第四話・口腔内の哲学、ひどい乾き
「キタガワさーん、キタガワ・ノリオさーん、診察室まで来てくださーい」
と呼ばれて、僕は待合室の硬いソファーから腰を上げた。
やれやれ、この年になって、よもや虫歯で歯医者に通院することになるとは思わなかった。
ちょうど今時間つぶしに読んでいた女性週刊誌に載っていた、風水学と月から送られてくる特殊なエネルギーをうまく融合させたという話題の占いによれば、今月の僕の健康運は近年稀にみるほど上々であったはずなのだけれど。
「まぁ、恥ずかしがることはありませんよ」
と歯科医は僕の心情を察して励ましてくれた。
町医者らしくとても砕けた調子で、マスク越しにでもニコニコと愛想の良いのがわかった。
「虫歯って子供がなるみたいなイメージを持たれていると思うんですけれどね、厚生労働省の統計によれば、かえって大人のほうが虫歯を抱えている割合が多いんだそうですよ。こうやって毎日歯医者屋をやっていますが、実感としては確かに貴方のような成人した立派な大人の患者さんのほうが多いような気がしますね。大人の場合は過去に治療したり詰め物をしたり、歯に人為的な隙間が生じていたりするので、そこを目ざとく、イの一番に虫歯菌の奴らは狙ってきてしまうわけなんですよね。だから何も貴方が特別というわけではないので安心してください」
そうは言っても待合室では先ほどから泣きじゃくる子供の声が高らかに響きわたり、その怒号はドアを閉めきったこちらの治療室にまで轟いていた。
「まぁさすがに夏休み冬休みはちいちゃな子供たちと付き添いの母親たちでえらくごった返しますがね。泣いたり叫んだり怒ったり怒られたり、そりゃあお祭りみたいに賑やかなもんで、ハハハ」
初老の歯科医は心から楽しそうにそう言った。
本当に子供が好きなのだろう。
こういう人だからこそ長年にわたり、そんな喚き散らす子供たちを穏やかにたしなめ、安心させ、その口内環境を整えることができたのだと思う。
これで白衣とマスクを取ったら歯医者と言うよりも小さな保育園の園長といった趣をだすに違いない。
「それでもね北川さん。私はこう考えるわけですよ。どんなにふん反り返って偉そうにしてるお偉いさんや代議士の先生方も、ドリルの音に怯えてピーピーべそをかく子供たちも、そして貴方も私も、口の中を覗けば等しく虫歯菌を抱えた同じ一人の人間ってことなんですよね。別に人類みな平等とかラブ&ピースなんかを説くわけじゃないですけれど、それが三十年も色んな患者、というより色んな人の口の中を見てきた私なりの哲学なんです。そう思って構えていれば大抵の不愉快なことや腹立たしいことも不思議と堪えることができるもんでして……。何を当たり前のことを言ってんだこのオヤジ、なんて思わないでくださいね。そんな当たり前の事でも、実際に普段から意識したり実践してみたりなんて段階になると、なかなかどうして難しいものなんですよ、これが。まぁ私が年を重ねて丸くなってきたというのもあるんでしょうがね。髪だってほら、もう白い物の方が多いくらいですよ」
と言って彼は少し横を向き、マスクと帽子の間にあるモミアゲを僕に見せてきた。
確かに目算で全体の六割くらいが白髪であった。
そしてまた僕の口の中に向き直って治療の続きにかかった。
口数も多いけれど、きちんと手数も付いてきているところがすごい。
「貴方はまだまだ若い。こんなオッサンの戯言、口を開けて歯をいじくり回されて文句を言おうにも喋れない、逃げ出したくても動けない、なんて状況じゃなかったら聞く耳も持たないんでしょうけどね、いつかもう少し貴方が年を取って、色んなことを全部真正面からじゃなくてちょっと斜に構えながら眺めることができるような余裕が出てきた時、このおしゃべりな歯医者のオッサンが言わんとしていたことが実感としてわかってもらえるんじゃないかなぁと思いますよ」
僕は何かを言いたかったのだけれど、確かに口を大きく開けたままでは何もしゃべれなかった。
その代わりに僕はじっと歯科医の目を見つめた。
彼の視線は終始僕の歯のほうに注がれていたので、目と目が合うということは最後までなかった。
しかし、この歯科医ならば僕の言わんとしていたことを、あるいはわかってくれたかもしれない。
例え普通に口が利ける状態にいても、僕自身、うまく表現できなかったかもしれない何かを。
その後の三度の治療で、僕の虫歯はすっかり完治した。
その三回の処置を担当してくれたのはその歯科医院の跡取り息子なのだろうか、まだまだ手際がいいとは言えないけれど実直に(そして言葉少なに)治療をしてくれる青年医師で、あの医院長にはついに診てもらわずに終わってしまった。
たまたまなのだろうけれどその姿を見ることさえ一度もなかった。
結局彼は僕の中に、とても歯医者的な哲学の言葉を残したまま消えてしまった。
僕はその歯科医の話をただの戯言だとは思わない。
三十数年にのぼる歯科医としてのキャリアが導き出した一つの立派な世界観なのだ。
そこには確かにそれなりの重みがあった。
ただ一度の人生のうち、どれだけの人がどれだけの哲学を自ら見つけることができるだろう。
そしてその哲学をもって他の誰かの心をどれだけ揺さぶることができるというのだろう。
その日の帰宅後、すっかり治療が済んだらしいとハツミに告げると「残念、もう少しその医院長先生の話を聞きたかったんだけどなぁ」と彼女は本当に残念そうに言った。
彼女は哲学とか経験則とかいう話がとても好きなのだ。
それらを実際に体現するかどうかは全く別として。
「私も通ってみようかしら」
「君も虫歯?」
「ぜーんぜん。そのおしゃべりな先生に一度会ってみたいだけ。私の口内環境は生まれてこのかたずっと健やかなるものよ。多分、歯の生え変わりが口の中で起きた一番の大事件じゃないかしら」
