第六話・背中、呼び止めて

 昼を過ぎたあたりに、僕の働いている店に例の本社の人間がやって来た。


 数か月前の万年筆の一件以来妙に気に入られてしまい、彼は度々僕に会いに顔を出すようになった。


 相も変わらず一人忙しい様子で、どうやら何かの商談に行くついでの少し空いた時間で寄ったらしかった。


 その時ちょうど僕は裏手で短い休憩に入っていたところだったので、一緒に缶コーヒーを飲んで話をする事にした。

 

 「まぁ、『貧乏暇なし』とはよく言ったもんだな」


 本当に働き者ですねと言った僕の言葉に彼は少し皮肉を帯びた調子でそう答えた。


 「俺の家系は由緒正しき清貧農家の家柄なんだ。だから両親はもちろん、親戚や祖父さん祖母さんたちも、口を開いた二言目には金がない金がないって言ってたな。だけど清貧って言ったろ?別にみんな怠けて遊んで貧乏やってたわけじゃないんだ。それどころかあっちにこっちにあくせくと普通の人達よりも余計に忙しく動き回ってたと思うなぁ。寝る間も惜しんでってやつだ。朝起きればもはや親たちはフルスロットルで走り回ってるし、夜は夜で俺が寝付いてもまだやっぱりバタバタと何かしらしていたな。それでもいくらみんなが汗水たらして働けども家は一向に貧乏だった。なんでだろうな?あれだけの労働力を提供したんだ、相応の対価があってもいいはずだろ?子供ながらにそれが本当に不思議だったよ。逆に適当に手を抜いてやってる隣の畑のオッサンは随分羽振りがよさそうだったな。働き者のアリが馬鹿を見て、怠惰なキリギリスの方がお利口さんで……俺がイソップだったらきっとそう書くんだろうな。そっちの方が正しいんですよ、それが世界の理(ことわり)なんですよってな」

 

 そんな風に扱っていいものなのかどうかはわからないけれど、彼は無事手元に戻ってきたその古ぼけた万年筆を器用に指で弄んだ。


 働き者であった彼の祖父も、こんな風にこの万年筆と戯れていたのだろうか。


 いや、きっとそんな暇さえも惜しんで働いていたんだろう。飽くなき清貧の暗いスパイラルの中で。

 

 「俺が奨学金もらってまで大学に行こうって思ったのは、そんな理不尽さに我慢できなかったからなんだよな。だってそうだろ?一生懸命に、自分の寿命まで縮めて働いてさ。短命なのも家系的なものなんだ。ま、当然だろうな。……それでも生活が豊かにならないなんてやっぱりおかしいだろ。だから俺は高校卒業と同時に田舎を出る事に決めた。頑張って勉強して、成績がいい奴は学費全額免除って私立大学を見つけてきて、内緒で受験して、密やかに合格して……。親父は当然俺を農家にさせたかった。というよりそれ以外の選択肢を考えられるだけの想像力なんてなかったんだろうな、きっと。なにせ自分もそうやって当たり前のように畑を継ぎ、当たり前のように貧乏やってたわけだから仕方がないんだよ。田舎を出る前の日の夕方まで俺は親父から畑の土の上手な起こし方やらボロトラクターの運転の仕方やらを怒鳴られながら教えられてたんだぜ。大学に受かったはいいけど、いざみんなに打ち明けるってなるとなかなか言い出しにくくてな、結局その日の晩飯の席、ほとんど出発の直前になってようやく、これこれこういう訳で家を出ます、生活費は自分で稼ぐし家には一切迷惑をかけません、なんなら親子の縁を切ってもらっても構いませんって言えたんだ。頭を真っ白にしながら一方的に勢いのままに。ずっとイメージトレーニングはしてたんだよ。だから本当はもう少し堂々と言い放ってカッコよく決めるはずだったんだけど、声も裏返ってたうえに話の順序も滅茶苦茶で、もう散々だったな。……それでもなんとか俺の言っていることは伝わってくれたみたいだったんだけど、みんなキョトンとした顔してたな。頭ごなしに怒鳴り散らすんだと思ってた親父もかっちりフリーズしてるし、お袋も口を開けたままポカンとしてるしで。ただ祖父さんだけが一人で黙々飯を食ってたんだよ、一瞬箸を止めただけでな。どれ位の間そうしてたのかは定かじゃないけれど、とりあえず静まり返った茶の間には祖父さんが飯を食う音だけが流れたんだ。茶碗を置く音、箸がぶつかり合う音、みそ汁をすする音、飯が喉を通っていく音、そんなものだな。文学的な情景模写だろ?だけどそんな風にしないとうまく思い出せないんだ。今となっては昔読んだ小説ぐらいにしか思えないほど遠い記憶になっちまった……。とにかく俺は田舎を出ることができた。想像していたよりもずっと穏やかな門出で、拍子抜けしちゃったくらいだ。もしかしたら親も兄弟も、まだいまいちピンときてなかったのかもしれないな。本当に狭い世界の中で生きている人たちだったから。結局駅に見送りに来てくれたのは祖父さんだけだった。人身事故か何かのトラブルがあったみたいで、三十分も遅れたんだけど、その間会話もなく、ずっと二人でホームに立ってたんだ。それはそれは重たい空気だった。また文学みたいな表現になっちまうけど、何だかその重みは、これから自分が捨てようとしている全てのモノたちの重みのように思えたんだよな、本当に。……正直、二度とここには戻らないと決めてたんだ。ああ、これが故郷を捨てるって事かって妙に感傷的になっちまって泣き出しそうになったものな」

