坂口家《動乱と激震》
先祖代々から受け継いできた土地を少しずつ転売し、その資金でさらに違う土地を買い、またそれを売る……戦後、GHQの地位ある幾人かと個人的なつながりのあった教生の祖父にあたる人物は、なにかと彼らにご厄介になりながら外国人に日本の土地を売り続け、自分の資産を雪だるま式に増やしていった。
アメリカ側の意図までは推し計れなかったが、とにかく最初に坂口家の土地を売ってくれまいかと話を持ち掛けてきたのはひょんなことから親交のできたGHQの幹部の男であった。
彼は、機密事項のため詳細なことまでは教えられないがそれは確かにGHQの意志だ、と言った。
おそらく、降伏したとはいえ国民の中にはまだまだ手を出せば噛み付いてくる可能性がある荒っぽい連中も多く残っていたし、そんな輩とのいざこざが日本国の安定した統治を阻むことになるのではと考えていたのだろう。
主要な場所の土地と上物を買い、GHQの息のかかった人々を住まわせたり出入りさせたりして、アンチ・アメリカを謳う日本人を牽制、監視する意味があった。侵略だとか強奪だとか、かえって日本人の反米感情を煽るのではないかという懸念の声も聞かれたが、目立った反発も見られず、着々と計画は進んで行った。
そして坂口家の土地は、たまたまそんな彼らの目的に合致したものばかりであったのだ。
根っからの強欲の背中を運が後押して、坂口氏は本格的に不動産屋を立ち上げる。
市場には財閥解体と言う日本の経済界の歴史上で最も大きなテコ入れが為され、新参者にとって追い風は強く吹いていた。
やる事為す事のことごとくが面白いくらい成功した。
あまりに何もかもが順調に運びすぎる事に、普通の人ならば「そろそろしっぺ返しが来るのでは?」とビクつきその歩みの速さを少し緩め、より慎重になるところなのだろうが、坂口氏の辞書に躊躇の二文字はなかった。
その直下型な躊躇いのなさが、栄光への架け橋となり、やがて来る衰退への方舟ともなった。
時は八十年代に移る。
坂口家の戦後の発展に大きく寄与した大アメリカではあったが、この当時のアメリカは膨大な貿易赤字に頭を抱えていた。
それは高インフレだった米経済を落ち着かせようと政府が打ち出した様々な金融措置を施した末の、いらぬ副産物だった。
確かにインフレは収まった。
しかしそこにはドル高という新たな問題が残ってしまったのだ。
これをどうにかしたいアメリカは、他の先進国と協議、為替介入というものをして、ドルの値段を下げることに成功した。
そしてそこにもやはり副産物がでてしまう。円の高騰だ。
今度は日本の政府が頭を抱えなければいけなくなった。
まるで不幸の手紙のようだ。
経済の不安定はぐるぐると世界をまわり続ける。
日本もアメリカのように簡単に為替介入なるものをできればよかったのだが、そう単純な話でもなく、内閣はあの手この手を尽くして地道に円高不況から逃れようと奔走することしかできなかった。
本当に色々なことをやったので、どれが原因になったのかはわからない。
何かと何かが反発しあった熱のせいなのか、何かが何かを取って食ったためなのか、はたまた何かと何かが融合して新たな何かになったからなのか、いまだにその道の専門家達にも確信めいたことは言えないそうだが、とにかく政府は過剰に自国の経済を、特に不動産の分野を刺激しすぎた。
そして気が付けば、いつのまにやら白昼夢のごとき好景気の熱がやってきた。
これが世に言うバブル経済の始まりだった。
坂口家の生業とする不動産業は地価と住宅の高騰に大いに沸いた。
どんなに劣悪でその割に高値な土地でも一日売りの看板を出しておけばだいたいは売れた。
なんの利用価値もない僻地でも、リゾート向きだとか別荘向きだとか付け加えてやればだいたい売れた。
何でも売れた。
たくさん売れた。
それがバブル経済だ。
もちろん坂口氏はここぞとばかりに派手に暴れまわった。
異業種にも手を伸ばした。
猪突猛進、己の資産を増やすために寝る間も惜しんで働き、ある時には法に触れるすれすれのこと(正直、べったりと触れたこともあった)までやって稼ぎに稼ぎまくった。
株の投資もやった。
株に関してはずぶの素人であったが、その頃にはもう損をしようが得をしようがとにかく資金を持て余していたので、なんでもよかったのだ。