「それはなんとも君らしいね」
僕は自然と笑ってしまった。
*
そもそも僕が歯医者に通わなくてはならなくなったのは多分、その少し前からハツミが凝りだした菓子作りがその責任の大半を占めると思う。
彼女と二人、一つ屋根の下で生活を共にしている僕がその菓子の試食係も本食係もつとめなくてはならないのは至極必然的なことであった。
それまであまり甘い物は好んで食べなかったのだけれど、おかげさまで舌の甘味を感じる部分は最近休む暇もない。
短期間のうちに虫歯ができてしまうくらいに。
「あなたって本当に美味しそうに食べてくれるから作り甲斐があるわよね」
とハツミはまじまじと僕の顔を見ながらそう言った。
その時僕が食べていたのはブルーベリーのパイだった。
うまかった。
さっぱりとしてくどくないその甘さが、ドンと置かれたワンホール、丸々平らげることができそうな気にさせた。
「だって本当に美味しいから」
「ありがと。快気祝いとしてはもっとゴテゴテっとした華やかなケーキを作ってあげたかったんだけど、なにせ虫歯からの快気だものね。そのブルーベリーのジャム、すごく甘さ控えめでしょ?実は砂糖の類がほとんど入ってないんだ。だけどきちんとした旨味と甘味を出すのに色々と工夫してあるの。ほら、いまどき野菜のケーキとかヘルシーなスイーツとかが当たり前にあるじゃない?それを参考にしたわけ。マリーアントワネットの時代から比べてお菓子の業界もかなり進歩してるのよね。でも多分貴方が虫歯にならなかったらそんな事なんて思いつきもしなかったんじゃないかな。甘いだけがお菓子の顔じゃないのよって。そういう意味ではあなたの虫歯は私の見る世界をちょっとだけ広げてくれたのよ」
そう言ってハツミは両手を少し広げて世界の広がりを表現した。
彼女の見ている世界が一体どれだけの大きさを要しているのかはわからないけれど、それは絶えず成長し、膨張しつ続ける一つの宇宙のようなものなのだろう。
「しばらく甘いものは駄目だって言われたけど、これなら大丈夫そうだ」
「うん、だけどそれでもお菓子はお菓子、食べないに越したことはないのよね。もうちょっとの間だけ自粛したほうがいいのかな、スイーツ作り。私が食べてって差し出さなければ甘い物なんて全然食べないんでしょ?」
「そうだね、わざわざ買ってまでケーキやチョコレートを食べたいだなんて思ったことはないかな。でも君の作るものは何でも美味しいからついつい食べ過ぎちゃうんだと思う。お世辞じゃなくてね」
「貴方がそんな事言うから、ついつい作ってあげたくなっちゃうんだと思う」
彼女が頬杖をつきながら満足気に僕がパイを食べるのを最後まで眺めていた。
ハツミの作る料理はどれもこれも本当に美味しかった。
お世辞じゃなくて。
それは彼女の優れた味覚が為せる技ではあると思うのだけれど、もう一つ、彼女はなにをやらせてもとにかく器用だった。
彼女は思いつきであれこれと趣味を変えるクセがある。
このスイーツ作りの前にハマったものはテディベア作りだったし、その前は陶芸の市民講座に通っていた。
このように趣味をコロコロと変える人の多くは、熱しやすく冷めやすいという性根から次から次へと八方に飛びついてはまた飽きて次に行くの繰り返しだけれど、ハツミの場合はそれとは少し違う。
彼女は本当になんでも卒なくこなすことができた。
止めどなく溢れ出る飽くなき好奇心もあった。
そして何より、決して途中で諦めて投げ出すことのない我慢強さを合せて持っていた。
何事もある程度の恰好がつくまで仕上げなければ気が済まないのだそうだ。
確かにその言葉を裏付けるように、彼女の作った陶器の大皿は出来栄えがあまりに良すぎたため、その後の受講生の見本として今でもそこの教室のショウケースに入れられていたし。
ハツミの知り合いの小さな雑貨屋に十体限定で置いてみたテディベアは大変好評で、その日のうちに即日完売。その後再三に亘ってまた作って欲しいとその知り合いから発注があったのだけれど、忙しいという理由でその度に断り続けていた。
別に忙しいわけでもないというのに。
そもそも最初から売り物として置くのは気が進まなかったみたいだった。
結局ハツミは自分の作品をそういう商売ごとに使われて欲しくなかったのだろう。
なんとなく、彼女の心情はわかるような気がする。
彼女はもっと個人的なものとして、もっと内的な方向に向けて色々なものを作りたかったのだと僕は思う。
自分の心の奥底に隠れた小さな小さな怒りや悲しみや喜び、その他の名前もない(あるいは付けようもない)感情をつついて刺激し、どうにか具現化してこの世に解き放ってあげたいという思いがあったのかもしれない。
多くの芸術家がそうであるように。
心の不器用な人がそうするように。
もちろんハツミの口から何一つ聞いていないので確信は持てない。
何の深い理由もなく、本当にただの気まぐれで断っただけなのかもしれない。
あるいは単に恥ずかしかっただけなのかもしれない。
ただ、横にいてその可愛らしい熊のぬいぐるみの創作の様子をずっと眺めていた僕には、ハツミが片手間で、半端な気持ちでそれらを作り上げている風にはとても見えなかった。
その集中している背中からはどことなく切実さすらかもし出されていたような気がする。
まるで壊滅の危機の迫った地球を守れる唯一の希望でも作っているかのように。 あるいはただ一人、どこかの誰かを何かから必死に守るかのように……。
一言聞けばいいのだろう。
どうしてそこまで真剣なのかと。
君を駆り立てているものはなんなのかと。
僕らは恋人同士であり、一緒に生活を共にしているパートナーなのだ。
気兼ねなんてしなくていいはずだ。
思えば……僕はハツミに向かって何かを真剣に尋ねたことがあっただろうか?
