第二話・夏、そしてT
その年の夏は大変な猛暑だった。
どこの街でも観測史上で最高の気温を記録し、場所によっては次の日、またその次の日とさらにそれを更新したりしていた。
連日の日照りは大地を木々を人を、ひいてはアスファルトに伸びるそれらの影までもじりじりと焼いては焦がし、打ち水はまいたそばから天高く蒸発していった。
空は危うい程に青く青く澄み渡り、その気になれば世界中のあらゆる汚れを一身に吸い込み、きれいに浄化してしまうこともできたのではないだろうか。
あまりありがたいとは言い難いそんな夏の恩恵は、強烈な西日となって僕らのアパートにも降り注いだ。
二台ある扇風機は毎日二十六時間位フルに稼働してくれていたのだけれど、そのうちの一台(ハツミの持参品。タイマー機能も何もないシンプル&リーズナブルなほう)がまるで天寿を全うして眠るように召された好々爺のように、静かに息を引き取った。
突然の事だった。
僕らの見ているまさに目の前で羽根は音もなくゆっくりと静止へと向かい、そしてもう再び回りだすことはなかった。
現世での目まぐるしい活躍は、もはや遠い日の追憶となったのだ。
もちろん連日の過労がたたったとは思うのだけれど、そのわりにずいぶん穏やかな最期だったと言えるのではないだろうか?
もっと壮絶な死に様を晒すはめにだってなりえたはずだ。
廃品回収に出す前に、ハツミはありがとうと言って頭をなで、僕はごめんなと言って全身をキレイにしてあげた。
不謹慎な言い方かもしれないけれど、悪くない逝き方だと思う。
そんなわけで、頼みの綱の扇風機は一台となり、道産子である僕が毎日窮々として過ごしていたのを尻目に、ハツミは気温が上がれば上がるほどに生気も一緒に増していくようで、とてつもなく元気だった。
ある日、わざわざ百円均一で温度計を買ってきて壁に掛けたかと思えば、ことあるごとにその値を確かめるのが彼女の習慣となり、何が楽しいのかわからないけれど、一人できゃっきゃとはしゃいでいた。
「見て見て、遂に体温を越えちゃったわよ。どうしよう?」
とか。
「最近てんで勢いがないわね。夏なら夏らしくガツンと暑くならなきゃだめじゃない。私をもっと満足させて」
など、勝手な事ばかり言いながら。
そんなハツミにある時「暑くないの?」と僕が半ばあきれて尋ねてみると。
「暑いわよ。すごぉくね。でも悔しいじゃない?のびたりばてたりしてたら、なんだか夏の思うツボって感じで。あんな奴に負けたくないのよ、私」
とすずしく返してきた。
きっとそんな彼女の気持ちを理解できるのは、この世界広しと言えども勇ましく風車へと挑んでいった勇者、ドン・キホーテくらいしかみつからないだろうな。
開け放した窓の外から、かん高くて威勢のよい掛け声が聞こえてきた。
何を言っているのか正確には聞き取る事が出来なかったけれど、それはつま先から脳天へと突き抜けるようにして発せられた魂の叫びであった。
僕らの住んでいるアパートの近くに小さな市営グランドがある。
その日は日曜日で、少年野球の試合が行われていたのだ。
歓声の熱気からも、切迫したなかなか見応えのある試合であるようだった。
彼ら野球少年達もまたハツミと同じく、暑さとともに元気になっていく部類の人間だ。
汗と泥とにまみれたブカブカのユニフォームの下。
日焼けに日焼けを重ねたような黒い素肌の下には、明日への希望や期待がぎっしりと詰まっていて、がむしゃらでどこまでも真っ直ぐなその心には、決して大人達には放つことのできない特別な種類の輝きがあった。
彼らのように暑さも辛さも忘れるくらい何かに夢中になりたいものだけれど、どうしても大人には大人の事情がついてまわる。
保留されたままの問題。