誰かが買い時だと耳元で囁けばためらわずに買ったし、売り時だと誰かが諭してくれればすぐさまその場で売りの電話をかけた。
その際、どさくさに紛れて資金をちょろまかす秘書や側近など、不貞な輩も多くいたのだが、まるで坂口氏は気が付くことはなかった。
あれほどケチで細かく目ざとかった彼、大胆さの中にもギラギラした抜かりのない目と慎重さを合わせ持ったやり手の彼が、そんな風に自らの金に頓着をなくしてしまうくらいに、その資産は膨大なものとなっていた。
同じ頃、教生の父、坂口章吾の勢いも相変わらず衰えることを知らなかった。
先に話した逸話の中にでてきた教育フォーラム、その大成功は文部省内部だけに留まらず、ひいては当時の内閣にまでも大変評価され、坂口章吾の名は政界の中で広く知れ渡ることになった。
中でも一人のベテラン代議士がいたく彼を気に入ったようで、一度顔を合わせて話がしてみたいというだけの理由で、わざわざ自分の方から会合の場を拵えた程だった。
相手は何度も大臣を歴任した経験のある大物で、一クセも二クセも、更に三クセもありそうな面構えと風体をしていたのだが、ここでもやはり坂口章吾は坂口章吾であることを貫き通した。
一つも臆することなく、というより、かえってその鋭い言葉と目線と存在感でもって、老先生の肝を逆に冷や冷やさせるくらいに彼は威風堂々と立ち振る舞った。
坂口章吾が用を足しに中座した時、先生は思わず自らの秘書に「昔はあの歳くらいの小僧っ子、俺の名前を言うだけで小便をちびらせることができたものなのにな」と弱気な愚痴をこぼしてしまうほどだった。
その大物政治家が、坂口章吾を自分の後継者ないし息のかかった若手として側に置こうと決めるまでにそう時間は掛からなかった。
ちょうどその頃、年齢から言ってもそろそろ真剣に地盤を引き継いでくれる人物を探しておかなくてはと思っていた矢先だった。
こういったケースでは、自身の子供や血縁者、一族にそのまま継承していくのがだいたい一般的であるはずなのだが、彼の場合、たった一人いる息子は自分に似ずに控えめな性格で押し出しが弱く、頭も弱い。とてもじゃないがタフな政治の世界の中では生きて行かれないだろうと早々に諦めていた。
加えて、自らはたたき上げでここまで昇りつめた大先生、政治家にしては珍しく世襲制度をひどく嫌悪していたというのもある。
能力がないのに血縁というだけで自らが一から大事に築きあげてきた王国を、タダでそっくりくれてやる気には到底なれなかった。
そういった甘い親心がかえって息子を苦労させることになり、おまけに(おそらくこれが一番の理由)自分の名前にまで泥をかけられる結果になってしまうというのが彼の一貫した考えであった。
その後、何度か会食を重ねて話をするうちに、ますます坂口章吾を気に入り、だんだんと先生の頭の中で、自分の思い描く今後の青写真に欠かすことのできない有能な後継者の顔と、坂口章吾の顔が合致するようになってきた。
「彼ならば私の思う政治家の条件をすべて満たして余りある人材だ」と、先生直々に後援会に向けてプレゼンテーションしたほどだ。
その入れ込み具合はまるで恋でもしているみたいだった。
おそらくそんな先生の思惑に坂口章吾ははじめから気づいていたのだと思う。
その程度読むことのできない彼じゃない。
それでもこうやって先生との交流を続けているのは、やはり彼も政治家への道に興味を示しているということの表れなのだろうか。
そしてこの人の事も我々は忘れてはいけない。
息子を一生涯守り抜くと気高く志した女性、坂口美紗だ。
この人の生活だけは他の坂口家の人間に比べ、あまり芳しいとは言えなかった。
坂口一族すべてを敵に回したあの日以後、美紗は夫から引き放され、住まいも来客用に用意していた屋敷の離れにある小さなコテージに移された。
おまけに常に誰かの監視下に置かれ、自由に敷地の外に出ることも禁止されるという半ば軟禁状態を強いられることとなった。
それは美紗が赤ん坊共々家出をするのを坂口章吾が危惧しての軟禁だった。
ずいぶん周到な事だ。
それでも美紗はどんな冷遇をされても息子・教生が側にいてさえくれればそれで良かった。
当初は美紗を屋敷から追い出すということで話が進んでいたのだけれど、美紗はその回転の速い頭で知恵を絞り、なんとか息子とともにいられるように画策した。