*
*
*
ハツミとの出会いを語ろうと思う。
しかし、そのためにはまず僕の仕事について少し語らなくてはならない。
僕は海外のダイエット食品を主に輸入する小さな商社、そこの直営の店舗に勤めている。アメリカで話題のローカロリーかつ美味なゼリーだとか、ドイツで開発された脂肪の燃焼を促進してくれる特殊なドリンク、果ては何某と呼ばれる南米の魚のヒレから抽出した、何某と呼ばれる肌艶を良くする成分を粉末状にしたものなど、その手の肥満や容姿に悩める全ての女性の味方をしてくれる食品やサプリメントを現地から買い付け、直営の店舗、もしくはネットのショッピングモールにて販売する会社である。
とはいえ僕はその中にあってはただの販売員、海外へ出張したりマーケティングを企画したりする本社勤務の人達とは違い、すこぶる待遇の芳しくない市井の社員だ。
その製品の効用の有無や出所の信ぴょう性、原価や利幅の大きさなどなど、僕は正直何一つとして確かなことを言うことができない。
僕らはただの売り子であり、本社の人間からパンフレットや書類を渡され、今度の新商品はこんな感じのもので、こんな感じで売ってくれまいかと大まかな説明をされるだけなのだ。
さすがに情報が乏しすぎてイマイチよくわからない時もあるので、僕達も幾つか質問したりするのだけれど、その度に明確な答えが返ってくるかと言えばそうでもない。
おそらく、その買い付け担当者にもよくわからないまま仕入れてきたりする製品がたまにあったりするのだろう。
そんなにいい加減な会社がよくこの世間でしっかりと成り立っているものだと不思議に思う。
それだけこちら方面の分野の需要がとても明るいということなのだろうか。
確かに僕が受け売りの言葉を右から左にそのまま受け売るお客様は皆、なんのてらいもなく商品を手に取り、なんの疑いもなく嬉々として購入していく。
それだけ彼女たちは真剣なのだ。
自らの抱える余分な脂肪と真剣に対峙し、なんとか体からお引き取り願おうとしているのだ。
僕らももう少し真剣に彼女達と向き合っていかなければならないのではないのか?本来は。
ともかく僕らの販売した幾つかの製品は有名な映画女優やアイドル歌手が、効果的であると広告でも何でもなく本当にプライベートな口コミで広げてくれたおかげで、ちょっとしたブームを起こしたものもあった。
まだまだ若い会社で、経営の軌道が安定したといえるまでにはもう少しかかりそうではあるけれど、とりあえず、当面は倒産の心配はなさそうだ。
ハツミはそんな無償のコマーシャルをしてくれた一人である女優の後輩だった。
つまりは彼女も女優なのだ。
女優なのだと言われたから、ああこの人は女優なんだなとすんなり認識できたのだけれど、そうでなければ正直ただのどこにでもいる女子大生くらいにしか見えなかったろうと思う。
それだけハツミはとても普通の女の子だったのだ。
あか抜けないとか地味だとかいうのではなく、単に普通だった。
少なくても芸能人にはまず見えなかった。
あるいは僕が女優という言葉の持つイメージに偏見を持ちすぎているからなのだろうか?
