第五話・北の大地、整然とした渦巻き
毎年、街中を駆け巡る空気の中に、確かな冬の気配を感じ始めるころ、僕は幼少期を育った北海道の事をよく思い出す。
一口に北海道と言っても、雪の少ないところや比較的温暖な気候な場所も多くある。
温かなところの作物であるオリーブだって実るところでは実るし、コーヒー豆だって一応はちゃんと育つ。
良い波が来ると評判になり、夏には南国のリゾート地と見まごうばかりにサーファー達で賑わう海岸沿いの街だってある。
道南辺りでは十二月に道外から訪れる観光客で、空港を降りたその瞬間、雪景色が見えないことに驚き、騙されたような顔をする人も少なくない。
年によっては、一月に入ってから初めて積雪を観測する時だってあるのだ。
そして、そんな北国のイメージに反することばかり述べた後で申し訳ないのだけれど、僕の育ったところはこれぞ北海道というくらいに極寒で、とても雪深い山間の村だった。
僕は幼少期、本当にひ弱で体も小さかった。
それは未熟児として生まれた子供の宿命だったのだと、体の大きくなった今でならそう割り切ることができるのだけれど、当時は自分の無力さ加減にほとほと嫌気がさしていたものだった。
皆と一緒に走り回ったり元気に雪遊びをしたくてもすぐに息が上がってしまってついて行けず、置いてきぼりを食ってばかりいた。ひどい時にはそのまま咳が止まらなくなり、家に帰らざるを得なくなるなんてこともよくあった。
動物が好きで、近所で飼われている犬や猫、餌付けをされた野鳥や家畜達なんかと触れ合いたい気持ちでいっぱいだったのだけれど、その毛や羽根に触れるだけで直ぐに発疹が出たりひきつけを起こしてしまったりと、それも叶わなかった。
そんな風に、自由が利かず、周りの同級生と比べても頭一つ分低い目線から眺めていた世界はあまりにも巨大で、様々な恐怖で満ち溢れていた。
僕はずっとこんな風に色々なことに怯え、やりたいことも何一つ満足に出来ないまま死んでいくんだろうなと子供心によくそう思ったものだった。
それでも周りの人たちは、僕を本当に温かく見守ってくれていたと思う。
これだけ体が弱く、周りから浮いた存在になってしまうと、子供間でイジメられたり邪険にされたりしてしまうものなのだろうけれど、幸いにして、僕の場合にはそんな悲しい目にあった憶えは一度もなかった。
田舎の小さな街の小さな集落だ、近所中がみんな家族みたいなものだった。
例え僕がはしゃぎ過ぎて軽い発作を起こしたりしても、一緒に遊んでいた友達は嫌な顔一つせずに介抱してくれたし、風邪をこじらせて(僕は実によく風邪を引いた)寝込んだその枕元には、男の子でも女の子でも、誰かかれか友達が見舞いに顔を出しに来てくれた。
大人達もとても優しく接してくれた。それも過度に気を遣ったり、甘やかしたりせず、出来るだけ周りの子供たちと同じように扱ってくれた。
それが何よりも嬉しかった。
僕はみんなと同等で決して異端な存在ではないんだと、それだけで勇気付けられたような気がした。
*
こんな話がある。
四月の終わりか五月の始めくらいだったと思う。
僕は近所の友達と、探検に出掛けた。
その日の僕はすこぶる体調が良かった。
長らく待ちわびた遅い春の訪れに歓喜した大地がそこら中に撒き散らした新鮮な生命力、そんなものに中てられたのかもしれない。
こんなに身も心も充実した元気な日は、おそらく生まれてこのかたなかったことだ。
僕らが予てから密かに練っていた計画を、実行に移す絶好の機会だった。
それぞれの家からこっそり食糧と水筒を持ち寄り、おもちゃの剣や懐中電灯、方位磁石やマッチなど、各自思いつくままに装備を携えた。
何に使うつもりだったのか、大きな世界地図まで持ってきた友達もいた。
まぁ、何事にも型というものは大事だ。
冒険の目的はただ一つ、僕の家のすぐ裏手にある森へ入り、ここらの地域で一番大きな流れの川を、上流へととにかく上って行き、そこに何があるのかをこの目で確かめようというものだった。
この川の流れは速い。
先にも述べたように、ここら辺りの冬は本当に雪が多く降る。山には一冬分の雪がたっぷりと蓄えられ、季節が春めくと同時に、今度はそれが大量の雪解け水となって一気に川へと流れ込む。
あまりにも大量なので、夏の盛りが過ぎてもまだ勢いが衰えないなんていう年もあるくらいだった。
水位がおのずと上昇し、流れも一番急になるこの時期、当然のことながら、大人は子供達を川に近づけさせないようにしていた。
体重の軽い小さな子供など、ちょっとしたはずみで、あっという間に流れに飲み込まれてしまうからだ。
お化けが出るだとか、神隠しに遭うだとか、河童の伝説だとか、そんな類の話を毎夜毎夜、絵本でも読み聞かせるみたいに枕元で言い含められた子供達は、その純真な心の中に春の川への恐怖と畏敬の念をしっかりと植えつけられる。
それは親から子、子から孫へと代々継承され続けているこの地域の伝統的な通過儀礼みたいなものだった。
しかし、恐怖心が強ければ強い程、同じ位に募っていくのが子供の好奇心だ。
そんなにも大人達が近づくなと念を押す川の、その奥には一体何があるのだろうと思い立つのもまた、昔から変わらず受け継がれてきた子供達の伝統だった。
そして、その強い好奇心と向う見ずな勇気の命ずるがままに禁を破り、川や森に入っていく子が必ず出てくる。
今回の世代では、それが僕達であったわけだ。
僕らは誰にも見つからぬようにと忍者の真似事のようなものをしながら慎重に歩を進め、森の入口へとやってきた。
直前で恐怖にぐずり始めた子もでてきたけれど、何とか僕らはそれをなだめ、わくわく、ドキドキと胸を高揚させながら森へと踏み込んだ。
森へ入ると間もなくザーザーと勢いよく水が流れる音が耳に入ってきた。
そもそも川自体は本当に暮らしのすぐそばにあったのだ。
流れが速いのも知っているし、それに捕らわれればどうなるかもわかっていた。
何も今更驚くことはないだろうとタカを括っているうちにやがて川にたどり着いた。
そして僕らは圧倒される。
日頃、石橋の上からひょいと覗くよりももっと距離も近く、おまけに周りを自然に囲まれた、川が本来あるべき姿で気持ちよさそうに躍動しながら流れているその様は、僕らのよく知っている川とは明らかに姿を異していた。
こんなにも好戦的で荒々しく、こんなにも冷たく優しさのないものを、少年たちはその平和で穏やかな人生のうちで見たことなどなかった。お化けなど比にならない恐怖心だ。
どれくらいそうしていただろう?
