第九話 天使と勇者の物語
第九話 天使と勇者の物語
魔王の右手に青黒い靄がまとわりついたかと思うと、それは
彼女は右手に持った杖とも槍ともつかぬ長柄の得物を、魔王に向かって思い切り突きこんだ。その槍の先端を狙って、魔王が剣を振り下ろす。
次の瞬間、
――レナ。
アツシはレナが魔王と真っ向からぶつかるのを見て恐れを感じた。戦闘天使となった彼女は強いと頭ではわかっていても、心配のあまり膝が
果たして激突のあと、魔王は衝撃に仰け反り、三歩も後ろへ下がった。一方、翼の力で宙に浮いていたレナは小揺るぎもしていない。
そして互いに見合い、魔王の方が顔をゆがめた。魔王の剣に音を立てて罅が入ったかと思うと、剣は真っ二つに折れて先端が大地に刺さり、ふたたび青黒い靄となって消えた。レナの槍は健在だ。最初の力比べの結果は、誰の目にも
「この私が貴様のような小娘に押し負け、あまつさえ剣を折られるだと……?」
「……行ける」
アツシの隣でジュリアンがそう呟いた。アツシもまた、レナの力が本物であることに胸の高鳴りを覚えていた。
――勝てる? 勝てるのか?
まだ勝負は始まったばかりだ。楽観などできようはずもないのだが、先制の一撃が決まったことは素直に嬉しかった。
「勝機はある! 囲め! かかれ!」
トロイがそう声を張り上げるや、生き残っていた勇者たちが一斉に雄たけびをあげながら魔王を取り囲み、それぞれの得物を構えて同時に襲い掛かった。それと同時にレナも動き、さらにアツシやジュリアンも魔王に切り込んでいく。
勇者たちの武器とマイティ・ブレイブによる攻撃を、しかし魔王は完全に無視して目の前のレナだけを相手にしていた。風を巻いて迫りくるレナの槍を躱すことが第一で、勇者たちの攻撃は甘んじて受けている。
「おらっ!」
ジュリアンのインフィニット・ブレイドが魔王の肩口を捉えた。並のモンスターなら両断にできただろうが、魔王が相手では表面にほんのわずかなひっかき傷をつけたくらいだ。それを見てアツシはジュリアンを軽く睨んだ。
「おいジュリアン、真面目にやれ!」
「やってるよ! だが野郎が硬すぎる!」
ジュリアンだけでなく、他の勇者たちの攻撃も、魔王には掠り傷しかつけられない。魔王に致命的な一撃を加えることができるのは、レナだけなのだ。
そのレナが魔王に槍を突きこむタイミングに合わせて、ジュリアンは赤いマイティ・ブレイブの長剣を器用に操り、魔王の目を突いた。
目を狙われると、魔王は顔をしかめながらジュリアンの剣を避けた。同時にレナの槍も避けようとしたのだが、完全に避けきれず、レナの槍が魔王の肩をかすめていく。今度は血しぶきが舞った。魔王の血も赤かった。
「へっ、ざまあみやがれ!」
「こざかしい!」
魔王は猿臂を伸ばすと近くにいた勇者の腕をつかみ、あっと声をあげたその勇者の体を振り回してレナに投げつけた。
「いけない!」
レナが咄嗟に攻撃の手を止め、片腕でその勇者の体を抱きとめる。そのあいだに魔王はレナから距離を取り、近くにいた勇者たちをその剛腕でなぎ倒していった。その凄まじい力にアツシは青ざめ、ジュリアンは舌打ちする。
「くそが……俺のインフィニット・ブレイドは射程無限だが、射程を伸ばすにつれて威力が漸減していく。裏返すと射程を縮めれば威力は上がるってことだ。文字通りに肉薄すりゃあ、やれると思うか?」
「知らん。だがアイディアがあるならやってみろ。援護してやる!」
アツシが槍を握りしめてそう宣言したとき、いきなりシーリーンがアツシとジュリアンのあいだに割って入ってきた。
「皆、伏せろ! 稲妻が来る!」
次の瞬間、アツシとジュリアンはシーリーンによって押し倒された。そして魔王の怒声が響き渡る。
「消し飛べ、虫けら!」
魔王の右腕から迸った稲妻が、無数の光りの蛇となって暴れ回った。シーリーンの警告が間に合って地に伏せた者はやり過ごすことができたが、棒立ちになっていた者は光の蛇に打たれ、黒焦げの死体になりながら数メートルも吹き飛ばされた。
アツシのすぐ目の前にも死体が転がってくる。それを見て叫び出しそうになったアツシは、しかしレナのことが気がかりで必死に首だけを動かした。レナは先ほどの勇者を片腕に抱いたまま、翼を展げて空を舞い、光りの蛇を躱していた。稲妻を見切っているのだ。
