第四話 白き翼の死霊使い

  第四話 白き翼の死霊使いネクロマンサー


 東龍門から出た先の世界は、全体として草原であった。草色は夏の濃緑から秋の茶色に移りつつある。ところどころ起伏があり、向かって左手には森の影が見えた。さらにずっと奥には高い山が見える。それ以外の、見渡す限りは地平線だ。

 アツシはこの世界に来て初めて地平線を見た。思えば壁のなかでは、どれだけ眺望絶佳であっても景色のはてには必ず壁がある。それがないというだけで、アツシは胸に風が吹くようだった。隣を見れば、レナもまた馬に揺られながらこの景色に見入っている。

 そこへトロイの声が飛んだ。

「速やかに陣形を展開せよ!」

 その号令によって、一行はただちに荷馬車と従者隊を中央にして楕円形の陣をつくると、大きく右側へ転身し、壁沿いを時計回りに、馬の足並みを揃えて進んだ。

 モンスターとの最初の遭遇は、壁を出た日の昼前にあった。相手は植物系のFランク級モンスターで、そうと判断されるやただちに交戦状態に突入、アツシにとって初めての実戦となるそれは他の勇者たちに援護されてあっという間に終わってしまった。覚醒はしなかったが、拍子抜けするほど簡単だった。

 こうした戦いが日に数度繰り返され、一日が終わり、次の一日が始まる。

 二日目が終わるころにはアツシもだいぶ慣れてきていた。

 そして三日目の昼、一行は見晴らしのよい丘に陣取って見張りを立てつつ、適当な人数に分かれて交代で昼食を摂っていた。アツシもまた数人の仲間たちと火を囲んでスープを飲んでいる。そのアツシの右隣には大きめの石に腰掛けているジュリアンがいた。

 ジュリアンは干し肉をかじりながら云った。

「な、云ったろ? 基本壁に沿ってぐるっと回るように進む。壁に近いところはある程度安全も確保されていて弱いモンスターしか出ない。油断はしちゃいけねえがそこまで神経質になるほどのもんでもねえよ」

「……そうみたいだ」

 アツシは微笑む余裕さえあった。この調子なら大した危険もなく生還できそうである。ただし、この遠征に来たそもそもの目的はまだ果たされていない。

「問題は、安全すぎるとてめえがいつまで経ってもマイティ・ブレイブに覚醒しないってことだな。飯を食ったら給水地点に向かって出発するわけだが……」

 水は云うまでもなく命であり、巡回ルートは水を補給できる川や湖を考慮に入れて定められていた。一日に二度、給水地点を通過するようになっているのだ。

 それはともかく、ジュリアンがアツシを見ながら笑いを含んだ声で云う。

「もう三日目だぜ、先輩? そろそろ強めのモンスターに一人で突撃してみせてくれよ」

「一人は無理だろ。死んでしまう……」

 マイティ・ブレイブに覚醒していないアツシの戦闘力は鍛えた一般人と変わらない。一対一では、最下級のFランクモンスターが相手でも勝てるかどうか怪しいくらいだ。

「でもなあ、生きるか死ぬかくらいの方がやっぱり覚醒しやすいらしいんだよ。今のままだと五日じゃ済まねえな。五十日……いやあ、おまえのことだから五百日はかかるか?」

 そう云って呵々と笑うジュリアンに、アツシは返す言葉がない。通常三ヶ月で終わる訓練に三年かかったのだ。マイティ・ブレイブの覚醒に五年かかってもおかしくはない気がした。

 と、アツシの左側に座っていたレナが、このときジュリアンに問いかけた。

「ジュリアン様のときはどうだったのですか? 見事五日で覚醒したと伺っておりますが」

「俺? 俺のときはひどかったぜ。Dランクに遭遇したんで、みんなで突撃だってわっと声をあげて突っ込んだんだが、気づいたら俺一人しかいねえ。振り返ったらみんな止まってやがる。嵌められたんだよ。おかげで死にかけたが……覚醒した」

 その場面を想像してアツシはぞっとした。ジュリアンは怒り狂いながらも血路を切り開いてマイティ・ブレイブに覚醒したのだろうが、アツシが同じ状況に落とされたらどうなるだろうか。覚醒を果たせず死ぬのではないか。

