坂口家《創生と誕生》
母・美紗が突然の破水に見舞われたのは妊娠八か月目のとある月のない夜、まだ何の用意もしないままに自宅にいた時だった。
坂口家では代々、決まったお産婆さんの一族に赤子を取り上げてもらう習わしだったのだが、美紗がこの世の終わりか地獄からの咆哮かと思うほどに喚き散らすため、見かねた家政婦が産婆の到着を待たずに救急車を呼んだ。
病院に搬送される途中も搬送されたそのあとも、麻酔をかけられるまでの間中、美紗は痛みとショックのために絶え間なく絶叫し続けた。
その夜、彼女の悲痛な叫び声が何階も上にいた入院患者の耳にも届いたそうだ。
そして赤子は帝王切開で緊急に取り上げられることとなった。
しかし、それほど壮絶な出産であったにも関わらず、美紗は少し喉が枯れてしまっただけですこぶる体調も良く、産後の経過も実に良好だった。
あの騒ぎは一体なんだったのだろう。
一方の生まれ出でたばかりの男の赤ん坊はひとつの予断も許さぬ状態で、小さな小さなその命の炎は、すぐにでも消え失せてしまいそうだった。
取り上げられた直後、ピクリとも動かぬ未熟な体は見て、その場に居合わせた誰もがダメだと思った。
正期産児であるなら尻を叩いたり逆さにしてみたり、荒っぽくはあるが泣かせる術は多々あった。
しかし、いかんせん、体が小さすぎた。
その手のひらに収まりそうなほど小さく頼りない体は、まるで触れるだけで儚く壊れてしまう繊細なガラス工芸のようだった。
何の処置もできないままいたずらに時だけが流れ、皆が諦めかけたその時、彼はその体の奥底から絞り出すように一つ鳴き声をあげた。
たまたま助産師が側にいたから気が付いたものの、危うく死産として扱われる寸でのところだった。
まだこの世に生まれてから十分ばかり、もはや彼は人生のターニングポイントを一つ越えたわけだ。
その鳴き声は本当に小さくか細かった。
しかしながらそれは確かな命の産声であった。
赤子は急いで特殊なカプセルに入れられ、熱心かつ的確な手当の元、無事に一命を取り留めた。
医者は全力を尽くしたし、赤ん坊も必死で生きようと頑張った。
その甲斐あってか特出した後遺症もなく、ひと月後には普通の赤ん坊と同じように母の胸に抱かれるまで元気になった。
その時起きたこの小さな命による小さな奇跡は、今でもその病院では語り草となっている。
男の子は教生と名付けられた。
教生の両親は共に良家の出で、おまけに二人とも類まれなる優秀な頭脳の持ち主だった。
父親である坂口章吾の家は、大正時代から地主としてそれなりに名の知れた家であったのだが、戦前から戦後にかけての動乱期、復興の勢いのどさくさに紛れ、不動産で大儲けをし、一躍、大資産家の仲間入りをした。
そんな坂口家には三人の息子がいた。
坂口章吾はその末っ子であり、稀代の神童だった。
幼稚園から高校まで、彼は成績の学年トップの座を常に誰にも譲ることはなかった。
それも全国各地から、同じように神童という冠を抱いてやってきた子供達が一堂にかえす、一流の私立学校の中でだ。
そして迎えた大学入試、周りの皆が血相変えてガリガリと勉強に励む最中彼は秀才ぶりをいかんなく発揮し、とてもスマートに、とても簡単に、至極当然のように某有名国立大学の法学部に合格した。
四年にわたり澄ました顔でそこの門をくぐり続け、なんの危なげもなく大学課程を首席で修了、大学院に進む意志はさらさらなく(実際に声はかかった。だが彼は一つのことに研究没頭するようなタイプではなかった)、いざ就職ということになった。
周りの人間は弁護士にさせるか、最低でも一部上場企業の幹部候補くらいにはなってほしかったようだった。
そしてしかるべき時に、既に家督を継承することに決まっている上二人の兄とともに、坂口家のさらなる発展に努めるよう彼に期待した。
だが、当の本人はそんなものには全く興味はなく、勝手に文部省の国家公務員試験の一種を受け、勝手に受かってしまった。
当然トップ合格であったのはもはや言うまでもないだろう。
教育というものに興味がある……。
坂口章吾が家族のものにそう告げると、みな一同に戸惑った表情を浮かべた。
よもや彼に教育に対する関心があったとは誰も予想だにしていなかった。
はたから見た限りでは、どちらかというと幼少期から大学に至るまで首尾一貫して学校や教師、勉強や教育などという概念そのものを軽蔑しているようにさえ見えていたからだ。