僕はその日、我が社の業績アップに多大な貢献をしてくれた例の映画女優を、今度の新製品の広告に起用するという話の大筋をまとめるために、彼女の事務所に本社の人間と共に赴いていた。
先にも述べたとおり、僕はしがないただの一販売員なのだけれど、当日の朝になって担当である三人のうちの二人が急に軽い食中毒で救急車で搬送されてしまい、どうしても代役が見つからず、時間もなかったので、急きょ僕に白羽の矢がたったわけだ。
その芸能事務所のわりと近くにたまたま僕の働く店舗があったというのもあるし、その本社の人間とも何度か面識があり、僕の仕事ぶりをある程度評価してくれていたための抜擢だった。
「急な話で申し訳ないが、北川君なら落ち着いているし見栄えもする。何より君は余計なことをしゃべったりしないだろう?」
とのことだった。
確かに僕は余計なことどころか、何一つしゃべったりしないだろう。
なにせ相も変わらず話の詳細は知らされていないのだ。
わかりました、と僕は別段深く考えもせずに申し出を承諾した。
そもそも僕ごとき、断る権限なんてはじめからないのだ。
午後三時過ぎまで通常の仕事に励み、それから店まで迎えに来てくれた本社の人間と僕はタクシーに乗り込んで目的地へと向かった。
その芸能プロダクションはコンクリートの打ちっぱなしの外壁に木目のタイルを効果的に散りばめて配置した、とてもシックな作りの三階建てビルに看板を掲げていた。ビルと言うには少し小振りだったし、一見すると若い建築士のこ洒落た自宅兼事務所みたいに見えるのだけれど、確かにここが今回の目的の場所であった。
それはオフィス街からはずれた閑静な住宅地の中に静かに溶け込み、ひっそりと佇んでいた。
華やかな芸能界へと人材を排出する大元としては、幾らか趣が控えめ過ぎる……と言うより趣味が良すぎるような気もしたけれど、それもまた、ただの僕の偏見なのだろう。
しかし一度建物の中に足を踏み入れると、さすがにそこはオフィスプロダクションであった。
簡易的なものとはいえ、自動ドアが開くとすぐに金属探知機が来訪者を待ち構え、堂々とした体躯の警備員が二人、鋭く厳しく僕らを見定めた。
連れである本社の人間は何度も来たことがあるせいか、ずいぶん慣れた様子で、そんな視線をものともせずにぐいぐいと一直線に歩を進め、受付に座っていた女性に今回の担当者である女優のマネージャーにつないでもらった。
アポイントメントの確認に少々手間取っている間、僕はやることもなく手持ち無沙汰になったので、暇をつぶすのにざっとロビーを見回してみた。
外観の趣味の良さに比べて内装はあまりデザイン性に富んでいるとはいえなかった。
壁は潔癖症的に真っ白く無個性で、床のワックスはかかり過ぎのためにギラギラとし、その輝きは少々下品だった。
通りを見通せる大きな窓の際に三列備えられた喫茶スペースの椅子と長テーブルはほどよくくたびれ、適度にくすんでいた。
きっとどこかの社員食堂から払い下げられてきた物に違いない。
せっかくの洒落た外見なのだから、もっと緑が多かったり噴水があったり、大理石のタイルが敷き詰めてあったり天使の彫刻が置かれていたり、バロック音楽やイージージャズが小さくスピーカーから流れていたりと、品位を損ない過ぎない程度にラグジュアリーかつスタイリッシュ、できればそういう小粋なロビーであって欲しかった。
これじゃ二流のビジネスホテルか病院の待合室じゃないかと少々残念な気がした。
そんな勝手なことばかりを頭で考えていたところに、喫茶スペースの一番奥で一人ポツンと座って本を読んでいる女性が目に入った。
その女性は本当に熱心に読書に耽っているようで、遠目から見ている僕にも、まわりの雑音やどんな状況の変化も彼女の耳には届いていないのだというのがわかった。
僕も読書が大好きだから、その感覚は本当によくわかる。
昼に何の気なしに読み始めて、ふと顔を上げるともう日はとっぷりと沈んで夜になっていたなんてことはザラにある。
一体そこまで彼女を夢中にさせているその本は何なのか、とても気になるところではあったけれど、そこでようやく今回の打ち合わせの相手が足早にやってきた。
そうだった。
僕は仕事でここに来ていたんだった。
僕らは促されるまま、二階の会議室に移って打ち合わせをはじめた。
予想はしていたことだけれど、初めの挨拶と名刺交換、それが終わると僕のやるべきことはもうなかった。
あとは僕の連れとマネージャーの二人が時節の挨拶もそこそこに、軽い談笑を挟みつつあれやこれやと話し合い、しかるべき契約を結び、それでもうことは済んでしまった。
そもそも今日は最終的な詰めの確認をしに来ただけなのだ。
果たして僕が一緒について行った意味はあったんだろうか?