やがて放電が収まったとき、少なくない数の勇者が命を奪われていた。
「アツシ様、御無事ですか」
レナがアツシの傍に舞い降り、片腕に抱いていた勇者を離すと、魔王からアツシを守るような位置に立った。アツシは「どうにか」と答えながら、地面に手を突き、立ち上がってから、同じく立ち上がっているシーリーンに視線をあてた。
「シーリーンさん、助かりました。でもどうしてわかったんです?」
「私には未来が見えるからだ」
「え?」
目を丸くするアツシに、シーリーンは魔王に警戒の視線を当てたまま云った。
「そういえばまだ説明していなかったな。私のマイティ・ブレイブは
「未来が、わかる……?」
アツシは驚倒しそうになった。オヴェリアがシーリーンは強いと云っていたが、五秒先までのことを完全に的中させられるなら、一対一の近接戦闘ではほぼ無敵だろう。なるほど強いはずである。と思ったところで、アツシはあることに心づいた。
「あれ? もしかして、俺のことを予言したのって……」
するとシーリーンの横顔に悪戯っぽい笑みが浮かんだ。
「私だよ。私には見えた。壁が崩れるヴィジョン、魔王が入ってくるヴィジョン、八六七と云う数字のヴィジョン、そしておまえのヴィジョン……それが世界の終わりなのか、それとも新しい世界の始まりなのかは、わからなかったけれど」
アツシは思わず戦いのことも魔王のことも忘れて立ち尽くした。シーリーンの予言が自分をここまで導いてきたという一面を考えると、彼女と自分のあいだになんとも云えない不思議な運命を感じてしまったのだ。そのとき傍で話を聞いていたジュリアンが云う。
「てことはシーリーンさん、あんたにはこの戦いの勝敗も読めるんですか?」
「いや、読めない。私にわかるのは、奴はまだ全力を出していないということだけだ。奴はなにか恐ろしい力を隠している」
「な――」
アツシは凍りついた。今でさえ、魔王は十分に恐ろしい。両腕を振り回すだけで勇者たちをなぎ倒し、稲妻を放って数人の命を一瞬で奪い去った。アツシのすぐそばにも、黒焦げの死体が転がっているのだ。それでまだ全力でないなど信じられない。アツシが慄然としながら魔王を見ると、魔王は勇者たちに心底うんざりしているようだった。
「やれやれ。殺しても殺しても殺しても、蠅のように纏わりついてくる。加えてそこの天使は、たしかに私の力を凌駕するようだ。私としても、奥の手を出さねばならぬか」
魔王はそう云うと、怒りを吐き出すように大きく長い息を吐いた。
そこへトロイが云う。
「はったりだな」
「そう思うかね、トロイ君? だが私としてもこれは不本意なのだよ。せっかく手に入れたこの体を、ふたたび二人で分かち合わねばならぬのだから」
「なに……?」
目を瞠るトロイを見て、魔王はくつくつと笑いながら語り出した。
「一つ昔話をしようか。私にはかつて六人の仲間がいた。我々は七人で世界を征服したが、その後は世界を七等分してそれぞれの領地とし、不可侵条約を結んで各自が自由な方針で自分の領地を統治することとしたのだ」
突然のその告白に、アツシも含めた誰もが呆気に取られてしまった。
大きな沈黙が訪れ、魔王はそんなアツシたちを見て
「……おい、ちょっと待て。それはなにか? 壁の外には、俺たちの知らない人類や国家や文明があるってことか?」
「そうだよ。君たち流に云うなら、七人の魔王が世界を七つに分けて統治している。そして君たちが壁を作って立てこもっているここら一帯は、私の領地なのだ」
知らない歴史、知らない世界が、突然音を立てて目の前に開かれた。
アツシたちは壁の外のことをあまりにも知らなかった。自分たちの身を守ることに精一杯で、壁の外の調査は遅々として進まなかったからだ。
一方、すべてを知っている魔王はアツシたちの無知を嘲笑いながら語る。
「かつての仲間たちが自分の領地をどう統治しようが、それは彼らの自由。人間を奴隷にしようが、放置して好きに暮らさせようが、私の知ったことではない。しかしこの地の法は私が定める。私の統治方針は静寂だ」
「静寂って……」
「静かにして不変なる完璧な世界……ここには私の理想郷を創造するのだ。そのために人類諸君には私の領地から絶滅してもらいたい」
――それが統治方針と云えるか!
