坂口家《美紗と孤独》

 坂口家の家政婦、北川昌子まさこはそのお世辞にも長いとは言い難い二本の足を、それでも一生懸命にせこせこと運びながら、屋敷の本館まで急いだ。


 パカパカと遊びの多いサンダルをつっかけた足で走るのはなかなか難儀であったのだが、昌子にはそんな事を気にしているだけの余裕はなかった。


 彼女の頭は、たった今坂口美紗から託されたばかりの大事な任務を滞りなく遂行しなければという使命感でとにかくいっぱいだった。


 ただでさえ広い屋敷だ、けっこうな距離を移動しなければならなかったのだが、その道すがら言付かった言葉の一字一句取りこぼしてはいけないと、何度も何度も口の中でブツブツと復唱していた。途中幾人かの人とすれ違い、さらにその中の幾人かは声を掛けてきたりもした。


 しかし、昌子の目には何も映らず、その耳には何も届いている様子はなかった。道行く彼女のずんずんと力強い足取りを止める事など誰にもできなかった。

 

 彼女を駆り立てるモノ、それはひとえに坂口美紗への健全なる忠誠心に他ならなかった。

 

 ちょっとした縁が元で、中学の卒業と同時に故郷である北海道の小さな山村からこの遠く離れた坂口家に住み込み奉公に出されてからはや幾年月。


 持ち前の負けん気とふくよかで健康な肉体、そして何より大きく清らかなその御心でもって、彼女はただひたすらに坂口家のために奉仕してきた。


 不平も不安も述べず、贅沢もせず、ロクな色恋だって経験しないまま気が付けば年齢も中年の域にまで差し掛かっていた。


 坂口の家で起こった出来事は大概見てきたし、これからも終生見続けていくつもりであった。


 一介の地主が新興財閥の仲間入りをするまでに発展していったその過程を、昇竜のごとく日本の経済界を駆け昇っていったその様を、彼女は確かに自分の目と耳で見聞きし、寄り添い、共に歩んできた。


 もしも坂口家の歴史を一つの本として編纂して語ろうとする時、彼女は欠かすことのできない生き字引の一人として必ず何かしら貴重な証言を我々に提供してくれたことだろう。

 

 ただの腐れ縁なのかもしれない。


 しかし、とにかく北川昌子は誰よりも密接に坂口家と関わりあった他人であり、そして誰よりも……当の坂口の人間も含めて坂口家に尽くし、愛した人であった。


 その見返りとして十分に愛されたのかと言われれば、即座に首を横に振らざるを得ないのが少しだけ哀しい気もするが。


 

 その中でも格別の忠義を尽くした相手、それが坂口美紗であった。

 

 美紗が嫁いでくることに決まり、正式に屋敷へと越してくるまでのほんのひと月あまり、使用人達の間で交わされる会話といえば、彼女に関する噂で持ちきりだった。


 噂話の常として、飛び交う情報の殆どは根も葉もない全くの嘘か、事実を大げさに誇張したり極端に歪めたりしたものだったが、そのどれもが一貫して伝えようとしていたのは、やってくる花嫁は結構なやり手だということだった。


 そもそも誰もが恐れおののく坂口章吾の妻になろうとする人物だ、良くも悪くもきっと普通の神経の持ち主ではないんだろうというのがどの噂の根底にあった。


 昌子は性格上、話題の当事者が目の前にいないのにひそひそと裏で囁かれる噂話とか陰口だとかいう類のものは卑怯な行いだと生理的に毛嫌いしていたが、皆口を開けばこのことばかりであったのだから、彼女の耳にも否応なしに先入観を煽りたてる数々の情報が入ってきてしまった。

 

 ―― 確かにちょっと変わった章吾坊ちゃんのお嫁になろうだなんて……どんな娘か気にはなるさね、そりゃ ――


 そしてとうとう屋敷へとやってきた新妻を実際に見た昌子は、事前に抱いていたイメージ以上に強烈な印象を受けた。


 はじめに使用人や坂口家の人間を何人か伴ってぐるりと屋敷を見て回ったのだが、目に映るあらゆるものを軽蔑しているような、もしくは手に触れる全ての物を軽んじているような、終始寡黙に徹した坂口美紗の所為のいちいちには何かしら含みが混じり、彼女はそれを隠そうともしなかった。


 そこに居合わせた誰もがそう感じるほどにあからさまなものであった。


 その態度が一番顕著だったのは、これ見よがしに建物や調度品を自慢気に話す坂口家の人間に対した時だろう。


 言葉にこそ出さなかったが、小さく愛想笑いした彼女の口元は『そんなもの普通よ、何を誇らしげな顔して説明しているのかしら』という風な人を食った空気を醸し出していた。


 自分は決して坂口の家に引けを取るような生まれではない、高い教育を受け、確かな品位だって備えている、何も知らない小娘だと思って見くびらないでほしい、とでも言いたげに。


 昌子は驚き、なによりも感心した。


 一体この華奢でか弱そうな体のどこからこれ程までに強く気高い意志が生まれ出でるのだろうと。


 聞けばキャリア官僚として全国の猛者ばかりが集まった男社会をその身一つで駆け巡り、社会の最前線の先頭に立って活躍しているエリートだそうだ。


 すらりとした体躯、その上に添えられた端正な顔、男たちをばたばたとなぎ倒していく明晰な頭脳、華族として自然に備えたとてもスマートな品格、確固たる自信に裏付けされた確固たるプライド、そして精神のず太さ……。


 ずいぶん生意気で居丈高な態度であったが、昌子の目にはそのどれもが輝いて映った。


 センセーショナルだったと表現してもいい。


 同じ女として、同じ人として、美紗は自分にはない物を備えていた。


 それも自分には一生かかっても手に入れる事の叶わないであろう崇高な物を。


 昌子は坂口美紗の強さを純粋に尊敬した。素敵な同性の先輩に憧れる女学生のように。

 

 当然と言えば当然の事だが、皆が皆、昌子のように清く可憐な生娘であるわけにもいかず、屋敷での美紗の評判は早々に剣呑なものとなった。


 その後も彼女は坂口章吾の妻という絶対的な立場、その肩書がこの家でどれほど有効に働くのか容易く見抜いていた彼女は、気ままにそれを振りかざし、使用人や坂口家の人々の肝をヒヤリとさせた。


 そんな彼女に誰が好感を持てるというのだろう?可愛げがないだとか、ずいぶん偉そうで威張ってるだとか、とても多くの陰口がとてもとても小さな声でたたかれた。

 

 そんな囁きもやはり昌子の耳に自然と聞こえてきた。


 何かと坂口美紗の世話をかってでる昌子に対し、ロクな事にならないから必要以上に彼女と関わり合わない方がいいと忠告してきた人も一人や二人ではない。


 しかしその度に昌子は「みんなが思ってるほど悪い人じゃないよ。きっと誤解されやすい人なのさ」と、大きく笑ってみせてあしらった。


 もしもあの時……教生をお腹に宿した美紗が急に産気づいたあの時、側に誰も人がいなかったのならば。


 そこにいたのが昌子ではなく他の使用人であったのならば。


 昌子が清い人間でなかったのならば……元来『たられば』というものを突き詰めてみたところで切りがないという事は百も承知なのだが、それでもあえて言わせてもらいたい。


 北川昌子という無垢で素朴でどこかチャーミングなこの女性が、もしもこの世に存在しなかったのならば、私が語る話はもっと趣の違うまったく別の物語になっていたはずだ。


 