多分、何かしらの貢献はしているのだろう。
やはり、僕の知らないところで。
「……ではそういう日程で調整をしていただいて」
という相手方の一声とともに僕ら三人は立ち上がった。
彼はメインのパートナーである僕の連れに握手を求め、その流れでもちろん僕にも手を差し出してきた。
今後この仕事にはもう関わることはないんだろうなと思いながらも僕は「またよろしくお願いします」という言葉を添えてその手を握り返した。
帰りのタクシーの中で、僕の連れである本社の人間が突然あっと声をあげた。
どうやら今訪ねたオフィスに忘れ物をしてきたようだ。
「万年筆を忘れたみたいだ」
「万年筆ですか?」
「何枚か書類にサインしてもらったろ?その時に貸したまま返してもらうのをすっかり忘れてたよ。弱ったなぁ」
と彼はポリポリと頭をかいた。
確かに、相手の署名が必要な個所が何個かあったのだけれど、その際に彼は内ポケットからネイビーブルーの多少古びた感じの万年筆を差し出した。
随分、洒落たものを使ってるんだなと僕はその時少し気になっていたのだ。
「大事なものなんですか?」
「大して高い物でもないんだけどな。ただ死んだじいさんの形見で、学生時代からお守りみたいにずっと持っていたやつだから、なんだか気持ちが悪くって。でも引き返してる時間もないし、まぁそのうち取りに行けばいいかな」
確かにもうずいぶん離れてしまったし、東の空を見上げると、夕闇がじわりじわり迫ってきているのがわかった。
「なんなら僕が取りに戻りましょうか?別に僕の方は時間も余ってますし」
僕は反射的にそう彼に申し出た。
この数時間、彼の横で何もせずにくすぶっていた心が思わず僕にそんな言葉を言わせてしまったのだろう。
面倒ではあったけれど、とにかく言い出したからには僕も引き下がれなかった。
「いやいや、仕事ならともかく思いっきり私事だし、別に急いじゃいない。そもそもいい恰好しないで、失くしてもいいような安いボールペンでも使ってりゃよかったんだ。気を遣わせてすまないな」
「本当に時間はありますよ。どうせ今から本社に寄ってその後に店の方に戻っても、すぐに閉店になってしまいますから。片付けだけしに戻ってもなんだかあれですし」
夕食刻の忙しい時間にダイエット食品をわざわざ買いに走る人は少ない。
仕事終わりにОLが立ち寄るというピークを過ぎた後、客足は一気にまばらになり、閉店時間の二十時時まで殆どやることがないのだ。
僕一人途中で合流してもかえって邪魔になってしまうだろう。
彼はタクシーの窓から絶え間なく流れていく街の景色をじっと眺め、僕の言ったことについて少し考えているようだった。
それからおもむろに僕の方を見返して「それじゃあ頼んでもいいかな」と言った。
僕らは運転手に路肩に寄せて停まってもらい、僕はそのタクシーから降りた。
連れが窓を開け、これで違うタクシーを拾ってくれと一万円を僕に手渡した。
「どこまで戻れっていうんですか」
と僕は笑いながらその一万円を押し返して辞退した。
それは往復のタクシー代としても明らかに余分過ぎる金額だった。
「いいんだよ、俺の気持ちだから。釣りはそのまま取っておいてくれ。本社には俺の方からきちんと報告しておくし、君の店の方にも連絡を入れておく。君の言うように時間も時間だし、そのまま直帰してもらっても構わないだろう。物は明日、仕事のすきを見つけてなんとかそちらに取りに行けると思う。それまで預かっていてもらえるだろうか?」
「もちろんそれは構いません。でもやっぱり多いですよこれ。高くつきやしませんか?」
「本当にいいんだよ。そもそもが今回の件、君にとってはえらく迷惑な話だったろ?実質、これは最初からほとんど俺一人で進めていた話だったんだ。それを上の連中が舞い上がっちゃって『一大プロジェクトなんだからもう何人か人をつけなきゃ恰好がつかない』なんていきなり言い出すんだぜ。大した話し合いもしないクセに一丁前な会議を開いてみたり、ぞろぞろ大人数で先方さんのところへ押し掛けてみたり。だいたいあいつらは……悪い、愚痴ってる暇なんてなかったな。とにかく能無しの連中を何人も抱えるより君が一人いてくれたほうが大いに助かったってことだけはわかってくれ。また明日改めてお礼を言うよ。それじゃ頼む」
そう言って彼は一万円札を僕の手の中に押しこめたままタクシーを走らせ、去っていった。
ただ横に座っていただけの僕が助けになったというのは気遣いからのおざなりな社交辞令だろうけれど、確かに彼は一人でバリバリに働いて今回の話を成功させたのだと思う。
幾分短気でせっかちな部分があるのは否めないが、彼一人に任せておいた方が何事もうまく進んでいきそうな気がする。
できる男なのだ。
こんな小さな会社の中では狭苦し過ぎて、その能力をいかんなく発揮できずにもったいないような気がする。
しかし、結局人にはそれぞれ考えるところがあるのだ。
彼が今の会社に満足しているのかどうかはわからないけれど、ともかく彼はしゃにむに動きまわっている、それは事実なのだ。
そして、やはり彼はせっかちだった。
相手の方に連絡を付けていないではないか。
まぁなんとかなるだろうと思い、とりあえず僕はタクシーを拾って先ほど来た道をまた戻ることにした。
忘れ物をした当の本人に連絡を取れれば一番よかったのだろうけれど、肝心の彼の携帯番号を知らなかった。
わざわざ会社に電話をして呼び出すのはなんだか忍びないし、多分迷惑がることだろう。
そういえばと思い出して、交換した相手の名刺をカードケースから取り出してみた。
そこには彼の名前とマネージャーを務める女優の名前、そしてオフィスの電話番号とファックス番号が印字されていた。
直接の携帯番号は残念ながら明記されていなかった。