「まあ、おまえじゃ俺の真似は無理だろうな」

 アツシの心を読んだようなジュリアンの科白せりふに、アツシは返す言葉もない。

「……俺は気長にやるよ」

 この三日間、それほど危ないと感じるようなこともなかったせいか、アツシはマイティ・ブレイブの覚醒にいつまでも時間をかけられるのだと楽観して、そうのどかなことを云った。

 しかし突然、アツシの楽観を裏切る緊迫した声が場を引き裂いた。

「北方に影あり! モンスター! 距離はまだ五〇〇〇メートルあるが、でかい!」

 たちまち陣内に嫌な緊張感が走った。誰もが笑みを消し、食事の手を止めて武器を取りながら立ち上がる。

 ジュリアンもまた干し肉を豪快に咀嚼して呑み込むと、すっくりと立ち上がり、腰の剣の具合を確かめながら云う。

「行くぞ、アツシ」

「ああ……」

 アツシは湧き起こる不安を努めて無視しながらスープの残りを急いで飲み干すと、空になった椀を地面に置いて立ち上がった。そのときレナが声をかけてきた。

「アツシ様……」

「大丈夫。ここは壁に近いし、新米勇者覚醒のための遠征はもう何年もずっと死者が出てないって話だし、俺のときに限ってそんな強いやつが出るわけがない。でもレナは念のため移動の準備を始めてくれ。モンスターは俺たちで対処するから」

 レナを安心させるように云ったその言葉は、実のところアツシ自身を安心させたいのだった。俺たちで対処するなどと大言を吐いたところで、マイティ・ブレイブに覚醒もしていない自分にどれだけのことが出来るだろう。疑わしい。疑わしいが、やらねばならぬ。

「じゃあ行ってくるよ」

 アツシはそう云うと、ジュリアンとともに陣の北側へ向かって走り出した。


 アツシたちが陣の北側に到着したとき、そこでは既に数人の勇者が厳しい顔をして、五〇〇〇メートル以上の距離を隔てた先にいる巨大な魔物と睨み合っていた。およそ遮るもののない褐色の草原のただなかに、巨大な影がぽつんと佇んでいるのが見える。

「あれが? たしかに大きいけど……」

 アツシは魔物の姿に目を凝らしながら眉をひそめた。ここからでは細部がよく見極められない。

 すると隣にいた勇者の男が、「見てみろ」と云って、アツシに遠眼鏡を投げてくれた。それを受け取ったアツシは、礼を云いながら遠眼鏡で目標を覗き、今度こそ息を呑んだ。それは白い巨大な虎の化け物であった。

「アツシ、寄越せ」

 ジュリアンがそう云うので、アツシは恐怖に竦みあがったままジュリアンに遠眼鏡を渡した。ジュリアンは遠眼鏡を覗き込むなり口笛を吹いた。

「なるほど、でかいな。この距離であの大きさ。目の前に来たらどうなっちまうんだ?」

 ジュリアンの声は不自然な愉悦に満ちていた。まるで不安を紛らわすために、わざとはしゃいでいるかのようだ。自信家のはずのジュリアンが躁的になっていると感づいて、アツシは不安のあまり吐き気を催してきた。

「でかいからと云って、強いってわけじゃないよな?」

「もちろんそうだが、あんなのは見たことがない。それにこっちを見てやがるくせに、動かないのが気に掛かる。どうにも不気味だぜ」

 アツシはそれに相槌を打つと、改めて遠い魔物の影に目をやった。

 モンスターは共通して人間に強い敵意を持っているが、知能については種によって様々だ。犬猫程度しかないものもいれば、相当悪辣なものもいる。では今、彼方からこちらをじっと見ているだけで近づいて来ようとしない、あの魔物の知能はどうなのか。アツシが測りかねていると、馬のいななきが聞こえてきて、蹄の音が近づいてきた。

 振り返ると、騎乗したトロイがやってきたところだった。

 指揮官の登場に勇者たちのあいだに少しほっとした空気が流れた。トロイは彼らの一人を捕まえて問う。

「どこだ」

「あれです」

 ジュリアンがそう云いながらトロイに遠眼鏡を渡す。遠眼鏡でモンスターを目視したトロイは、たちまち短く呻いて険しい顔をした。その反応に全員が固唾を呑んだそのとき、トロイがうっそりと云う。

