰り返したり、まるで安定することがない。そんな不確定な感情は実社会においてはただの欠陥因子だ」


 「愛を軽んじるあなたに息子は任せられない。お願いだから私たち母子をそっとしておいて。二人静かに暮らせれば他に何も望まないから」


 「君に愛を語り、他人の愛を否定する資格があると思うのかな?」


 「……なんですって?」


 私が顔をしかめたのを見て、坂口章吾は不気味な笑みを、口が裂けそうな程に殊更大きくした。愉快で愉快で仕方がないようだった。


 「君には愛を語る資格などないだろう?まともに愛された事も愛した事もない君が?口にこそ出さなかったが、君が当初あれだけ妊娠を拒み続けていたのは、愛情など信じていなかったからなのだろう?というより愛情そのものを想像すらできなかったからだろう?」


 「そんな事は……」


 「そして君は今もなお、その気配に怯えている。教生に対して注いでいる愛情、それが本当に愛情なのかどうかふと自信がなくなる瞬間がある。なにせそれは過去に見たことがない未知なるもの、君は確証を抱けない。おまけにいつ何時、自分も両親のように子を拒絶してしまうかもわからない。君は教生に必要以上に固執することでその影を振り払おうとしている。私は両親とは違うのだ、愛を抱ける人間なのだ。……図星じゃないか?」


 「……違う」


 「その点、私の愛は確たるものだ。それも教生が生まれる遥か以前から私は彼に愛を注ぎ続けてきた。私の愛、それは教生を最高傑作に仕上げてあげる事だ」


 坂口章吾が息子への愛を語る。


「私が文部省に入ったのは偏にただ教生のためだ。いつか私に子供ができた時、その子を育てるにあたって私は最高の環境で最高の教育をさせなければと常々思っていた。私の幼少期は残念ながらそういったものにはあまり恵まれてこなかった。一流の学校に入れてやればそれで教育したと私の父は満足していたのだろう。うちの一族は悪運の強さと蓄財の才は相当だが、その頭にはノミ程の想像力しか持ち合わせていないものでね。……それはさて置き、最高の教育環境とはなんだ?文部省というこの国の教育の全てを司る機関で、私は有意義な実験を大いに行えた。大学で学問として追及するための研究とは規模も違えばその跳ね返りの大きさも違った。当然だ、それは卓上や紙上の空論ではなく、実地の結果におけるリアルで説得力のあるソリッドな論証なのだから。私は精力的に動いた。もちろん失敗だった事例も多々あった。しかし得られた成果はとても大きかった。その間、誰も私のする事に口を挟んでくる人間はいなかった。至極個人的な興味から始まったとはいえ、目詰まり気味だった戦後教育に幾らか新しい風を吹かせられたのも事実だったからだろう。おかげで何の気兼ねも滞りもなく私の計画は進んで行った。私の熱心な働きぶりは多大な評価を受け、更に私は大胆で広域な実験を繰り広げ続けた。まあ、君は私のチームだったのだから、その辺りは語るに及ばなかったかな。もちろん、そこのチーフがただ個人的な目的のために奔走し、一国の一官庁を利用していたなど想像もしなかっただろうな。……ともあれ各種実験で得られた結果に基づいて、私は一つの教育プログラムを作成した。ちょうど三年ほど前の話だ。私の入省以来、苦節十数年の集大成だ。今、こうしている間にも実際の乳幼児の数名に対し、臨床治験は進行している。なにぶん人ひとりの成長を見守りながら記録していかなければいけないので時間は掛かるが、今のところ予想通りの良好なデータを計測している。副作用だって出ていない。順調にこのプログラムが消化されていけば、いずれ彼らは天才と呼ばれ、歴史のどこかに何かしら名を残すことになるだろう。そろそろ教生にもこのプログラムを施したいと思う。これまで君の好きなようにさせて放っておいたのは、満一歳を迎えてから開始した方が良いデータが出ているからだ。まだ確実な範例がないのが唯一気になるところだが、これまでの結果の安定感を考えれば問題はない。……さて、どうだろう?これが私なりの息子への愛だ。彼の父親のように下らなく無益な少年期を過ごさせないために私は頭を絞り、身を粉にして働き、完璧な人生を拵えてやるんだ、立派な愛情ではないだろうか?おまけに息子の役に立つかと思い、政界へコネクションを繋いだが、結局、貶められて逮捕までされてしまった。やはり政治家という人種は性根まで腐りきっている。その事を再認識させてくれただけ役には立ったかな?そうそう、教生にはこの教訓も教えておかなくてはならないな」