アツシは思わず胸裡に絶叫しかけたが、そこで魔王はいきなりこんなことを云った。
「ところでかつての仲間たちとともに戦っていたころ、私には兄弟がいたのだ。私たちは生まれながらにして、二人で一つの体を共有していた。だが世界を征服したあと、私たちは自分の体を自分だけのものにしたいと思うようになり、争いになった。そして私が勝ち、敗れた兄弟は眠りにつき、私は望み通りこの体を手に入れたのだが、しばらくして気づいた。自分が弱くなっていることに。二人で一つ。それが私たちの本来の在り方だったのだろうね。だからトロイ君、忌々しいが、やむをえまい」
魔王はそう云って右の拳を握りしめて振り上げると、
「起きろ!」
自分の左側の頭に、鉄拳を叩き込んだ。
魔王は異形の怪物である。双頭の竜魔王と形容されるように、人型の体に竜の頭を二つ持っていた。右の頭は金髪で一本角、常に覚醒し、会話をし、これまでアツシたちとやりあってきたのは常にこちらの頭だった。
一方、銀髪に二本角をした左の頭は眠るように目を閉じ、項垂れている。だからアツシはいつしか、左の頭は異形を象るための飾りかなにかと思っていた。飾りであってくれればよかった。だが今、ずっと目を閉じて項垂れていた左の頭がゆっくりと顔を起こし、目を開けた。そして魔王……いや、魔王の右頭が云う。
「おはよう、兄弟。不完全な最強に戻るときがやってきた」
「そうか、兄弟。それほどの敵なのだね」
魔王の左頭はそう云うと、なにがおかしいのかアツシたちを見て
「ならば僕らの諍いは忘れて、ひとまず目の前の障害を蹴散らすとしよう」
その直後だった。レナがいきなり、魔王目掛けて地を這うように飛翔した。槍をまっすぐ構えて、相手を貫く構えだ。それに対し、魔王は両手を合わせると、その手のまわりに青黒い靄が生まれ、その靄は結晶化して大剣となった。魔王がそれを振り上げてレナを迎え撃つ。それはそのまま、最初の攻防の再現であった。
そしてふたたび互いの獲物と獲物が激突し、体勢を崩されたのはレナの方であった。
「レナ!」
アツシがそう愕然と叫んだとき、魔王は踏み込んでレナに追撃をかけていた。青黒い大剣が弧を描き、死の風となってレナに迫る。それを両手で持った槍の柄で受け止めたレナは、たまらないように後ろへ飛んで逃げた。
傍から見ていたアツシには、レナが吹き飛ばされたように見えたので、急いでその後ろへ回り込み、左腕を
「レナ、無事か?」
「はい、しかし、先ほどとは力の桁が違います」
うむむ、と喉の奥でうなりながらアツシは魔王に絶望的な視線を向けた。眠っていた半身が目覚めたことで、本来の力を取り戻したということらしい。
――どうする? どうする? どうすればいい?
そうしているあいだにも、一人また一人と勇者が魔王の爪牙にかかって斃れていく。目の前で失われていく命が、アツシを余計に焦らせる。
――レナを突っ込ませるか? それで俺はどうするんだ? 見ているだけか?