 昌子は家の者が皆一堂に集っている大広間の大きく重厚な扉の前までやってきた。


 屋敷と離れとを走って往復し、どちらの道も大事な事柄を伝えなければならないという強いプレッシャーを胸に抱いたまま進んだその疲労感が、ここにきてどっと昌子の体を捉えた。


 その場に屈みこみ、額に滲む粒の大きな汗をエプロンのポケットに入れていた手拭いで抑え、荒ぐ呼吸が落ち着くのを目をつぶって静かに待った。


 「やっぱり運動は苦手だよ」


 と彼女は思わずひとりごちた。

 

 扉の向こうに大勢の人間がいる気配が窺えた。


 防音機能に優れた扉であったのだが、ざわざわという喧噪がくぐもりながらも確かに漏れ出ていた。


 おそらく屋敷中の人間がこの大広間に介しているのだろう。


 その言葉にならない言葉が幾重にも重ねられて生まれ出でたざわめきは、昌子に鈴なりにたかった無数の虫を連想させた。


 小さくて黒くて硬い甲虫がうごめき、互いにぶつかり合いながらも一所に固まっているような、それでいてまるでまとまりを感じさせず、個々が勝手気ままにわさわさ忙しなく動いているような、そんなあまり愉快とは言い難い想像が、疲れた彼女の顔をしかめさせた。


 そこまで悍ましいものではないにせよ、実際扉の向こう側の惨状を説明するとなると、昌子の想像もそれなりに的を射ている事がわかる。

 

 坂口章吾の連行という大きな衝撃の余波に、集った二十人余りの人々は右往左往、てんやわんやとまるで統率を欠いていた。


 誰かの焦りが誰かの怒りを助長し、その誰かの怒号が誰かの悲しみを誘発し、そんな誰かの嘆きが誰かの焦燥感を募らせた。


 お互いの感情を触発し合うそんな負の連鎖反応が、出口のない無限ループのようにこの締め切った部屋の中で、朝から同じ調子で繰り返されていた。


 いや、同じではない。

 より一層混乱の度合いが増したようにさえも見える。


 何度も何度もループを重ねるうちにそれらはだんだんと加速して熱を帯び、大きく膨張し、もはや混濁は弾け飛ぶ臨界点ギリギリのところにまで達していた。


 あとほんの少しでもその背中を押しさえすれば、その場で米騒動やら何某革命やらが起きていても決して不思議ではなかった。


 それくらい人々の精神は窮々と絞られ、追い詰められていた。

 

 坂口章吾という存在がどれだけこの家の者達に影響力があるものなのか、どれだけ坂口章吾が絶対的で唯一無二の羅針盤、神にも等しい専制君主であったのか、我々はまざまざと再認識させられた。


 事実この頃では、人々は何をするにもいちいち坂口章吾にお伺いをたてなければ何一つ決断できないという情けない有様にいたのだ。


 ビジネス上の話や今後の坂口家が向かうべき方向性、屋敷の内装の修繕から果ては夕食のメニューに至るまで、彼が否と言えばそれは断固間違った悪しき選択肢であり、その場で即座に火をくべられて焼き払われた。

 

 彼が良と言えばそれはどんなに優れた法典よりも皆を正しき道へと導いてくれる高尚な希望の光となった。


 昌子は小さく身震いをした。


 内部に渦巻く強大な負のエネルギーは、この重たい観音開きの扉越しにですら構わず作用してくるようで、昌子の勇気を容赦なく削り取っていった。


 自分にそんな大層な事が出来るのだろうか?


 中には当主はじめ、たくさんの人がいる。そんなところに単身突入し、風穴を開けなければならない……日頃、豪胆な昌子も、さすがに逃げ出したくなるような強い不安に駆られ、怖くなった。


 彼女の心の中を、その人生において最初で最後の臆病風が吹き抜けた。

 

 それでもやはり昌子は忠義の人であった。


 圧力に萎えそうになった気持ちを自力で立て直し、顔を上げ、真っ直ぐに扉をにらみつけた。負けてなんていられないと思った。

 

 ―― 今私が逃げ出したら、あの気の毒な母子はこの先どうなってしまうんだろう。美紗さんの言うとおり、いずれ二人は必ず引き離されてもう二度と顔を合わせる事は出来なくなるような気が私もする。あんなにたくさんの愛情を持った母親から無理矢理子供を取り上げ、愛情の欠片もない父親の元にその子を置くだなんて、そんなの間違った事じゃないか。私には難しい事や、ややこしい事情まではわからない。だけど私がうまくやれば、二人はずっと一緒にいられるんだ。……頑張んないとね ――

 

 昌子は力強く扉の取っ手を握りしめた。


 その口元には小さく笑みすら浮かんでいた。


 敵陣へと単身斬りこんで行こうとする勇猛な武将の背中よりも、その時の昌子の薄笑いの方があるいは揺るぎない決意というものをより強く滲ませていたかもしれない。

 

      *

      *

      *

 

 昌子を送り出した後、坂口美紗は腕の中で眠ってしまった教生をベビーベッドに寝かせ、自分もその縁にそっともたれかかりながら目をつぶった。


 決して眠ろうとしていたわけではない。


 彼女はただ頭の中を少しだけ空にしたかったのだ。

 

 考えることをやめ、想像することをやめ。

 女であることも母であることも人であることですらもやめてしまい、美紗はただの名もなき無となりたかった。


 そうする事が必要だった。

 ほんの束の間でいい、洋上を漂う一片の木の板のように、大空をさすらう小さな雲のように、ただ時間の流れに身を預け、自分が坂口美紗であるということのスイッチを少しの間だけオフにして、何者でもない、そんな別の次元の中で静かに休みたかったのだ。


 美紗の三十年余に亘る人生において、安息の時が訪れたことなどただの一瞬たりともありはしなかった。


 決して誇張して言うわけではない。


 昼夜を問わず彼女は常に何かに追われ、何かを追いかけ続けていた。


 時に善、時に悪、そして時にそのどちらをも越えた何かを相手にして。


 海運業界の雄として、坂口家と並ぶほどの財をなすとても裕福な家に生まれた美紗であったが、彼女には両親に愛されたという記憶が一つもなかった。


 物質的には何の不自由もなく、欲しいものは欲しいだけ以上にいくらでも手に入った。


 しかし、親からは構われず、言葉も掛けられず、一緒に過ごす時間も殆どなく、親から子へと当然注がれるべき無償の愛というものは一般的な家庭のそれと比べてかなり稀薄であった。


 そもそもが彼女の父母のどちらも人の親になどなりようがない種類の人間だった。


 自分達の事だけで精一杯、他人を気に掛けられるだけ(例えそれが実子であったとしても)の度量も余裕もまるでなく、世間的な評価や地位、周りから自分たちの家はどう見られているのか、誰かに笑われてはいないだろうかと、そんな事ばかりに気を取られて生きている人達であった。


 それでもほんの僅か、その狭心の中にしとやかに親心が芽吹いていないでもなかった。


 しかし、それはすべて後継ぎとして期待された二つ上の兄のために注がれるだけですぐに枯渇し、美紗には一滴のおこぼれさえもなかった。


 娘にはとりあえず物さえ与えておけばそれで親の義務は果たしているだろう、それが彼らの備えた倫理感の限界だった。


 その娘が深刻な心の闇を抱え、どんなに辛そうな顔で目の前に立っていたとしても、彼らの眼中に入り込むことは決してありはしなかった。


 