 


 彼はそこでおもむろに腕時計を見て立ち上がり、行かなくちゃと言った。気が付けば僕も休憩時間を少しオーバーしてしまっていた。

 

 「すっかり話込んじゃったな。休めなかったろ?悪かったな」

 

 「いえ、どうせ今日は暇そうですし。面白い話を聞かせてもらいましたよ。だけどちょっと中途半端で先が気になりますけどね」


 と僕は笑って言った。

 

 「それもそうだな」


 彼も笑って言った。


 

 話の残りを掻い摘んで話してくれたところによると、万年筆はその時餞別にと祖父から手渡されたらしかった。


 彼曰く、それ程高価な物、というか生活上まるで実用的でない物を祖父が持っていた事に随分驚いたらしい。


 祖父の性格のどこの断片と照らし合わせてみても、使い道のないものをお金を出して買い、所有するだけの道楽心などあるわけがなかったのだ。


 そして一言『どこに行ってもおまえはうちの人間だ』と言葉を添えて、握手を求めてきたそうだ。

 

 「どこにいても俺たちは家族だと言いたかったのか、それともどんなに足掻いても血筋からは逃れられないという意味だったのか、祖父さんが死んじまった今となっては聞く術もないんだけど、ともあれ俺はうちの血筋通りに、昼夜を問わず働かなけりゃ不安で不安で仕方がない人間になってしまった。俺が働き者なのは別に会社のためにとか金のためにとかじゃなく、血統っていうわりと単純な理由からなんだ。まぁ、おかげで会社からは重宝されて悪くない待遇を受けているし、忙しすぎて金を使っている暇もない。今のところ貧乏な血は顔を出してはいない」


 

血筋からは逃れられない。


そう、逃れられる術なんてないんだ。



      *



 今年もいよいよ冬が近づいてきた。


 そして僕とハツミは北海道にいた。


 避暑のためには遅すぎたし、スキーをするにもまだ早かった。


 ちょうど行楽、観光シーズンの狭間の時期、おまけにハツミの幅広いコネクションの甲斐あって、飛行機も宿もビックリするくらい安あがりに済んだ。


 「女優の顔の広さをなめないでくれる?」

 

 と彼女はしたり顔で言った。


 売れる、売れないは別として、確かに業界人なんだなと僕は感心した。


 



 養母の命日が迫っていた。

 


 

 僕が十一歳の時だった。


 その頃の僕は養母の手厚い(ほとんど手荒い)看護の元、遂に虚弱な体質から抜け出し、学校の小さな野球クラブに所属して毎日走り回れるほど丈夫になっていた。


 体調に気を遣わないで思い切り運動できる事が本当に嬉しかった。


 朝早くから日が暮れるまで、僕はとにかく白球を追いかけ回していた。

 

 その日ももちろん夕方まで外に出ていた。


 冬が本当にもうすぐそこまで来ていたので、日が落ちるのも早くなり、外気も相当冷え込んでいた。


 友達と別れ、かじかむ両手をジャンパーのポケットに突っ込みながら小走りに家路についていると、遠目から見た我が家に明かりが灯っていないのに気が付いた。


 街灯も疎らなこの田舎の集落にあって、家の小さく頼りない電灯でも、僕にとっては心細さを取り除いて安心させてくれる大切なものだった。


 何より養母がそこで待っていてくれるはずだった。


 それが今日に限って電気が点いていない。


 おかしいなと思いながら僕は更に足を早め、急いで家に向かった。

 

 嫌な予感はしていた。

 そうあっては欲しくないと願う反面、そうあるかもしれないという悪い想像ばかりが頭を先行した。


 それは本当に手で触れられてしまいそうなほど、リアルで鮮明なイメージだった。

 