「アツシ様……」
レナはアツシに支えられるのをやめると、自分の足で大地を踏んだ。そしてあくまで、アツシを守ろうという気構えだ。
「どうにせよ、決死の覚悟で挑むのみ」
「それなら、俺も……」
アツシは右手の槍を握りしめると、肩で大きく息を吸った。そしてレナと二人で、勝負に打って出ようと思った、そのときである。
トロイがいきなり魔王の目の前に現れ、魔王の左頭に斬りつけた。テレポーテーションのマイティ・ブレイブを使った先手不意打ちであったが、砕け散ったのはトロイの剣の方だった。
「……鋼鉄の剣では傷つけられんか」
「いや、意外と痛いよ?」
魔王の左頭がそうとぼけた返事をした直後、魔王の左腕がうなりをあげた。だがすぐにトロイの姿は掻き消え、魔王の左拳は空を切る。それで魔王の左頭が小首を傾げた。
「……また消えた」
「彼は空間を自在に跳躍する力の持ち主だ。捉えるのは容易ではない」
そう云った傍から、魔王の背後にトロイが出現し、短剣で思い切り魔王を刺した。針で刺されたような、ちくりとした痛みくらいはあったのか、魔王が弾かれたように振り返る。同時に青黒の大剣が閃いたのだが、トロイはふたたびテレポートとすると別の勇者の亡骸の傍に現れ、その勇者が死してなお握りしめていた剣を奪い取った。そしてアツシに、ジュリアンに、生き残っているすべての勇者たちに向かって朗々と叫ぶ。
「俺が時間を稼ぐ! そのあいだに頭を使え! 生き残っている者たちで協力して、なんとかしてみせろ! アツシ、特におまえだ! おまえのマイティ・ブレイブが切り札だ!」
そしてトロイはふたたびテレポートをして魔王に攻撃をしかけた。消えては現れ、現れては消える、テレポートのマイティ・ブレイブを駆使した怒涛の連続攻撃に、魔王はその場で足止めを食らい、じりじりと体の表面を削られていった。
魔王にしてみれば蠅や蚊にたかられているのと同じくらいの煩わしさであったろう。魔王の右頭が怒りを含んだ声で云う。
「ずいぶんマイティ・ブレイブを乱発するじゃないか。代償はどうした?」
「代償ならそこらじゅうに流れている。おまえの殺した勇者たちの血が、俺の力となる!」
その言葉と、トロイの振るった剣の閃きが、アツシにある可能性に気づかせ、あっと声をあげさせた。
――おまえの殺した勇者たちの血が、俺の力となる!
その言葉が頭のなかで反響を繰り返すのを聞きながら、アツシは戦場を改めて見回した。見渡す限りありとあらゆるところに死体がある。男も女も死んでいた。皆、魔王に殺されたのだ。無念だったろう。魔王を倒すまでは、死んでも死にきれまい。
「死んだ、みんなが……」
「……アツシ様?」
レナにそう声をかけられ、アツシはどう返事をしたものか迷ったが、とにかく時間がない。アツシは急いで決断すると天を仰いだ。
「成功するかわからないが、試してみる価値はある。レナ、俺を守ってくれ」
それだけ云うとアツシは目を閉じ、天に向かって祈った。その姿が諦めているように見えたのか、ジュリアンが声を荒らげる。
「おい、アツシ! なにやってやがる!」
「待て」
シーリーンが、そんなジュリアンの肩を掴んで制した。彼女はアツシに目を凝らし、低い声でうっそりと呟く。
「ヴィジョンが見える……」
「
そうした二人の声も、アツシには聞こえていなかった。自分の声がどこまでも届くように、想像力を駆動せねばならぬ。今度は一人の魂を追えばいいというものではないのだ。あの世の隅々にまで自分を響かせるには時間が必要だった。
そうしたアツシを遠くから見て、トロイに少しずつ刻まれながらも、魔王の左頭が顔をしかめた。
「どうやら天使の召喚主がなにかを始めたようだよ」
「そうか。ならばなにかを為す前に、殺すのみ」
魔王の右頭がそう云って、アツシに向かって一歩踏み出した。たちまちシーリーンが叫ぶ。
「やらせるな! 止めろ!」
云われるまでもなく、トロイが足止めにかかった。今まで魔王を削っていた彼は、今度は魔王の目を目掛けて短剣を投げつけた。それを魔王は鬱陶しそうに避ける。
それを見てトロイがちょっと微笑んだ。
「やはり目は庇うのだな」
「……潰されても再生するよ?」
「だが煩わしかろう」
そしてトロイはふたたび空間を跳躍し、魔王の視界から消え、死角に出現する。ジュリアンもまた今のトロイと魔王のやりとりを聞いて、射程が精神力次第のインフィニット・ブレイドで、魔王の左頭右目を狙撃した。レーザービームのようなその一撃を、魔王が上体を反らして躱したところで、シーリーンが慌てて右に横っ飛びしながら叫ぶ。