どこからか引っ張り出した知識や理屈を弁舌滑らかに披露したり、女性陣の母親として、女としての情に涙ながらに訴えかけて見たり、法学部出身だからといわけではないが、その時の彼女は、さながら裁判の最終弁論で被告の無実を熱く訴える、法廷ドラマのやり手の弁護士のようだった。
その甲斐あって、なんとか教生を手元に置ける許しを得た。
その決定時、仕事で同席していなかったため、夫・坂口章吾も強く反対はできなかった。
後でどうにでもなるか、と彼が小さく呟いたのを聞いた人物は誰もいなかった。
さて、期が熟すのを待つとは決めたものの、美紗に不安がなかったわけではない。
やはり夫は何かを企んでいる、彼の側から離れられるならばどんなに早くても早すぎるということはない、その思いが美紗の心を何度も揺さぶり、焦らせた。
それこそ息子を抱えて逃げるイメージが何度も頭をよぎっては虚しく消えていった。
逃げるとは言っても、自分の実家は頼れなかった。
美紗の家は海運業で成功した古くからの名家で、一時は坂口家とも双肩をなすか凌ぐかというほどの勢力をほこっていたのだけれど、ちょうど美紗が嫁いだ頃あたりから、航空輸送の飛躍的な発達や度重なった不運な海難事故などの影響で、その経営は傾きの一途を辿ろうとしていた。
そこで、もはや親類関係となっていた坂口家がお情けで支援の手を差し伸べ、事なきを得たわけだ。
それはそれで良かったのだが、おかげで美紗の実家は坂口家にまったく頭が上がらなくなってしまった。
双方、表向きは対等な親類同士という風に接していた。
しかし、やはりその心の奥底には何とも言えないわだかまりができてしまっていた。
美紗が追い出されそうになったあの時も、彼女の家は何も言えず、ただただ坂口家の顔色ばかりを窺って、決して味方になってはくれなかった。
もともと実家との関係が稀薄だったところにこんな出来事だ、もはや美紗には実家などないに等しかった。
娘の窮地に何もしてくれないなんて……私はこんな親にはならない。
美紗の教生に対する想いは一層強くなるばかりだった。
焦るな、焦るな。
美紗の葛藤は続いた。
そんな風にして一年があっという間に過ぎた。
それぞれに、それぞれの一年が経った。
それぞれが、それぞれに一年を過ごした。
そして物事は、大きく動き出そうとしていた。
あるよく晴れた日の午前中、美紗は教生を膝に乗せて絵本を読み聞かせていたところだった。
季節は初夏。
それはずいぶん穏やかで本当に気持ちの良い朝だった。
二人のこの平和な生活が、所詮仮初めのものだという事をほんの束の間でも忘れさせてしまうくらいに……。
美紗たちの暮らす離れに慌ただしく、しかし忍ぶように近づいてくる人物が窓から見えた。
あの人の好い家政婦だ。
日頃色々と世話を焼き、この屋敷の中で唯一、母子の味方をし、美紗を励まし続けてくれていたその中年の女性が、息も絶え絶えに駆けてきて、勢いよくドアを開けた。
「どうしたの北川さん?そんなに急いで」
美紗はその家政婦に水を飲ませ、落ち着くようにと椅子に座らせた。
家政婦は差し出されたコップの水をグイッと一飲みにし、礼を言ってからおもむろに顔を美紗に近づけ、声を潜めた。
気持ちばかり急いて、彼女自身何を話しているのか訳がわからなくなってはいたが、なんとか美紗は要点をつかんだ。
「それじゃ、話をまとめるわね?政治家の汚職事件があった。一人に事情を聞いたら次々に関わった人の名前がでてきて、その中にあの人がいた。それも結構密に関わっているかもしれないと、今朝早くに逮捕された。あの人はやったともやらないとも言わず、黙秘している。お義父様やお義兄様はそれでバタバタして、屋敷はパニック状態。それでいい?」
美紗は少し余裕を取り戻しはじめた家政婦に、言い聞かすようにそう尋ねた。
美紗の精神は不思議ととても落ち着いていた。
それはこういう事があった時、機敏に動けるよう常に気を張っていた自己訓練の賜物だった。
美紗はふぅと一つ大きく息を着き、抱いた腕の中でウトウトしている我が子を静かに見つめた。
彼女が長らく待ち続けた好機が今まさに訪れたのだ。
「北川さん、これから私がいう事を落ち着いて聞いて欲しいの」
美紗は家政婦にそう切り出した。
*
おそらく、当の特捜部の人間達自身が一番驚いたのではないだろうか?