一同は茫然自失となり、ただただその場に立ちすくんでいたのだけれど、一人の少年(先ほどぐずった友達)が、ヒステリックに高らかと絶叫したのを合図に皆はハッと我に返った。
そして帰ろうだとか怖いだとかいう囁き声がポツポツと聞こえてきた。
向う見ずな子供達ではあったのだけれど、さすがにこれはマズイと、本能的に察することができたのだ。
叫んだ子に至っては半べそをかきながら今にも森を抜けるために駈け出しそうな様子であった。
確かに引き返すべきだった。
僕も皆の御多分に漏れず、本気で怖いと思った。
大人たちが口を酸っぱくして注意してきた意味が、すくんだ足の感覚からよく理解できた。
僕らは大自然の真っただ中にあって、あまりにも幼く、あまりにも非力だった。
しかし、辺りに漂う濃密な敗北感を振り払うように、僕は皆にこのまま進む事を提案した。
せっかくここまで来たんだし、川辺から安全な距離をとりながら行けばなんてことない、というような趣旨の言葉を言って。
一同はとてもびっくりした顔をして一斉に僕を見返した。
この場の空気を感じ、よもや先に進もうなどという考えを提案してくるヤツが出てこようとは、誰も思っていなかったようだ。
それも、一番弱くて一番小さい、日頃なにかと守られている立場にいた僕がそう言ったのだ、これが驚かずにいられるだろうか。
言ってしまった後で、僕自身でさえエッと言う感じで一瞬驚いてしまったくらいだ。
その時の僕の心は俄然強気だった。
体調が良すぎたのが災いして、舞い上がってしまっていたのだろう。
普段に似合わずに僕は慎重さを欠き、とても大胆になっていた。そして、僕はそんな自分の大胆さを勇猛さとすり替え、勘違いしてしまったわけだ。
体の弱さからいつも誰かの足を引っ張り、常に誰よりも劣勢に立っていたことが本当に悔しく情けなかったのだけれど、皆が弱気になっていたその時、勇敢なところを見せて皆に認められ、少しでも優位な立場に立ちたかったのだ。
今でも思い返す度に恥ずかしくなってしまうけれど、その頃の僕にとってはそれが何よりも重要な事だった。
それだけ僕の抱えた劣等感は、小さな体の内側でじっくりと熟成され、下らないほんの些細な優越感でさえも強く渇望し、その乾いた触手でからめ捕ろうとしていたのだ。
結果、再三に亘って本能が発する赤色のシグナルを無視し、思いもよらない言葉をこの口から滑らせてしまうことになった。
勇気を振り絞ったのと、視線を浴びて恥ずかしかったのとで顔を真っ赤にさせた僕を、皆はどう見ていたのだろう?やがて一番年長で、いつもリーダー的な役割を担っていた少年が、楽しそうにニッコリと笑って僕の提案に賛成してくれた。
そしてそれに呼応するように皆次々と口を開き、先に進もうとまた元気に歌いだしたり笑い出したりと、重たい空気があっという間に一蹴された。
こんなにも小さな僕が顔を赤らめながらも勇気を出した、それが滑稽と言うか微笑ましいと言うか、皆の心を打ち、場の空気を温めて和ませたのだ。
ビクつき、皆から離れたところで駈け出そうとしていた子でさえ「ノリちゃんに言われちゃったらなぁ」と輪の中に戻り、気恥ずかしそうにはにかみ笑っていた。
僕も笑った。
心から笑った。
おそらく物事は、僕の思惑どおりに運んでいってくれたのだろう。
しかし、先に優越感欲しさと述べたのだけれど、実際にその時、僕の心の大半を占めていたのは何よりも安堵感だった。
ようやく皆と対等になれたような気がして、いつも心のどこかにあった取っ掛かりが取りのぞかれ、本当に友達の仲間入りができたような気がして……。
その安心と喜びは、正直泣き出さんばかりに僕を感極まらせた。
結局、この小さな冒険の話はここまでで、続きはない。
僕らの探検は、突然の大人達のカミナリであっけなくそこで終わってしまったからだ。
彼らは川の下流の方から鮭の遡上について何か調査をしていたらしく、上流の方へ少しづつ川辺を歩いて上ってきていた。
そんなところに小さな子供達がやいのやいのやっているのに出くわしたわけだから驚いた。
自分たちも子供の頃からやはり春の川の恐ろしさを嫌と言うほど叩きこまれて育った彼らは、子供が森の中の川辺に立っているなんて、何かの大罪でも犯しているかのように大変な事態だと思われた。
更に悪いことに、その調査にあたっていた大人の中の一人が僕らの仲間の父親で、自分の息子の姿を見つけるやいなやその父親は鬼のような形相で一目散に走り寄り、怒鳴りながら脳天に思い切りゲンコツをくれた。
僕ら一同も巻き添えを食らってついでにキツイ一発をもらった。
その後はもう容易に察しがつくと思う。
僕らは大人達に付き添われながら森を出る事とあいなった。
その時の僕らは思い切り泣きじゃくったので、もしかしたらその声だけでも冒険の終着点、目標の場所であった森の奥深くまで辿り着き、僕らの代わりにそこにある何かを見つけたのかもしれない。
ちなみに父親のいない僕にとっては、それが生まれて初めて経験したゲンコツだった。
*
僕はその後、少しだけ熱を出し、また元の情けない病弱な僕として布団の中で寝込むこととなった。
興奮しすぎたのがたたったのだろう。
しかしながら、その心は何とも言えない充足感で満ち足りてホクホクとしていた。
―― 僕は強くなったんだ ――
はた目にはわからないとは思うけれど、明らかに僕の中で昨日までとは何かが変わっていた。
そして更に何かが変わり始める、そんな予感みたいなものが確かにあった。
それが良い方向へなのか悪い方向へなのかまでは判断しかねるけれど。
「あんまり心配かけないでおくれよ」
枕元で僕にお粥を食べさせながら、母は言った。
僕が大人達に担がれながら帰ってきた時(意識こそあったのだけれど僕は途中で力尽きてしまい、歩けなかったのだ)の、母の取り乱した様子と言ったらなかった。
彼女のまぶたには、泣きはらした痕跡がまだはっきりと生々しく残っていた。
冒険に出たことに後悔は一つもなかったけれど、それを見てしまうと、少し強くなったらしい僕の胸が、キュッと締め付けられた。
「ごめんなさい」
僕は本当に申し訳なく思って力なくそう謝った。
「この時期の川は本当に危ないってあれ程……。ほら、前にアンタ達みたいに面白がって森に入って流されてしまった女の子の話をしたことがあったろ?それはね、その子が死んでしまったよ、おっかないね、っていうつもりで話したんじゃないんだよ。残された家族や友達、その子を思ってくれた人達みんなが悲しくて辛い思いをして、中には今でも立ち直れないでいる人もいるんだ。その子を失った、守れなかったっていう現実を重たく背負いながら何十年も経った今でもね。言っている意味はわかるかい?」
「……うん、なんとなく」
「よしよし、お前は頭のいい子だものね。かあさんもおまえがいなくなったら悲しくて辛くて気が狂っちゃうんじゃないだろうか」
母はそう言って一度お椀を置き、僕の頭を優しく撫でてくれた。
そこはちょうどゲンコツをはられた場所だった。
――やっぱり、こっちの方がいいや、と思った。
「かあさんを思ってくれるなら、もう無茶はしない。いい?」
「うん、わかった」
それから僕は自分でお椀を持ってお粥の残りを平らげ、付け合せの沢庵をボリボリとかじった。
その様を、母はじっと眺めていたのだけれど、怒っているのか悲しんでいるのか察しにくい視線だった。
何かに思いを巡らせているようでもあったし、何も考えていないようでもあった。
それが気になってロクに味はわからなかったけれど、温かなお粥を胃に入れたおかげで、随分と気分がよくなったような気がした。
「ごちそうさま、おいしかったよ」
「ねぇ、教生。みっちゃんのお父さんに頭を叩かれたんだって?」母は視線の質を変えず、僕にそう尋ねた。
「うん」
「痛かった?」
「うん、すごく」
「いっぱい泣いたみたいだね?」
「うん、いっぱい」
「でも、嫌じゃなかったろ?」
「うん、いやじゃなかった。また痛くされるのはいやだけど」