「ジュリアン、そこにいたら死ぬぞ!」
次の瞬間、魔王の左頭が大口を開けたかと思うと、ジュリアン目掛けて巨大な火の玉を吐き出した。
「うおっと!」
ジュリアンは左に横っ飛びしてそれを躱す。直後、今までジュリアンのいたところに盛大な火柱が立ち上った。シーリーンの警告が遅かったら危なかった。
ジュリアンはすぐさま体勢を立て直すと、目をぎらぎらさせながら魔王を見る。魔王はもうジュリアンの相手をしていない。トロイをはじめとするほかの勇者たちが、遮二無二魔王に飛びかかっては、足止めに成功したり、あるいは返り討ちにあって死んだりする。
それを見てジュリアンもアドレナリンが出ていた。
「やられてたまるか、この野郎!」
「おまえは死なないよ。五秒以内にはな」
そうシーリーンのお墨付きももらって、ジュリアンは自分も魔王に向かって突撃していった。さらにそこへ、レナが加わる。
天使と勇者が総掛かりで魔王の足止めをしている死闘のさなか、アツシはついに自分の声が天の四方を覆う手ごたえを得ると、肉体と心の両方で叫んだ。
「聞こえるか、勇者たちよ! 今日、この日、勇敢に魔王と戦って死んでいった者たちよ! おまえたちは死んだ。だが魔王はまだ生きていて、好き放題暴れてやがる。このまま終わったら悔しいよな? おまえたち一人一人が勇者なんだ。勇者なら、魔王を倒すまで何度でも復活してみせろ! そのための道筋は俺がつけてやる!」
それを聞いて、ジュリアンは戦いのさなかに笑った。
「なにをする気かと思ったらそういうことか。おまえにしちゃ、冴えてるじゃないか! おうら、おまえら、もうひと踏ん張りだぞ!」
ジュリアンがそう嬉しげに声をあげて魔王に渾身の一撃を見舞うなか、アツシは天に向かって伸ばした自分の左手に、死者の霊が次々に触れてくるのを感じた。
今となっては、アツシはトロイのことなど大嫌いだったが、それでも今、アツシの耳に蘇るのはトロイの言葉である。
――俺がおまえに一番期待しているのは、天使の軍勢を作れるかどうかだ。
「さあ、来やがれ……」
アツシが今まで同時召喚した天使は最大で十体。十体に達した時点で彼らを一斉に天に還してペンタゴン2と揉めた。だからこの先は未検証だが、それでもやるしかない。
「来やがれ、
その叫びの直後、天から地上に向かって一条の光りがたばしり、柱となって大地に突き刺さった。それが一本ではない。二本、三本、十本、二十本とまたたくまに増えていき、この戦場を光りの柱で取り囲む。
その柱から、天使が出現した。機械仕掛けの男性型天使、生前の姿に白い鳥の翼を背負った女性型天使、得物は剣、槍、弓、盾など様々だ。それが光柱のなかより陸続として現れて、それぞれの瞳で魔王を射抜く。それはまさしく天使の軍勢であった。
魔王の左頭が天使たちを見回しながら云う。
「三十、四十……いや、もっとか」
「こ、こんなことが……こんなことが……」
「まずい展開だ、兄弟。だが、こういう場合、召喚主さえ倒せば……」
「そうだな、兄弟。召喚主さえ倒せば!」
魔王はそう断を下すと、天使たちが動き出すより早く、自分に群がる勇者たちを振り切り、アツシ目掛けて戦車のように走り出した。即座にトロイがテレポートし、魔王の右頭右目に斬りつける。それは牽制だったろうが、魔王は一顧だにしなかった。
右目を切りつけられ、瞼を閉じることになっても委細構わない。
「なに!」
魔王はもはや自分の有利な立場をすべて捨て去り、どのような犠牲を払ってもアツシ一人の息の根を止めると決めたのだ。
「アツシ様!」
レナがそう叫びながら魔王に追いすがるが、僅かに遅い。そうしてアツシに魔王が肉薄するかと思われたそのとき、魔王の膝下に赤い刃が食い込んだ。ジュリアンがインフィニット・ブレイドで、野球のバッターよろしく、魔王の両脚を薙ぎ払おうとしている。
「貴様の剣で私が斬れるか!」
「斬るんじゃねえ、転ばすんだよ!」
そうして魔王の両脚とジュリアンの剣が拮抗する。これが並の剣なら、剣の方が砕け散って終わりだっただろう。だがジュリアンの剣は違う。
「こ、の……」
「俺の剣は精神の剣! 絶対折れねえ!」
そしてジュリアンが剣を振り抜き、魔王はアツシまであと少しというところで盛大に転倒した。それが身を起こしたときには、レナがもうアツシを守る位置に立っている。
「私のご主人様から離れなさい」
そう云って魔王に槍を突きつけたレナは、そこでなにを思ったのかこう云い直した。