こうも上手く、描いたシナリオ通りに事が進むだなんて誰が想像していただろう。
芋づる式に出るわ出るわ、大物政治家やら財界の雄やらエリート官僚の幹部やら、次々に今回の汚職に関わった人物の名前が、つるを引けば引くほどにポンポン現れた。その名前の挙がったリストを見ただけで、特捜検事達のしてやったりの顔がおのずと浮かんでくる。
ことの発端は、小さな地方の街で起こった、比較的小規模な贈収賄事件だった。
どこの地方都市の街でもよく聞かれた話なのだが、日本列島を勢いよく駆け巡ったバブル景気の波に乗り遅れては大変だと、各議会、各首長は街の再開発にとにかく躍起となっていた。
寂れを見せ始めていた駅前や繁華街の活気を再び呼び起こすためのインフラ整備、それに伴う雇用の促進と福利厚生の充実、それが差しあたって行政の為すべきこと、街の更なる発展のために市民から課せられた命題であった。
そんな折、とある街の再開発事業の責任者である人間の元を、地元の建設業者がアポイントメントもなしに突然、役所に訪ねてきた。
この業者は先の入札で、今回の再開発を一手に担うことに決まっていた―この入札自体は全くやましいところがないのを補足しておこう―。
とりあえずの打ち合わせはとっくに済んでいたし、後は業者の都合次第でいつでも工事を始められるはずだった。
一体なんの用だろう?責任者は首を傾げた。
そう、この時の訪問の際、両者の間に贈賄と収賄という罪の共有が為されたのだ。
この株で、貴方を必ず儲けさせてあげる、だから見返りに容積率を引き上げてくれまいか……そんな取引が密室の会議室で声を潜めて行われた。
官製談合がついぞなくならぬ大きな理由の一つに、受注する行政側の怠慢がある。
民間ではまず考えられない話だが、当時はどこの行政もそんな入札額が高かろうが安かろうがまるで頓着がなく、内容の精査もロクにしないまま、提示額にホイホイと二つ返事で判を押して着工させる事が多かった。
使うのは市民の血税、できるだけ無駄もなく安価に済ませようだとか、なるべくなら質の高いものをだとか、そういった真摯な態度が皆、往々にして欠落していた。管理体制も甘く、結果、業者はこぞって互いに示し合せ、ある程度高値に設定した価格で一つの業者に受注させるデキレースを行い、相場よりも余計に多く儲けが出るように入札をするようになった。
自分達でローテーションのようなものを組み、儲けが万遍なく行き渡るようにして。
もちろん小狡い業者も悪いが、そもそもそんな談合を簡単にできる環境を作った行政が一番悪い。
これでは市民に税金の無駄遣いだと批判されたり、怠惰なお役所仕事だとか厳しい揶揄をされても仕方がない。
しかし、今回の入札は確かにどのような観点から見てもクリアなものだった。
公共事業の入札なんてほぼ当たり前のように談合に彩られていた時代、ここまで正攻法な入札も珍しかった。
担当者である役所の職員も生真面目に仕事をこなし、入札額も妥当だった。そして哀しいかな、そこにはもちろん裏があった。
土地にはそれぞれ建設してもよい建物の大きさに制限がある。
それを容積率と言う。
それを上げればより大きな建物を建てれるが、それを下げればより小さな建物しか建てれない。
そういう決まりがある。
それを今回の業者は後から引き上げてくれと頼んだわけだ。
結果、必要以上に大きく高層な建物を作れる(例えば二階建てだったものを三階建てに等)わけで、この業者は結局多大な儲けを得る事となり、役所は追加の分も資金を上乗せしなければならなくなる。
そんなにホイホイと上げ下げできるものでもないのだろうが、役所の責任者は、何とかしてみようと、その話に乗ってしまった。