「作戦は中止だ。従者を含めた全員は速やかに俺の許へ集まれ。荷物は捨てていいが馬は可能な限り集めろ。これより壁内へ撤退する」

 その命令にアツシは血の気が引いた。それはつまり、あの影が勇者が戦いを放棄して即撤退を決断するモンスターということだ。

 勇者の一人がふるえる声で云う。

「トロイさん、やつは……?」

「俺が八十年前に魔王と遭遇した話は知っているだろう」

「トロイさん以外の勇者が全滅したって云う?」

「そうだ。あのとき魔王は単身ではなく、桁違いの魔物を数体従えていた。そのうちの一体がやつだ。名前はアデプトタイガー……Sランクだ」

 Sランク。その言葉に勇者たちは一斉に沈黙した。ほとんど死神と遭遇したのに等しい。だが皆を励まそうと思ったのか、一人の勇者がわざとらしいほど明るい声で云った。

「で、でもSランクと云ったって、そんなの実際の交戦経験がほとんどないわけだし……」

「戦ってみたら勝てる? 無理だな。あれはそういうレベルではなかった」

 トロイは現実逃避の楽観をあっさり否定すると、なおも淡々と語る。

「やつはハンターだ。見た目は巨大な虎に近いが、戦いを楽しみ、逃げるやつを優先的に狙ってくる。五〇〇〇メートル以上離れているようだが、その距離は奴の脚には関係ない。風のようにやってくるぞ」

「トロイさん、と云うことは……」

「そういうことだ。とにかくおまえたちは俺の声の届かない者に声をかけて、皆をここに集めてくれ。それからジュリアン、おまえはここに従者レナを連れてこい」

「わかりました」

 ジュリアンは素早く返事をすると、呆気に取られるアツシを尻目に駆け出していった。トロイは彼を見送るのもそこそこに、馬上からほかの勇者たちを見回して云う。

「急げ、おまえたちも早くしろ。だが全員で動くな。数人で行け。やつを刺激したくない」

 そのトロイの静かな号令の下、数人の勇者がまだトロイの命令が聞こえていない者たちに声をかけるべく後方へ向かって走り出した。

 それとは逆に、アツシは騎乗しているトロイに食ってかかった。

「おい! 待てよ! あんた、それは!」

 レナをこの場に連れてくる。その意味を悟って、アツシはほとんど恐怖に駆られていた。そんなアツシを冷徹犀利な目で見下ろしてトロイは云う。

「云ったろう、奴は風のようにやってくると。五〇〇〇メートルの距離など奴にとっては一跨ぎなのだ。馬の足では追いつかれるし、壁に向かって走ったところで、逃げようにも逃げ切れない。そもそも逃げようとすればただちに残忍な本性をしたたらせて追ってくる。だから奴がまだ俺たちをどう料理しようか考えているうちに、全員をこの場に集めてレナの心臓を使い、俺のマイティ・ブレイブで壁のなかに転移する。もうそれしかないのだ」

「ううっ……!」

 思わずそんな声がアツシの口から漏れた。

 レナの心臓を使う。彼女の生き血を使って、全員で転移して逃げる。その奥の手を、人一人を生け贄にしてやっと使える切り札を、トロイは初手から切ろうとしている。そのことにアツシは目も眩むような怒りと絶望を覚えて吼えた。

「ふ、ざけるな! なんでいきなり、こんなことになってるんだ!」

 今日の朝まで順調だった。ルートを外れたわけでなし、壁に近いところで勝ち目のあるモンスターとばかり戦ってきた。それが昼飯を食っていたらいきなりこれだ。

「なんでだよ!」

 アツシが二度叫ぶと、トロイは少し目を伏せ、うっそりと云った。

「……運命だな」

「運命? 運命だと? なにが運命だよ!」

 そう憤るアツシに、トロイは目を上げて続ける。

「ここ数年、おまえ以外の勇者はマイティ・ブレイブに覚醒する壁外遠征を無事に終えてきた。失敗はなかった。しかし今回に限って、Sランクモンスターに遭遇した。こんな壁の近くであのランクのモンスターが出てきたことはかつてない。つまりは、運が悪かった。ただそれだけのことだが、この現象に敢えて名前をつけるなら、運命と呼ぶしかあるまい」

 その言葉にアツシも、それを周りで聞いていた勇者たちも、なんの言葉もなかった。

 たまたまだと云うのか。たまたま地雷を踏んだように、運悪く死神に目をつけられたように、事故や病気がある日突然襲ってくるように、今日と云う日に自分たちはあの化け物に遭遇したのか。