「いえ、私たちのご主人様から離れなさい」
「な、に……?」
そう顔をしかめた魔王を、無数の翼の影が覆う。振り仰げば、そこには死してなおこの世に蘇ってきた天使たちがいる。魔王は召喚直後の不意を打ってアツシを討とうとしたわけだが、召喚された天使たちだってそれを黙って見過ごしていたはずがない。レナと同じく翼を
「さあ、アツシ様。号令を」
「……ぶっちめろ!」
アツシがそう叫ぶや否や、レナを含む天使たちが、一斉に魔王に襲い掛かった。
天使一人一人の戦闘力は、二つの頭を覚醒させた魔王に及ばなかったのかもしれない。だがそれが数十対一という状況になれば話は別だ。
天使の力は、その武具を含めて凄まじく、魔王の体を切り裂き、貫き、衝撃でよろめかして膝をつかせる。そこへ天使たちが十重二十重に群がって襲い掛かるのだ。さらに元勇者の天使たちはそのマイティ・ブレイブをも駆使した。
もはや魔王は、狩る側から狩られる側へと転落していた。死にもの狂いに抗いながらも次第次第に追い詰められていくその姿は、いっそ哀れですらある。
ついに魔王が膝をついたとき、生き残っている勇者たちはもう戦う必要がなかった。傍観に徹していたトロイが、魔王を見つめて云う。
「気分はどうだ? おまえの殺した者たちが、皆ことごとく天使となって立ちはだかるのだ。まさに応報」
その会話に応じる余裕も、今の魔王にはない。
そして何度目かの攻防ののち、ある天使の振るった剣により、魔王の体を覆っていた禍々しい鎧の胸甲が破壊された。のみならず、その剣は魔王の胸を引き裂いた。
すると見よ、引き裂かれた胸の肉の割れ目に埋もれるようにして、どくどくと脈打つ赤黒い塊がある。
「あれは……」
「心臓、か?」
そうつぶやいたアツシとジュリアンが、思わず目を見合わせる。
魔王は皮膚も鎧もすさまじく硬く、アツシたちの武装ではほとんどまともな傷を負わせられなかったけれど、剥き出しの心臓ならばなんとかなるのではないか?
無論、天使たちにやらせればよいのだが、アツシはあのことを忘れてはいなかった。
「ジュリアン、やるか?」
「当たり前よ」
アツシはジュリアンの決意を見て取ると、「レナ」と、声をあげた。すぐにレナが、アツシの許へと舞い降りる。
アツシはレナに耳打ちすると、槍を握りしめて魔王の許へ向かった。天使たちが攻撃の手を止め、アツシのために道をつくる。
その道の先では、片膝をついた魔王が荒い息をしてアツシを睨んでいた。
「魔王……」
最初に会ったときは恐ろしくて恐ろしくて、もう二度と会いたくないと思っていたこの恐怖の権化が、今や自分の前で膝をついている。それがアツシには不思議だった。これほどの強者、これほどの怪物でも、追い詰められることがあるのだ。
「魔王!」
アツシは自らの恐怖を振り切ると、槍を前に突き出したかたちで飛び出した。狙いは魔王の心臓である。
そして槍の穂先がもう届くというところで、魔王が最後の力を振り絞って立ち上がった。
「最後に私の首を取ろうと出てきたか! だがその功名心が貴様の命取りだ!」
そして魔王の貫き手がアツシに向かって放たれた直後、横から風が吹いて、レナがアツシを天空へとさらっていた。
「なに!」
愕然と目を見開く魔王を、アツシはレナに抱かれながら見下ろして云う。
「最初から、俺はやる気ないよ」
その言葉と同時に、魔王が「がっ!」と苦しげな声をあげる。見れば、赤いオーラの光剣が魔王の心臓に食い込んでいた。ジュリアンのインフィニット・ブレイドだ。
「さあ、ポールの仇を討つんだろう。決めちまえ、ジュリアン!」
魔王が、自分の心臓を突き刺す剣の主を悔しげに睨みつける。
「き、貴様のような小童が!」
「その小童にやられるんだよ、てめえは!」
ジュリアンのインフィニット・ブレイドがその輝きを増していく。さすがは魔王の心臓、剥き出しとはいえ、容易には刺し貫けない。だがジュリアンのインフィニットブレイドは、威力と射程がその精神力に比例する。そして射程を伸ばせば伸ばすほど、威力は漸減していくのだ。ということは、裏を返すと相手に近づけば近づくほど威力を増していく。
「おうらあああああっ! くたばりなあっ!」
そしてジュリアンは恐れげもなく魔王に体ごとぶつかっていき、ついにインフィニット・ブレイドが魔王の心臓を刺し貫いた。まさに気合でぶち抜いた。
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