こういう業界だからこそ、無暗に情報を漏らしたくないのだろう。必要とあらば白紙の裏側に直接手書きで書くようにして。
それでもオフィスの番号がわかっただけでもありがたかった。
僕はタクシーの中からその番号に電話をかけて、そのマネージャーを呼び出してもらうことにした。
会社名を告げると、電話を取った受付の女性は、先ほど僕らが訪ねたのを覚えていたようで「少々お待ちください」とすんなり話が通った。
保留のメロディーは『上を向いて歩こう』だった。
僕は何となく上を見てみた。
そこにはもちろんタクシーの天井があり、果てしない虚空があった。
僕の無意味な行動に対する無言の侮蔑もあったかもしれない。
おまけに取りきれなかったタバコのヤニまでそこには薄っすらとこびりついていた。
一応今は禁煙車ということになっている。
ノースモーキング・フォー・グッドライフ。
気の毒だとは思うのだけれど、喫煙者の暮らし易かった時代はもう古代史並みに大昔のことなのだ。
僕は気管支系が弱く、タバコとは生まれてこのかた上手に付き合えた例がなかったので、今の時代に別段文句はなかった。
「もしもし、お待たせ致しました」
と下らない思考世界の中に、固く実務的な女性の声が響き渡り、僕は現実へと思い切り引き戻された。
急な気圧の変化に耳が痛くなったような気がしたけれど、たぶん気のせいだ。
「誠に申し訳ございません。ただいま○○は撮影の現場に向かっている車中でして、弊社に戻るのは深夜になる予定です」
「そうでしたか。わざわざお手数をお掛けして申し訳ありませんでした」
そういうことならば仕方がない。
明日店に来た時に事情を説明して、自分で取りに行ってもらおう。
本当に高くついてしまって、なんだか申し訳なかった。
「取り急ぎのご用件でしょうか?」
「いえいえ、全く個人的な用件でして。また出直して来ますから」
「個人的……失礼ですが万年筆のことではありませんか?」
「ええ、そうです」
僕はビックリして言った。
「万年筆を忘れてしまいまして」
「ああ、そういうことでしたら言付かっている人間がいるようですので、大丈夫です。こちらにお越しいただけることはできますでしょうか?」
彼女はホッとしたようにそう言った。
きっと良い人なのだろう。
「ええ、ちょうど今そちらに向かっているタクシーの中なんです」
僕もホッとしてそう言った。
特に良い人には思われてはいないだろう。
二度目に訪れたくらいでは、ここの警備員の刺すような視線にはなかなか慣れることはできない。
僕がほんの二時間ほど前にこのゲートをくぐったのを覚えていないわけでもないだろうに、そこまで警戒しなくてもと思った。
あるいは彼らのような仕事に就く人たちは、そういった先入観を持ち合わせないようにするメンタルの特殊訓練を受けているのかもしれない。
確かに、二時間前には健全でごくごく無害だった人間が、今度は爆弾を懐に抱えてビルを吹き飛ばしにやってきた人間に変わっていたなんて事も無いわけじゃない。
その都度警戒されるのは、彼らが有能で真面目に職務を遂行しているという証拠なのだろう。
あるいはただ単に僕の慎ましやかな存在感じゃ、彼らの記憶に刻みこまれるには弱すぎるのかもしれない。
対して先ほど丁寧に電話対応してくれた受付の女性は、やはり僕の事をきちんと覚えていてくれたようで、ちょうど他の来訪者の相手をしていたところだったのだけれど、遠目から僕を確認するとすっと立ち上がり「あちらです」という具合に右手を挙げてロビーの方を指した。
僕もジェスチャーで「ありがとう」と言い、指された方に歩を進めた。
そこでは女性が一人、窓の外を眺めながら静かにコーヒーを飲んでいた。
あの読書に熱中していた女性だ。
僕が見た時と同じ椅子に座り、おそらく同じ本だと思われる文庫本と例の万年筆が、コーヒーカップの隣に置かれていた。
それらはあたかもコーヒーのセットメニューであるかのように、とても自然に、しっくりとテーブルの上でよく馴染んでいた。
近づいてわかったことだけど、彼女はとても美しい顔立ちをしていた。
頬杖をつきながら外を見やる目は物憂げでありながらも大きく、キュッと結ばれた形の良い唇には薄くリップがひかれてどこか蠱惑的な肉感があった。
クセもなく真っ直ぐに伸びた長い黒髪をポニーテールに結い、小ぶりな耳を惜しげもなく晒していた。
だらりと襟ぐりの深い白いニット地のセーターから黒いキャミソールの肩ひもがのぞいてはいるが、不思議とだらしなさや下品さを感じることは無く、むしろその自然な着こなしは女性的な色気よりも、どこかホッとするというか、こちらの気をほぐしてくれるような安心感を与えてくれた。
僕が近づいていくと彼女はおもむろにこちらに向き直り、驚いたのだろうか、ただでさえ大きな目を、ことさらに大きくさせた。そしてしばらくの間が生じ、それからニコリと微笑んだ。
「いまどき万年筆だなんていうから、もうちょっとご年配の紳士を想像して窓から眺めて待っていたんだけれど、ダメね。思い込みっていうのは真実を曇らせ、思考を鈍感にさせる」
彼女はそう言って、ポンポンとテーブルに置かれた文庫本を軽く叩いた。
鈴の鳴るような、耳に心地の良い澄んだ声だった。
「ちょうど今読んでいる小説にそんな事が書いてあったのよ。すごい偶然だと思わない?そんなものなんだろうなぁって思いながら、色々と私が日頃思い込んでることについて考えていたところだったの。そこで予想外にこんな若いお兄さんがやって来て、それで驚いちゃってるんだもの、笑っちゃうでしょ」
そう言った本人の方がクスクスと可笑しそうに笑った。
その笑い声は、思わず僕もつられて微笑んでしまうくらいにとても屈託のないものだった。
こんなに素敵な心からの笑いを久しく見ていないなと思った。