小学校の通信簿の『おこないの様子』には六年間常に、非常に優秀だとか落ち着いているだとか良いことばかり書かれていたが、誰もがその裏にある担任の教師の本音を察していた。
―― 何を考えているのかわからない ――と。
冷たく感情のない坂口章吾の瞳に見つめられると、親や兄弟など身内の人間ですら肝をひやりとさせられた。
ともあれ、家族の協議の末、一族に一人くらい官僚がいたってマイナスになるものでもない、むしろ出世して偉くなってくれれば今後何かと事業に役立つことがあるのではないか、という結論に至った。
既に合格してしまっているわけだし、それまで主張らしい主張をしたことのない本人が是非やりたいというのであれば、その意志を尊重しようじゃないかと。
しかし建前はともかく、本当はなによりも皆、坂口章吾のことが内心怖かったのだ。
はれて坂口章吾は文部省に入省する。
それからの彼の躍進ぶりは容易に想像がつくだろう。
同僚や先輩、ひいては上司までをも蹴散らし――原則出世は年功序列制なので役職こそ彼が下だったが、その存在感の強さは肩書きを遥かに凌駕していた――自らの地位を確固としたものにしていった。
相変わらずの無表情と冷たい瞳で。
その出世街道の途中、彼は将来の伴侶となる一人の女性と出会う。
教生の母、坂口美紗である。
前著のように、彼女もまた優れた知能を有した秀才だった。
そしてその手の才能は互いに共鳴し合う性質のものか、美紗もまた文部省に入省を果たす。
坂口氏から遅れること八年。
彼の下に彼女は配属される。
その二人の間にどんなロマンスがあったのか、そこを語るのはとても難しい。
なぜならば、未熟な語り部である私には、彼らの会話のどの辺りに恋愛感情や結婚の決め手があったのか皆目見当もつかないのだ。
彼らの交わした会話の一つ一つを細部まで分析すれば、なにかしらの蜜事は見つけられるかもしれないが、それにはどこからか永遠を二つ三つ拵えてこなければならないほどに時間がかかる。
そんなことをしている暇はないのでここではあえて語らないことにしよう。
ただ一つだけ言えるとすれば、卓越した頭脳同士の交わりの先には人々の理解を越え、決して想像しえないものがあるということだ。
まるで宇宙の向こう側を思わせるような、果てしない無か終わりのない有を思わせるような、そんな何かが。
なにはともあれ後に二人は結婚をする。
章吾三十二歳、美紗二十四歳の時だった。
結婚したとはいえ、美紗はまだまだ社会に出て動き回りたかった。
年齢も若く、自らの能力と可能性を世間という大きな入れ物の中で試してみたいという野心もあった。
そもそも彼女は非家庭的な人間なのだ。
それには色々と理由があったわけなのだが、とにかく良き妻になり良き母になり、夫や子供の世話のために自分の人生の限られた時間を浪費し、ただただ自分を擦り減らすだけの生活を送ることなど考えたそばから虫唾が走った。
「仕事の邪魔になるから、とりあえず子供は作らないことにしましょう」
というのが彼女の意見だった。
夫・坂口章吾はその意見にとりあえずは賛同した。
しかし、やはり内心では何を考えているのか、その表情の乏しい顔からは推し量れなかった。
どういうわけか、結婚をしてからの彼はますます自分の世界の中に引きこもるようになってしまったようだった。
それでも五年の後、美紗は妊娠をする。そ
れはまさに天からの授かりものとでも言わんばかりに、予期せず、あまりに唐突な妊娠だった。
美紗は当然その子をおろそうと言った。
ちょうど仕事でも脂がのり始めて面白くなってきた時だったし、女性の社会進出について世間がホットになっていた時代でもあった。
今は大事な時期だと思った。
このまま出産のため、育児のために社会からドロップアウトなどしたくはなかった。
もちろん夫にもそう主張した。
話せばきっと気持ちをわかって汲んでくれると美紗は信じていた。夫だけが信じられる存在だった。
だが坂口章吾は首を横に振った。
断固子供は生ませると言った。
それは本当に宣言するかのように高らかと、とても力強い主張だった。
若かりし頃、有無も言わせず家族の前で文部省に入ると言い放ったあの時とまるで同じように。
美紗も負けじと食い下がった。
世界広しと言えども、彼女の他に誰が坂口章吾に楯突くことなどできただろう。
言葉の応酬こそ少なかったのだが、互いの一言一言はあまりに重たく、あまりに鋭利で、あまりに殺傷能力の高いものだった。