 


 悪びれた様子もなく、幾分得意そうにしている坂口章吾の話に私は言葉が出なかった。


 呆れと怒りがひど過ぎたというのがその原因だ。


 そんな事のために坂口章吾は生きていたのかと思えば呆れてきた。


 そんな下らない事のために人事を不当にいじり(彼の力が働いたのは明白だ)、多大な税金を消費し、そして何の罪もない、何の意志も示せない乳幼児に如何わしい実験を施し続けていたのだと思えばとてつもない怒りが込み上げた。


 その実験が原因で何かしらの障害を引き起こした子供も中にはいただろう。


 ただ一度しかない人生をわけのわからない大人のエゴのために歪められた子供達の事を思ったら、私はとても哀しくなり、涙が止めどなくあふれ出してきた。


 本当に本当に哀しかった。


 私は号泣した。

 その子供達のために泣いた。

 

 坂口章吾の元で働いていたというのに、妻として間近にいたというのに、私はその尻尾の先ですら気づかなかった。


 一度でも、一瞬でもこんな邪悪で冷たい男を愛した自分が恥ずかしかった。

 

 「……下らない」


 私はそれだけをつぶやくので精一杯だった。 

 

 「涙するのは少しだけ早いぞ、美紗。これからがいいところだ。私が息子のためにした事がもう一つある。というより、それが一番重要なプロセスだった。何か解るかな?」


 「……」


 私は静かに坂口章吾を見つめた。


 「それは優秀な母親を見つけてあげる事だ。どれだけ私が素晴らしい教育プログラムを確立したとしても、受け皿である器がしっかりとした物でなければ意味がない。したがって私は私の遺伝子に見合うだけの優れた母親を長らく探し求めていた。これがなかなか難儀だった。なにせ優秀な人間という自体絶対数が少ないうえ、そこから更に女性を、しかも出産適齢期の女性を選るとなると、その数は必然的に極々微少なものになった。それでも幾人かの候補を見つけては近づき面談、様々な調査を重ねたのだが、今ひとつ、彼女たちの輝きは乏しかった。しかし、私も妥協したくはなかった。私の遺伝子を引き継ぐにふさわしい子を授かるためには、やはりそこだけは譲れなかった。……ある日の事だ、私がいつも通り仕事に励んでいると、その年度の新卒採用者数人が私たちのいるフロアに挨拶に来た。もちろん私はそんな物に構っている暇はなかったので無視して仕事を続けていた。すると何か私に向かって送られる殺気立った視線を感じた。顔を上げ、その視線を辿ってみた先には激しい熱を滾らせた黒く美しい瞳があった。先ほども言ったが、そんな風に露骨な敵意を持って私を睨むような人間には巡り合った事がなかったものでね、とても新鮮な気持ちになったよ。なかなか悪くないじゃないかと思った。それが君との初対面だった。そして私は思い出した。その何か月も前の話だ。大学時代に私の専攻していた学科の担当だった教授が突然やってきた。私とその教授とはロクに話したこともなければ、彼の授業をまともに聞いたこともなかった。しかし、どこか常人とは異質な雰囲気を持っていた事と、私を珍しい動物でも観察するかのように好奇心を帯びた目で見つめてきていたからよく覚えていた。君とはかなり趣は違うが、印象深い視線だったな。その彼がわざわざ私を訪ねにオフィスまであがってきた。どうやってセキュリティーをすり抜けてきたのか、気が付けば彼は目の前にいた。幾らか老け込んではいたが間違いなくあの教授だった。そして挨拶を交わすこともなく、彼は血走った目を一際大きく丸くさせ、ただ一言『もうじき待ち望んだ麗しの君がやってくるぞ』とだけ言って去って行った。元々変人ではあったが、その時彼が残していった余韻は更に異質なものだった。それを思い出した私は君の履歴書を見せてもらい、案の定、君も私と同じ大学、同じ学部を出ている事を知った。おそらく彼は君の事も私と同様、毎日舐めまわすように眺めていたのだろうな」