「○○さんから言付かってくれたそうですね。わざわざお手数をお掛けしてしまいましてすいませんでした」
「ううん、私の方は全然。やることもないからここで昼過ぎからずっと本を読んでいたくらいだもの。自分のマンションに帰るのも考えたんだけど、なんだかこの場所って落ち着くのよね。コーヒーはタダで飲み放題だし。図書館も好きだけど、私はこれくらい適度にざわざわしてるくらいの方が集中して読書に励めるの。そこに○○さんが走ってやってきて『君、今日はここにずっといるのかい?それならこの万年筆を取りに来る人がいるかもしれないから、渡してもらえるだろうか。僕はこれから急いでいかなくちゃいけないんだ。それじゃ頼むね』ってそそくさと行っちゃったの。私が暇だったからいいけど、この業界の人達ってそういう常識とか他人の都合とか考える能力にかけてる人が本当に多いのよね。その様子を見ていた受付の娘ともそう話してたんだけど」
「何かと忙しいんだと思いますよ。そんな時に忘れ物なんかする僕らの方が悪いんです」
「これは貴方の物なの?」
彼女は万年筆を手に取り、何故かキャップを開けてそのペン先の匂いを嗅いだ。
インクの匂いが好きな人はよくいるけど、そんなにあからさまにペンをクンクン嗅ぐ人を僕は初めて見た。
「いえ、僕の上司……というか今日仕事でここに一緒に来た人の物です」
「ふーん、やっぱり老紳士?ずいぶん古い物みたいだけど」
「いえ、僕より幾らか年上なくらいで。でも元の持ち主はそうだったのかもしれませんね。お祖父さんの形見として受け継いだらしいですから」
「今でもしっかり使えるんだもの、きっと良い物なんでしょうね。ま、忘れて無くしちゃったら良いも悪いも一緒だと思うけど」
そう言って彼女は僕にその万年筆を手渡した。
これで本日の仕事が無事終了した。
今日は色々な角度から色々な力で振り回され、なんともいえない疲労感があった。
一刻も早くアパートに帰り、そのまま何もかもを後回しにして、ベットに倒れこみたかった。
親切なその女性に改めてお礼の言葉を述べ、僕は出口へと向かおうと身を翻した。
「あ、ちょっと待って」
と行きかけた僕を呼びとめ、
「一つだけ尋ねてもいい?貴方は何か信仰を持ってる?古今東西、和洋折衷問わずに、とにかく神様や仏様への信仰を」
そう言った。
シンコウ?
……信仰か?
「いえ、僕は無信仰ですね。多分、生まれてから一度も信仰を持ったことはないと思います」
「多分?」
「ええ、多分。定期的にお祈りしたり、教会や寺院に特別赴いたりもしない。正直まともにお賽銭だって入れたことがないんじゃないのかな」
と僕は少し考えながらそう答えた。
「でも、小さな頃はよく布団の中で神様にお願いをしながら寝ていました。これを頑張るから何をして欲しいとか、何を我慢するからこれをどうにかして欲しい。あるいはもっとストレートに願いを……」
その間、彼女は僕の目をじっと凝視し続けた。
そこで僕がおもわず目を逸らしてしまったのは、決して彼女の視線の強さのせいばかりではない。
「うん、まぁとにかく、それもある意味では信仰かと思ったので多分と言ったんです。ですが一般的な宗教の神様への信仰は持ったことがありません。多くの日本人の御多分に漏れず」
「……そっか、ごめんなさい引き止めちゃって。ここの所ずっと読んでいた小説、何だか宗教的な記述が多くて、よく理解できないところがあったの。作者はきっとその方面ではとても信心深い人なのね。その人の信仰に対する真剣さがビンビン文章から伝わってくるの。救いだとか慈悲だとか世界平和とかそういうやつね。でもその情熱がこの作品の中で少し浮いちゃっている気がするの。例えば全体をみれば、サラサラと流れる春の小川のように穏やかで美しい作品なんだけど、時たまその流れを堰き止めてしまうような大きな岩があったり、いきなり川底がズドンと深く暗くなったりしちゃうわかり難い個所があったりするわけ。そういうところがこの作者の文体というか文学倫理なんでしょうけど、なんだか勿体ないような気がして。だから貴方が何か信仰を持っているなら、この作者の言わんとしていることがわかるんじゃないかと思ったの」
「お役にたてず、すいません」
「ううん。変なことを聞いたりしてごめんなさい。急いでたんでしょ?今のは忘れちゃって。それに早く休んだほうが良さそうね。なんだか貴方、相当疲れているみたいよ。早く家に帰って奥さんでも彼女でもいいから愛をたくさん注入してもらった方がいいわ。世の中は慈悲と救済と愛情で満ちているんだから」
彼女はニコリと今日一番の笑いを僕に向けてくれた。
慈悲と救済と愛情に顔を付けるとしたら、きっとこんな顔になるんだろうな。
僕は一礼して改めて出口へと向かった。
帰宅ラッシュのピークを過ぎていたせいか、その後滞りなく家路につき、頭の中で何度も描いていたイメージ通りに僕は一目散にベットに向かい、部屋着に着替えすらもせずばたりとそこに倒れこんだ。
できる事ならこのまま何も考えずに、一刻も早く眠ってしまいたかった。
僕の思考と体は自分が思っている以上に疲れ、切に安息を求めているようだった。
この眠りが、例え破滅の朝へと真っ直ぐに向かう最後の眠りであったとしても僕は構わなかったことだろう。
しかし、それを強く阻むものがあった。
―― 貴方は何か信仰を持ってる? ――
彼女の顔が頭から離れなかった。
彼女が最後に僕に向けてくれた素敵な笑み、春の太陽のように柔らかくて明るいその笑い顔が、閉じた瞼の裏にチラついては僕の眠りを邪魔していた。
不思議な女性だった。
多分僕より何歳か年下だとは思う。
内容はともかくとして今時の若者にしては随分しっかりとした物言いをしていた。
初対面の相手にも物怖じをしない饒舌振り、肩に力の入っていない自然な佇まい。
学生だろうか?