「……なぜ、俺のときに限って」

 思わずそんな言葉が口からこぼれた。それを聞き咎めてか、トロイは冷厳と云う。

「勘違いするな。過去、二百人以上の勇者が死んでいる。それに比べれば、おまえはまだ運がいい方だ。まだ死ぬと決まったわけではないのだから」

「トロイさん!」

 突然、一人の勇者が悲鳴すれすれの声をあげた。トロイが馬上からすばやくアデプトタイガーの方を見る。それと同時に別の勇者がまた叫んだ。

「ち、近づいてくる!」

 アツシもまたそれを見た。地平の彼方に佇んでいてこちらの様子を窺っていた巨大な魔物が、今はその逞しい四肢を軽快に動かして、徐々に徐々に加速しながら、こちらへ向かって駆けてくるのだ。トロイの目が細められた。

「こっちは風上か。風のなかにこちらの気配を嗅ぎ取ったな」

 トロイはそう云うと腰に吊るしてあった大きな角笛を手に取った。この笛の音の大きさはアツシも知っており、この陣にいる勇者と従者の全員に聞こえるくらいのものはあった。笛を吹く回数、間隔、長さなどによって進軍、停止、集結などの合図が決められており、それはアツシも出発前に頭に叩き込まれていた。

 トロイは角笛を口元まで持っていき、しかしそこで思いとどまったように手を止める。

「……今ここで総員撤退の合図を出せば全員が混乱したままばらばらに逃げてしまうな」

「そ、その方がいいのでは? あいつ、速いは速いけど風のようってほどのことは――」

「いや、あれはまだ全速ではない。だが逃げれば向こうも速度を上げる。奴が本気を出せば、全員がばらばらに逃げても一人残らず狩り尽くされる! アツシは下がれ! おまえたち、レナが来るまで踏ん張れるか!」

 その声の調子には、否定を許さぬものがあった。怯えていた勇者たちのあいだに電撃が走るのが、アツシにも見えた気がする。

「食い止めろ!」

 そう号令を下したトロイは、角笛を吹いた。短く二回、最後の一回は長く。これは全員集結の合図だ。その笛が鳴りむ前から、アツシはトロイたちに背中を向けて走り出していた。誰かが自分の名前を呼んだが、振り返らなかった。

 行く手にはもう取るものも取らず、勇者や従者たちがトロイの許へ集結しようとしている。アツシはその流れに逆らって、必死にあたりを見回し、蜂蜜色の髪を三つ編みにした少女を探していた。

「レナ! どこだ、レナ!」

 ジュリアンがトロイの命令でレナを探しにいったはずだが、二人は今どこでどうしているのか。このあいだにすれ違いが起きてジュリアンがレナをトロイのところへ連れていったらおしまいだ。そんな恐怖と戦いつつ、アツシはもう一度叫んだ。

「レナ!」

「アツシ様!」

 その声がアツシの心に希望の鳥となって飛び込んできた。見ればレナは、二頭の馬のくつわを取ってアツシのところへ向かってきているところだった。

 そのすぐ傍らにジュリアンとポールがいる。アツシはジュリアンを見て判断を絶したが、ともあれレナのところまで行った。

「よかった、無事で」

「アツシ様、これを」

 微笑むアツシに対し、レナは蒼白な顔をしてアツシに馬の手綱を引き渡してきた。アツシはその手綱を受け取りつつも、レナのことが気になった。

 レナは顔色が悪く、無表情で、しかもどことなく寒そうである。

「レナ、どうした?」

「……あらましはジュリアン様から聞きました。私はトロイ様のとこへ行かねばなりません。トロイ様はどちらに?」

 それにアツシは沈黙してしまった。レナはもうトロイに心臓を捧げにいくつもりでいる。しかし今のレナの様子はどうだ。顔は紙のように白く、無表情で、目は怯えきっている。従者として勇者のために命を捧げると、わかっていたし、覚悟していたつもりだったろう。それでもいざそのときが来ると、怖くないはずがない。そして、そんなレナを目の当たりにしてしまって、アツシも行かせられなかった。