僕は頭のてっぺんをポリポリと掻きながら笑って言った。確かに、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。
「それはね、みっちゃんのお父さんが、教生やみんなにキチンと愛情を持って叩いたからなんだよ。もちろん私も同じ。心配で、失いたくなくて、大好きで……。だからどんなに怒鳴っても叩いても、そこにキチンと愛情があって、真剣に相手のためを思う心があれば、それは相手に必ず伝わるものだし、相手に嫌な思いをさせずに済むの。逆にね、愛情や思いやりなんかこれっぽっちもなくて、ただ相手を嫌な気持ちにさせるだけが目的の暴力もあるって事を忘れてはいけないよ。体を傷付ける痛い暴力はもちろん、目に見えない傷を付けてしまう言葉の暴力っていうのもね。教生がもっと大きくなって世間に出たら、誰かにそんな暴力を受けたり、教生が思わず誰かにしてしまったりする事が必ずあると思う。だけどね、教生。それは絶対にいけない事、間違った事なんだよ。もちろんそれを誰かにしてはいけないし、してしまったのなら悪いのは教生なんだから必ずすぐに謝らないとダメ。そして誰かから受けてしまったのなら絶対にそれに負けちゃいけない。そっちが間違いで、僕の方が正しいんだって強く思って、勝たなくちゃダメなんだからね。どんなに相手が大きくて強いモノでも。……言っている意味、わかる?」
後半を妙に熱っぽくしながら話し終えた母は、少し声の調子を和らげながらそう尋ねた。
「うん」
僕は自信なさげに頷いた。
正直、何一つ意味などわからなかったのだけれど、母のあまりの迫力におもわず頷いてしまった。
多少ガサツではあるけどいつも大らかで優しい母が、こんなにも熱し、興奮したところをこれまで見たことがなかった。
僕が話をうまく理解できなかったのをわかっていたのだろう。
母は、そんな僕の不安げな気持ちを察して、ニッコリと大きく微笑みながら「よしよし、教生は本当に頭のいい、優しい子だね。かあさんは嬉しいよ。さ、お腹も満たされたし、後は薬を飲んでゆっくり休みなさい。明日になっても学校にいけないだなんて言ったら承知しないからね」
と言って僕の額を軽く小突いた。いつもの母だった。
僕は目をつむりながら、母が先ほど言った言葉について自分なりに考えてみた。
世界には、いいゲンコツと悪いゲンコツがあるらしいことだけはわかった。
みっちゃんのお父さんのゲンコツはいいものだけど痛い。
だったら悪いほうのゲンコツは痛くないのだろうか?
言葉の暴力ってなんだろう?
そして、母はどうしてそんな難しい話を突然僕にしたんだろう?
*
彼女は僕の実の母ではなかった。
他の養父・養母がその子に対し、どのタイミングでどんな風に互いの血縁関係がないことを打ち明けているのかはわからない。
物心つくのを待つのか、それとも成人してから改まって話したりするものか。
中にはその養親が死の床にあってようやく懺悔のごとく告白するなんて例もあるかもしれない。
僕の場合はその事をほんの小さな時分から聞かされていた。
それは歩いたり言葉を覚えたり等、一般的に乳幼児が辿るであろう成長過程と並行しながら、至極あっさりと、とても自然な形で僕はこの身へと受け入れていた。
だから物心ついた頃にはもう、自分は『養子』と言うものなのだとはっきり認識していたし、その言葉の意味するところも何となくはわかっていた。
それが養母のねらいであったのかどうかまではわからないけれど、あんまりすんなりと受け入れ過ぎたおかげで僕は、本当の両親に会ってみたいだとか、養母と二人きり暮らすこととなったいきさつを知りたいだとか、何故僕だけが周りの家庭と違うのだろとか、その手の疑問や心の葛藤みたいなものがとても稀薄だった。
もちろんまるで気にならなかったと言ったら嘘になる。
心の片隅に、まるでどこからか風に吹かれて人知れず定植したキノコのように、クエスチョンマークが小さく心の大樹の側に根付いていたのは確かだ。
そして、養子であるという事実が実際生活において、時折支障をきたしたり少々不愉快な思いをさせたりなんてこともないではなかった。
地黒で少々ふくよかな養母に比べ、僕は細面で色白。
髪の毛だって丈夫でバリバリと硬い養母に対し、僕はのっぺりと細い猫毛。
歳も随分と離れていた。
ここまで容姿の違った二人が手をつないで歩いているその姿は、到底母子になんて見えるわけがなかった。
よくて若い祖母とその孫といったところだろうか。
一度、珍しく出掛けた大きな街で、連れ去りではないかと訝しがられ、警官に声を掛けられたことがあった。
なんとか説明して事なきを得たけれど、帰りの汽車の中で養母はとても悲しそうだった。
それを見た僕はもっと悲しくなった。
僕がもっとお母さんに似ていればよかったのに……とさえ思った。
しかし、だからと言ってそんな自分の生きているこの環境に格別不平や不満はなかった。
出来る事ならばこの田舎で、このまま何も変わらず穏やかに日々を過ごしていければそれでよかった。
裕福でもなく、健康でもなく、母子の間には血の繋がりさえなく、たまに先程の話のように嫌な思いもする。
けれど全てを許し、甘んじてもいいと思えた。
なぜなら養母は僕を優しく愛してくれたし、僕も養母が大好きだった。
それだけで他になにがいるというのだろうか。
思えばこの頃が人生のうちで一番幸せだったような気がする。
純粋に誰かを愛し、心から誰かに愛され、よく泣き、よく笑い、遥かなる大自然の温かな庇護の元、僕は無知で無邪気な子供として何のてらいもなく生きていけた。
……多分、僕は幸せだった。
毎年、街が冬めき立ってくると、北海道の事をよく思い出す。
かつて世界は、もっと単純に回っていたはずだ。
良いものは良いし、悪いものは悪い。
含みのある物言いも、思わせぶりな仕草も、どんな形のしがらみも、見えない何かの圧力も、敵意も、暴力も、虚無感も、喪失感もそこには存在しえなかった。
いつからなのだろう?
僕の眺める景色の中に、そういった複雑で幾何学的に歪んでしまったものが映り込むようになったのは。
そして、それらに合わせるようにして。
僕自身もまた歪み始めてしまったのは……。
*
*
*
「もしもし、聞こえてる?北川教生さん?」
もちろん聞こえていた。
むしろ回線はいつも以上にクリアで明快に開かれていた。
まるで声の主が、隣の部屋のドアからヒョイと顔を出して話し掛けているみたいに。
僕は無意識にそのドアの方を向いた。
しかしそこではドアとドアノブと蝶番が二つ、冷たい視線を僕に向けているばかりだった。どうやらまだ寝ぼけているみたいだった。
僕は髪の毛をクシャクシャと掻きながら小さく一つ唸った。
「もしもし、大丈夫?もしかしたら間違った番号にかけたのかしら?」
「いや、大丈夫、北川の携帯です。すいません、さっきまで寝ていたものですから」
「ああ、ごめんなさい。私が起こしちゃったのね?そんなつもりはなかったんだけれど。嫌なものよね、電話のベルで叩き起こされるのって。目覚まし時計のピピピっていうのもあまり好きじゃないけど、電話のよりは我慢できるわ。なんでかしらね?同じような電子音なのに」
「電話はその向こう側に人の顔が見えてしまうから」
尋ねられたわけではなかったのだろうけれど、僕は反射的にそう答えてしまった。
実際にその時、僕は世界のどこかで繋がり合っているこの電波の先に、彼女の顔を確かに見ていた。
一度会っただけだというのに、ずいぶんはっきりと彼女の顔を記憶しているものだと僕は不思議に思った。
「ふーむ。なるほど、なんだか一考の価値ありって感じの言葉ね。妙に納得しちゃった。……ところであなたの電話の向こう側にいる私の顔、ちゃんと見えてるの北川さん?」
「ええ、大丈夫です」
「ボールペン?」
「いや、万年筆」
「よかった、覚えていてもらえて。最近、自分の存在感について自信を失くしかけてたのよね。これも売れない女優の性なのかしら」
彼女は電話口でクスクスと笑った。
よく笑う人だ。
……ん?……女優?