社会的なモラル。
先行きの不透明な経済。
扶養と就労と納税の義務。
押し寄せる現実と、押し出される理想。
好むと好まざるとは別にして、僕ら大人には他に考えなければならない事が多すぎる。
誰かが行動の一つ一つに公平なジャッジを下してくれるわけでもなければ、状況に応じた的確なサインを出して導いてくれるわけでもない。
やがて来るであろうゲームセットの号令に向けて、僕らはひたすら自分の頭で考え、とにかく自分の足で選択していかなければならないのだ。
ただただ白球を追いかけてばかりではいられない。
もちろん僕にも少年だった時代があった。
美しい放物線を描いて大空へと吸い込まれていくホームランに魅せられたり、勧善懲悪のヒーローに憧れたり……。
あの輝いた日々からはずいぶん遠く離れてしまったように思える。
……それほど大昔の話でもないだろうに。
*
夏の話をもう一つ。
八月の、やはりとんでもなく暑い日(結局その日が今季の最高気温となった)僕の知人が一人亡くなった。
とりたてて親しいというほどの間柄ではなかったのだけれど、ひょんな事から僕らは知り合い、一時期顔を合わせる機会がよくあった。
彼の死を知ったのは本当に偶然だった。
それも偶然と偶然を掛け合わせて新たに生まれた、やたらに密度の濃い偶然だ。
これまでの人生において、霊的なものや、第六感などといった類のものにはほとほと無縁に生きてきたのだけれど、その時ばかりは背後に誰かの操り糸みたいなものが見えた気がして、少しだけザワザワとした。
それはたまたまいつもより早く目が覚めてしまった朝だった。
もう一度寝ることもできたのだけれど、二度寝をするには少し半端な時間だったし、ひどく喉が渇いていてすぐにでも水を飲みたかった。
何分かの間、色々と頭の中で行きつ戻りつ葛藤した挙句、やっぱり起きることにして、隣で小さな寝息を立てているハツミを起こさないようそっとベットを抜け出した。
台所の窓を開けると、凛とした朝の空気が部屋の中に滑り込んできた。
日中はもちろん、ここのところでは夜になっても気温が下がらず寝苦しい熱帯夜がずっと続いていた。
せめてどこか一か所でも窓を開けたまま眠れれば少しはよかったのだろうけれど、近所で起こった空き巣被害の話もちらほら耳に入ってきていたし、防犯のためにはやはり致し方ない。
そんな夜を何度も越えてきたせいか、その時に感じた朝の空気の素晴らしさといったらなかった。
気づけば感慨に浸る僕の心の中から、前夜の不快感はすっかり消えてしまったようだった。
人々が希望や再生、変革なんかの象徴に夜明けや朝の光をよく引用するけれど、確かにその例えは素晴らしく的を射たものだなと思った。
こんなにも清々しく始まった一日だ、なんだかいろんなことがうまくいきそうな予感がする。
そんな朝の空気を深呼吸して思い切り吸い、さぁ吐き出すぞという時に玄関のほうでガゴゴンととんでもなく大きな音がした。
あまり大げさには言いたくないのだけれど、心臓が口から飛び出してしまいそうになるくらいに驚いてしまった。
朝刊が配達されたのだ。
それはまるで永遠の楽園に突如落とされた黒い
生命の危機を告げるスクランブルのサイレンのごとく、鼓動が激しく脈打って鳴り響く。寝室のほうからハツミがううん、と寝返りを打つ声が聞こえた。
この清らかで神聖なる朝を無慈悲にかき乱し、犯してしまった配達員を僕は恨んだ。
しかし、彼らも忙しいのだろうとため息をつくだけで諦めることにした。
僕の抱えるささやかな平和なんて、彼らの抱える慢性的な眠気や過密な配達ノルマの前にあっけなく踏み潰されて消えてしまうのだ。
だけど、いつもあんなに荒々しいんだっけ?