普通の人間ならその一撃だけで再起不能になっていたことだろう。
数時間の後、結局、最後には坂口章吾の主張が勝ることになる。
美紗は悔しさに唇を噛み締めながら、子供を産むことをしぶしぶ承諾した。
―― まぁ、さっさと生んでしまって、さっさと復帰しましょう。私なら多少のブランク位あっという間に埋めることができるわ ――
というのがその時の彼女の心の声だった。
しかし、彼女は自分でも気づいていなかった。
心の隅のほんの小さなスペースではあるが、そこに他の大多数の人間と同じような、夫・坂口章吾に対する恐怖心が確かに芽生え始めていたことを……。
それでもいざ出産を終え、我が子をその身胸に抱いてみると、美紗は母性という自分の新たな一面を発見することになる。
美紗にとって教生がNICU(新生児集中治療室)から出るまでの一か月は、ただ彼一人にだけ捧げたひと月であった。
あれだけ痛い思いをしながら生んだ赤ん坊を、抱くことはおろか触れることもできず、ガラスのケース越しでしか接することができない、それのもどかしいことといったらなかった。
早く抱きしめたい。
その小さな瞳に自分を映したい。
自分が母親であると彼に教えたい……。
お腹にいる間はあれほど忌み嫌い憎みまでした存在であったにも関わらず、出産の際、麻酔のためにぼんやりと薄らいでいたその意識の中、小さくぐったりとしたまま息をしない赤子を垣間見て、言い知れぬ悲しみを覚えた。
そして目を覚ました時、その場に我が子がいないのがわかると、私が死なせてしまった、と人目も憚らずに大泣きした。
その場にいた家の者たちは本当に驚いた。なぜなら彼女が涙をながすところや自分を責めるところなど初めて見たし、なによりも彼女にそんな悲哀の情があることなど誰も知りえなかったからだ。
最初は美紗本人も自身のそんな変化にひどく困惑していた。
頭が冷めてくると、今こうやってベットに横になっている間も遥かに能力の劣る同僚や後輩たちが、自分を追い越し、自分のこなすべきだった仕事や役職を奪っていくんだという思いがよぎり、腹立たしく感じたのは確かだ。
しかし、母乳によって強く張った乳房や、切開した傷のうずき、なにより止めどなく溢れ出る母性のほとばしりが、自分が一人の人間の母であることを否応なく自覚させた。
そしてそれはこの世のあらゆる煩わしさから救ってくれた。
―― 仕事やプライドなんてもうどうでもいい。この子さえいてくれれば ――
気が付けばそんなことばかり考えている自分がいた。
その頃、坂口章吾は長期出張のために北海道にいた。
文部省の主催で大規模な教育フォーラムが開かれることになり、文部大臣をはじめ各地から名だたる教育者や研究者、学校経営者や教科書の編纂者に至るまでが一堂に札幌の街に会した。
教育に携わる人間が多方面からここまで大々的に集結したこの集会は、過去に前例もなく、文部省の威信を賭けたとても大掛かりな一大プロジェクトであり、坂口章吾はその筆頭責任者として全ての統括を任されていた。
異例の大抜擢であった。
妻が予期せず出産してしまったという一報を受けたのは、まさにその集会の前夜であった。
一緒にいた人物によると、電話でことの次第を知らされた時も彼は相変わらずの鉄仮面で、焦る様子も哀れむ様子も窺えなかったらしい。
ただ、子供は無事かというのだけは電話の相手に聞き返していたので、一応赤ん坊の心配はしていたようだった。
そしてそのまま電話を切り、何事もなかったように最終の打ち合わせの輪の中に戻っていった。
もはや言わずもがなと言ってもいいだろう、三日間に亘るフォーラムはもちろん
大成功のうちに幕を閉じた。
結局坂口章吾が妻・美紗の入院している病院を訪れたのは、出産から遅れること二十日ばかり後であった。
確かに集会の報告やらまとめの作業やらで忙しかったのも事実だが、あまりにも顔を出すのが遅すぎやしないかと、美紗の世話をしてくれていた看護師は責めるような眼差しを向けていたし、さすがに坂口家側の人間からも批判的な言葉が(とても小さな声で)出た。
だが、肝心の当事者二人はどちらも大して気にしている風ではなかった。
この頃にはもう、夫婦の間に期待や失望をするほどにきめ細やかな、感情の繋がりというものはなかったのかもしれない。
……初めからそんなものがあったことすら怪しいものではあるが。