「それで、私が何故あなたに電話をかけたのかわかる?」
彼女は僕にそう尋ねた。
「いえ、皆目」
「もちろん、どこからあなたの電話番号を知ったかもわからないわね?」
「……はい、全く」
「ふむ、それじゃ少しだけ時間をあげるから考えてみて。寝起きのところ申し訳ないけれど、その頭をフル回転させて、迷宮みたいに入り組んだ思考回路に想像力っていう水をありったけ注ぎ込んで満たすの。そうすればおのずと答えが見えてくるはずだから。水攻めってやつね。歴史は好き?羽柴秀吉が得意だったのよ。あ、ちなみにヒントはなし、最初の問いがわかれば、二つ目の答えも簡単にわかるでしょう。なかなかタフな作業だとは思うんだけれど、あなたにだったら必ずできるはずよ。なんでかなぁ、あなたの事全然知らないっていうのに私にはそう確信があるの。あなたはちゃんと自分一人で答えを見つけられる人だってね。だからやってみて。大丈夫、私はちゃんと待っているから」
この人は何を言ってるのだろう?
僕は何やら面倒な流れの中に身をやつしてしまったようだった。
今更ながら、やはり電話を取らなければよかったなと僕は強く後悔した。
ならばこの瞬間、電話を切ってしまうことだってできたはずだ。
親切にしてくれた人に対してずいぶん失礼な態度かも知れないけれど、その親切に余りあるくらいに彼女は僕の頭を混乱させているのだ。
この場合の拒否権の行使は正当なものだろう。
しかし、僕は電話を切らなかった。
切れなかったと言ってもいい。
それどころか疲れた電話の持ち手を替え、椅子にきちんと座り直して体勢を整え、彼女の指示どおり、集中して想像力の注水作業をはじめてしまった。
多分、彼女が期待するよりもずっと熱心に。
彼女の言葉に抗うことができなかった。
僕はまるで呪術にでもかけられたかのように意志を縛られ、操られた。
大きな星の引力に負けた無力な隕石のごとく、僕は吸い寄せられるようにして彼女のペースに、彼女の世界に巻き込まれてしまった。
それは確かに、縦横に果てしなく延びた水路に水を流していくような感覚だった。
僕は想像力を目一杯溶かし込んだ意志を持った水となり、自らの仄暗い記憶の迷路を隙間なく巡って行った。
途中の壁にドアを見つければ躊躇わずに開けたし、何か道を妨げるものがあれば容赦なくなぎ倒していった。
その度に色々な人が現れ、色々な言葉が飛び交った。
色々な感情が見え隠れし、色々な善と悪が入れ替わった。
いつか見た風景はとても叙情的によぎり、タクシーの天井にこびりついたタバコのヤニはとても叙事的に駆け巡った。
それらは走馬灯のように素早く閃きもすれば、四肢に問題を抱えた亀のようにのんびりと鈍足に過ぎたりもした。
そしてそのうちに何かが潤かされて浮かび上がってくるような気配があった。
絶え間なく形を変え、大きさの伸縮を繰り返すそのアメーバのように不安定な何かは、多分答えなのだろう。
けれど、果たしてこんな僕の両手でその大事な答えを傷付けずに掬い上げる事が出来るのだろうか?
僕は羽柴秀吉のように大勢の手練れを従えているわけでもなければ、そんなカリスマ性を持ち合わせてもいない。
―― 大丈夫、私はちゃんと待っているから ――
僕は突然、ハッとしたようにまだ着たままだったスーツの内ポケットをまさぐった。
そこにあるべきはずの物がなかった。
そして思わず、小さくポツリとつぶやいた。
「財布がない」
「ご名答。玄関のカギを開けてくれるかしら、北川さん?」
彼女は満足げにそう言った。
*
彼女の話によると、僕はプロダクションから帰る際にその前でタクシーを拾ったのだけれど、何かの拍子にそのタクシーの中で財布を落としたらしかった。
そう言われれば締め切った車内が妙に暑くて上着を脱いだし、その汗を拭くのに同じ内ポケットからハンカチを出した覚えがあった。
会計の際にはズボンのポケットに押し込んだままだった現金(例の押し付けられた一万円のお釣り)で払ったので財布には触れる必要がなく、結果落としたことに気が付かず降車したというわけだ。
そして僕を降ろしたタクシーは直ぐに違う客を拾う。
行先はなんと、また例の芸能プロダクションだった。
こんな偶然もあるんだな、今度小話のネタにしようと運転手は内心ニヤニヤとしたそうだ。
タクシーが元来た道を走りだして間もなく、その乗客が座席の下に落ちている財布を見つけて運転手に申告する。
会社のマニュアルに従うならば、車内での遺失物は原則全て事務所に持ち帰って半年間預かったのち、持ち主が現われなければ処分ということになってはいる。
この場合財布なので、中を開ければ何かしら身分が証明できるものを確認できるだろうから、どうにか連絡を付け、処分という事にはならないだろう。
しかし、何といっても財布は大事な物だ。
忘れた相手はずいぶん困っているだろうし、マニュアル通りに持ち帰ってもいいが、面倒な手続きやら何やらをさせられて簡単には返してはあげられないだろうと、この人の好い運転手は目的地に向かいながらそう考えていた。
プロダクションの前に着き、ハザードランプを点けてそのままお客を降ろした場所で停車をし、運転手は財布の中身を自ら確認することにした。
可能であるなら自分が連絡をし、返してあげようと思ったのだ。
本当に人が好い。
お礼に菓子折りか自社のダイエット食品の詰め合わせでも渡したかったところだけれど、結局この運転手と僕との邂逅は遂に実現することはなかった。
「……そのまま悪びれもせずに財布ごとネコババしちゃうような人だって世の中には大勢いると思うな。嘆かわしい事だけれど」
彼女は首を小さく振りながらグラスに注いだビールを一口含んだ。
そう、彼女は財布とともに、僕のカラカラの喉に潤いまでも届けてくれたのだ
―― なんとなく飲みたくって付き合ってくれる? ――
と彼女は言った。
あまり物事を大げさに言いたくはないのだけれど、その時の僕にとってビールの入ったコンビニの袋を下げた彼女はさながら、不毛の大地に実りをもたらす為に降り立った豊穣の女神のように思えた。
僕は彼女の手前、そのビールを貪るように飲み干したい衝動をグッと堪え、それでもなかなかのハイペースでグラスを傾けながら話の続きを聞いた。
「私、あなたに万年筆を渡した後そのままそこで少し寝てしまったの。テーブルに突っ伏する感じでね。何せ長い時間本を読んでいたからきっと疲れちゃったのね。まぁ一時間ちょっと位かしら、スヤスヤと。受付の女の子……あ、この子は私の数少ない友達なんだ。とてもいい子なのよ。それでその子が帰り際に起こしてくれなかったらもっと寝ちゃってたかも。そこで確か七時半をまわったくらいだったかしら?時間も時間だし、その女の子がこれから恋人と食事に行くけど一緒に来ないか、なんて気を遣って誘ってくれたんだけど、それじゃぁ彼氏さんにしたらとんだお邪魔虫でしょ?それぐらい私にだってわかるわ。ありがとう、だけど私も用事があるのって断ったの。用事なんて一つもなかったんだけどね。……それから彼女を見送って、少しボーっとしてたんだけど、やっぱりお腹も減ったし、さっさと帰りましょうと外にでたの。考えてみればお昼もロクに食べてなかったのよね。そこにちょうどタクシーが停まってるじゃない。普段はタクシーに乗るなんて贅沢はマズできないんだけれど、実は今日思わず臨時収入があってね、ちょっと気が大きくなってしまったのね。フフフ、可愛いもんでしょ?どれどれ美味しいウナ重(肝吸い付き)でも食べに行きますかなんて思い立って、それで颯爽とタクシーに近づいたの。だけどね、運転手さんは全然私に気が付かないわけ。ほら、タクシーってお客さんを見つければ自動でドアを開けてくれるでしょ普通?それがないの。だから私は運転席の方に回って窓をコンコン叩いたわけ。何かをジッと見ていたらしいんだけど、悪いことをしちゃったわねぇ、運転手さん天地がひっくりかえったんじゃないかってぐらいにビクンってビックリしちゃって、その勢いで思い切りハンドルに膝をぶつけちゃったのよ。あれはしばらくズキズキ疼くんじゃないかしら。すいません、って謝りながら直ぐにドアを開けてくれたんだけど、相当痛かったんでしょうね、少々お時間頂けますか?なんて言って痛みが治まるのを待たせたくらいだもの。でもそんなに熱心に何を見ていたのか気になるじゃない?その待ってる時間に聞いてみたの。そうしたら手に持ってた財布を広げて、私に見せながら説明してくれたわけ、さっき話したこの財布を開くにまで至った経緯を」