 美紗は元来、笑顔の絶えない活発な女の子であった。


 男の子に混じって外を駆け回って毎日体中を泥だらけに汚しながら遊び、よく食べ、よく眠る子だった。


 周囲によく気を配り、落ち込んでいる人や悲しんでいる人がいたのならまるで自分の事のように胸を痛められる優しさ、他人を心から愛すことのできる温かさがあった。

 

 そしてとにかく両親を一番に愛していた。


 幼子が親を強く慕うのになんの不自然もない。


 顔を合わせる機会すら稀なうえに、美紗をまるで実子とは思っていないかのように冷たくあたる両親の心をなんとかして射止めたいと、美紗は彼女なりに手を尽くした。二人の似顔絵を描いてみたり、用もないのに寄り添ってみたり、覚えたての平仮名で家族の名前を書いてみせたり……。


 しかし、どれも両親の心を震わせることはついぞできなかった。


 それは画策の稚拙さが招いた結果ではないのをあえて補足しておきたい。

 

 明るく振る舞ってはいたが、もちろん美紗は寂しかった。


 そんな募り募った寂しさからか、物心ついた頃にはもう美紗はある精神的な疾患を内に宿しながら生きていた。


 それは幻覚や幻聴だった。


 その道の専門医に診せたわけでもなかった(誰も気づかなかったため)ので正確なところはわからないが、日々の寂しい現実から逃れるための防御本能から紡ぎだされたものだと思われる。


 とにかくふと気が付くと、疾患は当たり前のようにそこに居た。


 あまりにも自然に馴染んでいたもので、美紗ははじめ、何の違和感もなくそれを受け入れていた。


 それどころか愛らしいクマのぬいぐるみをかたどってみたり、絵本の中に出てくる優しいお姫様になってみたりする幻覚や幻聴を楽しみさえしていた。


 暗い夜にはずっと側にいて励ましてくれた。


 嬉しい時には一緒に笑って喜んでくれた。


 美紗はそれを双子の姉妹のようにさえ感じていた。

 母親の胎内の中で共に育まれ、共に生まれ出でた仲の良い同志のように。

 

 しかし、年月を重ね成長するにつれ、知識や常識、アイデンティティーなどが備わるにつれて、美紗はそれが普通の事ではないのだと徐々に感じはじめてきた。


 その側に寄り添う何かはどうやら自分自身が内側で作り出した幻で、他の人には見えも聞こえもしないものらしかった。


 そして意識をし始めたこの頃から、幻が現れる頻度が格段に多くなった。


 しかも浮かべるその表情は固く強張ったものとなり、美紗を見つめるその視線はとても冷ややかだった。


 語りかけてくる言葉の内容も陰湿でネガティブなものばかりとなり、そこに以前までの親密な温かみは少しも見受けられなかった。

 

 言い知れぬ恐怖を感じ始め、いよいよ耐え切れなくなったある日、堪らず親や周りにいる大人達に相談し、助けを求めた。


 自分にはこんなものが見える。

 こんな風に囁きかけられる。

 怖くて怖くて仕方がない、と。


 もちろん彼女は真剣だった。

 必死で訴えたつもりであった。


 しかし、なにぶん舌足らずな幼子、まともに取り合ってくれる大人など一人もいなかった。


 笑って済まされるかたしなめられるか、そのどちらかだった。


 それどころか両親に至っては、くだらない遊びなんかしてないで勉強をしろ、我々の役に立つよう早く大きくなれ、貴重な時間を無駄にするんじゃないと激昂した。


 父は彼女の頬をしたたかに打ち、母はそれを見て見ぬふりで決め込み、兄は可笑しくて笑い出したいのを必死でこらえている様子だった。


 父の手は決して躾のために振り上げられたものではない。

 それは日々の苛立ちにまかせた、何の意味もないただの暴力であった。

 

 美紗は呆然としたまま自室へと退いた。

 

 後ろ手でドアを閉めたバタンという音と同時に、彼女は空気でも抜けていくかのように力なくそのままその場にへたり込んだ。


 哀しいはずであった。

 何かとても哀しい出来事が起こったはずであった。


 しかし一体何事が起ったのだろう?

 美紗は状況がまるで飲み込めなかった。


 幼い少女はただ怖くて、守ってもらいたくて、愛してほしくて本気で大人達にすがっていった。


 大きく頼もしい大人の腕に抱かれ、何も怖がることはないのだと頭をなで、あやしてもらいたかった。


 それだけだった。

 それだけが小さな美紗の小さな小さな願いだった。

 

 ―― 私は一人ぼっちなんだ ――


過去を振り返えってみると思い当たる節の数々が次々と彼女の頭をよぎり、あっという間に満たしていった。

 

 両親に思い切り甘えたことなどあっただろうか?

 

 美紗はいつかアニメ映画で観た深く暗い魔女の住む森の中で、一人迷子になったような気分だった。


 助けを呼ぼうにも森はあまりにも深く、白く立ち込めた霧はあまりにも濃密だった。


 さ迷い歩くほどに外界からはどんどん遠ざかっていき、無力感と絶望感と孤独感は募っていく一方であった。

 

 ―― 誰も信じてくれないんだ、お父さんもお母さんも私の事が嫌いなんだ、私には味方してくれる人なんて誰もいないんだ…… ――

 

 生気の抜けた瞳の片側から、涙が数粒こぼれ落ちてきた。


 それは叩かれた頬の側だった。


 心なしか腫れあがり、赤く微熱を帯びた彼女の頬をいやらしく舐めまわすように、涙はゆっくりとつたっていった。


 ひりひりとした現実的で実際的な痛みが、先ほどの出来事は夢などではないのだと冷たく主張していた。



 それからせきを切ったように美紗は大声で泣き叫んだ。


 今まで我慢し、幼い胸の奥に追いやってきた感情が一気に逆流したようだった。


 前のめりになって床に這いつくばり、激しい嗚咽を何度も繰り返し、体中の水分が涙や鼻水やよだれとなって外に流れ出た。


 多少、失禁もした。


 過呼吸になり、酸欠のため意識もだんだんと薄らいでいった。


 美紗はとても惨めな気持ちになった。

 色々なものに対する怒りだって込み上げた。


 哀しみの発露はとめどなく、とめどなく続いた。


 そんなもがき苦しむ美紗を見つめるものがあった。


 ……美紗だった。


 美紗の姿をそっくりそのまま模したものがじっと彼女を見つめていた。


 朦朧とする意識の中、美紗とそれとは目があった。


 蔑むでも同情するでもなく、それは傍観よりももっと外郭的な立場から眺めているかのように平坦で、まるで無関心、まるで無感情な表情を浮かべて静かに佇んでいた。

 

 『わかったでしょ?あなたに味方なんていないのよ、誰一人』


 もう一人の美紗がポツリと、しかし確信的にそう呟いた。


 「……私はどうしたらいいの?」


 もう一人の美紗もポツリと、しかしこちらは力なくそう呟いた。

 