 だから冷え切った玄関で養母が倒れているのを目にしても、あまり驚きはなかった。


 想像と現実とがごちゃごちゃに混ざり合い、いまいち目の前の現状が飲み込めなかったのだ。


 それから自分がどうしたのかはよく覚えていない。


 後から皆が話してくれたところによると、僕は自分で119番と、みっちゃんの家に電話を掛けたそうだ。


 住所や名前、状況説明などどちらの電話にもハッキリとした口調で話したらしく、のちに立派だったと皆から褒められた。


 みっちゃんの両親が急いで駆け付けてみると、僕は汗の染みた野球の練習着だけの恰好で、ガタガタ震えながら養母のそばに夢遊状態で立っていたんだそうだ。


 そこだけはおぼろげに覚えていた。


 ふと養母が寒かろうと思い、僕は自分の着ていたジャンパーを養母の体の上にかけてあげたんだ。


 間をおかず救急車が到着し、養母が担架で担がれて運ばれていく様子を虚ろな目で見送った僕は、安心したのか、そのまま崩れ落ちるように卒倒した。


 そして僕らは同じ救急車で同じ病院に運ばれていった。


 一方はもはや息を引き取っていたし、もう一方は肺炎をこじらせて三日間高熱にうなされ、更に四日間眠り続けた。

 

 僕が目を覚ましたのは全てがすっかり済んでしまった後だった。


 通夜も葬式も今後の僕の身受け先も転校の手続きも……。


 


 くも膜下出血だった。


 医師が言うにはその時が訪れたのはほんの一瞬、ほんの閃きだったらしい。


 頭痛などの前兆はあったと思う。


 しかし、養母の事だからきっと我慢していたのだろう。


 苦しむ事もなく潔くきっぱりと、死に方まで養母は養母らしかった。

 

 それでも皆、遺体を焼くのは本当に寸でのギリギリまで待っていてくれたらしい。


 僕が目を覚ましてきちんとお別れを言えるようにと。


 だが、皆の懇意に報いる事が出来ず、僕は昏々と眠り続けた。

 

 その間、僕は長い夢を見ていた。


 目を覚ますと内容は全て忘れてしまったのだけれど、とにかく連続性のある長く静かな色のない夢だった。


 そして僕はこの世で一人ぼっちになった。


 「きっとお義母さんが大事な話をしてくれたんじゃないかしらね、夢という形をとって」


 ハツミが助手席の窓から景色を眺めつつそう言った。


 レンタカーで村に向かう車中で僕はそれまで誰にも話したことのなかった自分の過去について話しをしていた。


 時間ならたっぷりあった。


 有給休暇は一週間も取れたし、僕らの宿から村までは落盤事故の影響で迂回に迂回を重ね二時間はかかるそうだ。


 カーステレオも故障中だったし、重々しく過去を振り返るには絶好のシチュエーションじゃないか。

 

 「大事な話?」

 

 「そう、大事な話。だってあなた一人ぼっちになっちゃうんでしょ?可愛い息子を一人きりで残す事になったんだもの、お義母さんはきっと悔しかったはず。だから魂が現世に留まっている間中、きっと夢の中でたくさんお喋りをしたのよあなた達母子は。これからの人生で語るはずだった色々な事、あなたがこれから生き抜く上で大切な事……。まぁ、話で聞く心優しいお義母さんの性格なら、多分殆どはお説教みたいなものだったんじゃない?きちんと歯を磨けとか、お腹出して寝るなだとか」


 ハツミはくるりと運転席の僕に向き直って明るく笑った。

 

 「よくわかるね」


 僕も笑った。


 「基本大雑把なくせに、妙に小言くさいところがあったんだ。ご飯は三十回噛め、テーブルに肘をつくな、鼻をかむティッシュは三回使え、夜は爪を切るな、だとかね」

 

 「どうりでノリオ君、ご飯を食べるのが遅いわけね」


 そう、今でも僕は養母の教えをそれなりに守りながら生きているのだ。

 


      *

      *

      *

 


 血筋の話を聞いてからというものの、僕はほんの少しだけナーバスになっていた。


 それはだんだんと養母の命日が近づいていたせいでもあると思うのだけれど、少しだけ僕は元気がなかった。


 まぁ、元々弾けるような元気を持っていたわけでもなかったので、日常は別段変わり映えもなく過ぎていった。


 僕一人だけがそんな日常から取り残されていた、というだけだ。

 