僕の財布は定期入れも兼ねられるような作りになっていたのだけれど、そこには定期の代わりに運転免許証が入れてあり、それと運転手は睨めっこしていたわけだ。
僕は戻ってきた財布を改めて取り出して開き、その運転手と同じようにそこにある免許証の自分の顔をジッと眺めた。
更新し、公布されたばかりの免許証の写真を見るたびに思うのだけれど、どうして毎回僕はこんなにも不機嫌な表情で写ってしまうのだろう。
当日に取り立てて不愉快な事があったわけでもなく、むしろ空いていて人が少なく、奇跡のごとくスムーズに――混雑時の試験場の惨状を知っている人ならば、僕の例えが決して大げさではない事をきっとわかってくれるはずだ――事が運んでとてもいい気分で写真どりに臨んだ時だってあったのに。
きっと僕本人にも気が付かないような、どこか心の片隅のそのまた端のところで、この運転免許の更新のシステムを静かに、しかしとても強く嫌悪しているのかもしれない。
「今の顔、その写真にそっくりね」
と彼女はニッコリと大きく微笑んだ。
「私、財布を開いて、写真の顔を見せてもらったその瞬間、直ぐにあなただってわかったわ。浮かべてる表情こそまるで違ったけれど、確かにさっき万年筆を渡した人だってね。そうしたら私『ああ、この人知ってるわ。お友達の北川君』ってポツっと言っちゃったの。なんでそんな嘘をついちゃったんだろう?まぁ、一度お会いしているから顔見知りなんでしょうけど、友達だなんておこがましかったかな、ごめんなさいね。でもとにかく私はそう言っちゃったし、その一言で運転手さんの顔も一気にパアーって晴れちゃったし、よしとしてくれるかしら?そして『いやーお知り合いの方でよかったよかった。それではお客さんの手で相手さんに渡して頂くことはできますかね?私が仕事を終えてから届けるとなると深夜になってしまいますから』って運転手さん頼んできたのよ。人が好いにも程があると思わない?私の言ったことを何のてらいもなく信じて、ニコニコしながら財布を手渡してきたの。それこそ嘘を付いてネコババする気で言ったかもしれないのにね。だからね、私快く承諾してあなたにキチンと届けること決めたの。こんなに真っ直ぐ人から信用された経験なんてなかったし、なんだか運転手さんのその少年みたいに純な心を傷つけたくなかったのね……ねぇ、大丈夫?あなたの目、風前のともし火というか、太陽の前のアイスクリームというか、トロンと溶けて閉じちゃいそうよ」
目どころか脳みそまでドロドロに溶けてしまったんじゃないかと言うくらいに僕の意識は朦朧としていた。
直滑降に突然酔いが回ってきたようだった。
やはり僕の体はずいぶん疲れていたのだろう、勢いよくビールを飲み干したのはいいのだけれど、カラカラに干上がった大地が雨水をあっという間に吸い込んでしまうのと同じように、僕の乾いた肉体は口から含んだアルコールを、一滴も余すことなく吸収してしまったみたいだった。
こんなに早く酔いが回ってしまったのは一体いつ以来の事だろうか。
考えてみれば今日一日食事もロクに取っていなかった。
消化器系の働きはとても活発だった。僕の頭は次元と次元との狭間を行きつ戻りつしていた。
「このまま眠ってしまいなさい」
彼女は優しい声でそう言った。
不安定な意識の中でその声は、まるで対岸から喋りかけられているみたいにずいぶん遠く感じられたけれど、それでもそこに含まれる心からの慈悲と優しさの色は損なわれる事はなかった。
そして僕は命ぜられるまま目を閉じた。
やはり彼女の言葉は僕にとって魔力を帯びた言霊のようなものなのかもしれない。
「このまま何もかも忘れて、何もかも放り投げて、横になって寝てしまいなさい」
彼女はもう一度僕にそう命じた。
目を閉じた暗闇の中で、より一層彼女の声は呪術的に響いた。
それはもはや誰の声にも聞こえなかった。
神の啓示、悪魔のささやき、どちらかと言えばそんな趣のあるものだった。
「夜は決してあなたを癒してはくれない。夜は誰よりも厭らしく、誰よりも狡猾にあなたの存在を削り取ろうとしてくる。疲れさせ、消耗させ、あなたをダメにしようと、とにかくやっきになっているの。これからますます彼らは力を増して、あなたをどんどん追い込んでいくわ。だからもう頑張るのはやめて眠ってしまいなさい。幾ら粘ってみても、幾ら抗ってみても、今のあなたには何もできない。だからもっと力を抜いて、眉間のシワを緩めて、頭のネジを一本か二本外して、朝までグッスリと眠るの。それが一番、今のあなたに必要な事。あなたはもうどれくらい熟睡できない夜が続いているの?いつからあなたは一人で戦い続けているの?勝算があるのかもわからないし、もしかしたら戦っている相手すらよくわかっていないのかもしれない。それでもあなたは戦わなければならないのね?宿命とか運命とか、先天的に科せられてしまった避けようのないものと。あなたには何の責任もないのにね。可哀相な人……。だけど今はただ静かに眠ってしまいなさい。私がずっと側にいて見張っていてあげる。あなたの代わりに戦ってあげる。暗闇に紛れてあなたを犯しにくる、その不吉な何かから私が必ず守ってあげる」
「君に害を与えるかもしれない」
僕の中から僕の口を使って僕ではない誰かがそう言った。
「何も考えないで。あなたはあなたの眠りを取り返すの」
どこかの誰かがそう言った。
*
ピピピピ、ピピピピ……
僕は目覚まし時計の無機質で、まるで可愛げのない電子音で目を覚ました。
もし家庭で自分にだけ懐こうとしない犬なり猫なりのペットがいたならば、その鳴き声はあるいはこんな聞こえ方がするのかもしれない。
ただただキンキンと耳障りで不愉快で。
しかしそれでも彼女の言うとおり、電話の音で叩き起こされるよりかは幾分(本当にちょっとの差)目覚めの気分が良いような気がした。
それとも気分がいいのは珍しく熟睡できたからなのだろうか。
小さな頃、ある事情から故郷の北海道を離れる事になったその辺りから、僕の眠りは突然浅くなった。
少しの物音にも敏感に反応してすぐ目を覚ましてしまうし、目を覚ませば覚ましたでしばらくの間は眠れず、布団の中でモゾモゾと体の向きを変えたり考え事をしたりなんてしているうちにようやく寝付き、気が付けば朝になっていた、そんな眠りが多くなった。
子供ながらにこれはあまり良い兆候ではないぞと思っていたけれど、結局どうすればいいのかわからずそのままにしていた。
そして大人になってからは更に輪をかけてひどくなったようで、遂にまともな睡眠の方が稀になってしまっていた。
実は僕が酒飲みになったのは、そんな眠りが嫌で、仕方がなくアルコールの力を借りたというのが発端だった。
多分、病院に行って診てもらえば何かしらキチンとした病名があって、睡眠薬や精神安定剤なんかの薬を処方されて、それをしっかり服用すれば簡単に解消される問題なのだろうけれど、あまりそういったものに頼りたくはなかった。
それに結局間に合わせの対処法ではなく、根本的な解決をしなければ何の意味もないのだと考えていた。
決して具体的な根拠やソリッドなイメージを持っていたわけではなかったけれど、僕の安眠を妨げる不吉なモノがそこにいる気配だけはうすうす感じていた。
睡眠薬や酒では決して掻き消すことのできない、暗い部屋の隅から誰かにジッと見つめられているような居心地の悪い気配が。
目を覚ました時、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
それどころか彼女がいた気配も形跡も、飲んだはずのビールの缶やグラスさえもそこにはなかった。
あの時部屋に帰ってきて倒れ込んで眠ったのと同じように、僕はやはりスーツの上下をしっかり着込んだまま、ベットの中に沈み込むようにして寝ていた。
結局全ては夢だったのだろうか?