ともかく僕は、いつも通りの生活が動き出すまでの少しの間、新聞を読んで過ごすことにした。
コーヒーメーカーに豆をセットしてスイッチを入れ、ドリップを待つ間にシンクの縁に寄りかかりながら普段と同じように全体を軽く読み流し、コーヒーができるとカップに注ぎ、それを持って食卓テーブルに移って今度はじっくりと本格的に読み始めた。
こんな風にあらたまって読んでみてわかったのだけれど、新聞を一面から隅々まで読み潰そうとすると、けっこうな時間がかかる。
世の中はネガティブなものからポジティブなものまで(嘆かわしいけれど前者の方がその大半を占める)様々なニュースで満ちていた。
国内外を問わず、本当に毎日いろんな出来事が起こるものだとつくづく感じた時間だった。
具体的な内容について今は取り立ててフューチャーする必要もないと思うので端折るけれど、一つ一つの記事に足を止めているとなかなか前に進んでいかないものだ。
日々の読書習慣の賜で文章を読むスピードは速い方だと思う。
しかしながら、いかんせん朝一番。
思考回路が眠りから覚めて充実するにはもう少し時間がかかる。
株価欄まできたところでさすがに目が疲れてきた。
それに無数の数字の羅列を前になんだか気持ちも萎えてきたところだった。
残りのページをさっさとめくり、切り上げ時かなと生あくびをしながら椅子から立ちかけたところに、覚えのある名前がふと目に入ってきた。
それはちょうど、社会面に載った大きな二つの事件の間にわずかに生じた余白を、小さく控えめに、とても申し訳なさそうに埋めていた。
それは素人目にもとってつけられただろうことが察せられる記事だった。
おそらくなにかトラブルがあって埋める文章や広告が足りなくなり、迫った締め切りに間に合わせるため慌てて挿し込まれたものなのだろう。
まぁ小さな地方新聞だし、年に一二度、こんな風に周りからあからさまに浮いて、居心地悪そうにしている記事を見かけることがある。
黒く醜いアヒルの子のように。
色の合わないシャツに結ばれたネクタイのように。
……この記事に書かれた当人のように。
しかし、間に合わせでも何でも、その数行の文章が世の中に示しているのは、紛れもなく一人の人間の死だった。
彼は昼下がりの大型スーパーの駐車場、仕事で乗り回している営業車の中で亡くなっているのを発見された。
死因は重度の熱中症、事件性はない――僕にわかるのはそれだけだった。
そこには詳しい経緯もバックグラウンドも。
哀悼の言葉も畏敬の念も親切心も。
訓示も哲学も文学的展望も。
どんな種類のアイロニーも欠けていた。
死はどこまで行ってもただの死だった。
とても珍しい名前だったし、年齢も大体記述されているくらいだったはずだ。
僕の知人であることは間違いないだろう。
僕はもう一度だけその記事を読み返してから新聞を元通り畳み、そこにそのまま手を置いて一つだけため息を吐いた。
吐かずにはいられなかった。
悲しいというわけじゃない。
その時の僕の気持ちは虚しいと表現したほうが正しいかもしれない。
彼はいい奴だった。
もっといえば彼は本物の善人だった。
決して社会から虐げられてはいけない、少なくともその死がこんなにも淡白に語られてはいけない人間なのだ。
しかしながら、おそらく僕はそんな文句を言えるような立場になんかいないのだろう。
結局僕は彼という人間について何一つ知っていることはないし、それどころか知ろうとさえしなかったのだから。
そう思ったところで虚しさの溝が更に深くなったような気がした。
「おはよう」
いつの間に起きてきたのか、ハツミが僕の後ろに立って言った。
「おはよう」
と僕は微笑んだ。
うまく笑えていないのが自分でもわかった。
「いい朝ね」
「うん、いい朝だ」
「でもなんだか寂しそうよ」
「うん、寂しいかもしれない。だけど少しだけ。だから心配ないよ」
彼女は僕の背中にピタリと寄り添い、腕を回して後ろから抱きしめながら僕を励ますような温かい声で、
「きっと色んなことがうまくいくわ。だってこんなに素敵な朝なんだもの」
と耳元で囁いた。
僕らはたぶん、もっと親しい友人にだってなれたはずなのだ。
そう、僕のほうでもっと彼に歩み寄っていたのなら。
*
*
*
何故こんなにもその知人の死が僕を揺さぶり、戸惑わせるのかわからなかった。
たまたまいつもより早く起きて、なんとなく新聞を読み、そして偶然に彼の名前をそこに見つけたというだけの話なのだ。
おそらくそんなことがなければ彼を思い出すことなどこの先なかったかもしれない。
いや、なかっただろう。