 もしハツミがいたのなら、僕の変化に気づいてくれただろうか。

 そしてそれに対して何かしてくれただろうか。


 ハツミはちょうど二つの事務所同士が合同で行う、若手俳優達の演技合宿なるものに参加しなければならず、二週間留守にしていた。


 芸能事務所にそんな大学のサークル活動みたいな催しがあるだなんて初めて聞いた。


 ハツミは面倒くさがって毎回何かと口実をつけてはその合宿から逃げ回っていたらしいのだけれど、今回は同僚やマネージャーに半ば引きずられるようにして連れて行かれてしまった。


 かんねんしてしょげている彼女の小さく丸まった背中を僕は可哀相に思いながら見送った。

 

 それから一週間、毎晩のようにハツミは電話をしてきた。


 話の内容の大半は本当に他愛もない事ばかりだった。


 合宿所の建物の外観や内装についての客観的評価、大浴場のキレイさや共同トイレの汚さについての個人的考察、最終日に近くの大規模老人ホームで舞台をやること、割り振られた役のこと、怒られた演技について、褒められた演技について……。


 時に電話の向こう側から彼女を茶化す声も聞こえた。


 あれだけ嫌がっていながらそれなりに楽しんでいるようで僕はホッとした。

 

 そんな風に一週間が過ぎていった。


 そして残りの一週間はパタリと連絡がこなかった。


 何かしらの事情が持ち上がって電話ができなくなったのかもしれない。


 あるいはもはや僕なんかに語るべきことなどなくなったのかもしれない。


 とても静かな夜が続いた。


 僕はまた一人ぼっちになった。


 

 僕は自分の体に流れる血について思いを巡らせていた。


 正確にはその血をもう少し掘り下げたところ、血統とか遺伝とかDNAについて考えていた。

 


 僕の孤独は一体どこからやってきたものなのだろうか?



 それを突き詰めていくと、やはり生まれ持ったものであるという結論が一番合点がいった。


 では孤独なんていう哀しい遺伝情報を僕に引き継がせた両親、彼らも孤独だったのだろうか?


 はたして今の僕のように薄暗い部屋の食卓テーブルに両手を置き、己の孤独性について深く考え込んでいたりしたのだろうか?


 その人生は幸せだったのだろうか?

 もう孤独ではないのだろうか?


 それとも夜が覆ったこの同じ世界の空の下、未だにどこかで孤独な時間を過ごしているのだろうか?


 わからない。


 僕にはわからない事があまりにも多すぎる。


 それじゃあわかる事はなんだろう?


 それすらもわからない。


 僕の中に流れる赤い血液。


 その箱舟にのって運ばれ続ける両親からの遺伝子は。


 いつだって僕に何も教えてはくれない。



        *


 ……養母が死んでしまった後、僕はこれまで見たこともなかった大都会に引っ越すことになった。


 僕を引き取ったのは見知らぬ人達だった。


 人達という表現も少し変わっているけれど、それは何かの団体といった感じの集まりだった。


 確かに父親や母親、姉や兄のような役割を担う人はいた。

 ペットの柴犬に金魚だっていた。


 しかし、それは決して家庭ではなかった。


 別に特別な祈祷を強いられたり、偏屈な思想を押し付けられたりもしなかったので、宗教的、あるいは政治的な集団ではなさそうだった。


 かと言って孤児を引き取る施設にしてはこじんまりしていたし、肝心の子供は僕一人しかいなかった。


 どちらにしても、あまり余計な詮索をされるのは好まない人達のようだった。


 だから僕も何も聞かなかった。


 とりあえず僕に危害を加えそうな雰囲気でもなかったし、僕さえ出しゃばらず彼らの望み通り沈黙に沈んでいれば、世界の平穏は保たれた。


 それに彼らの正体がなんであれ、僕にはあまり関係がなかった。ただ養母がいない、その現実を受け止めるのにとにかく必死だったのだ。

 

 こんなにも人の死という現実が重く尾を引くだなんて、いつか養母が話してくれた大切な命の重さというものがなんとなくわかった気がした。


 もう少し大きくなるまでの間、僕は床に就くたび養母と二人でいた頃の生活に戻りたいと、時に願い、時に涙したものだった。

 

 ともあれ、彼らが僕の育ての親の半分だった。


 温かくて美味しいご飯、清潔なベッド、まともな学校生活、優しく健全な人達。父のような人は毎朝早くにスーツ姿でどこかに出勤して行き、それに続いて兄のような人が大学生みたいなラフな格好で出て行き、母のような人はエプロン姿に優しい笑顔を浮かべてセーラー服を着た姉のような人と僕の二人を学校に送り出した。


 学校行事にも欠かさず参加してくれた。


 少し大きくなったらささやかだけれど毎月決まった額のお小遣いをくれた。


 みんなで旅行にだっていったし、写真だってたくさん撮った。


 誕生日も祝ってくれた。


 おはようと言えば、おはようと返ってきたし、ただいまと帰宅すれば、お帰りと言って迎えてくれた。


 文句のつけどころのないごく有り触れた中流家庭の風景だった。いや、むしろ恵まれた幸せな風景だったのかもしれない。

 