数年前に思い切って組んだ住宅ローンはまだ気の遠くなる程に残っていたし、双子の娘は次の年の春から、共に同じ私立の高校に通うことになっていた。
永らく辛抱してきた自家用車もさすがにあちこちガタが来はじめ、そろそろ買い替えなければならなかった。
どうして誘惑と言うものはこんなにもベストなタイミングを見計って囁きかけてくるのだろう。誘い水の芳香は、それはそれは甘かった。
しかしながら、そんな妖しげな香りを嗅ぎつけるための特殊な鼻を備えた人種がいる。
新聞や週刊誌の記者達だ。
彼らは常にスクープを渇望し、幅広いネットワーク、研ぎ澄まされた五感と軽快なフットワーク、そして何よりとてつもなくタフな精神力でもってそれを掴み取る。
何が正義で何が悪か、決してそれらを蔑ろにしているわけではないが、彼らがまず何よりも第一に優先することは、そこにたった一つだけある真実であった。
その真実を追い求めすぎ、行きすぎる事もしばしばだが、その行き過ぎた行為のおかげで、そのまま永遠に闇の中に葬り去られてしまうところであった悪しき物を、世間という日の目に晒す事ができた例もまたしばしばあった。
今回の事件は、その象徴的出来事と言ってもいいかもしれない。
ある地方の新聞記者が、どこからか仕入れたネタを元に独占スクープした、その小さな街の収賄事件――スクープ報道後、担当者だった役所の彼は免職、起訴こそされなかったものの、その人生に大きな影を落とすこととなった――は、まるで静かな泉に投げられた小石のごとく、政財界の黒い水面を揺らし、波紋を広げる事となる。
投げられた小石にはれっきとした名前があった。
その名は未公開株。例の取引に使われたその株が、他の記者達のタフで鋭い直感を震わせた。
この報道から遡ること一年、政財界により太いパイプを繋げたいと思ったとある大きな会社の社長(後に行方不明となる)が、自身のグループ会社の株を手土産に、各種方面に色目を使って言い寄った。
その株は未公開株と呼ばれる種類のもので、まだ上場していない企業の株式のことを指す。
それだけを持っていても大して得をするわけではないのだが、一般的にこの株、その企業がいざ上場するぞという時に、その価格が販売価格よりも高値になるという性質がある。
政治家相手が殆どであったので、あからさまな現金や物品を渡すわけにもいかなかったところ、社長はその株の特徴に目を付けたわけだ。
容易に譲渡することも可能で、右から左、左から右へと次々にその株は譲渡されていき、その広がりの範囲は、かなり広域なものとなった。
これほどに融通の利く袖の下だ、社長の目論見は見事に当たり、彼の会社のグループは、多方面から大いに便宜を図ってもらえる結果となった。
それから一年としないうちにその未公開株は店頭公開、譲渡された人々の総売却益は、何億とも何十億とも言われた。
ここで話を戻そう。
記者達の勘は的中した。
多くのマスコミがその曰くありげな譲渡株の足を辿ってみると、信じられないくらいに政界の大物、有名人達の名前が挙がってくるではないか。
現役の大臣、元大臣、次期総理大臣の最有力候補、与党の幹部、野党の幹部などなど。
特捜部はこのスクープ報道に先立ち、更に深いところまで捜査を開始することにした。後は前著のとおりの芋づる式で、民間や官僚、果ては大学病院の理事長、教育委員会の支部長、宗教法人の代表なんかも関係者の名が記してある長いリストの中に挙がってきた。
ある者は逮捕される。
ある者は役職を辞する。
ある者はショックで倒れて入院する。
ある者は自殺をする。
そしてそんなリストの中に、例の大物代議士の名が入っていたわけだ。
特捜部のリストに名前が挙がっているという情報は先生の耳には早い段階から入ってきていた。
これくらいの情報網、先生ぐらいのベテランにもなると当然持って然るべきものだった。
