第八話 悲しみを乗り越えて

  第八話 悲しみを乗り越えて


 目を醒ましたアツシは、ニコラが自分の顔を覗き込んでいるのを見た。どうやら自分はどこかに寝かされているらしい。部屋の天井が見える。と、ニコラが口を開いた。

「やあ、起きたかね。あれから数時間が経過した。ここは転移前に集まっていた壁内の一室だ。拘束はしていないが、武装は解除させてもらったよ」

 アツシは目だけを動かしてニコラを見る。

「トロイは?」

「生き残った勇者たちを再編成して魔王を包囲しているよ。魔王は一時、勇者たちの囲みを破って逃げた。だがその際に騎乗していた魔獣を討ち取ったのでどうにか追いつくことができてね、今はエロイーズの張った結界のなかだ」

「エロイーズ……」

 それはオヴェリアの護衛を務める三勇者の一人、暗闇の結界を司るエロイーズのことであろう。アツシも三年前に会っている。

「報告によると、数人の勇者が囮になって、彼女の張った結界のなかに魔王を誘い込むことに成功したそうだ。その囮になった勇者たちは皆殺されたが、その隙にエロイーズが結界の出入り口を封鎖した。そうして魔王は今、彼女のマイティ・ブレイブによって結界のなかに囚われている」

「……さすが。でも同じ結界系とはいえ、エロイーズのマイティ・ブレイブにはオヴェリアほどの力はないんだろう? それで魔王を完全に閉じ込められるのか?」

「残念ながら、答えはノーだ。これは一時しのぎにすぎん。魔王には暗闇の幻覚が効かず、結界の壁を力ずくで破ろうとしており、半日で結界が壊されるだろうと、エロイーズ自身が見解を述べている。オヴェリア殿の壁は二百年にわたって魔王の侵入を阻止したが、エロイーズの結界はわずか半日しかもたないということだ」

 それが二人の力の差ということなのだろう。だがそれはエロイーズが劣っているというより、オヴェリアの力が桁違いなのである。

「それで?」

「トロイ殿は魔王が結界を破って出てくるその時に備えているよ。そして君のことは、ひとまず友人である私が引き受けることにしたというわけさ。ところでエロイーズが結界のなかに魔王を捕えるまでのあいだに、決死隊として囮になった者たちを始め、いったい何人の勇者たちが命を落としたと思う?」

 アツシが答えないでいると、ニコラはしんみりと云った。

「大勢死んだよ」

「……ざまあみやがれ」

「なに?」

「あいつら、魔王を殺すためによってたかってレナを生け贄にしたんだ。当然の報いさ」

「彼らはなにも知らなかったよ。すべてはトロイ殿を始め、一部の勇者によって立てられた作戦だ。末端の者がそんなことを知っているはずがないだろう。私も知らなかった。だが勇者のために従者が犠牲になるのは妥当と云える」

「妥当なもんか!」

 アツシは跳ね起きると、寝台脇の椅子に座っていたニコラを睨みつけた。火の心を持っているアツシに、ニコラは水の心で云う。

「そう思うのは君にとってレナが特別だったからだろう。だがほかの者なら、君のマイティ・ブレイブを使うために君の従者が生け贄になるのは当然と考えただろうな。従者レナ本人が志願してきたのならなおさらだ。誰でも感謝を敬意を持って、レナの提案を受け容れたろうさ」

 そこで言葉を切ったニコラは、目を伏せてため息をついた。

「だが結局、トロイ殿は間違っていた。君という人間を見誤っていたのだ。魔王という二百年の宿敵を前にして、君が怒りに身を任せ、仲間に剣を向けてくるとは思わなかったのだろう。人の心がわかっていなかったと云えば、その通りだ」

「仲間? あいつらは仲間じゃない。レナを殺したんならもう仲間じゃない。俺の敵だ」

 血を吐くようにそう云ったアツシは、自分が怒っているのか悲しんでいるのか、自分でもわからないほどだった。そんなアツシを見ながらニコラが云う。

「魔王はどうしても倒さねばならなかった。自由のために。人類の勝利のために。新しい時代の夜明けのために。怯えて暮らすような時代をいつまで続ければいい? 我々は歳を取らないが、次の世代の子供らに自由で平和な世界を見せてやりたいじゃないか」