 級友たちを見れば、貧困に喘いだり、家庭内暴力があったり、もっと複雑に入り組んだ問題を抱えたりしている家の方が格段に多かった。


 そういう点では僕の住んでいたところには何の問題もなかった。


 しかし、問題の有無はともかくみんなが属しているのは家庭であり、僕の属しているのは家庭ではなかった。


 はたしてどちらのほうが幸せなのか、僕にそれを答えられる権利はない。

 

 時は流れ、僕は高校三年生になった。


 夏休みを前にして僕ら五人は食卓を囲み、改まって家族会議(のようなもの)を開いた。


 議題は僕の進路の事だった。


 父(のような人)が代表して口を開き、この先どうしたいのか?と僕に尋ねた。

 

 僕は黙っていた。


 色々と考えていることはあった。


 あの頃のように体も弱くなければ、何も知らない子供でもなかった。


 可能性は無限に広がっていた。

 世界が僕を手招きしていた。


 それにはまず家を出なければはじまらないと考えていた。

 

 しかし、先立つものもなければ、正直躊躇いもあった。


 僕なんかがその可能性のどれかを選り、自らの足で進んで行っていいものなのかどうかと。


 養母といた幼少の頃から今の今まで、僕の体の全ては所詮、血縁関係のない他人に養われ育まれたものだった。


 事情や経緯はともかく、誰かの加護と庇護がなければ、僕の小さな命など簡単に灰となって砂塵と共にどこかへ消え失せてしまったことだろう。


 僕に何かを選り好んでいい権利があるのだろうか?


 僕の思春期はそんな後ろめたさみたいなものを心の筆頭に置きながら過ぎ、アイデンティティーもそれを土台にした上に構築されていた。

 

 だからこの時もやはり僕は何も主張できすにただ黙るしかなかった。


 すると父(のような人)はすっと席を立ち、どこからか持ち運びのできる小さな黒い金庫を持ってきてそれをテーブルの上に置いた。


 五ケタの数字のダイアルが二つ付いていて、彼は何の迷いもなくするするとその二つのダイアルを回し、鍵を開けた。


 そこにはマトリョーシカのように金庫よりももう一回り小さな漆塗りの箱が入っていて、彼は更にそれをテーブルに置いた。


 中にはたくさんの一万円札の束が入っていた。

 

 「ここに五百万円ある」


 と父(のような人)が言った。


 観光案内の看板をそのまま読み上げるような、平坦で厚みのない声だった。


 皆、その五百万円を見つめた。


 そしてひと時、静寂がその空間をいっぱいに満たした。

 

 「申し訳ないが、やはり詳しくは語れない」


 父(のような人)は慎重に言葉を選びながら説明を続けた。


 決して口にされてはいけない幾つかのワードがあり、それでもなおかつ僕にわかり易いように伝えなければと苦心しているのが伝わってきた。

 

 「成人するまでは普通の家族として普通の生活を君に送らせる、それが私たちの課せられた使命だった。もちろん私たちは家族ではなかった。ここにいる五人は言ってみれば赤の他人同士のただの集まりだ。北川昌子さんが亡くなった後、お互いの素性も本名も年齢も、詳しい事は知らされずにただ我々は君を健やかに養い守るという目的だけのために選りすぐられ、緊急に結成された面々だ。それは我々の仕事であり、職務であったわけだ」

 

 彼は箱から五百万円を取り出し、向かいに座る僕の前にすっと置いた。これまでそんな大金をみたことなんてなかったから、これが五百万円なのだと言われてもいまいちピンとこなかった。


 それは単なる茶褐色の紙の束だった。


 本当は六百万円であったり、実際は四百万円しかなかったりしても僕は一生気づくことはなかっただろう。

 

 「このお金を君が受け取った瞬間、我々仮想家族は解散をする。例え成人を前にしてもだ。それが規約だ。君が独り立ちを望み、その能力があると私が判断した場合、その特約は適用される。このお金ははじめから君の物だ。もしも新たな門出が金銭面での問題で阻まれるようであるなら躊躇わずに使ってくれとのことだ。私は、君の能力を認める。どこに出しても恥ずかしくはない一人前の男であると認めよう。……本当にこれまで仕事として私は君と接してきた。至らないところも多々あっただろう。私としてはそれでも世間一般的に理想とされる父親像を精一杯に演じてきたつもりだ。自負みたいなものも及ばずながら抱いている」