「行こう、レナ」

「えっ?」

 目を丸くするレナの手を掴んだまま、アツシは馬に飛び乗ると彼女を鞍上に引っ張り上げた。レナは戸惑いつつもアツシの後ろに乗って腰に手を回しながら云う。

「それで、トロイ様はどちらに?」

「いや、違う。逃げるんだよ」

 そのとき、慌ただしい周囲をよそにアツシとレナのあいだには静寂が訪れた。

「アツシ様……」

「君を守る。死なせやしない。だから諦めるな。今は逃げよう」

 そう熱く語るアツシの喉元にいきなり剣が突きつけられて、アツシはぎょっとした。ジュリアンだった。ジュリアンは歯ぎしりしながら、アツシを視線で射殺すような形相だ。

「おい、ふざけるな。トロイの旦那が角笛を鳴らしたってことは、やつが動き出したんだろう。もう時間がない。そいつの心臓を使って――」

「おまえこそふざけるな。仮にも勇者と名乗っている者が、モンスターと出くわすや否や女一人を犠牲にして生き延びようっていうのかよ!」

 このように挑発したら殺されるかもしれなかったが、今のアツシにその考えはない。ただ頭が理不尽への怒りで支配されていたのだ。

 一方のジュリアンも、それにはちょっと怯んだようだった。

「……い、一理ある」

 その一瞬、アツシはジュリアンを説き伏せられたのかと思って胸をときめかした。だが次の瞬間、ジュリアンは鉄の意志を取り戻した面構えに戻っていた。

「一理あるが、トロイの旦那がSランクって云ったら、それはもう俺たちの手には負えねえってことだ! 逃げるしかないし、まともにやって逃げられないなら当初の予定通りやるしかねえんだよ!」

「おまえ――」

 アツシは怒りで張り裂けそうな自分を感じていた。だがジュリアンもまた引かない。

「女一人を犠牲にして逃げるってのがだせえのは同意するが、それをだせえって思うのは小さいことなんじゃないのか? 大儀を見ろよ! 小せえ根性にしがみついて全滅したら意味ねえだろうが! みんな死ぬぞ!」

「俺は――」

 アツシはこのとき、自分でも驚いていた。たとえみんな死ぬと云われても、この場の全員を生かすことより、レナ一人を生かす方に、自分の心の天秤が傾いたのだ。

「だって俺は、レナのことが好きだ」

 それにジュリアンが絶句した。力が抜けたのか、アツシに向けていた剣も下ろしてしまう。

 ――今だ。

 アツシはそう思って馬を走らせようとしたのだが、そのときレナが鮮やかに裏切った。アツシの腰に腕を回して鞍上に二人乗りしていたのが、涼しげなまでの動きで馬からひらりと飛び降りたのだ。

「レナ!」

 愕然として手綱を絞るアツシを振り仰いだレナは、顔を輝かし、凛とした声をあげた。

「大丈夫、私、行きます」

「な、なんでだよ!」

 好きだと口走ってしまった直後にこれでは、まるでふられたみたいではないか。だがレナはもう怯えた色を見せてはおらず、むしろ微笑んで云う。

「アツシ様、あなたが勇気をくれたのです」

 そう云われて、アツシはそこに本当の勇気を見た。レナは恐怖を乗り越えて自分の務めを果たそうとしているのだ。

 ――くそ。

 レナはもう覚悟を決めてしまっている。守ろうとしていた鳥が自分から飛び立とうとしている。一人の人間の意思と覚悟を尊重するべきなのだとしたら、止めてはいけないのだろう。だがそれでいいのか。おまえの心はどこにある?

 もう一人の自分にそう囁かれたとき、アツシは馬から転げ落ちるように飛び降りていた。そのときにはもう、レナはジュリアンに腕を掴まれている。

「ポール、アツシを押さえておけ」

 それにポールは一瞬たじろいだ様子を見せたが、すぐに突進するアツシの前に体ごとぶつかってきて、アツシを無理やり押さえ込んだ。そのポールの重たい体に逆らいながら、アツシはジュリアンに連れていかれるレナに向かって叫ぶ。

「レナ! 俺は君に生きてほしい!」

「ありがとうございます。でも勇者と従者の命の重さは違うのです。私一人の命でアツシ様や皆様の命が助かるのならそれでいい」

「いいわけないだろう!」

 血を吐くように叫んだアツシを肩越しに振り返って、レナが笑う。

「アツシ様、いつかきっとこの世界を変えてくださいね」

 レナはそう云うと顔を前に戻し、もはやアツシのことを振り返らず、波にさらわれるようにして前へ進んでいく。それをアツシは、ポールに食い止められながら思う。

 ――世界? なにが世界だよ。世界とかどうでもいいし!

「レナ!」

 アツシがふたたび、そう叫んだときだった。ずっと遠くの大地に稲妻のような音がしたかと思うと、前方、トロイたちのいる方でどよめきが上がった。

 ――なんだ?