いつか本人が言っていた。
「政治の世界、選挙でもスキャンダルでも、対策が後手に回れば回るほど不利になる。自分の身を守る為の良質なカードをどれだけ持っているのか?それが政治家としての能力を決める」
なのだそうだ。
しかし、さすがの先生も今回ばかりはどうにも困った。
早々に、自分と同じ位か、あるいはもう少し上位に立っているかという大御所の議員のところへも、特捜部が家宅捜索に入り、何かしらの尻尾を掴んでいってしまっていたのだ。
全く、うまい話には何かと厄介な裏が付いて回るものだ、と先生は苦々しく顔を歪めた。
これからもっと多くの仲間の議員達が捜索を受ける事だろう。
そして俺のところにも遅からず……。
何を隠そう、今回の未公開株を軸として数珠繋ぎになった出来事で一番の利益をあげたのは、我らが大先生に他ならなかったのだ。
もちろん、これだけ多くの現役議員が関与したと、もはや公に明るみになってしまっていたので、国民の政治不信の念は強く募ることだろう。
おそらく今の内閣だってそう長くは持つまい。
その際には上でいつまでもどんと居座っている面子は総入れ替え、俺をのけ者にした気に食わないアイツらは年齢から言っても次はない。
そうなればもう一度、俺の時代がやってくる……。
現内閣との派閥の違いと確執のためにその地位を追われ、くすぶった日々を過ごしていた先生にとって、この戦後の政界史上稀にみる大騒動は、表舞台に返り咲き、カムバックするための絶好のチャンスだった。
内閣が総辞職となったアカツキには、順当にいって、自分にはかなり重要なポストが回ってくるという確信があった。
一度は争いに負けてふさぎ込み、このまま世間から引っ込んで楽隠居し、過去の栄華を懐かしみながら余生を静かに過ごそうと弱気に考えていたところで、今回のスキャンダルだ。
長年、人の上に立ち続けてきた彼の心は、金欲よりも色欲よりも何よりも、権力欲というものにすっかり囚われてしまっていた。
その権力欲の包括が、先生を再び燃え上がらせ、今度こそ天下を、という若々しい野心を奮い立たせてしまったわけだ。
しかし、そんな中での自身のスキャンダル流出は、断固許されざる事象であった。
そうなれば他のライバルたちの二の舞となり、今度こそ政治家生命を永久に失ってしまう。
実際、貰ったものは貰っていたし、儲かったものは儲かったのだ。
誤魔化しきれないくらい確かに、事実は事実としてそこにドンと身を横たえていた。
ピンチとチャンスの紙一重、諸刃の刃とは、まさしくこんな立場にいることを言うのかもしれない。
おそらく起訴されることはあるまい、というのが先生の顧問弁護士の所見であった。
専門的な用語は先生もよくわからなかったので、かみ砕いて説明してもらったところによると、今回の件はあまりにも株の譲渡された範囲が広すぎる。
小石のように細かく小さな贈収賄事件がいくつもいくつも寄り添って形成された一つの大きな集合体、岩塊のような事件だ。
検察がいくら今回の件を頑張って掘り進めて行ったところで、表面近くの比較的柔らかな部分は削ることができたとしても、その一番深く固い核の付近に先生はいる。
ドリルの強度には限界があるし、時間だってどんどん過ぎていく。
確たる証拠が出ない限り、じっと内側で身を潜めていれば何の心配もない。
そこにいるのはわかっているけれど手が出せない、それは業界では『限りなく黒に近いグレー』と呼ばれるポジションらしい。
それを聞いてとりあえずホッとした先生ではあったのだが、元来懐疑的な性格であった彼が心から安心するためにはもう一枚、強いカードを手札に欲しかった。
身を守る盾はぶ厚いに越したことはない。
そこでハッと閃きがあった。
性悪な魔女のようなズルい笑みがニタリ、自然と口元に浮かんだ。