 父(のような人)は言葉を詰まらせた。


 何かを言いあぐねているようだった。少しだけうつむき、頭の中で相当葛藤を繰り広げている様子だった。

 

 しかし、結局何も口にされることはなかった。きっと規約のせいだ。だから僕が口を開いた。


 今まで養ってくれたこと、僕の気持ちを察して独り立ちを許可してくれたこと、そして仮想でも幻想でも普通の家庭生活を味わわせてくれたことに深く感謝を述べた。


 男性陣は涙ぐみ、女性陣は憚らずに泣いた。


 僕らは僕らが想っている以上に家族だったようだ。


 そして家族は解散した。

 

 僕は夏休みに入ると同時に遠方の全寮制の高校へと転校し、そこを卒業すると直ぐに例のお金を全額学費に充てて大学に進んだ。アルバイトをこなし、それなりに青春を謳歌し、そして今の勤め先に大して何も考えずに就職した。


 そして、やはり僕の心はいつでも一人ぼっちだった。

 

 それ以来、あの仮想家族達とは会った事がない。

 

 多分、会ったところで何を語ればいいのやら互いに当惑するだけだろう。


 時にあの頃を懐かしく思うこともあるけれど、全ては所詮誰かの大きな手のひらの上で繰り広げられた長い演劇みたいなものだったのだ。


 そう思うととても腹立たしくもあり、それ以上に虚しくもあった。


        *


 ふと目を開けると、そこは僕の部屋だった。


 どうやら昔の事を回想しながら少し寝てしまったようだ。


 カーテンを引いていなかった窓から月明かりが挿し込んで部屋中を満たした。


 隅々まで照らし出された僕の部屋は全ての輪郭が妙にくっきりと浮き彫りになっていて、なんだか居心地を悪くさせた。


 食器棚も電子レンジも観葉植物の鉢も、皆が皆、自分を主張していた。


 その押し出しの強さに、鬱々とした僕などあっという間に弾かれて追い出されてしまいそうだった。


 結局、僕は一体何者なのだろう?

 僕はどこからやってきて、これからどこへ向かおうとしているのだろう?


 この先も今までも、眺める景色の何もかもが不透明だった。


 それは多分、僕自身が何よりも一番不透明だったからだ。


 本当にわからない事が多すぎた。


 しかし、こうやって悩むたび、わからなくても構わないさと居直ってやり過ごしてきた。


 怖かった。


 不透明な世界に慣れ過ぎた僕は、何かをはっきりさせるのが怖かった。


 愛情も友情も喜びも悲しみも不透明にしておくほうがいいんだ。


 ……もしも暴かれた真実なり答えなりに一突きでもされようものなら、こんな不完全な僕など粉々に砕け散って二度とは組み立てられなくなってしまうのではないかと本当に怖かった。


 ……本当に、怖かった。

 

 「僕は一体何者なんだろう」


 僕が思わずポツリとこぼした言葉に「あなたは北川教生君。私が心から愛する人よ」と背後からハツミがそう答えた。

  

     *

 


 「ごめんね、ずっと連絡ができなくて。私の携帯電話、一体どうしたと思う?なんと合宿所のすぐ裏にある山から下りてきた野ザルの群れに私たちの部屋が襲撃されて、携帯入れたポーチごとどこかに持って行かれちゃったのよ。他には簡単なメイク道具と小銭入れだけしか入ってなかったんだけど、なんでわざわざ私のポーチなわけ?他の子が置いていたお菓子とかパンとか食糧はちょっとその場で摘まんだだけで置いて行ったくせに」

 

 「……なるほど、アイライナーを引いた可愛らしいメスのサルから毎晩ラブコールがきてたのはそのせいか」


 と僕は言った。けれどハツミは笑ってくれなかった。

 この手の冗談が大好きないつもの彼女なら、必ず楽しそうに笑ってくれるのに。


 「本当なら最後にもう一泊して合宿の打ち上げみたいなことをやるんだけれど、あなたが心配しているだろうなって思ったから舞台が終わってすぐに急行に飛び乗って帰ってきたの。替えたばかりのあなたの携帯番号だって覚えてなかったしね。そうしたらカギは掛かってないし、部屋は暗いしでビックリしちゃった。まさかこんなところで腕組んで寝てるとは思わなかったものね。それでしばらくあなたの後ろに座って背中をじっと見ていたの。そうしたらふとあなたは目を覚ましてぐるりと部屋を眺めたわ。全然後ろまで気が回っていないようだったけどね」


 「すぐに起こしてくれればよかったのに。変な寝方をしたせいか腰と首が痛いよ」


 僕が平然を取り繕えば取り繕うほど、ハツミの顔は真剣みを帯びてきた。


 こんな顔をする彼女を初めて見た。


 だから僕は「大丈夫、何でもないし、何もなかった。心配をかけてごめん」と真面目に言った。


 「あなた私の事、愛してる?」


 ハツミは唐突にそう言った。やはり冗談を言っている風の表情ではなかった。


 「もちろん愛してる」


 僕は即座に応えた。


 「本当に?」


 彼女は表情を変えずに真っ直ぐ僕の目を見つめて問うた。


 あまりにも真っ直ぐ過ぎた。


 だから僕は、それ以上何も言えなくなった。何故言えないんだ、僕はハツミを愛しているはずだろ?