 なるほど、それは素晴らしい完璧な文句だった。ニコラは今、大志を掲げて理想を唱えているのだ。だがアツシという一人の人間の心を無視している。いくら気高い理想であっても、そのために自分の心が無視されるのだとしたら、そんなものは受け容れられない。アツシはニコラを火の瞳で睨みつけた。

「そのためにレナが死んだっていうなら、釣り合わないんだよ! 魔王を倒せても! 世界を救えても! これから生まれてくる子供たちに平和な世界を見せてやれたとしても! レナが死んだら釣り合わないんだ! 絶対、釣り合ってたまるか!」

 アツシはそれだけ云うと寝台から足を下ろして立ち上がった。靴は履かされたままだったので、そのまま部屋の出口へ向かって突進していく。ニコラが椅子から腰をあげた。

「アツシ」

 アツシは部屋を出て行く前にニコラを振り返った。

「俺は下りる。もう戦わない。おまえらだけで勝手にしろ」

「どこへ行く?」

「知らねえよ!」

 本当にこれから自分がどこへ向かうのか、アツシは自分でも知らなかった。ただ感情をもてあまして、部屋を飛び出し、壁からも飛び出し、夜明け前の空の下へ飛び出して、自分がどこへ向かっているのかもわからないまま闇雲に息が切れるまで走った。


 東の空が紫色に明るんできたころ、ここまで走り通しだったアツシは精も根も尽き果てて森のなかでひっくり返っていた。ここはどこか、わからない。滅茶滅茶に走ってきたので完全に迷った。人里からも街道からも離れた森のなかだ。もう一生ここから出られず、野垂れ死にするのかもしれなかったが、それでもよかった。

 ――死んでしまえ、俺も、みんなも。

 そう自棄を起こして、どくどくと鳴る自分の心臓が次の瞬間に止まってしまってもいいと思った。

 そのときなにか、ぱたぱたとした跫音あしおとが聞こえてきた。獣の跫音だ。森をねぐらにしている狼かなにかだろうか。途端に生存本能が刺激されたが、全身が疲れきっていて上半身を起こすのがやっとだ。立ち上がることは出来そうもない。

 ――こんなところで、熊だか狼だかに取って食われて死ぬのか。

 諦めと恐怖と、どうでもいいと思う気持ちがない交ぜになったまま、アツシは跫音の主が近づいてくるのを待った。果たして森の暗がりから姿を現わしたのは、一匹の犬だった。白い毛並みのふさふさした大型犬で、赤い目をしており、犬としては非常に美しい。

「あれ、おまえ――」

 アツシはこの犬に見覚えがあった。名前はラッシー。三年前、予言の件でオヴェリアの屋敷に呼ばれたとき、暗闇の迷宮を抜けた先の奥庭でこの犬に飛びかかられたのだ。そのあとアツシはオヴェリアを名乗る老婆に会っている。もっとも、それは影武者グレイスが変身した姿だったのだが。

 ともあれ、アツシは険しい目をして辺りを見回した。

「おまえがここにいるってことは、あいつらが近くにいるな……」

 この期に及んでなにか自分に用でもあるのか。相手をするのも億劫である。アツシがそう思っていると、ラッシーがアツシの傍までやってきてちょこなんと座った。

「やっと追いついたわ」

 アツシは目を剥いた。

 ――犬が喋った! この世界の犬は喋るのか? いや、そんな馬鹿な。

 そこへラッシーは少女の声でなおも云う。

「大丈夫? みんなひどいわよね」

 その言葉で、犬が喋ったことの驚きは、深い悲しみに取って変わられた。初めて自分の心に寄り添われて、アツシはぽろぽろと涙を流すと、相手が犬だということもどうでもよくなって喋り出した。

「そうなんだ、みんなひどいんだよ。なんだよ、馬鹿じゃないのか。急にレナが死んだって云われて、戦えるわけないだろ。俺はロボットじゃないんだぞ。無理だよ……無理だ……」

 そのままアツシが泣きじゃくると、ラッシーは鼻を鳴らしてアツシの顔に顔を接し、その涙を優しく舌で舐め取ってくれた。アツシはくすぐったさに笑い、それからラッシーの優しさに微笑んで、その首に腕を回して抱きしめるとなおも云う。

「でも、一番ひどいのはレナだ。俺が悲しむってわかっていたはずなのに、使命だか夢だかのために、平然と自分を犠牲にしやがった。それで俺が奮い立って英雄になると思ったら大間違いだ。俺が今までがんばれたのは、レナがいたからさ……レナがいないなら、知らんよ、もう。世界がどうなろうと、魔王がどうなろうと、俺にはどうでもいい」