出産から三か月、百日のお祝いを前に教生は慣れ親しんだ病院から無事退院をする。
ちょうどその一週間前に、母・美紗はすでに現場に復帰をしていたので、坂口家の家政婦(産気づいた美紗のため救急車を呼んだ人物)がその際に母親の代役として付き添った。
そのせいばかりではないだろうが、以後、この丸顔で人の良さそうな中年の家政婦は何かと教生のために優しく世話を焼いてくれた。
この女性がいなければ、これから待ち受ける少々厄介な教生の少年期は、さらに入り組み、複雑なものになっていたことだろう。
社会復帰を果たした美紗ではあったが、彼女は自分の中の仕事に対する情熱が、以前よりも薄れてしまっていることに思い当たる。
モチベーションというものがまるで上がってくる兆しがなかったのだ。
加えて、少し丸みを帯びて女性らしくなった体や柔和な物腰など、人柄は大きく変わってしまった。
その変化は誰の目にも明らかで、職場では出世のライバルである男たちが『もう彼女は終わったな』と陰でささやき合い、その内心ではホッとしているようだった。
取っ付きにくく傲慢であった美紗に良い印象を持っていなかった女性たちは『坂口さんすっかりお母さんの顔ね』と嘲笑的にそう言った。
もはやなんの未練もなかった。
彼女は復帰したその月にはもう上司へ辞表を提出していた。
幾ら人間が丸くなったとはいえ、長年抱き続けた高いプライドはそう簡単に切り離すことができず、同僚達の視線やあからさまな態度の違いに怒りや不満が込み上げてくることもあったのだが、それにも勝って息子・教生に対する愛情のほうがやはり強かった。
無事に自宅へ連れ帰ってくることはできた。
しかし、やはりその体の弱さ、特に呼吸器系の弱さは否めなかった。
入院中から医者とも相談していたのだが、子供のためには空気のきれいな場所に越すのが一番良いだろうということで、美紗はどこか山間の街へ共に移住しようと決めた。
当然といえば当然なのだが、周りの人間達は美紗の考えに猛反対をした。
都会から離れるということは社会から世間から離れるということだ、この都会にいれば無理に田舎の空気を吸わせずとも、最新の医療で最高の治療ができるではないか、高尚たる坂口家の血を継いだ男児が田舎の庶民と共にいては品位が下がる、と。
おまけに彼女が誰にも相談せずに文部省を辞めてしまったことまで皆こぞって非難した。
とにかく彼女の何もかもが気にくわなかったようだ。
こうなれば誰ひとり美紗の味方をしてくれる人などいなかった。
皆がそこまで強気に出られたのは、おそらく坂口章吾が同じく反対派にまわっていた強みがあったからだろう。
―― どこにもいかない ――
それが彼の意見であり、この世界の大原則であった。
坂口章吾はさながら政府軍のリーダーのごとく多くの人々をつき従えて美紗の討伐にかかった。
もはや彼にとって彼女は愛すべき妻などでなはく、ただの反旗を翻した反乱文士、綿密に計算された自分の人生設計の中に生じた、ただの誤算でしかなかった。
坂口章吾の歩く道の上の障害は、断固排除されなければならないのだ。
美紗は、夫がそれほど息子に執着する理由がわからなかった。
どう考えても彼が自分の息子に対して父親としての……というより人間として当然持ちうるべき愛情を持ち合わせているわけがなかった。
世間体など気にする人でもないし、一体あの人は何がしたいのだろう?考えるほどに彼女は益々わからなかった。
ただ直感的に、あまりいい気はしなかった。
息子に迫る何か邪悪な気配を、美紗は母親としての本能で敏感に感じ取った。
―― 絶対に息子をあの人の元に置いてはいけない ――
守らなければと思った。
しかし、同時に功を急ぎ過ぎてはいけないとも思った。
元々が坂口章吾と同様、彼女も明晰な頭脳の持ち主だ。今は動くべきではない、気が熟すのを辛抱強く待つべきだという結論がそのよく回る頭からはじき出された。
相手の力はあまりに強大で隙もない。
今何をしたところで、私だけがここから排除され、後には無防備な教生一人だけが残されてしまうだろう、と。
美紗は夫に屈したふりをしてチャンスを待つことにした。
どんなほころびも見逃してはならない。
どんな些細な物音も聞き逃してはならない。
……どんな悪意にも息子を汚させてはならない。
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