 「それじゃ、今まで愛したものはある?」


 僕は何を愛してきただろう。


 そんなものがあっただろうか?


 いや、一つだけある。

 でもわからない。

 僕には何もわからない。


 僕は黙っていた。

 また黙るしかなかった。


 そうやっていつも僕は確かなものから背を向けて逃げてきたんだ。


 その確かなものが確かじゃなくなるのが怖かったから。

 


 「私はあなたを愛している」

 

 ハツミが言った。


 その声はとても優しく、とても穏やかだった。


 まるで孤独と寒さに震える僕の心に温かな毛布をふわりと掛けるように。


 ハツミはいつだってこんな風に僕に優しかったんだ。

 

 「私はあなたがこれまでどんな人生を歩んできたのかわからない。何を思い、何を感じ生きてきたのか全然わからない。そしてあなたも私の事をわからない。何を考え、何を感じているのかわからない。それはそうよね、あなたは私に何も語ってはくれないし、私に何も聞かなかった。楽しい冗談やその場を和ませる素敵な言葉はたくさん言ってくれたわ。今だって私に心配をかけないようにって無理に明るく誤魔化したでしょ?そんな風にいつでも自分の辛さや痛さを他人には気づかせないようにしてきたんでしょ?私にはそれがわかる。あなたは優しいから、みんなに気を遣いながら生きてきたのね、無理に感情を抑え込んで。でもね、その優しさがいつの間にか、誰にも本心や想いを伝えられない孤独な心を作ってしまったの。あなたが誰かに気を遣えば遣うほど、優しくなればなるほど孤独はあなたの中でどんどん育まれていった。そしてあなたは無意識のうちに他人を避けるようになった。他人なんかに興味はない、他人なんて俺をいいだけ振り回して疲れさせるだけなんだ、俺の想いも知らないクセに……日に日に大きくなっていく孤独感はそんな風に人に対する不信感へとすり替わっていったのね。人は外に外に向かって行く。喜びも悲しみも踏み越えながら明日へ明日へと向かって行く。そうやって人と人とは迷惑をかけ合ったり、裏切り合ったり、傷つけ合ったり、そしてもちろん愛し合ったり、支え合ったりしながら、それでも生きていくの。それが生きるっていう事なの。でもあなたは違う。あなたは一人みんなとは逆行して内へ内へと進んで行く。誰にも迷惑をかけたくない、裏切りたくない、傷つけたくないって言ってどんどん自分の世界の中へ引っ込んで行く。あなたは自分で自分の孤独を掘り進んでいるの。つるはし一本持って暗い暗い地底へと向かってただ一人」

 

 過呼吸の発作が起きそうだった。


 体の弱かった小さな頃、何度も経験したからその気配に僕は敏感だった。


 だけど絶対に発作を起こすわけにはいかない。


 何故ならハツミに迷惑をかけてしまうから。


 もう、誰の世話にもなりたくない。僕は僕の足で歩いて行くんだ。


 「あなたは愛さえ見失った」


 ハツミは僕に構わず続けた。


 声により温かさを含ませて。


 「これまで愛した人も愛された人もいたはずよ。あなたはそれを大事に大事に守ってきた。心のどこかにある、誰にも奪われたり犯されたりされる心配のないところ。それでいていつでも手に取って眺められて素敵な気持ちにさせてくれるところ。その愛を拠り所に生きてきた。でもあなたの孤独はそれすらも疑わしく思わせた。あの思い出は所詮、精巧に作られた偽物ではないだろうか?あの溢れ出すような愛は全て嘘だったのではないだろうか?俺は結局誰にも愛されず、そして誰も愛さずに生きてきたのではないだろうか?そしてこれからもそう生きていくのではないだろうか?それならば俺は一体なんなんだ?俺は何のために生まれてきたんだ?俺は生きていてもいいのだろうか?たくさんの人や愛を踏みにじってきた俺に、幸福や愛情を求める資格なんてあるのだろうか?」

 

 ぶるぶると震える僕の手にハツミはそっと自分の手を重ねた。


 僕が迷ったり混乱した時、ハツミは必ず僕に道標を与え、そして待っていてくれた。

 