収集のつかなくなった話の辻褄を無理矢理合わせるため、全ては夢の話でした、めでたしめでたし、と簡単に済ましてしまう手を抜いた三流の空想小説や素人が作った未熟な映画の結末のように。
しかし、僕はどうやらそんな話の主人公にならなくてもよさそうだった。
『おはよう。気分はどう?話の続きが聞きたくなったらいつでもここに電話をして下さい。大概暇してるから遠慮しないでね。ちなみに使ったグラスも空き缶も片づけたけれど、やり方が気に入らなかったのなら直しておいてください。
追伸・あなたが寝てしまった後、暇つぶしに棚に並んだ本を物色しました。小説の好みはあまり合いそうにありませんね。では。』
彼女の自前の物だろう、水色の可愛らしい紙に細いけれど女の子らしい丸みを帯びた字体で電話番号と共にそう書かれたメモがテーブルの上に置いてあった。
置き手紙……これも古いテレビドラマのワンシーンのようだけれど、確かに彼女がいた事は証明された。
僕は食器棚に片づけられたグラスと、缶ゴミを入れてある半透明の袋をのぞいてみた。
キチンと潰された空き缶、わざわざ丁寧にグラスを洗い、しかも水気を拭いて食器棚にしまってくれまでした彼女に対して、僕は何と文句をつければいいのだろうか?
一目あった時から終始一貫、今も思っているけれど、やっぱり彼女は少し変わっている。
話し方も独特だし、今までに出会ったことのないタイプの人間だった。
僕はもっとゆっくり彼女と話をしてみたいと思った。
もっと彼女の世界の中をじっくり覗きこんで観察してみたいと思った。
それはあの子供の時分、川の上流へ行ってみたいと小さな胸に抱いた、純粋な好奇心と全く同じ感情だった。
僕はハッとした。
こんなに誰かの事が気になるだなんて、僕はどうしてしまったんだろう。
もう誰とも深く関わり合うつもりなどないというのに……。
僕はひどく困惑していた。
ともあれ僕は仕事に行かなくてはならない。
いくらでも代えの利く、大した仕事ではないにしても、もちろん働かなければ報酬を受け取る事も出来ないし、身ぎれいにして出勤しなければ当然色々な人々に色々と嫌な顔をされる。
僕はさっとシャワーを浴びて髭を剃り、別のスーツを着込み、トーストと簡単なサラダを作って食べてコーヒーを飲んだ。
例の万年筆を胸ポケットに差し、内ポケットを軽く叩き、そこに財布があることを確認した。
そこまででものの二十分とはかからなかったが、準備はそれで万端だった。
本当に誰にでも代えが務まる仕事だというのがこれでわかってもらえたと思う。
時間にはまだ余裕があった。
しかし、僕は出る事にした。
このまま部屋にいても、余計な事ばかり考えてしまいそうで怖かったのだ。
別にこの部屋に彼女との甘い思い出や、ロマンスが転がっていたわけではなかったけれど、彼女がそこにいたという事実が僕の心を激しく揺さぶってしまう。
とにかく今は一刻も早く世間の雑踏の中で揉まれ、頭を真っ白にしたかった。
ドアに鍵をかけ、僕は逃げるように早足でアパートの階段を駆け下りた。
*
その日の仕事は格別忙しかった。
特にセールを行ったわけでもなかったし、いつかのようにどこかの誰かがPR活動をしてくれたというわけでもなさそうだったのだけれど、とにかく昼前から徐々に増え始めた客足は閉店時間まで殆ど途絶える事がなかった。
商売としては当然喜ぶべきことなのだろうけれど、予期せぬ盛況ぶりに従業員一同てんやわんやな一日だった。
もちろん誰ひとりまともに休憩も取れず、食事も商品の在庫の段ボールから味気のないクラッカーや健康補助食品を出してきて簡単に済ますしかなかった。
あらかじめ人手を増やしておいたわけでもなかったし、普段通りの人員で回すにはやはり少々厳しかった。
ようやく閉店のシャッターを下ろせた瞬間、皆の顔には一様に、安堵感と疲労感と充実感が入り混じった、なんとも言えない複雑な表情が浮かんだ。
その中でも僕はことさら働いた。
昨日、決して遊んでいたわけではないにせよ、それでも比較的楽な仕事をさせてもらった(ひどく疲れたけれど)後ろめたさも多少あったからだと思う。
あちらに商品を手に取ってまじまじ見ている人がいれば、すかさず側に行って効能や能書きをにこやかに説明したし、レジが混雑して長い列が出来上がり不平や不満を述べるお客様が出てきたならば、心からの侘びを述べたうえで少々の辛抱を懇願し、スマートにそれに対処した。
同僚が困っていたなら颯爽とフォローに向かい、ほんの少しでも空いた時間を見つけたならば率先して皆に休憩に行かせた。
まるで運動量の豊富な優れたリベロフィールダーのように、僕は店舗フロアのフィールドを縦横無尽、右へ左へ駆け巡った。
その体力はどこから湧いて出てくるのか、何故そこまで動き回らなければならなかったのか、答えはわかっていた。
僕はそんな風に一心に走り回ることで、執拗に付いて回る何かを振り切ろうとしていたのだろう。
いや、何かじゃないな。包み隠さずハッキリと言ってしまおう。
僕は彼女に恋をしてしまったようだ。
どれだけ働いて忙殺してしまおうと思っても、ふと気が付けば僕は彼女の事ばかり考えていた。
初めて会った時の頬杖を付いて窓の外を眺めていた横顔。
それを照らすその日最後の西日。
伏せていた小説。
かたわらのコーヒー。
電話越しの声。
グラスに付けた柔らかそうな唇。
透けてしまいそうなほど無垢で真っ白な肌。
交わした取り留めもない会話の幾つか。
決して交わされることのなかった特別な言葉の幾つか。
彼女を強く求める心と、それ以上に拒もうと必死になる心……。
恋をする資格などないのだと、僕はその日一日だけで何度自分に言い聞かせただろうか。
他人を愛することのできない僕なんかに……。