「まったく、君は本当に使える男だな、坂口章吾くん」
*
取り調べにあたった特捜検事は一人、喫煙室でボンヤリと自らの吐いたタバコの煙を見つめていた。
長時間に亘って張りつめ続けた神経をなだめすかすために、文字通りに一服付いている様子だった。
充血した白目、潤いを欠いた肌。
頬をさすれば、朝にそったばかりの髭がもはや伸び始め、ザラザラと手のひらを擦った。
彼は思った。
まったく、俺がこんなに疲れてるってのにアイツは何であんなに涼しげでいられるんだ。
顎髭一本生えてこないじゃないか。
これじゃどっちが取り調べを受けてるんだかわからないな……。
坂口章吾は黙秘を続けた。
口を固く閉ざした人をよく牡蠣に例えたりするものだが、まさしく彼のだんまりは、荒れた海の底で岩にベッタリとへばり付いて離れない、無表情な二枚貝のように頑なだった。
ここまで完璧に沈黙へ堕ち、ここまで完璧に言葉を飲み込んだ黙秘をこの検事はついぞ見たことも聞いたこともなかった。
一口に黙秘とは言っても、大概、検事の一言一言に一喜一憂、顔を紅潮させたり青ざめたり、奥歯をキリキリ噛み締めて堪えてみたり無理に目を逸らしてみたり、確かに言葉は発していないのだが、表情があまりにも饒舌になってしまう人が多い。
幾らだんまりを決め込んでも、人の心にはそれぞれにデリケートで感じやすい個所があるもので、そこをくすぐられてしまうと、大抵の人は意志がグラグラと揺らぎ、それが思わず外側へ零れ出てしまうものだ。
検事や警察は取り調べにおいて、まずはそんなヒダの様なところを探りあてることからはじまり、一たび見つけてしまえばそこを徹底的に攻めて落としていくというのが、取り調べの定石となっている。
しかし、この坂口章吾という男を相手にそんな定石など繰り広げたところで、泥沼に楔を打ち込むほども手応えがなかった。
目をつぶり、口を真一文字に結び、腕を組み、黙るというよりも、何かを静かに待っているようにも見えた。
―― おそらくは ――
検事は新しいタバコに火を点け、頭の中で自分の描いた仮説を一つのシナリオとしてまとめ、構築してみた。
多少、劇場化の傾向はあったが、彼はこういった作業を元来得意としていた。
『弛まない仮説の集積が、やがてたった一つの真実となる』というのが彼の検察官としての自論であった。
―― おそらくは今回の件、坂口章吾は何一つ関与していないだろう。調べたところによれば、あの代議士先生と彼が親しくなったのはこの一年と少しの間のはずだ。事件とは大きくタイムラグが生じる。調査は抜かりなくやった。それには自信がある。坂口章吾の潔白は確かだろう。しかし、あの書類、株を譲渡した際に交わした書面のサインの筆跡もその傍らに押された捺印も、確かに彼のものなのだ。とりあえず書面に細工した様子は見当たらなかった。やはり検事と言う立場上、証拠が出たからにはそちらを信じなければならないのだろうけれど……やっぱり腑に落ちない。そもそも、いざ先生の事務所を捜索だと言う時に、ふっと湧いて出てくるなんて、書面の見つかるタイミングがあまりにも良すぎやしないか?あれだけの大物政治家だ、おそらく我々が捜査にあたるのとほぼ同時位に情報を掴んでいたはずだし、裏社会との繋がりも密だ。こちらも出来るだけ早急に動いたつもりではあったけれど、危うそうなものを処分したり、でっちあげたりする余裕ぐらいは持っていたことだろう。まったく、アイツらの根回しの速さは尋常じゃないからな。おかげで今までロクに大物を起訴出来ずじまいで悔しい思いばかりしてきたんだ ――
検事は無意識に、手に持っていた紙コップのコーヒーを口に含んだ。
何の味もしなかった。
彼は眉を少しだけひそめ、残りのコーヒーを灰皿の中に捨てた。