 返事はなかった。


 誰も答えてはくれなかった。

 誰もそこにはいなかった。


 なにせ美紗は一人ぼっちだったのだから。



       空白

         空白

           空白


  ……意識が戻り、ほどなくすると、そこには気を失う前とは明らかに違う自分がいることに美紗は気が付いた。


 頭が妙にすっきりとしていた。

 すっきりし過ぎているくらいだった。


 まるで心が平坦に均されたような気分だった。


 こうして美紗の心は閉ざされた。


 もう他人には何も頼らないと決めた。

 そのためには強くならなければいけないと考えた。


 そして心に固く重たい錠をおろし、誰も信じず、誰も愛さず、孤独に気高く生きて行こうと決意した。


 これはまだ十歳にも満たない小さな女の子が掲げた志の話だ。


 無知で脆弱な子供がその身一つで世界を生きゆこうと志す事がどれ程間違ったことで、歪んだことであるのか、容易に察してもらえると思う。


 美紗は自身でもそれが相当困難な道のりであると重々承知していたが、それでも彼女に躊躇いはなかった。


 あてにならない信用、にべもなく撥ねつけられる愛情、その辛さに比べたら、と。

 

 歪みを修め、正してくれるものも現れないまま、美紗の暗澹の日々はあっという間に過ぎて行った。


 勉学、運動、容姿、そしてその他考えつく限りのもろもろ全てを対象に美紗はとにかく自らの隙を埋めていく作業に没頭した。


 それが強くなるという漠然としたイメージにモーションをかけていく手始めだった。


 ほんのわずかな隙間も見逃さず、許さず、苦手なものや弱点となりうるものを見つけては妥協の余地なく潰し、美紗は完璧を追及した。

 

 はた目からは実にスマートで素晴らしき人生のように写ったかもしれない。


 家は裕福、明晰な頭脳を持ち、整った顔としなやかな体躯を兼ね備えたうら若き娘に、人々はどのような翳りを見いだせるというのだろう。


 美紗はどんなに辛辣で激しい内なる葛藤も決して外には出さなかった。誰かに同情されたり優しい言葉をかけられたりなどされたくなかったからだ。


 それは彼女にとって一つの敗北を意味した。

 そしてその敗北は、彼女にとって死にさえも等しかった。


 感情を抑え、表情を殺し、信じる事も愛することもやめ、人が自分に歩み寄ってこないように拒み、避け続けた。


 もちろんこうやってさらりと書き連ねるほどその作業は生易しいことではなく、美紗は日々、相当量の精神力を消費することとなる。


 その代償として、あの闊達だった美紗の顔からはますます表情や感情が削り取られていった。


 それはまるで鉄仮面の下に全てを隠していくかのようだった。


 言うなればそれが第二期の美紗だ。

       

 ……ちなみにあの日を境に幻覚や幻聴は無機質な残響だけを残してピタリと現れなくなった。       


       *



 美紗十九歳、大学二年になったある日、突然彼女は両親から今後の進路について問われた。


 いや、その時の両親の口調は問うと呼ぶには程遠く、もはや大昔から約束されていた九十九パーセントの決定事項に残りの一パーセントの裏付けを添えるため、面倒でも手間でも義務として質問しなければならないのだと言いたげに、彼らの問うた口ぶりはとにかく確信めいていた。


 そう、美紗の両親は、彼女が自分たちの事業を引き継いでくれるものと一つも疑っていなかったのだ。

 

 後継ぎの筆頭には美紗の兄がいたはずであった。

 しかし、いかんせん彼はデキが悪かった。


 そのうえ数年前覚せい剤の所持と傷害事件を起こして実刑判決を受け服役、出所後三日としないうちにまた薬物使用の現行犯で逮捕されてしまい、もはや両親からは完全に見放されていた。


 彼らがふと長男にばかり注いでいた視線を少し横にずらしてみると、そこには学校で常にトップの成績を取り続け、知的で気品に満ちた女性となった美紗がいた。

 

 その時の両親の切り替えの早さといったらもはや例えようもない。

 

 美紗の事を鼻高々に周囲に自慢し、生まれた頃から他の子とはデキが違い天才だったのだと吹聴してまわった。


 我々の親としての熱心かつ縛り付けすぎない放任主義の教育の賜だとも言った。


 彼らの計画した繁栄と栄華に彩られた一族の素晴らしき未来の主役は瞬く間に美紗となっていた。

 

 だから彼女が跡取りになどまるで興味がないと吐き捨てるように言い放った時、まず両親は自分たちの耳がおかしくなったのだろうかと首を傾げた。


 そしてどうやら聴覚器官は正常に機能しているらしいことがわかると、次に美紗の方の頭が変になったのだとこれもまた生真面目な顔で考えた。


 それ位両親にとっては予想だにしていなかった返事であったのだ。


 滑稽のように聞こえるかもしれない。


 しかし、彼らはどこまでも真剣だった。

 そういう人たちなのだ。


 美紗にしてみれば、例え天地がひっくり返っても、太陽が凍りついても、銀河が一つ吹き飛ぶようなことがあったとしても、家督を継ぐなどという選択肢は有り得なかった。


 頬を打たれたあの日から、彼女にとって両親はこの世で最も信頼の置けない、最も忌むべき存在になっていた。


 その顔も、その声も、その踏みしめた大地でさえをも、美紗は激しく嫌悪した。何一つ彼らに関して肯定などしたくなかった。

 

 それほどまでに両親を嫌うのならばいっそ絶縁してしまえばよかったのだ、結局その両親からの援助で寝食し、大学まで行かせてもらっているではないか、そんな意見を持たれる方も多くいることだろう。


 最もな話だ。

 世間知らずの娘の戯言、ただのワガママだと揶揄されても仕方がないとも思う。


 確かに美紗に打算的なところがなかったと言ったら嘘になる。


 当然学費や日々の生活など経済的な面から見ればこれ以上にないくらい恵まれていたし、年齢や学歴、金銭面など独り立ちできるまでに十分な力を蓄えて待つ、それが彼女の算段だった。


 物さえ与えておけば……というあの両親の考えに皮肉を込めてのったかたちだ。

 

 かといって美紗はただ日々をのうのうと暮らしていたわけではない。


 美紗はそんな自己矛盾的な考えに悩み、幾度となく苛まれた。


 本当に根は素直で優しい娘なのだ。


 絶え間ない心の葛藤、それも複合的で多角的な内なる葛藤に我慢できず家を飛び出したこともあった。


 相変わらず孤独だった。

 逃げ出したかった。


 両親からもズルい自分からも疲れるばかりの人生からも。


 彼女の元に安息がもたらされるにはどうするべきか、美紗自身が誰よりも一番よくわかっていた。

 

 だから両親が無神経に後継ぎの問題を引き合いに出してきた時、美紗の張りつめ続けてきた感情が一息に弾け飛んだ。


 幼少期から蓄積された不平や不満、無理に押さえ続けてきた怒りや寂しさ、その他のよくわからない抑圧され内包されてきたモノたちが、我先にと喉元まで込み上げてきた。


 言いたいことが山ほどあった。


 弁舌も滑らかに畳み掛け、完膚なきまで言い負かしてやりたかった。


 しかし結局、それらが言葉という形をとり、各自なりの意味を帯びてこの世に解き放たれることは遂になかった。


 美紗は何故だか急に、両親がとても不憫に思えてきたのだ。


 後を継がないと言った美紗の言葉が理解できず、あんぐりと佇んでいる父と母、自分たちのひどく限定された乏しく狭苦しい想像力の枠の中でしか生きられない彼らの事が憐れで仕方がなかった。


 おそらく、美紗の募り募った感情を声も高く正面から真剣にぶつけてみたところで、ただただ唖然とするばかりで二人の心は一向に震える事はないだろう。


 それどころか息子は薬物中毒、娘はヒステリー持ちだと嘆き、我々の人生は他に類を見ないほどの悲哀で満ち溢れていると憂う事だろう。


 もう一度言う、そういう人たちなのだ。

 