 「……もういいわ」


 私は言った。


 「おおかた私と君とが巡り合ったあかつきには何が起こるのか?そんな下らない事を……」


 「もういいって言ってるのよ。聞こえないのかしら坂口章吾さん?」


 思いのほか優しくて柔らかな声が出てきた。


 私はその時とても穏やかな気持ちになっていた。


 多分、涙のせいだ。


 先ほど流した子供達への大量の涙が私の心を落ち着かせ、緊張をほぐし、そして躊躇いや明日への未練を全てキレイに流してしまったようだ。


 腹は据わった。


 やはりこの男をこのままにしてはおけない。

 誰かが食い止めなければいけない。


 「私を追い詰めたところでもう何の意味もないわよ。だってあなたは絶対に離婚届に判を押さないだろうし、例え調停に持ち込んだとしても確実にそちらの方に分がある。あなたが何か犯罪を犯して起訴でもされない限り私に勝算はなかった。だからこうやってあなたが保釈され、私の目の前で微笑んでいる時点で私の負け、これは予想していた最悪のパターンよ。潔く白旗を揚げるわ」


 「話は聞いていた。随分と軽妙な演説だったそうじゃないか。私もご拝聴にあずかりたかったものだ。しかし、やけに物分かりがいいな。あの頃のように私に噛み付こうとはしないのかな?昔の君はもっと野心的で情熱的で、私は好きだったんだがね」


 「あなたは誰も好きじゃない。誰も好きになんてなれるはずがない。あなたの深すぎる孤独には誰も触れられない。初めから私なんかが敵うわけがなかったのよ。とんだ勘違いをし続けて、だいぶ遠回りをしちゃったわね」


 「……何を考えている?」


 坂口章吾の顔色が変わった。

 

 笑っていた口は元の真一文字に戻り、目は私を射殺すべくその切っ先を鋭く尖らせた。


 警戒しているようだった。


 私の雰囲気から何か只ならぬものを察したのだろう。


 「何を企んでいる?」


 坂口章吾は繰り返した。

 

 「何も企んでなんかないわ。もう終わりにしましょう。あなたも、そして私も、多くの人や物を傷つけすぎた。なんでも力ずくで自分の思い通りに作り替え、その度に色々な物事を不当に歪め続けてきた。普通の人達が道草をくったり障害物に躓いたりしながらゆっくりとその人生を歩いて行くのを私たちはノロマだと嘲り、最短ルートを早足で進む自分達だけが正しいのだと胸を張って生きてきた。自分たち以外の人達を認めようとしてこなかった。誰よりも愛を求めているくせに、誰かに拒まれたり、愛が報われなかったりして傷つくのが怖くて、誰も愛してこなかった。傷つくのが嫌だったから、痛いのが嫌だったから、誰かに傷つけられる前に誰かを傷つけてきた。……私たちは別に天才でも神でもない。真実や確かな事を怖れ、理屈や能書き抜きでは何一つまともに見れない、見ようとしない臆病者。良いも悪いも人の有りのまま全てを受け入れて愛する勇気を持てず、孤独という体のいい箱の中に引きこもったただの臆病者よ」