―― 『スケープゴート』ってやつかな。自分の関与をカモフラージュするために身代わりを起てたわけだあの先生。見ず知らずの人間を担ぎ上げるのは危険だったし、かと言って秘書や後援会なんかの身内を説き伏せてみても、少なからず自分の名前が出てきてしまう、だからこそ表向きは何の関係もない人間、なおかつ決して口を割る心配のない人物を選ぶ必要があった。今はただでさえ国民が政治に対してとてもナーバスになっている時だ。テレビや新聞に自分の名前が挙がっただけでも叩かれかねないからな。起訴云々よりも奴さん、そっちの方をえらく気にしているんだろう。そこに坂口章吾……とんだポジションにいてくれたものだ。これじゃあどう足掻いたところで、代議士との公の接点がでてこない。捜査線上において、あの先生は一切無関係、真っ白で善良な人間だ。良くできた話だな。もし、ここまでのシナリオをあの先生一人の頭で考えだしたとしたら本当に脱帽ものだ。その気転の利く頭と危機管理能力をほんの少しでも国政の方にまわしてくれたらな ――
検事は一つ肩をすくめてから喫煙室をでて、また取調へと戻ることにした。
この小休止のおかげで、幾らか頭もスッキリしたようだった。
彼は長期戦になる事を覚悟していた。
こんなインターバルを何度か挟まなければ、こちらが根負けしかねないな、と検事は思った。
そして取り調べを行っている部屋のドアの前まで来たところで一度立ち止まり、そこに貼られた自らの名前が刻まれたプレートをじっと見つめた。
このドアを開ければ、そこは戦場だ、改めて気を引き締め直さなければならない。
―― 問題は、坂口章吾が何故そこまであの代議士先生をかばって黙秘するかだ。自らのキャリアに泥を塗ってまで身代わりを引き受けるメリットはなんだ?先生に義理立てするほどに彼らは蜜月関係にあったのだろうか?安に金銭や何かしらの便宜の取引があっただけなのか?どちらも坂口章吾から受ける印象にはあまりそぐわないものだが、今のところ、その辺りくらいからしか攻められないな。とにかく、何としてでもアンタがだんまりの奥に隠している何かを引きずり出させてもらうよ、坂口章吾さん ――
さすがに若くして選りすぐりのエリート集団である特捜部の一人に名を連ねるだけのことはある。
この検事のたてた仮説の大筋は見事に的中していた。
確かにあの時、先生の頭の中を一瞬で駆け抜けた閃きは、坂口章吾に自分の罪を全て擦り付けるという大胆な計画だった。
検事の推察の通り、自分の名前が一切出ず、なおかつ確実に罪から逃れられる、そんな都合のいい話を先生は本気で成立させようとしていた。
坂口章吾は何も語らないだろう、と先生はまるで根拠のない確信を抱いていた。
普通の人間相手ならば、慎重で周到な彼がこんな大博打を打つことはなかったのだが、先生は何故か自信に満ちていた。
政治家として長らく生き抜いてきた彼の勘が働いたのだ。
それに万一、坂口章吾が何か話しても、知らぬ存ぜぬをとにかく貫き通せばいいだけの話だ。
再起に燃える先生の心は、自身の後継者として密かに関係を育んできた若者を、今度は自らの盾として無慈悲に取り扱うことをまるで抵抗もなく、至極あっさりと受諾させてしまった。
あれ程までに大事に思っていた人間を、こうまで手のひらを返すように簡単に、自身の盾として前に出す事が出来るものなのだろうか。
人間の野心というものが持つ力は本当に計り知れないものだ。
しかし、見事な推理力を我々の前に披露してくれた検事ではあったが、彼は大事な核心部分を見誤っていた。
そして、見誤るといえば先生も大きな大きな失敗を犯していた。
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