「ごめんね。私、なにも知らなかったの。レナのこと、私が知ったときには、もう終わっていたわ。止められなくて、本当にごめんなさい。でもすべてがどうでもいいなんて云わないで。みんなを助けてあげてほしい。あなたにはその力があるんでしょう?」

「どうして助けなきゃいけないんだ? こんな思いしてまで、なんで他人のために戦わなくちゃならない? 知らないよ。みんなそれぞれ自分で戦えばいい。俺は助けない」

 するとアツシに抱きしめられていたラッシーは、頭を起こしてアツシの腕から逃れると、アツシを間近から覗き込んで云った。

「弱虫!」

 そしてラッシーの右前足が、アツシの頬を打った。なっ、と呆気にとられたのも束の間、

「いじけ虫!」

 返す右前足が、アツシの逆の頬まで打つ。

「いくら悲しいことがあっても、人には優しくできるのが本当の男と云うものよ! たとえ損ばかりして、あなたの涙を見る人が誰もいなくたって、正しいことはきちんとやり遂げるのが豪傑よ! それが出来ないのなら、あなたは一生、弱虫だわ!」

 アツシはもはや唖然茫然、犬に平手打ちを喰らい、あまつさえ説教までされた男がほかにいるだろうか?

 ――犬だぜ?

 その驚愕が通り過ぎると、アツシは自分の胸に負けん気が熾り出すのを感じた。

「俺が弱虫? いじけ虫?」

「そうよ。トロイに怒るのはわかるわ。でも今はそれとは関係のない大勢の人が危殆に瀕しているのに、あなたはそれを助けられるはずなのに、臍をげているじゃない」

「……ふざけるな。俺は弱虫なんかじゃない」

「なら、行動で示してみせて」

 そう云われて、アツシは森の底からすっくりと立ち上がった。立ち上がって、しかし胸が張り裂けそうになる。

 ――誰も俺に優しくしてくれないのに、俺はみんなを助けなきゃいけないのか。

 だが、これがいじけていると云うことなのだろう。報われぬことを承知で、その先になにもないことを承知で、行かねばならない。

「くそっ……ああっ、くそっ。たとえ損ばかりして、俺の涙を見る人が誰もいなくとも、正しいことはきちんとやり遂げる。そんなのは、正しいのかもしれないがぶっ壊れてるぜ。だが、いいだろう。ぶっ壊れてやる」

「いいえ、壊れちゃ駄目よ」

「なに?」

「それであなたが壊れたら、みんなへの当てつけみたいじゃない。心のどこかで報われない運命に不満があるから壊れるんでしょう。でも、それは本当の強さじゃない。本当に強くて優しい人は、私たちに引け目やすまなさなんか感じさせないわ。あなたの姿を見て痛々しいなんて思わせない。あなたの涙は誰も見ない。いつも笑顔。そこまでやって百点よ」

 そう云われて、アツシの心に稲妻とも地震ともつかぬ衝撃が走った。

「そ、それは、人間なのか……?」

 その問いにラッシーはなにも答えない。ただ赤い瞳で、アツシをじっと見上げている。答えは自分で掴めと云うことか。アツシは手のひらを握って開いてを繰り返しながら云う。

「俺は、俺はなあ……そもそも戦いたくなんてなかったんだよ。でもレナが、まるで俺を英雄のように見つめるから、訓練を三年も頑張ってしまって、壁の外にも行って、そこまでしたのにレナに死なれて、馬鹿みたいだ。でもレナはきっと俺が英雄になると思って、自分を召喚するだろうと信じたから、自分の命を捨てたんだろうな。結局俺は、レナのために、また立ち上がろうとしている。くそがあああっ!」

 アツシはそう吠えると、なにか覚悟を決めるように両手を固く握りしめた。

「いつも笑顔、か。そこまでの大物になれるかどうかはわからないけど、弱虫にはなりたくない……し、たぶんレナは俺に呼ばれるのを待ってるだろうから……」

 そのときアツシのなかで、撃鉄が起こされるような感覚があった。なにかが嵌まった。

「……今から魔王を倒しに行く」

 するとラッシーが、犬のくせに微笑んだようだった。

「やっとその気になったわね。なら安心なさい。あなたがいつも笑顔の英雄豪傑になれるかどうか、今はまだわからないけど、もし心が耐えきれなくなって壊れてしまいそうになったら、そのときは私が助けてあげるから」