その程度の関係だったのだ。
他の誰とも同じくただただ僕の前を横切り、そして去っていく多くの人達の中の一人だったはずなのだ。
彼の話をしよう。名前はTという。
Tのことを思うとき、まず最初に彼の奥さんのイメージが先に浮かんでくる。
自信と色気とに満ち満ちた顔、たくさんの金と大変な手間のかかった肢体、さらに金のかかった装飾品、ゴージャスな衣服。
人を食ったような(事実、食い散らかしていた)態度、溢れ出る情欲、傲慢で押し出しの強いオーラ。
そんなものを持った女性だった。
生まれた時からというより、生まれるはるか以前から人の上に立つのが当然と暮らしてきた人々が放つ、独特の雰囲気があった。
独特とは表現したけれど、彼女の属している世界にあっては、至極当たり前のものなのかもしれない。
人づてに聞いた話では、都市部を中心として大規模に展開している学校法人一家の四人兄妹の末娘、それも夫婦が長らく待ちわびた末に比較的年を重ねた後誕生した初の女児とあって、甘えに甘やかされ、何不自由のない環境の中で放埓気ままに育ってきたのだそうだ。
結果、当然の成り行きとして、さきも述べたような典型的なお嬢様気質、宇宙の創成以来自分が正しさの中心で象徴なのだと言わんばかりにタカビーな人格が確立されたわけだ。
ちなみに僕と彼女とは顔を合わせる機会は何度もあったのだけれど、直接会話をしたことはない。こんな頭からつま先まで貧相な僕など、そのゴージャスな眼中の中に入ることも許されなかったのだろう。
そして、そんな彼女の強烈な個性の影から、ようやくTが顔をのぞかせる。それも臆病で警戒心の強い小動物が、森の新たな侵入者の危険性を木陰からそっと見定めようとするときのように、こっそりと、とても控えめに。妻のほうに比べて、実に語るところの少ない男だった。たぶん誰と比べたところでそれは同じだと思う。彼の人間性について手始めに語らなければならないのは、語るべきことがごくごく微少であるということだろう。
Tはすらりと長身で、なかなか見栄えのするスタイルを持っていた。ただ、決して前に出てこようとせず、人の後手にばかり回っていたし、なによりいつもヴェールのように薄く一枚疲労感を纏っていたせいもあり、その輝かしい長所はあっけなく黙殺されることとなった。他にもたくさんの優れたところや、もっとスポットライトを浴びて賛美されてもいい美点があったかもしれない。
しかし、いかんせん彼はいつも疲れていた。
悲壮感とも翳りとも言い難く、語彙の乏しい僕にそれは疲れとしか表現できないけれど、おかげTという男の人間性は、その淡い疲労感に追い立てられるような形で、深い森の虚空の奥へと隠れてしまい、決して僕らの前に姿を見せることはなかった。あるいはそもそもが疲労的な人間なのかもしれない。疲労的な人間?とにかくそれがTだ。
どうして、両極端ともいえるTとそのゴージャスな妻が、結婚することになったのかは諸説ささやかれている。
というのも、本人に聞いてみても「いやいや、なんてことはないんですよ」と笑ってはぐらかされるばかりで、ついに話してはくれなかったからだ。
たぶん、多くの人が僕と同じように疑問を持ち、同じように問うたと思う。
しかし、そのたびに彼はやはり愛想よく笑うばかりで、何も語らなかったのだろう。
ある人は「Tはああ見えて実はどこかの資産家の跡取りで、親同士の都合で政略結婚させられたのだ」と言うし。
またある人は「嫁さんのほうの思いつきというか、金持ちの気まぐれさ」とも言った。
他にもっと下劣なことを露骨に言った人もいれば、メロドラマのようにとても劇的な馴初めを教えてくれた人もいた。
そして、奥方の知人にも詳しくは伝えられていないようで、やはりそちらでも同じような話が交わされていた。
なんにしても、そのすべては所詮憶測にしか過ぎない。
そしてその憶測は尾ひれに背びれと胸びれまでついて勝手に膨らんで世間を勝手気ままに泳いでいった。
妻の方まで隠したいというのなら、それは本当に隠されなければならないだけの事情があるのだろう。
そのうちに僕もだんだん面倒になり邪推の仲間に入ることをやめてしまったので、結局真実は解らないままだった。
たぶん今でもそれは明らかにされずに、社交界七不思議の一つとして数えられ、酒の席では欠かせない話題として残っていることだろう。
ともかく、彼は何故だかお金持ちの令嬢のところへ婿入り結婚することになり、何故だかそのまま元の勤め(学校教材の営業、これで少なくともTの資産家御曹子説は弱くなった)に出ていて、何故だかひどく疲れ果てていた。