 美紗の口元に微笑みが浮かんだ。

 十数年ぶりに美紗の口角がほんの僅かではあるが笑いの体をなした。


 もちろんあの頃のような愉快で陽気な笑顔というわけではない。


 虚しさや諦め、哀れみといった物悲しい感情からでも、人は時に笑う事が出来るのだ。

 

 ―― なんだか馬鹿らしい。この人達と真面目に向き合ってみたところで何も通じ合えはしない。和解もできなければ対立もできない。話し合いにすらならない。どんな形であれ、私たちは永遠に交わる事のない別の銀河の惑星同士なんだ ――


 明くる日、美紗は家を出た。


 今度こそ本当に魂までが一新されたような爽快な気分だった。


 やはり心のどこかで両親に対する特別な想いが少女期のままずっと残っていた。


 抱き寄せられ、頭を撫でられ、愛されたいという幼い頃の淡い想いが。


 しかし、遂にそれらを振り切ってしまえば、ここに残る理由は何もなかった。

 ただ一刻も早く、それもより遠くに放れたかった。

 

 それまでの貯金と幾つか家庭教師のアルバイトをこなしていければ、贅沢こそできずとも二年分の学費と日々の生活費くらいは余裕でまかなえそうだった。


 他の裕福な家庭の箱入りお嬢様ならいざ知らず、美紗の場合は長きに亘って心身の鍛錬を怠らなかったために、そこらの同年代の若者たちと比べてみてもはるかに彼女はタフだった。


 節度を守り、質素に静かに健康に暮らした。


 より一層の知性と、鋭くどこか危うそうだがとても自然な美しさが身についた。


 突然社会の流れの真っ只中に飛び込んで行っても、美紗は誰よりも巧みに、誰よりも優雅に泳ぐことができた。

 

 相変わらず友人や親しい人はいなかった。


 もはや孤独は彼女にこびりついて離れず、心は誰の手でもどんな合言葉でも開けそうにない程頑強に閉ざされていた。


 それでも美紗は毎日にそれなりの充実感を覚えていた。ストイックに突き詰め続けてきた強さというものが実生活のそこかしこに手に取れるような具体的な成果とし現れていたからだ。


 自分のしてきたことに間違いはなかったという自信が、新しい門出に立った彼女の背中を頼もしく後押した。

 

 そして彼女は多少傲慢になった。


 しがらみから逃れ、新生活も落ち着き、少しだけ余裕をもって世界を眺められるようになると、美紗は周りの学生の有様がひどく目につくようになった。


 遊びにほうける者、目標もなくとりあえず大学に通い続ける者、能書きや屁理屈ばかり達者で何もやり遂げられない者、色恋にしか興味を示さない者。


 美紗は某一流大学に通っていたのだが、学生運動も完全に下火になっていた頃であったし、学内には何よりもまず調和と秩序と平穏を重んじる風潮が流れていた。


 もちろん人の学生生活や青春に口を挟むつもりもなく、ただ美紗は彼らの気持ちがまるでわからなかった。

 

 何故彼らは努力をしないのだろうか?

 それまで身を切るような思いまでして何かを求めた経験があるのだろうか?

 自分の不完全さに嫌気がさすことはないのだろうか?


 築き上げた確かな自信とプライドは彼女の心からすっかり寛容さを奪ってしまった。


 美紗は彼らを自己鍛錬や努力を怠り、そのくせ不平不満ばかり一丁前に並べ立てる救いようのない愚者だと、堕落した無能な人間だと決めつけて蔑んだ。


 それが第三の美紗だった。


 悲しみの淵にも失われることのなかったあの生まれ持った美しい心の優しさは、いつの間にかどこかへと追いやられてしまい、後には柔軟性を欠いて黒く凝り固まった傲慢さが居丈高に陣取った。


 無表情な鉄仮面をはぎ取り、その下に隠した素顔を世界に向けて晒した。


  侮蔑と慢心が満たしたその顔はあまり美しくはなかった。


 

 それでも美紗の激しく波打つ人生は、ある程度落ち着きはじめたようにも見えた。


 問題は山積していた。

 まだまだ仄暗くはあった。


 それでも彼女を取り巻く闇の濃度が少しだけ薄まったような気がした。

 束の間の安定期だった。


 坂口章吾が彼女の人生に介入し、更なる深い闇へと誘うまでの。


 ほんの束の間だ。

 


      *

      *

      *

 


 大学のOBに稀代の天才がいて、文部省で大躍進を続けているという噂を私が耳にしたのは大学三年の修了間際だった。


 学生食堂で昼食をとっていた若い助教授たちが何気なくそう話題にしていたのを隣のテーブルに座っていた私は聞いたのだ。

 

 ――ちょっと優秀だとすぐに天才、天才って……一体世界には天才と呼ばれる人たちが何人ぐらいいるのかしら?たぶん総人口の半分かそれ以上ね、きっと ――

 

 私は皮肉たっぷりに肩をすくめた。

 

 その昼食の後、担当の老教授に呼び出されていた。

 

 だいたいの予想はついていたけれど、案の定、教授は大学院に進む意志はないかと尋ねてきた。


 ちょっと優秀だとすぐに助手につけたがる、と私は少しだけ肩をすくめた。

 

 正直卒業後の進路については、まるで白紙の未定だった。


 法学部に在籍しているからには司法試験を受け、弁護士や裁判官など法曹関係に進むのが妥当なところなのだろう。


 同窓の学生たちもほとんどがそのための準備をしていた。


 しかし、そちらの世界にはあまり魅力を感じなかった。


 そもそもが法の司る正義や悪に対して私はとても懐疑的だった。


 法律を学べば学ぶほど、六法全書を開けば開くほどに、善悪を推し量るなど、まして裁くなど人にも神の手にも余る行為だという自分の考えを深めるばかりだった。


 自分を裁くのはいつでも自分自身でなければならないのだと。

 

 そんな人間が法学博士号の肩書に興味を持てるわけもなく、私は私なりの丁重さでもってその話を断り、退室しようとした。


 するとその背中に「前にもとある天才君から同じような文句で断られたことがあったっけな」と教授が声を掛けた。

 

 「天才君?」


 また天才かと多少顔をしかめながら私は振り返った。


 馬鹿らしいとも思いつつなんだか腹立たしくて、


 「それじゃ私もその天才君たちの輪の中に入れてもらえるでしょうか?天才的な鬼ごっこや天才的な缶蹴りをして遊んでいるその仲間に」


 とケンカ腰で教授にくってかかった。

 

 「ああ、君ならその輪の中でもきっとうまくやれるだろうね、多分誰よりも優秀に」

 教授はやけに楽しそうに笑った。


 「お世辞で言うわけではないけれど、君は本当に優秀な学生だ。私もいい歳だし、おそらくこんな優れた教え子とはもうこの先二度と巡り合うことはないだろうね。いやはや、君の貪欲さには本当に感服するよ。今でも十分に高い能力を持っていながら現状に決して満足することはせず、貪欲に更なる高みへ高みへと昇ろうと努力を怠る事はない。見る人によればそれは狂気として映りかねないほどの激しい熱量だ。よくまあそんな華奢な体でその沸き立つ熱たちを受け入れ手なずけていられるものだと思う。ほんの何年か前まで若者たちは皆、君とは種類こそ違えど、一様にそんな熱を持っていた。やれ安保闘争だ、やれ新左翼だ、やれ全共闘だってね。そんな風に彼らの熱には学生運動っていう名前のきちんとしたはけ口があった。内なる情熱を効率よく外側に逃がすためのはけ口がね。……君は用意しているのかい?そんなはけ口」