でもなんであんな芸能事務所のロビーで暇なんか潰していたのだろう?
あの口ぶりだとあのマネージャーや受付の女性とも親しそうだったし、もしかしたらあそこでアルバイトでもしているのだろうか?
なんのバイトだ?
彼女の読んでいた宗教的な記述の多い小説ってなんだろう?
日本の作家?
あるいはロシアやアメリカの名だたる文豪達の有名な作品だろうか?
そんな話を僕は読んだことがあったかな?
……あれ?
その本に挟まれていた栞は確かピンク色だったよな?
掛けられていたカバーはどこの書店の物だったっけ?
飲んでいたコーヒーはブラックだったよな?
いや、ミルクの殻が横に一つあったような気がしたけれど、あれ、二つだったかな?
返してもらったのはボールペンだったっけ?
……うん、そうだ、確か青色のボールペンで、それは僕の母の形見の大事な物だったんだ。
だからわざわざ僕は爆弾を上着の裏に隠しながらそのホテルに一万円を握りしめて向かったんだよな。
ピピピピピ、ピピピピピ……
なんで警報が鳴るんだよ。
なんだよお前ら。
僕は何もしちゃいない、いいから通せよ。
僕は行かなくちゃならないんだ。
僕を待っている人がいるんだ。
僕に愛を注入してくれる誰かが待ってるんだ……。
「まさか寝てたのか?」
僕はどうやら眠っていたらしい。
そして無意識に鳴り響く携帯電話を取ったようだ。電話口の相手は誰だろう。
「いや、大丈夫です」
僕は反射的に答えた。
「だよな、まだ九時を過ぎたばかりだ。改めて今日は色々とすまなかったな。さっきふと思い出して、そういや相手に連絡を付けてなかったなと思ってな。俺はどうにも間抜けなところがあるみたいだ。物はしっかりと受け取れただろうか?」
「モノ?」
「物。万年筆」
「ああ、すいません、万年筆。大丈夫です、ちゃんと返してもらえました。○○さん、あの後すぐに出掛けたらしいんですけど、ちゃんと人に預けていってくれたらしく、その人から確かに受け取りましたよ」
僕の方こそ随分と間抜けらしい。
しかし、眠りと覚醒の間に生じる気圧の変化をものともせず寝起きでここまで対応できれば上出来ではないだろうか。
「預けてた?ちゃんと気付いてたってわけか。それならあの人もこっちに電話の一本ぐらい寄越してくれりゃいいのにな。ともあれ良かったよ、ほんと。全く君には謝ってばかりいる気がするな。今度お詫びにどこか飲みにでも行こう。それじゃ明日」
と言って彼は一方的に電話を切った。
どこで僕の携帯番号を知ったんだ?
他にも色々と尋ねたいことはあったのだけれど面倒になってやめた。
一部は自分で招いたこととはいえ、なにかに振り回されるのはもうごめんだった。
ただいまの時刻はPM九時二十分、二時間ちょっと寝てしまったことになる。
変な起こされ方をしたせいか、思考はまだ幾分ぼんやりとしていたけれど、それでも眠る前よりはまともになったような気がする。
引き剥がすように気怠い体をベットから起こし、たまらなくビールが飲みたくなったのでとりあえず冷蔵庫を開けたのだけれど、そこにかろうじてあった飲み物といえば自社の製品である栄養ドリンクと、豆乳の入った胡麻ドレッシングぐらいだった。
ドレッシングは冗談にしても、この喉の渇きはなんとなく、水や栄養ドリンクというよりも冷えたビールでスカッと潤されるべきものであった。
そんな種類の喉の渇き方があるのだ。それはあまり愉快とは言い難い一日の終わりとだとか、電話でむりやり叩き起こされた時だとかに多いものだ。
しかし、どんなに頑なにこだわっても、肝心の物がなければ話にならない。
僕は僕自身の無精を静かに、されどとても強く恨んだ。
ここの所、日々の生活の忙しさにかまけて買い出しに行くのをサボっていたのだ。
普段ならビールの二、三本くらいは常にストックとして置いておくというのに。
今日という一日にオチをつけるような深いため息を吐いたところで、またしても携帯が鳴った。
覚えのない番号だった。
取るべきか、取らざるべきか。
僕はじっと携帯の液晶画面を見つめ、そこになにかしら正しい選択を選ぶためのヒントが隠れていないか探したのだけれど、そんな親切な機能は残念ながら僕の持っている携帯には付いていなかった。
まぁ、どうせ今日みたいな一日だ。
おそらくどちらの選択肢をとってみても結果は同じ、彼らは僕を疲弊させ、擦り減らすだけなのだ。
僕は思い切って電話を取ってみることにした。
今度は何が僕を振り回すのか、その正体に興味が湧いてきたのだ。
中途半端に寝てしまったせいで、どうせもうしばらく眠れそうにもなかったし。
「もしもし」
「貴方は何か信仰を持ってる?北川教生さん」
彼女はそう僕に尋ねた。
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