「なに?」

「筋違いな怒りや、やりきれない悲しみがあるなら、全部私にぶつけなさい。殴ってもいい。叩いてもいい。私をいくらでも苦しめればいい。私は逃げない。一生あなたの傍にいて、あなたの気が済むまで、あなたの云うことをなんでも聞いてあげる。でも私以外の人には、優しく公平でいて。トロイもジュリアンも、みんな許してあげて」

 その言葉はすべて優しさの音色だった。そうだ、思えばさっきから、この犬は自分を慰め、励まし、尻を叩いてくれている。なぜなのか。

「あなたの涙は誰も見ない。この私を除いては」

 ラッシーは赤い瞳でアツシを真っ直ぐに見据えてそう云った。そのあまりの優しさにアツシは怯みさえした。

「そんなこと云って、だいたいおまえは何者なんだ。犬のくせにべらべら喋って……そうだよ、すっかり話し込んじまったけど、最初からおかしいんだ。なぜ犬が喋る? おまえはいったい、なんなんだ?」

「あら、わからない?」

 ラッシーは犬のくせに笑いを含んだ声で云うと、あらぬ方を振り仰いだ。

「エロイーズ、グレイス、シーリーン、出てきなさい!」

 それに応じて樹の陰から、森の暗がりから現れたのは、見覚えのある三人の女だった。オヴェリアの影武者を務める老婆のグレイス、暗闇の結界を作るエロイーズ、そして護衛の騎士シーリーンだ。

 他の二人はともかく、アツシはエロイーズの姿がここにあることに目を剥いた。

「エロイーズ! どうしてあんたが……トロイと一緒に魔王を包囲してるんじゃないのか?」

「私のマイティ・ブレイブによる結界は、一度張ってしまえば私がその場を離れても機能します。それでいて私の精神とリンクしており、結界の状態はここにいてもわかります。魔王はまだ結界のなかですよ。もうあと一時間もしないうちに破られそうですが……」

 そう話すエロイーズの顔はどことなく青ざめている。結界への攻撃が、本人の精神的負担になっているのであろうか。

「それに魔王が結界を破って出てきたら、一時的とはいえ自分を封印したエロイーズを真っ先に狙うだろうから、今のうちに退避しておけというトロイの勧めがあったのだ」

 シーリーンの補足にアツシが納得していると、ラッシーはグレイスを見つめて云う。

「そんなことより、グレイス」

「仕方ありませんわね」

 グレイスはため息をつくと、さっと右手を振った。すると犬のラッシーの体が光りに包まれ、その光りが収まったとき、そこには身長一四〇センチくらいの、癖の強い黒髪を腰まで伸ばした、金の瞳の美少女が、白いドレスを纏って立っていた。

 そしてシーリーンとエロイーズが、その少女の両脇を固めて立つ。その姿はまるで少女を守るかのようだ。それでアツシにもやっとわかった。

「そうか、おまえが……」

「私はオヴェリア。この世界に壁を巡らした最初の勇者よ」

 オヴェリアはそう云ってにんまりと笑った。

 おもえば三年前、変身のマイティ・ブレイブを持つグレイスが影武者としてオヴェリアを名乗り、アツシに接見したわけだが、では本物のオヴェリアはどこにいたのかと云うと、実はあの場にいたのである。グレイスのマイティ・ブレイブで犬に変身していて、奥庭に入ってきたアツシに誰よりも真っ先に飛びついてきたのだ。

「そういえばトロイがあんたは悪戯好きって云ってたな……初対面の男に飛びかかるとは、とんでもないおてんばだ」

「ふふっ、あのときは傑作だったわ。あなた本気で腰を抜かしてたでしょう」

 そう云ってオヴェリアがけらけら笑っていると、シーリーンが目に角を立てて云う。

「それより姫、本気か?」

「なにが?」

「さっきの話だ。殴ってもいいとか、叩いてもいいとか……そんなの私は見過ごさないぞ」

 そこでシーリーンが、視線でアツシを切りつけた。

「おまえは八六七番目の勇者だ。だからおまえが召喚されてきたときは、もう先達の勇者たちが受け入れ態勢を整えてくれていた。仲間がいて、世界のありようを説明してもらって、勇者特区などというものが最初からあって、訓練も受けさせてもらって、至れり尽くせりだったろうが。だが姫は、オヴェリア様は最初の勇者。たった一人で、同胞が一人もいない異世界に抛り出されたんだぞ。それから二百二十年……誰より苦労してきたのはこの人だ。それをどうして、おまえなんぞに!」