そして僕とTとは、色んな知人を介した末に出会うこととなり、それから彼らの主催するパーティーに何度か招待されるまでの仲になった。
パーティーや式典のような賑やかで華やかな場所は決して嫌いではなかった。
そこには口説きたいとか口説かれたいとか。
金を借りたいとか貸したいとか。
周りの誰よりも押し出しのよい人間に見られたいとか。
この場にいる誰よりも美しいと思われたいとか。
とにかく人の欲がさまざまな形をとってそこら中を飛び交っていた。
それらは香水と体臭と料理と酒、その他様々な匂いとともに空気に溶け込み、大きな混濁となってあたりを漂っていた。
僕はそのうねりに否応なく巻き込まれた。
いや、というよりか、きっと僕もそのうねりを構成しているピースの一つとしてしっかりと溶け込んでいたのだろう。
不思議なもので、僕はそんなとても現実的でどこまでも生々しい人間的なカオスの中にいる時、自分が古い小説に出てくる華やかな社交場の場面にふと紛れ込んでしまったような感覚に陥ることがよくあった。
うっとりとした表情を浮かべながら絵本を熟読する少女のように、あるいは冒険小説や漫画を寝食忘れて貪り読む少年のように、空想の大きな翼を広げ、場所も時代も立場も、もっといえば次元さえをも飛び越えて僕は物語の一部となってしまう。
その場の高揚感や空間の雰囲気みたいなものに中てられてしまったのだろう。
悪くない気分だった。
しかし、本を読んでいる時ならばそれでもいいのだろうけれど、目の前で繰り広げられる醜くも美しい、あるいは悲しくも可笑しいそんな人間模様は、現実に僕が生きている世界で起こっている出来事なのだ。
誰かが羽目を外し過ぎて女の子にしつこく絡んでいき、おもいきり平手打ちを受けるその痛みも。
資金の工面に奔走するどこかの小さな会社の社長が、援助を求むどこかの大きな会社の社長から執拗に浴びせかけられる恥辱にぐっと耐えるその忍耐も。
すべては確かに息づき生身の血肉を擁したソリッドで真っ直ぐな、純然たるノンフィクションなのだ。
それはわかっている。
一つ断っておきたいのは、僕は決して空想家ではない。
豊富な想像力を持て余す少年でもなければ、もちろん夢見る少女でもない。
読書は昔から好きだけれど、その世界を現実と同化させたり、二つを比べてそのあまりのギャップにがっかりしたということもない。
良くも悪くも僕は、日ごろから一般論と常識を振り回して歩いているモラリストなのだ。
言い換えればガチガチに頭が固く融通の利かなくなったつまらない大人なわけだ。
そこまで断言してみても、やはり僕はトリップに囚われてしまうことを、そしてその感覚を楽しんでいることを認めなければならない。
少年少女のそれと全く同じように。
どんなに着飾ったゴージャスで美しい女性達を眺めることよりも、豪勢でその名前を読み上げただけでも腹がいっぱいになりそうな料理の数々よりも、僕はトリップ体験のほうが好きだった。
それだけを味わいたいがためにパーティーに参加していたのかもしれない。
Tにそう言うと、彼はいつもの静かな愛想笑いではなく、とてもくつろいだ自然な笑みを浮かべ、
「確かに、下品な話に卒倒するご婦人方がいないだけで、ここは古典文学の社交場とさほど大差ないのかもしれませんね。今も昔もこれからも、ロシアでもフランスでも日本でも、パーティーなんてものは大掛かりな茶番劇みたいなものなんですよ。とてもお金と人が入用なね。それぞれに台詞と役割を割り当てられて、皆それを忠実にこなしてちゃんと立ち回っています。もちろん明確な筋書きなんてありませんが、やる事はどこでも一緒なんです。ゴシップと自尊心と毒の利いたジョーク、その王道からはずれさえしなければ皆、百戦錬磨の名優たちです。すべてをアドリブだけで、ものの見事にやってのけてくれます。そしてそうやって成功した演劇は、時代を代え役者を代え、いくつもの戦争や災害にも負けることなく何百年も続くロングラン公演となっているんです。僕もあなたも劇団員のひとりなんですから、与えられた何かをしっかりと演じて一層の発展と公演記録の更新に寄与しなければなりませんよ」
と楽しそうに言った。
よほど話の内容が気に入ったのか、Tがそんなに長くスラスラと舌を滑らせる姿を僕は初めて見た。
こんなに楽しそうに、疲労感などまるで見せずに生き生きとしている姿も。
僕は彼の予期せぬ見事な弁舌に少し驚き、うまく答えてあげることができなかった。
何か続く言葉を探しているうちに彼は別のところから呼ばれてしまい、