心の全てを捧げて献身的に愛してくれた女性さえをも信じられず、受け入れられなかった僕なんかに、素敵な恋をして幸せになることなんてできるわけがない、いや、なっていいはずはないんだ、絶対に、と。
誰も求めてはいけないし誰も愛してはいけない、それが誰かのために、なにより僕自身のために一番いい事なのだ。
しかし、僕がそうやって目を逸らし、背中を向けるたびに彼女は素早く僕の正面に回り込んでニコリと微笑みかけてきた。
例の大きくて可愛らしい、まるで雑味の混じらない素敵な微笑みを。そ
してその笑みを湛えた唇は、何度も何度も僕に優しく語りかけてきた。
―― 私が守ってあげる。あなたを犯そうとするすべてから ――
結局、例の万年筆の持ち主はその日店には来なかった。
まあ、そんなものだろう。
なにせ彼は忙しい人だ、この程度の小さな約束は、あらかじめカッコ書きですっぽかされる可能性大と記されている条件付きのものなのだ。
それに正直今日なら来られたところでまともな相手もできなかっただろうから、むしろそれでよかったのかもしれない。
しかしながら、おかげで僕はまた万年筆をそのまま持って帰えるはめになり、そうなってくると当然僕はまた余計に彼女を意識しないわけにはいかなくなった。
帰り道、僕は真っ直ぐ家に帰る気になれず、道すがら適当に目についたラーメン屋に入って夕食を済ませ、そこの近くのスーパーに寄って時間をかけて買い物をし、なおかつぐるりと大きく遠回りをしてアパートの部屋に着いた。
それでも気持ちはまだモヤモヤとしたままスッキリとせず、色々と考えた挙句に僕は、アパートから歩いて程なくの距離にある銭湯に出掛ける事にした。
なかなかいい思い付きだった。
しかし、普段僕は銭湯や温泉といった大衆浴場に行くような習慣を持ち合わせていなかったから何を持参していけばいいのやら一瞬混乱してしまった。
別に特別な物を用意しなければならないわけでもないだろうに。
やはりまだまだ動揺の最中にいるようだった。
僕はやれやれと自分に向けて、やり切れなさそうに首を何度か振った。
たかだか風呂の準備をするだけではないか。
しかし、結局僕はシェービングクリームと代えの下着を持っていくのを忘れてしまった。
……やれやれ。
銭湯からの帰り道、湯上りの紅潮した体を春のもったりと柔らかな夜風が撫でながら吹き過ぎて行き、なんともいえず気持ちがよかった。
どうやら少しは気も紛れてくれたようで、とりあえずホッと一安心した。
蒼白い街灯の下で僕は立ち止まり、一つ大きく伸びをして深呼吸をした。
見上げた夜空は薄曇りで、僕と誰かとの間に介在する深い隔たりを忠実に具現化したかのようだった。
本当に羽衣のように透けるほど薄く、一見してもわからないくらいぼんやりとした物なのだけれど、それは確実に二つの次元を隔て、少しの譲歩の余地もなく厳しく二分割していた。
隣り合った不仲な国同士の国境線のように。
……それでいい。それでいいんだ。
―― 大丈夫、僕は僕だ。これまで通り一人でちゃんと生きていける。僕は静かで孤独で美しい僕の庭を、誰にも踏み込ませてはいけないのだ。そこに温もりはないのかもしれない。そこに愛は見当たらないのかもしれない。それでいい。例え世界が僕一人残して滅びたとしても、あるいは世界が僕一人だけをこの世から滅ぼしてしまったとしても、僕は一つまみの不平も述べずに甘んじて全てを受け入れることだろう。僕は一人でいるべきなのだ。僕は常に世界と対極にあるべきなのだ。無情なこの手で誰かを傷つけ犯してしまうその前に ――
それでいい、それでいい、それでいい……
「こんばんは、北川さん。いい夜ね」
アパートに帰り着くと、先ほどようやく振り切ったばかりのにこやかな彼女の顔が僕を出迎えた。
「いい夜だけれど、湯上りの散歩をするにはまだ少しだけ時期が早いような気もするなぁ。寒くはないの?」
彼女は僕の首に掛けたままのバスタオルと脇に抱えた湯浴みのセットを見てそう言った。
確かに少しだけ肌寒くなってきたようだった。
……どうしてここに?
「……言われてみれば冷えてきたかもしれない」
「そうでしょ?昼間は確かにポカポカ温かな日も多くなってきたけど、それで春だ春だってはしゃいだりしちゃだめよ。油断してるとどこかのキレイなお姉さんがふらっとあなたを訪ねてきても、大風邪ひいて寝込んじゃってて結局何もできませんでした、なんていう悲しい結末にだってなりかねないんだから。人は常にあらゆる可能性に備えて準備しておくべきよね」
彼女は冗談めかしてそう言った。
「昨日初めて会ったばかりの君が、こんな月のない薄暗い夜に、話もロクにせず酔って寝てしまった不甲斐ない僕をまた訪ねてくる可能性?」
僕も思わず少し笑いながら言った。
……どうしてここにいるんだ?
「そう、実はその可能性大だったのよ、知ってた?今日一日ずっとあなたからの電話が鳴るのを待ってたの。手紙にも書いたけれど、私って元来暇だから時間だけはたっぷりあったの。北川さんから連絡こないかなぁ、今は何をしているんだろうなぁ、私は素麵を茹でたけれど北川さんはお昼何食べたのかなぁ、私の事ちょっとは思い出してくれてるかなぁって思いながらね。フフフ、ウブな少女の初恋みたいで可愛いでしょ」
彼女は心から面白そうにクスクスと笑った。
「僕の方は仕事がものすごく忙しかったんだ、本当に。お昼はカロリーレスのビスケットを三枚かじっただけ、僕も本当は素麵でも食べたいところだったんだけれど、コンビニに買いに行くような暇もなかった。ごめん、君の事だけじゃない、何一つまともに考えられる余裕はなかったんだ」
僕はとっさにそう嘘をついてしまった。
僕も一日君の事ばかり考えていただなんて言えるわけがない。
……どうして君はここに来てしまったんだ?