 そう云ってアツシに詰め寄ろうとしてきたシーリーンの肩を、オヴェリアが掴んで引き留めた。

「いいじゃない、みんな弱いんだから。支え合って生きていきましょうよ」

「し、しかし……」

 と、うろたえた様子のシーリーンに、今度はアツシが云う。

「俺も別に、女の子を殴ったりなんかしないよ」

 ――あなたの涙は誰も見ない。この私を除いては。

 その言葉だけで十分だった。アツシは微笑むと、オヴェリアに視線をあてる。

「それでオヴェリア、魔王を倒しにいくのはいいとして、奴は今どこにいる?」

「それはエロイーズに聞いて」

 オヴェリアがそう云うと、エロイーズが相槌を打って話し始めた。

「もう一度状況を整理しましょう。トロイたちが魔王を追撃したとき、私も大鳥に変身したグレイスの背に乗って空から魔王を追いかけました。そして大勢の勇者たちの命と引き換えに、上空から私の結界内に魔王を捕えることに成功したのです。内部に暗闇の迷宮を作り出すことが出来る点を除けば、私のマイティ・ブレイブはシンプルな結界ですからね。魔王はまだ私の結界のなかにおり、私はそれを感知できています。しかしオヴェリア様の壁と違い、私の結界は魔王の力に叶いません。もう間もなく、魔王は私の結界を破って出てくるでしょう。ですから急がねばなりません」

 その言葉を待っていたかのように、老婆の姿を取っていたグレイスが光り輝いたかと思うと、巨大な鳥に変身を遂げた。その大鳥がさえずるような声で云う。

「さあ、私の背に乗りなさい。魔王の許へ向かいます!」

 ……。

 それから数分後、アツシとオヴェリアはグレイスが変身した大鳥の背に乗って、大空を翔けていた。エロイーズとシーリーンはグレイスのマイティ・ブレイブで白と黒の鴉に変身し、オヴェリアの両肩にとまっている。鳥の背中など人が乗るのに適さないかと思われたが、意外に安定がよく、またその羽ばたきには落ち着いたものがあった。

 猛烈な風のなか、オヴェリアは片手で髪をおさえながら東の方角を見た。

「……朝ね」

 ついに夜が明けた。太陽が昇り、曙光が壁外の大地を赤く染めている。だがアツシたちが飛んでいるあたりの壁内は、まだ壁の作る巨大な影に覆われていて暗い。

「アツシ、今のうちに天使を召喚しておきなさい」

 そう云われてアツシは唇を噛んだ。天使を召喚しろとは、すなわちレナを召喚しろということだ。だがレナの魂に呼びかけるということは、レナの死に向き合うということでもある。頭ではもう彼女の死を理解していても、心はまた別なのだ。

「アツシ」

「……わかってるよ」

 アツシはオヴェリアにそう答えると、空を仰いで思い出を振り返った。

 ――レナ。

 口で、心で、その名前を呼ぶとき、アツシは自分がとても素敵な気持ちになることにずっと前から気づいていた。だが今は痛みと悲しみが胸に広がるだけだ。

 ――レナ、君はどうして。

 すると月明かりが部屋に忍び込んでくるように、少女の声がそっとアツシの心に語りかけてきた。

 ――それが私の望みだったからです。あなたのために死ぬのは、私でなくてはなりませんでした。正直に云います。私はほかの誰かに、この役目を譲りたくなかったのです。

 そう云われて、アツシは口元に笑窪を彫った。

 ――君がそういう奴だって知ってた。でも、俺は君に生きていてほしかったんだ。

 その言葉にレナの返事はない。二人のあいだには深い断絶があった。あれほど寄り添って生きてきたのに、背中合わせにまったく別の方向を見ていたとは、なんと滑稽で、そして悲しいことだろう。普段であれば肩を揺すって笑いたいところだが、今の自分は、その悲しみを一またぎにしてしまえる。戦う覚悟は出来ていた。