「行かなければなりません。ホスト役というのは何かとせわしなく動き回らなくてはなりませんので。あなたとゆっくりお話ができて楽しかった。それでは失礼します。お寛ぎ下さいませ」と言って、退いていった。
Tが妻やその一家、そしてその取り巻き。
そこに属するすべての人達に、親密な仲間意識を持とうとしてもなかなかできるものではなかっただろう。
Tはやはりどこまで行っても平凡でしがない学校教材の営業マンでしかなく、彼女達はどこまで行っても上流社会の人間で、その二つの種族は言語も歴史も文化も異なる、永遠に交わることのない別の銀河の惑星同士なのだ。
たまたま迷い込んだ気の毒な宇宙飛行士であるTの墜落した富裕の惑星は、それなりに温かく彼を迎い入れたかもしれない。
彼女達なりに手厚く介抱してくれたかもしれない。
しかし、根本的に二つの星の価値観はあまりに違い過ぎた。
そこで温かいとされるスープはTには少しぬる過ぎたし、傷ついた機体を修理したいと言った彼に、何故新しいものを買わないのかと彼女たちは真剣に困惑した。小さなすれ違いなのかもしれない。
それ位の些細なずれなど、この世の中にいくらでも繁茂している。
むしろピタリと一致するピースを見つけようとすることのほうが難しい、それが一般論だろう。
それでもTは努力していたのだと思う。我慢をしたり、譲歩をしたり、愛想をしたり。
バラバラに散らばり、尚且つそれぞれにとんでもなくイビツな形をしたピース達をせっせと拾い集め、彼なりになんとかパズルを完成させようとしていたのだと。
夫婦の間に愛があったのかどうか、僕にはわからない。
大勢の前でしか二人が一緒にいる姿を見たことがなかったけれど、常に仲睦まじい様子で並んでいた。
しかし、それが愛情からくる仲の良さなのかはわからない。
たぶん誰にもわからない。
もしかしたら二人にもわからなかったかもしれない。
唯一わかること、それはTが日々すり減り、消耗していくということだけだった。
彼は孤独だった。
多くの人に取り巻かれながらも、彼の心を癒してくれる人は誰も現れなかった。
ただの一人もだ。
僕にはその事がわかっていた。
彼のあの嬉しそうな本当に屈託のない笑顔を見て、一瞬のうちにその意味を把握し、解釈し、理解した。
温かい言葉の一つでもかけて、彼の孤独を和らげる事が僕にはできた。
そしてTにとってみれば、それが大きな救いにだってなりえたかもしれない。
何から救われるかというのはとりあえず置いておくとして、彼にとっての僕はその時、自分を日々少しずつ少しずつ削り取っていく濃密な闇の中でわずかに差した、一筋の光に見えたかもしれない。
Tはあの時心を開き、自らの腹を見せ、僕と友達になろうとしていたんだと思う。
人の良さそうな(実際に人の良い)笑顔の裏にはどんな打算も嘲笑の色も見えなかった。
彼にそんなものは似合わない。
たぶん彼は何気ない会話の中から、僕らの間に何か通ずるものを感じとり、それが単純に嬉しかっただけなのだ。
久々に懐かしい故郷の方言を耳にした時のように、平凡という惑星の匂いを全身にまとった僕に、ただそれだけの理由でとても親しみを持ったのだろう。
しかし、僕は結局何もしなかった。
冗談を言ったTに対し何の反応も示せなかったのは、示さなかっただけの話だった。
僕は彼を拒んだ。
あのまま親しげに話を続けたのなら、Tは僕にもっと歩み寄って来たことだろう。
僕にも同じような親しみを期待し、求めたことだろう。
そして僕はそれを反射的に嫌がってしまった。
そう、それは本当に反射的としか言いようがなかった。
彼には好感さえ抱いていたのにもかかわらず、一歩踏み込むTに対し、僕は思わず一歩後ずさってしまった。
そんな僕の態度を敏感に察してか、僕の側から離れる時のTはまたいつもの疲れ果てた彼に戻っていた。
そこに寂しさが少しだけ余分に足されていたのを知っているのは、たぶん僕だけだろう。
そしてその寂しげな背中が僕にとって、Tを見た最後の姿となった。
僕もなんだか悲しかった。
いよいよ居た堪れなくなり、そのまま僕は誰にも告げずに会場を後にした。
そして、もう二度とTには会うまいと決めた。
彼に会ってしまえば、また妙な期待を持たせ、彼をもっと傷つけてしまうことになるからと。
思えば、他人を愛せないという自分の心の冷徹さ、非情さの片鱗を初めてはっきりと垣間見たのは。
あるいはこの瞬間だったのかもしれない。
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