 ―― 私は待っているから ――


 「あなたは北川教生、クールで女の子みたいに綺麗な顔立ちとは裏腹な下らない冗談とキザな台詞を生産するのが得意で、コーヒーとお酒が大好きなごくごく平凡な孤独癖のあるサラリーマン、未婚、もったいないくらいの知的ですらりとしたモデル系美女を彼女にしている……。それがあなた。何のために生まれてきたか?多分、それは誰にもわからない。私もわからない。だから生きているの。生きていくっていうのは生きていくその意味を永遠に探し歩く事なんじゃないかって私は考えている。だからあなたも生きていていいの。生きて自分の生きる意味を見つける旅に出かけるの。そして誰に気兼ねすることなく幸せになっていいのよ。あなたが人を傷つけてきた分だけあなたも傷ついた。もしかしたら過分なだけ償ってきたかもしれない。だからもういいの。あなたにはもう幸せになっていい資格がある。もう自分の幸福だけを考えていいの」


 そう言い終えると、ハツミは僕の傍から離れた。

 僕らは見つめ合った。

 

 僕はまだ震えていた。

 ハツミは微笑んでいた。

 

 「私は今からあなたの前からいなくなるわ。私ができる事はもうないから。これ位が限界。言いたいことも言えたし、多分ちゃんと伝わってくれたと思う。だからもう私がいなくても大丈夫、このまま静かに消えていくわ。あなたの孤独とゆっくり腹を割って話してごらんなさい。もしそれでも独りを選ぶのならそれはそれ。私にはもうどうする事も出来ない」

 

 じゃあね、と最後にハツミはニッコリ笑った。


 そしてくるりとコートを翻して、玄関へと向かった。


 ハツミは行ってしまうのだ。


 彼女がそう言うのであれば、本当に彼女は消えてしまうだろう。


 僕の人生から永遠に。

 赤いコートの揺れる背中を僕は力なく見つめた。

 

 幾分、収まりはしたけれど、それでもまだ体は震えていた。


 こんな去っていく背中をこれまで何度見てきたことだろう。


 そしてその度に僕はどうしてきただろう。


 ハツミが去っていく。


 ハツミが僕の傍からいなくなる。


 僕はどうすればいい?

 僕はどうしたい?

 僕はどうしたいんだ?


 「……いかないでくれ」

 

 小声でそれだけを口にした。


 とても早口に言ったので聞き取れなかったのではないだろうかと思った。


 前にもこんな事があった。


 僕がようやく絞り出した頼りない本音は、やはりあの時と同じように確かに彼女に届いてくれた。ハツミは足を止めた。

 

 「いかないでくれ、ハツミ」


 僕はもう一度、改めてはっきりとした声で言った……つもりだったのだけれど、今度は半分涙声だった。

 

 「もう……僕を……ひとりにしないでくれ」


 僕は泣き出しそうだった。


 そして彼女のところに駆け寄ってその背中を抱こうとした。


 しかし、それよりも早くハツミの方が僕に走り寄り、思い切り抱きついてきた。飛びついてきたという表現の方が正しいかもしれない。


  「もっと早くに引き留めなさいよ!!もうちょっとで本当に出ていくところだったんだからっ!!」


 確かにその足の片方にはもうパンプスを履いていた。


 ハツミも泣いていた。

 僕よりももっと本格的に大泣きしていた。


 そうなってくるとやはり僕が彼女をあやさなければならず、ごめん、ごめんと彼女の頭を撫でた。


 もちろん僕の涙は必然的に引っ込んでしまった。

 

 先程よりも強くなった月明かりは一段と部屋を明るく照らした。


 ヘタな電灯を点けるよりよっぽど明るかった。

 

 更にエッジが強調された部屋の備品たちであったけれど、もうそこに敵意はなかった。


 きっと僕が彼らを受け入れたからだろう。

 

 「前から君に言いたいことがあったんだ」

 

 僕はハツミの頭を見つめながら言った。

 

 「なぁに?」

 

 「嬉しいかどうかわからないけれど」

 

 「うん」

 

 「君の頭のつむじはいつ見てもキレイだ」

 

 「……うん」


 ハツミは抱きついた腕の力を一層強めた。


 僕も頭を撫でるのをやめて両腕で彼女を抱いた。


 本当に脆くて崩れやすそうな小さな体だった。


 絶対に壊してはいけないし、犯されてもいけない、これは大事な物なんだと思った。

 

 そして僕はもうひとつの大事な物のところに行かなくてはならない。


 「墓参りに行こうかと思ってる」

 

 「どこまで?」

 

 「僕のふるさとまで」

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