僕らは静かに顔を見合わせた。
彼女の黒く澄んだ瞳は、にべもなく僕の嘘を見透かしたようだった。
それどころか僕の隠したいものは全て彼女の前に広げられ、露呈してしまったようにさえ思えた。
そしてその瞳は同時に、彼女の僕への気持ちがどんなものであるかをとても素直に語っていた。
僕はこの先彼女と相対する時に何度も経験することとなる自分の心が震える感覚を、この瞬間にはじめて味わった。
なんと素敵な気分なのだろう。
その震えに囃し立てられるようにして、語られるべき言葉達がざわざわと忙しなく喉の奥で騒ぎはじめたのがわかった。
そのざわめきを、口から漏れ出る寸でのところで僕はなんとか押しとどめた。
ダメだ、ダメだ。
それを言ってしまえば、僕は……
「……どうしてここに?」
小声でようやくそれだけを口にできた。
とても早口に言ったので聞き取れなかったのではないだろうかと思ったけれど、彼女の瞳の奥の輝きが一層増したところを見ると、どうやら届いてくれたようだった。
「こんな玄関前で話込むのもなんだし、よかったら部屋の中に入れてもらえないかしら?」
惑う僕とは対称的に、彼女はとても落ち着き払って言った。
「こういう場合『勘違いしないでね、誘ってるわけじゃないの。ただ風邪をひいたらあれだからってだけだからね』なんて恥らいながら可愛く弁解するものなんでしょうけど、私そういうの苦手なの。だからね、正直に言っちゃう。私どうやらあなたに恋しちゃったみたいなの。事務所のロビーで一目あったあの時から、あなたがそっと近づいてきて私が振り返ったあの瞬間から、私はあなたに恋をしちゃったみたいなの。……ここは誤解してほしくないんだけど、私の恋はそんな簡単に誰かれ見境なく好きになっちゃうほど軽いものじゃないのよ。それどころか私の貞操は伝説の刀鍛冶が精魂込めて鍛えあげた黒鋼みたいに固くて、なおかつ神聖なものなの。昨日の夜もあなたの財布だってわかったからウナギを打っ遣ってまで届けなきゃって思ったし、ビールでもお土産にしたら喜ぶかなって思って一度通り過ぎたコンビニにわざわざまた引き返してみたり、誰にでもそんなに気が利くわけじゃないのよ私。まぁ証明しようもないし、ただただ信じてもらうほか仕様がないけどね」
彼女はニッコリとした微笑みをことさら大きくしてそう言った。
それは僕の揺らぐ心を慰撫するように優しく、迷う心を励ますように力強かった。
「でもね、この恋は一目ぼれっていうほど激情的に燃え上がって、真っ逆さまに落ちていく恋とは違うの。全然そんなじゃないの。むしろこんなに静かで穏やかで……うーん、うまく例えられないみたい。ごめんね、もっときちんと私の気持ちをあなたに伝えたいんだけれど、言葉にしようとすればするほど伝えたいこととは遠ざかっていくみたいで……私自身がまだハッキリとイメージできてないんだと思う。もっと先になって、もっと二人一緒に過ごす時間を重ねて、もっとあなたの事を知っていったのなら、きっとうまく伝えられると思うわ。だけどとりあえず私はあなたと一緒にいなきゃって思ってる事、あなたにすっごく恋しちゃってるって事、なりふり構わず花も嵐も恥らいも乗り越えて(一応あったのよ)、強引に家まで押しかけてロマンチックさの欠片もない愛の告白をしにやってきたって事だけはわかって欲しいの。それが今私があなたの目の前にこうやって立っている理由よ」
先ほどまでは心地よく思っていた夜風が、いよいよ本格的に肌寒く感じられてきた。
その理由は、決して湯冷めをしたという事ばかりではなかった。
本来こんな場面で使われる言葉ではないと思うのだけれど、僕はその時、ほとほと肝を冷やしていたのだ。
このような状況に置かれている僕を養母が見たらどんな風に思うだろう。
養母は二者択一の問題を優柔不断にウジウジと考え悩むのはあまり好きではなかった。
そんな悩む時間があるのならば、彼女は本能の命ずるままさっさとどちらかを選び、ぐいぐい先々に進んで行くことだろう。
これはサバサバと竹を割ったような性格であった養母の優れた長所でもあり、多くの場合短所にもなった。
僕は彼女を身近でずっと見ていたわけだけれど、その一挙手一踏足のいちいちに、ためらいや躊躇の入り込む隙などない力強さがあったのを覚えている。
やけに確信めいているというか、思い切りがいいというか、『例え残念な結果に陥っても己が選んだ道ならば後悔はしない、初めに正しいと思った事は最後まで正しいのだ』そんな武士のような男っぷりのいい行動規範が養母には備わっていた……まぁ、その精神のおかげでいらぬ苦労を背負い込んでいたのも数多く見てきたのだけれど。
それでも決して彼女は僕に自分の生き方を押し付けるような真似はしなかった。
女々しく軟弱だった僕を歯痒く思った事もたくさんあっただろうに。
普段の生活における躾としての小言は多かったけれど、基本的には何も押しつけず、自然のままに、あるがままに、僕という人格をとても尊重してくれていた。そ
れもまた手つかずの偉大なる大自然の中で生まれ育った彼女の、大らかな心に掲げられた人生哲学の一つだったのかもしれない。
僕はその時、そんな養母のようになりたいと強く思った。
ある程度彼女の精神を押し付けて育ててくれればよかったのにとさえ思った。
本能だとか欲望だとか、普段は理性や自分を律する心から抑え込んでいるモノたちに身の全てをゆだね、ためらいの楔を外す勇気が欲しかった。
僕はどうすればいい?
僕だって彼女に恋をしていた。
その場で今すぐにでも彼女の身を胸に抱き寄せ、思いのたけを素直にぶつけたかった。
彼女を求めていた。
彼女を知りたかった。
もう一度僕を好きだと言ってほしかった。
その微笑みを僕だけのものにしたかった。
だけど……。
「私、あなたを求めてるの、北川さん」
彼女が沈黙の均衡を破った。
「びっくりする気持ちもわかるし、あなたの頭をグシャグシャにかき回して混乱させちゃっているのも重々わかってる。だけどね、それ以上にくっきりはっきりわかっている事があるの。本当に手のひらに乗せてまじまじと眺められるんじゃないかってくらい明瞭にね。……そしてそれは、あなたも同じようにわかっている事なはずよ。あとは手に取るだけ。怖がらずに手を伸ばして、勇気をだして目を開けて。私たち二人ならきっとうまくやっていけると思う。お互いの為に……ね」
彼女はそう言ってまた微笑んだ。
今度のは少しだけはにかんでいるような微笑みだった。
そして彼女はそっと僕のほうへと歩みより、ピタリとその身を寄せてきた。こうして近づいてみるとだいぶ僕らの身長には差があり、ちょうど僕のみぞうち辺りに彼女の額がつけられた。
不思議なもので、あの透明な二つの瞳から逃れ、こうやって間近で見下ろすような形になってみると、どこか神秘的で非現実的な存在に思えていた彼女が、どこにでもいる普通の女の子に見えてきた。
小さくてか弱くて恥ずかしそうに目を伏せて顔を赤らめる、年頃の可愛らしい女の子に。
「勝手な事ばかり言ってごめんなさい。変な女だって思っているでしょ?あなたを困らせるつもりなんてなかったんだけど。迷惑だったらはっきりと言ってほしいの。そうしたらもう決してあなたの前に現れたりなんてしないから」
冷えた体に感じる彼女の吐息はとても生暖かく、吹きかけられるその温もりが、僕の心の中心にある凍りついた何かの表面を優しくゆっくり融かしていくのがわかった。永らくぶ厚い氷に覆われ続けていた大事な何かの表面を。
「体も冷えてきたし、よかったらうちにあがって行かないかい?」
僕は先ほどからずっと見ていた彼女のつむじに向かってそう言った。
こんな事を褒めても女の子は喜ばないと思ったから黙っていたけれど、彼女のつむじはとてもキレイだった。
この世に無数にはびこる混濁もこれ位整然と渦巻いてくれたのなら、もっと世界は色んな人々にとって住みやすい場所になるだろうに。
「今夜はビールじゃなくて、何か温かい物を飲もう。せっかくこんなにキレイなお姉さんと夜を過ごせるんだ、酔って眠ってしまう心配のない物をね」
「……ココアはある?」
彼女は顔をあげずにそのままの体勢で言った。
「あるよ。僕の職場で売っている、味も素っ気もないダイエット用のやつだけど。とりあえず体は温まるし太る心配もない。厳しく選別された特A級のカカオ豆だけを使用、ポリフェノールは一般的に出回っている市販品の約二倍から三倍。脂肪の燃焼効率を促進するっていう謳い文句で本家の販売元であるオランダでは一時社会現象にまでなったんだ」
「最高。最近ちょっと太り気味だったのよね、実は」
「……君の事を聞かせてくれる?まず手始めに名前から」
そして僕らは恋人になった。
後にハツミが『万年筆の恋人』と称した二人の誕生だった。
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