 「私が先ほど私たちが同じだと言ったから少々図に乗っているのかな?それは愚かな自惚れというものだ。君は私の足元にも及ばぬ小さな人間なんだ、決して対等ではない。君は一つでも私に勝てるものがあったかな?誰も私の上には立てない。繰り返すが私は愛など認めない。そんなものなくとも私はただ一人で頂きまで辿り着く。例えその苦しさを助け合う人間がいなくとも、登りきった喜びを分かち合える仲間がいなくとも、私は構わない。私は君のように弱くはない。君のように臆病者ではない。君はもう終わりだ。さあ、教生はどこにいる?教生は私の大切な作品だ。誰にも渡しはしない」


 「教生は安全なところにいるわ。もうあなたの手の届かないところに。最悪のパターンを想定してたってさっき言ったでしょ?もしもの時に備えて二重三重に準備しておいてよかったわ。……本当はそんなもの使いたくはなかったというのが本音だけどね」


 「教生は私と君との血を引いている。何を画策しようともアイツは所詮、孤独からは抜け出せないだろう。おそらく、私たちよりも更に深い孤独から」


 「いいえ、教生なら大丈夫。私には解るわ。教生ならきっとその孤独を乗り越えられる。教生は私たちみたいに弱くはない。母親としての本能がそう告げているわ」


 外見こそいつものように無表情ではあったけれど、坂口章吾は明らかに興奮していた。


 やっぱりこの人は子供なのだ。


 どれ程威張っていても、どれ程隙のない頭脳を持っていたとしても、闇に紛れてやって来た異世界の住人などではなく、ただ一人ぼっちで寂しがり屋の可哀相な子供なのだ。


 「もう止めましょう」


 私は優しく言った。


 「何を止める?」


 彼は無表情に言った。


 「私たちは生まれる場所を間違えたのよ、きっと」


 私は穏やかに言った。

 

 「私は間違えてなどいない。この世界の方が間違っているんだ」


 彼は無表情に言った。


 「私たちは私たちの世界に帰りましょう」


 私は持ちうる限りの慈悲を込めてそう言った。


 「行きたいのならば一人で行け!私はどこにも行かない!私は……私は……」


 彼は激高して叫んだ。駄々をこねる子供のように。


 「おまえを排除してやる!私の邪魔をする奴は皆、私が潰してやる!」

 

 「……もういいの」


 私はニッコリと笑い、聖母のような愛をもって彼を抱きしめた。


 そして私たちは私たちの行くべきところへと共に向かった。


 そう、誰も辿り着く事の出来ない、私たちだけの世界へと……。

 

 

       *

       *

       *

 


 私たちは多くの人を傷つけすぎた。


 そう、私たちはもう、舞台から降りたほうがいい。


 後に続く世代の子供達をこんな憎しみと哀しみの渦の中に巻き込んではいけないのだ。


 私は決して褒められた母親ではなかったと思う。


 私が教生のためにしてあげられた事なんてほんの僅かなものだけだ。


 これで一丁前に母親を名乗っているのだから、もっと大変な思いで頑張って母親をしている人達から一斉に怒られてしまうかもしれない。

 

 それでも私は紛れもなく母親だ。


 一人の母親として教生を愛していた。


 夫は最後まで信じてはくれなかったけれど、私は確かに息子を愛していた。


 それは、ずっと素直になれずに生きてきた私が、唯一素直な気持ちなのだと胸を張って誇れるものだ。

 

 ……素直ついでに本音を言わせてもらうなら、もっと教生のそばにいたかった。


 そばにいて成長をこの目でずっと見届けたかった。


 怒ったり笑ったり泣いたり喜んだり、色んな顔を見てみたかった。


 こんなにも心から愛しているのだともっと教生に伝えたかった。


 もう、教生がうるさがる位にしつこく……。





 そして、ただ一度だけでいい、教生の口から……。



 『お母さん』って聞きたかったな。


 





 ねぇ、教生?




 ……強く生きなさい。

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