 ――レナ。

 ――はい。

 ――君は俺の従者だ。

 ――もちろんです、アツシ様。

 ――ならば今一度この世に戻り、俺の剣となり盾となって戦え。

 ――喜んで。

 そのときアツシはたまたま目に止まった金色の明星に向かって手を伸ばした。夢中で掴もうとしたせいか、体勢が崩れ、それを傍からオヴェリアが支えてくれる。アツシはそれを意識もせず、そこにレナがいるような気がして、手のなかでぐっと星を掴んだ。

「来い!」

 アツシの手から溢れた光りが眩しくて、アツシは目を開けていられなかった。その光りが去ったかと思うと、空中にほっそりとした美しい戦闘天使が現れた。

 男性型の戦闘天使は機械仕掛けの外見をしているが、女性型の戦闘天使は、その外見が生前とほとんど変わらない。すなわち三つ編みにした蜂蜜色の髪と緑の瞳を持っていた。顔も体つきもアツシの愛した彼女のままだ。ただ身につけているものは違っていて、白銀の鎧で武装しており、円形の盾と、槍とも杖ともつかぬ長柄の獲物を携えている。そしてその背中には、白い天使の翼があった。

「レナ……」

「アツシ様」

 アツシとレナは一瞬、互いの目と目を覗き込んだ。トロイを肯定するようで忌々しかったけれど、こうして天使として召喚されたレナは光り輝くように美しく、まるで生き返ったか、あるいは生まれ変わったかのようだった。

 もう死んでいるはずなのに、ずっと一緒にいてほしいと思ってしまう。

「そんな姿になってしまって……君はこれから、あの恐ろしい魔王と戦うんだぞ?」

「それこそが、私の喜びです」

 レナは微笑んでアツシにそう答えると、翼をひろげて鳥と化しているグレイスの横を、併走ならぬ併翔した。アツシが転落しないよう支えてくれていたオヴェリアが、レナを見てほうとため息をつく。

「綺麗な天使ね。初めまして、私はオヴェリアよ」

「オヴェリア様!」

 レナはそう驚きを呈して、まっすぐ飛翔していたのがちょっと傾いた。アツシは苦笑すると、レナが生前オヴェリアを崇敬していたことを当のオヴェリアに伝えた。オヴェリアがくすぐったそうに笑う。

 そのとき白い鴉になっているエロイーズがいきなり悲鳴のような叫び声をあげた。

「結界が、破られました!」

 その言葉にアツシは胃を鷲掴みにされたような気がしたが、しかしこうなることはわかっていたはずだ。わかっていて、自分は魔王と戦うためにここへ来たのだ。

 もはや誰の顔にも笑みはない。

「急いでくれ、グレイス!」

 アツシの声にグレイスが鋭い叫びで応え、大鳥に変身している彼女は限界を超えて羽ばたいた。

 そしてついに、アツシたちは戦場へ到着した。上空から大地に目を転じれば、この高さからでも、村が一つ燃えているのが見える。中心に黒いオーラを放つ人影があり、それを大勢の、芥子粒のようにしか見えぬ勇者たちが取り囲んでいる。血のにおいが、怒号と悲鳴が、ここまで伝わってくるかのようだ。

 アツシはまなじりを決すると、鳥の背で立ち上がった。

「俺とレナだけで降下する。オヴェリア、あんたはこれ以上、近づくな。グレイス、俺が下りたら引き返してくれ」

 すると今度はオヴェリアの肩で黒い鴉が一声鳴いて、シーリーンが人の姿に戻った。

「私も行こう。ここが正念場だ、少しは力になれるかもしれない」

「……あんたはオヴェリアを守る最後の盾なんじゃないのか?」

「ここで魔王を倒さねばすべて終わりなのだ。グレイスやエロイーズと違って私は戦闘向きマイティ・ブレイブの持ち主、投入できる戦力は全部ぶち込むしかあるまい」

「そうね」とオヴェリアもシーリーンの尾について云う。「連れて行ってあげて、アツシ。シーリーンは強いわよ?」

「そうか、なら行こう」

 アツシはシーリーンの手を取ると、彼女とともにグレイスの背中から足を踏み外した。風に吹き飛ばされたような二人を、レナが丸ごと抱きしめてくれる。外見は人間とほどんど同じなのに、やはり天使であった。その細腕には、尋常ではない力強さがある。