 この老教授、学内でも相当な食わせ者として通っていた。


 うらぶれた風体、飄々とした言動とは裏腹な鋭いきらめきを私はその言葉の端々にわずかながらでも感じていた。

 

 「就職先は?ということならばまだ具体的には何一つ」

 

 「院に進む意志がないのはもちろんはじめから知っていたよ」


 私の答えを頭から無視して教授は話しを続けた。

 わざと私を煽っているのだろうか。


 「答えははっきりしていたんだ。それに君みたいな素晴らしい資質を備えた若者は研究室や大学の構内みたいな狭い囲いの中でくすぶっていてはいけない、もっとどでかい器の中で、世界をグシャグシャに掻きまわせるくらいの大人物にならなければ、というのが私の正直な思いなわけだ。それでもここだけの話、成績優良者の幾人かに一応声を掛けなくてはならないってのが我々教授職に従事する者の決まりでね、義務として君にお伺いをたてたってわけだ。私は職務には誰よりも忠実な男なんだよ、こう見えても。すまなかったね、うら若き女性の貴重な時間を無駄に削らせてしまって、もう行ってもいいよ」

 

 そこで一方的に話を区切り、教授は一つもすまなそうな様子を見せることもなく、座っていた回転椅子をくるりと回して美紗にそっぽを向け、読みかけだったらしい誰かのレポートか何かに目を通し始めた。


 そこの場面だけを切り取ってみれば、まるで忙しい最中に私が突然やってきて、彼が忠実にこなしたかった職務の履行を邪魔したような雰囲気だった。

 

 私はおよそ人知で計りうる限り、最上級の侮蔑をこめて教授を見つめた。


 正確にはその教授が座る椅子の背もたれを思い切り睨みつけた。


 ところどころ穴の開いたそのボロボロの回転椅子ぐらいならば簡単に貫いてしまえそうな程、視線を冷たく鋭利に尖らせて。本当に無益な時間を浪費したと思った。


 しかし、好き勝手に捲し立てられ憤りはしたが、教授の言う事も確かに理解ができた。 

 

 ―― 社会の中で自分はどこまで行けるのか?大きなフィールドに立って、いかんなく自分の能力を試してみたい ――

 

 この内側に生じた熱エネルギーは、発露する矛先を今や遅しと待ち望み、野心はそれに絆されるような形で日を追って肥大していたのだけれど、その急速な成長をじりじりと感じながらも私はどうする事もできずにそのまま放っていた。


 野心という真新しい感情と、どう向き合っていけばいいのかが皆目わからなかったのだ。

 

 それまでも求めたものならたくさんあった。


 無償の愛、他人の温もり、比類なき強さ、明日の平穏。


 幼い頃から多くのものを私はストイックに追い求めた。


 あるものは手に入った。

 あるものは手に入らなかった。


 未だその途上にあるものもあれば、もはや永遠に届くことのない遥か彼方へと遠のいて行ってしまったものもあった。


 いずれにしても、その中で私が自ら進んで求めたものは一つもなかった。


 全ては仕方がなく、全ては言うにやまれず、求めて行かなければ生きられないという状況に長い間置かれていたからだ。


 そこに何かを選り好み出来るだけの余裕はなかった。生きていくための選択肢はいつでも一つだった。

 

 だから突然の野心の出現にはひどく当惑した。


 生き抜くという目的以外に何かを求めるのはとても下劣で低俗なことだと思った。そんなことをしている隙に付けこんだ誰かが(人でも人ならざるものでも)、足元をすくって私を犯してしまうのではないかと恐怖した。


 もはや恐いものなしだという自負心は揺らぎ、その揺らぎは私を根本から強く揺さぶって焦らせた。

 

 「文部省に本物の天才がいる」


 教授は振り向きもせず、机に向かったままの姿勢でそう呟いた。


 私がそこを離れられないでいるのをわかっていたのだ。


 何にも関心がないように見えてやはり食えない男だ。

 

 「何度も言うが君はとても優秀だ。どんな天才の輪の中に入っていったとしても、必ず君は彼らを軒並みなぎ倒して邁進していくことだろう。その中の頂点にまでのし上がる事だってそれほど難しくないかもしれないな。うん、それだけの資質を君はちゃんと持っている。私はそう確信している。しかしね、いくら努力しようが、どれだけ足掻こうが、その輪の中心には決してなれはしないだろう。より強い確信をもってそう断言する。なぜならそこには必ず彼がいる。彼がドーナツの輪に君臨し続ける限り、君は所詮その周りを構成するドーナツのただの一片でしかないんだ」


  教授はまた椅子をくるりと回転させて今度はこちらに向き直った。


 実に不敵でいやらしい表情をしていた。


 その手には先程まで彼が読んでいた薄い紙の束があった。


 そして小さなペーパークリップに挟まれたその五、六枚の書類の束をおもむろに手渡された。


 国家公務員試験・一種の応募要項と願書だった。

 

 「興味が湧かないかい?」

 

 「……」

 

 「私はとても興味がある。君と彼とが出会う時、最も優れた人間同士が出会う時、その摩擦で一体新たに何が生まれ出でてくるのだろうとね。爆発的に大きなエネルギーになるものなのか、あるいは相殺しあった末に完全なる無になるものか、結局まるで何も起こらないものか。良か否か?善か悪か?実に興味深い。……私の好奇心はさておき、天才君の話を別にしても、霞が関ならば君の持て余すその激しい情熱を向けるにはまずまずの大きさの器であるはずだと思ってね。進路を決めかねているならそんな道もあるのだと頭の隅っこにでも置いておくといい。これから社会はどんどん女性主導で動いていくだろうと私は予想している。きっと君はそんなモデルケース、勇敢なパイオニアになれると信じているよ。……ま、所詮ただの老いぼれた法学教授の勝手な戯言だがね。世の中がこの先どうなっていくかなんて神のみぞ知る事だ」


  「……その人の名前は?」


 私はようやくそれだけを聞いた。

 今度は恐怖以外の何かがまた私を揺さぶった。

 

 「坂口章吾。稀代の天才君だ」

 

 老教授の目に帯びたいやらしい光が一段と強くなるのを、私は最大限の侮蔑を込めて見つめ返した。


 その後、いくつかの試験と然るべき手続きを済ませ、私は晴れてエリート官僚の仲間入りを果たした。


 物事は終始順調に、流れるが如く進んで行った。


 あまりにも容易すぎた。


 関門を突破していくその度、こんなものかと拍子抜けしてしまい、私は誰に向けるわけでもなく肩をすくめた。


 もちろん軽い侮蔑を込めて。


 認めたくはなかったけれど、確かに教授が煽ったおかげで私は坂口章吾という人物に興味を抱いてしまった。


 そこまで言わせる天才ぶりを実際にこの目で確かめてみたくなった。正直多少の悔しさもあったのだと思う。


 そして皆がもてはやすその彼を打ち負かした暁には、唯我独尊、世界中を鼻で笑って蔑んでやろうと考えていた。


 それだけが目的だった。


 就職をちょっとしたゲーム位にしか思っていなかった。

 なにせ私の自尊心の強さはこの頃が一番のピークであったのだから。


 