「アツシ様、シーリーン様、しっかり私におつかまりください」

 云われるまでもなく、アツシとシーリーンはおのがじし、レナの肩なり腕なりにとっかかりを見出して自分の体を安定させた。

「アツシ!」

 そう自分の名前を呼んでくれたオヴェリアに笑いかけ、アツシは云う。

「行ってくる」

 次の瞬間、アツシとシーリーンを伴ったレナは、一筋の流星と化して戦場へと降下した。


        ◇


 そこは地獄だった。ばらばらにされたり、黒こげにされたり、脳漿や眼球や内臓が飛び出した無残な死体がそこら中に転がっている。流された血は大地をどす黒く染め、血と肉と家の焼ける匂いが漂っていた。死んでいる者はほとんどが勇者だ。

 勇者のマイティ・ブレイブは多種多様で、戦闘に向いたものもあればそうでないものもあり、また一見に役に立たないようなマイティ・ブレイブでも工夫や組み合わせ次第で化けることがある。魔王をエロイーズの結界に追い込むまで、そして結界から出てきてから、あらゆる勇者があらゆる角度から自分のマイティ・ブレイブを武器に挑んできたが、挑むたびに敗れ、こうして屍を晒している。

 そして魔王は、生き残った勇者たちに包囲されながらも勝ち誇っていた。

「結局のところ、私を倒せる者はいないようだ。だがこれほど大勢の虫けらどもにまとわりつかれると、さすがの私も辟易するよ」

 そんな魔王の言葉に、ジュリアンは口のなかに溜まった血を吐き捨てた。

「くそったれが! いったい何人死んだ……」

 その嘆きに答える者とていない。ジュリアン自身、自分がまだ生きていられるのがただの幸運であることはわかっていた。

 ――俺もいつ、そこいらに転がってる連中の仲間入りをしてしまうかわからない。もう駄目なのか? だがやらなきゃ、もうやられちまう。やるしかねえ。

 ジュリアンはそう闘志を奮い起こして、剣を固く握りしめた。そしてもう何度目かわからない激突が始まろうとしたまさにそのとき、空から星が降ってきた。それはまっすぐに魔王を目指し、手にした槍で魔王を串刺しにしようとした。それを魔王は大きく飛びすさって躱す。そのとき、ジュリアンは魔王の顔に初めて怯んだ色を見た。

「……来たか! 時間の問題だとは思っていた!」

 そう云って魔王が睨んだのは白い翼を背負った女性型の天使だった。その天使にしがみついていた二人のうちの一人が大地に降り立ち、すぐにジュリアンと目を合わせる。

 その男の顔を見て、ジュリアンは安堵するやら腹が立つやらだ。

「おせえよ、アツシ」

「ジュリアン、武器を貸してくれ。着の身着のままで出かけたんで、丸腰なんだ」

「その辺に落ちてるの、拾え」

 アツシは顔をしかめたが、仕方なさそうに死体から奪い取った槍を手に魔王に向き直った。そのアツシに声をかける男がいた。トロイだ。

「アツシ」

「トロイ、まだ生きてたか」

 ジュリアンはアツシがまたトロイに襲いかからないかと思ったが、その気配はない。

「魔王は倒す。そう決めた」

「そうか。よし、ならばこれで勝てる。魔王の顔を見れば、それがわかる」

 たしかに、魔王は追い詰められたような表情をしていた。正面から天使をぶつけて、側面から勇者たちが十重二十重に襲いかかれば、行けるかもしれない。

 ジュリアンがそう考えている一方、トロイがアツシに云う。

「それよりアツシ、おまえは下がれ。おまえがやられるのが一番まずい」

「厭だね。レナだけを戦わせられるもんか。俺もやるんだ。おまえの云うことは聞かない」

 それにトロイが鼻白んだ。ジュリアンは自然と笑みが漏れてしまう。

「まだ怒ってやがるな、アツシ」

 するとアツシはジュリアンを見て、ちょっと首を傾げた。

「ぼろぼろだな。まだ動けるか? ポールの仇を討つんだろ?」

「誰にものを云ってやがる。俺は根本的におまえとは出来が違うんだよ」

「そうか。ならとどめの一太刀はくれてやる。仇を討てよ。行くぞ」

 こうして、アツシが、ジュリアンが、トロイが、シーリーンが、そして大勢の勇者たちが、戦闘天使となったレナを旗印に魔王へと挑む。

 最後の戦いが幕を開けようとしていた。

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