 しかし私は恋をしてしまう。


 そして全ての事象はことごとく覆っていく。


 思惑も、志も、運命さえも。




 文部省において私の属する部署は、国際的な目線から見た日本の子供達(幼児から高校生まで)の学力水準の向上、家庭環境やイジメ、不登校などのネガティブケースに対する児童へのメンタルケア、そしてそれに準ずる教育者に対する教育など、日本の初等・中等教育全般を司る機関だった。


 数か月の研修と軽い下働きの末、なんと私は坂口章吾が直属する若手のプロジェクトチームに配属となった。


 新人を各部に振り分ける仕組みが一体どうなっているのかまではよくわからなかったけれど、入省したての新人が少数精鋭で構成された一チーム、それもその中で一番最前線を任されている重要なチームに配属されるなんて、過去にあまり例を見ない、極めて異例の人事であるらしかった。

 

 坂口章吾の第一印象は少し奇妙なものだった。


 端正な顔立ちは表情が乏しく、潔癖的と言っていい程キレイな身なりは寸分の隙もなかった。


 言葉数は極端に少なかったけれど、いざ口を開いた時のその一言はタイミングといい内容といい、過不足のない、的確で完璧なものだった。


 誰も彼には逆らえなかった。


 何故なら逆らう余地が一つもなかったのだ。


 いつでも彼が正しかった。

 上司さえ彼には何も言えなかった。

 

 私は彼の有能さを一目で見抜いた。


 別に私でなくとも彼の仕事ぶりや職場に漂う空気感を察すれば容易にわかるものではあったが、私は出会ったその瞬間から坂口章吾はこれまで巡り会ってきたどの人間とも違う、異質で特別な存在なのだと認識した。


 しかし矛盾するようではあるけれど、それにもかかわらず彼の顔にはどこか見覚えがあった。


 もっと正確に言えば、彼の乏しい表情が醸し出す雰囲気や無感情な視線、それと同じようなものに、いつか巡り合ったような記憶があった。


 それが一体いつの誰の何であるかまではその時思い出すことはできなかったけれど。

 

 よくわからない……それが坂口章吾の第一印象であり、この先変わることなく胸に抱き続ける印象だった。


 おかげで戦うべき相手か否か、私は長らく判断し兼ねていた。そう言った意味でもまた少しだけ拍子抜けした。


 

 恋についても触れなくてはならない。

 

 私が処女を捧げた相手はそのチームの中堅どころ、坂口章吾と同期入省で八歳年上の男性、既婚者で三歳の娘と四か月の息子がいた。


 知的でハンサムでスタイルが良くて、とても感じのいい微笑みを浮かべる事が出来た。人からはずいぶん慕われていて、彼を悪く言う人は誰もいなかった。


 学校でも官庁でも秘境に暮らす部族の集落でもだいたいそういうタイプの人間が一人くらいはいる。


 カッコ良くて優等生で正義感とリーダーシップがあって動物と子供に好かれて……。


 私にしてもそんな人間ははじめてではなかった。


 むしろ学生時代にはそんな優等生君たちが積極的に私に言い寄ってきたものだった。


 自分で言うのも恥ずかしいのだけれど、どうも私の中にある何かが彼らの心のヒダを妖しく艶っぽくくすぐってしまうようで、同じようなタイプの男から幾度となく想いを告げられた。


 その度冷たくあしらってきたのは言うまでもないけれど。

 

 だから決して彼が特別だったわけではなかった。


 一目あった時から彼が自分に興味を持ったのも敏感に感じ取ったし、そのうち我慢しきれず関係を迫ってくることも承知していた。


 そして案の定、とある金曜の仕事終わり、例のハンサムな微笑みを浮かべながら、仕事の事についてちょっと……というお座なりな文句で食事に誘ってきた。


 もちろんその時は簡単に断ったのだけれど、その後週末になる度、やがては平日の昼間でさえ声を掛けてくるようになった。


 あまりのしつこさにいよいよ私も根負けし、ただ一度だけ相手をしてあげることにした。


 そこでキッパリと言い放ち、今後二度とは誘わないでほしいと告げるつもりだった。


 「僕はようやく君の気高き鉄の心を砕くことができたんだね、ジャンヌダルク?」


 月並みに気障な台詞を言った彼が連れてきたのは、これもまた在り来たりな有名ホテルの最上階の夜景が見えるレストランだった。


 食前のワインもフレンチのコース料理も彼が得意そうに話す小噺も、全てが凡庸で面白みがなく、とことん退屈だった。


 ま、予想はしていたけれど。

 

 「君はここから見下ろす夜景や見上げる星空よりも美しい」


 彼は甘ったるい声で言った。

 

 「きっと奥さんの指に光る結婚指輪はもっとキレイなんでしょうね」


 私は固く乾いた声で言った。

 

 「それが気になるのかい?だったら今から宣言しておくよ、僕は本気だ。君が望むのなら僕は女房と離婚しても……」

 

 「私が望むのはただ一つ、金輪際、歯の浮くような台詞で口説いてくるのはやめてほしい、ただそれだけよ」

 

 「ハハハ、君には敵わないな」


 彼は嬉しそうにニヤニヤとしながらそう言った。

 やれやれ、男ってどうしてこんなに馬鹿ばかりなのだろう。

 

 そして当然、彼はホテルの部屋を取っていた。


 スマートさを装ってはいたが、一向に手応えのない私に、もはやなりふり構わず部屋に連れ込もうとしている気配が窺えた。


 多分私にしかわからなかったと思うけれど欲情にかられた獣のような匂いまでさせていた。


 重々しく食事の礼をのべ、早足でエレベーターの方に向かおうとした私の腕を彼は強く掴んだ。本当になりふり構わなくなってきていた。

 

 「……痛いです。いつもスタイリッシュな○○さんらしくないですね」


 私は中くらいの侮蔑を込めた眼差しで彼を見つめた。


 力では敵わなかったけれど、精神のタフさなら私の方が何枚も上だった。


 彼は捨てられた子猫のように哀しげな表情を浮かべていた。


 今にも私に縋り付いてきて人目も憚らず泣きじゃくるのではないかと思った。


 こんな憐れな優等生の顔を一体いくつ見てきただろう。馬鹿らしい。


 「……君はサカグチのことが好きなのかい?」


 突然彼はそう言った。声まで子猫のようだった。


 サカグチ?まるで言っている意味がわからなかった。

 

 「サカグチ?」


 「チーフの坂口、坂口章吾のことさ。普段からクールな君が、彼を見る時だけは今みたいな冷めた目をしない。むしろポーッと熱い視線で見とれている時だってあるんだ。僕はいつも君を気にして見ているからよくわかる。僕は涼しげな君が好きだ。大好きだ。けれどあの坂口に向けられた視線のように温かい目で僕も君から見られたい。こんなに誰かを想ったのは生まれて初めてだ。女房も、子供達でさえも君ほどには愛せない。確かに僕は彼よりも能力は劣る。出世だって常に彼が僕の上を行くことだろう。けれど彼には心がない。いくら君が想おうとも決して報われることはないんだ。僕ならそんな悲しい思いはさせない。必ず君を幸せにしてあげられる」

 

 この人は突然何を言い出すのだろう。

 私が誰かを愛することなどあるわけがないというのに。


 彼はきっといつでも坂口章吾に負い目を感じながら生きているのだ。


 同期で入ったにも関わらず、必死でくらいついて頑張っているにも関わらず、坂口章吾との差はどんどんと開いていくばかり、それまでの人生一番が当たり前だった彼のプライドはもはやズタズタなのだ。


 そんな男の嫉妬心が、いい歳の大人に子供じみた妄想を見せてしまったのだろうかと思う。そう、ただの妄想、下らない戯言、湾曲された事実……。

 


 その夜、結局、私はこの男に抱かれることとなる。


 どうしてだろう?


 もちろん好意など微塵も持っていなかったし、憐れな彼に同情したわけでもなかった。


 ではなんだったのか?


 魔が差したとか気まぐれだったとか、そういった曖昧で無責任な言葉でしか表現できない。


 とにかく私は彼と共に部屋に行き、かくも無造作に、放り投げるようにして処女を捨てた。

 

 そして彼に抱かれている間中ずっと、私は坂口章吾の顔を思い浮かべていた。


 話題に上ってから何故だか頭を離れなかったのだ。


 ……それが何かの理由や説明になるだろうか?


 決して頑なに貞操を守ってきたわけではなかった。


 ただ異性との交際や性欲などに興味がなかっただけの話だ。本当に他意はない。

 

 もっと言えば、私は異性どころか他人に興味を抱いてこなかった、それだけだ。


 けれど彼にその辺の事情がわかるはずもなく、自分が私のはじめての相手だとわかるや否や有頂天に舞い上がってしまい、終始得意そうに、終始幸福そうにしていた。


 私の全てを手に入れたような気でいたのだろう。


 男なんて本当に馬鹿で軽薄で無能な生き物だ。

 

 それから彼は今までよりももっと大胆に、更に馴れ馴れしく私に言い寄ってくるようになった。


 周囲への配慮も段々と疎かになり、ひそひそと私たちの関係を勘ぐる人たちも現れた。


 あまりに下らないので弁解はしなかったけれど、正直、ウンザリだった。

 

 突然、彼が遠方の外郭団体に出向されたのは、そんな日々がいよいよ鬱陶しくなってきた頃だった。


 季節外れのこの異動で課内には衝撃と憶測と畏怖心が充満した。


 そう、それは明らかな左遷であり、中央の出世レースからの永久追放を意味していた。大きなミスでも犯したのか、何かへの見せしめか、とにかく皆、明日は我が身と震え上がって深入りすることはせず、理由もはっきりしないままその話題はそれきり二度と口に出されることはなかった。

 

 多分私だけだったと思う、彼の左遷を聞いたとき、恐れよりも驚きよりも、心に閃きを感じたのは。


 私は坂口章吾を探した。


 わざわざ探さなければならなかった。


 なにせ同じ部署、同じチームに属していながら、忙しい彼はどこかへ出向いていたり、重要な会議に出席していたりと、殆どまともに顔を合わせる機会はなかったのだ。


 そう、私が熱っぽい視線を向ける暇もない位に。


 しかし、珍しく坂口章吾は近くにいた。


 第一会議室にいるとのことだった。


 私は急ぎ足でその部屋まで向かい、ノックもせずに勢いよくドアを開けた……。

 


      *

 


 坂口章吾がそこにいた。


 突き抜けるような晴天の午前中だったが、日よけをピタリと閉めきった部屋は真夜中のように暗く、間違ってどこか別世界への扉を開いてしまったような気分だった。


 目が慣れてくると、入り口から一番遠いところにある会議用の長机に誰かが座っているような輪郭が黒くおぼろげに見えてきた。


 それが誰であるのか、そのシルエットから沸き立つ存在感が何より饒舌に物語っていた。

 

 「ドアを閉めてはくれないか?」


 黒い影は重くも軽くも低くも高くもない声でそう言った。


 果たしてその影が言ったものなのかどうか、こう暗くてはハッキリしなかったけれど、それでも私は後ろ手でドアを閉めた。


 そして本物の闇の中に放り込まれた。


 一縷の光も届かぬ、闇の中に。

 

 「暗くて申し訳ない。少し休んでいてね」


 誰かが言った。

 

 「いえ、こちらこそ突然押しかけてしまって申し訳ありません。すぐに済みますので」


 多分、私が言った。それすら自信がなかった。しかし、のまれるわけにはいかない。   

 

 「用件は?」

 

 「○○さんの異動の件で少しお伺いしたい事がありまして」

 

 「惜しい事をした。優秀な男だったのにな」

 

 「ええ、確かに優秀な人でした」


 正直、一つもそんな事思ってはいなかった。

 おそらく彼も同じ思いのはずだ。


 私にはそれがわかる。

 彼にもそれがわかる。

 

 「単刀直入にお伺い致します。彼を左遷まで追い込んだのは坂口チーフではないでしょうか?」

 

 「私が彼を左遷まで追い込んだ」


 誰かが私の言うままに復唱した。


 ワープロでタイプしたかのように無機質な声だった。


 そして「私が彼を左遷に追い込む理由はなんなのだろう?」と続けた。

 

 「私を守るためです」

 

 「君を守るため」

 

 「はい、私を守るため」


 私の声まで機械的に聞こえた。いや、私は人間だ。負けるんじゃない。

 

「私は彼にしつこく言い寄られて迷惑していました。一度食事を供にして以降、何度も何度も関係を迫ってきたのです。おそらくチーフの目や耳にも入ったことがあると思います。彼は公然と私に色目を使っていたのです。この頃では通常の職務も家庭すらも省みず、まるで何かに憑りつかれたかのように私を抱くことに躍起となっていました」


 「なるほど、つまり私はそんな困窮する君を見ていられず、尚且つ職務にまで支障をきたし始めた彼を見限り、私の出来うる限りの範囲で然るべき措置を講じ、彼を地方へと異動させた。彼が狂気じみて君に襲い掛かる前に、君の風評がいよいよ悪くなる前に、全ては君を守るために、という事でいいかな?」


 「……はい」


 もはや言うべき言葉がなかった。

 

 「では、私はなぜ君を守らなくてはならないのだろう?」

 

 「……わかりません」


 正直に言った。

 本当に根拠などなかった。


 確かに冷静に考えてみれば、坂口章吾が私を庇い守る理由などどこにもないではないか。


 私は重く濃密な暗闇の中で唇を噛んだ。

 私は何をやっているのだろう。

 

 「申し訳ありませんでした。今ここで私が言った事は全て忘れてください。貴重なお時間を取らせてしまいました。失礼致します」


 私は腰をかがめて一礼すると、あまりの恥ずかしさにすぐ踵を返し、そそくさと退室したかった。顔が火照っていた。

 

 「君はやはり優秀だな。入省してからずっと見ていたが」


 と声が掛かった。

 それは本当に私を優秀だと思って言ってくれたのがわかった。


 顔の火照りが一段と増したようだった。

 きっと頬は真っ赤に染まっていただろう。

 

 「私のパートナーにならないか?」

 

 「パートナー?」

 

 今度は私が尋ねる番だった。

 顔を上げ、彼がいるだろうと思わしき方に向き直った。

 

 「パートナー……それは仕事の上でという事でしょうか?それとも私的な意味合いがあるものなのでしょうか?」

 

 「君はどちらがいい?どちらでも好きな方が選べる。選択権は君にあるのだから」

 

 「……」


 こうして私達は結婚することになった。


 私の初恋にして生涯で唯一愛した男は、紛れもなく坂口章吾だった。

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