 アツシがそう思ったとき、大地からなにかが大空へ舞い上がるのが見えた。信じられないことだが、それは遙か彼方で大地を蹴って跳躍し、橋を架けるような軌道を描いて、一〇〇〇メートル、いやことによると二〇〇〇メートル以上の距離を、跳んできたのだ。

 アツシは思わず空を見上げた。化け物の腹が見える。青空を背景に、白い巨大な虎の化け物が、のびのびと四肢を寛げるように伸ばして、自分の頭上を飛び越えていく。

 ――奴は風のようにやってくる。五〇〇〇メートルの距離など一跨ぎだ。

 たしかにトロイはそんなようなことを云っていた。だが本当に一跨ぎにするなどと誰が思うのか。それが常識というものだ。しかし常識を超える怪物は、トロイたちが殺気立って迎え撃とうとしているのを見ると、それを嘲笑うかのように二〇〇〇メートル先から跳躍し、トロイたちはおろかアツシたちまで飛び越えて、見事に着地を決めたのである。

「化け物」

 そう呟いたのはポールだったが、アツシも同じ気持ちだった。

 それは風とともにやってきた。アデプトタイガー。そう呼ばれるだけあって、その外貌は虎のようだ。毛並みは白地で黒い縞模様が描かれている。そして大きい。三階建ての家くらいはある。頭の大きさだけでも襖三枚分、目玉は人の頭よりも巨大だ。

「やっべ」

 ジュリアンがレナを前に突き飛ばしながら剣を抜く。

「おまえはトロイの旦那のところへ向かえ! こっちは、俺らが引き受けるしかねえ!」

 トロイの指揮下で前方の守りを厚くしていたのが、裏を取られたのだ。また角笛を受けて勇者も従者も全員がトロイの許へ集まろうと動いていた。そこへいきなり前線の表裏がひっくり返り、アデプトタイガーと直面しているのはアツシとジュリアンだったのだ。

 いや、もう一人。アデプトタイガーに一番近い距離にいて、ひいふう云いながらこちらに向かって走っている一人の男がいた。

「あの逃げ遅れてるデブは――」

「ハリーさん!」

 それはエアリアルハンマーのハリーだった。彼はあろうことか、アデプトタイガーが手を伸ばせば届きそうな距離にいる。ジュリアンがたちまち怒声を張り上げた。

「なんでそんなところにいるんだ!」

「うんこしてたの!」

「走れ、デブ!」

 ジュリアンがそう云うまでもなくハリーは必死に走っていた。だがあまりにも遅い。嗤笑を浮かべたアデプトタイガーが、ハリーをその爪で引き裂くのは一瞬だった。

「ひっ!」

 ハリーのそんな声と、最後の表情がアツシの目に焼き付いた。人間が蝋燭の火を吹き消すのと同じくらいの簡単さで、ハリーの命は呆気なく消し飛ばされてしまった。一瞬だった。一瞬で、ハリーは物云わぬ血塗れの肉塊となって大地にぶちまけられたのだ。

「ハ、ハリー……さ……ん……」

 あまりに無残な、人の殺される光景に、アツシは強い衝撃を受けて身も心も硬直してしまった。人が目の前で死んだ。しかもそれは見知らぬ他人ではなく、この世界にやってきた日にアツシに親切にしてくれた人なのだ。

 ――悪い夢じゃないのか。

 血風をともなう人間の死を初めて目の当たりにしたアツシは、脳の中心が麻痺したようになってしまった。頭は回らないし、体も動かない。まるで木偶人形だ。

「ちっ」

 一方、ジュリアンはさすがの対応力で剣を構えている。目の前で仲間を殺されて、頭に血が上っているようだ。

「やりやがったな、この化け物が!」

 そう叫んだジュリアンが剣を振り上げ、アデプトタイガーに斬りつけた。直接斬りつけたのではなく、彼のマイティ・ブレイブによって斬りつけた。

 インフィニット・ブレイド。赤い光りを放つ伸縮自在のオーラによる剣の構築が、ジュリアンのマイティ・ブレイブだ。射程と威力は本人の精神力次第で、理論上は無限、実際の有効射程は三〇〇メートルといったところらしい。それをジュリアンは手元の剣に重ね合わせて発動していた。実体剣がなくとも発動できるが、剣を握る手応えがほしいのと、相手に斬りつける際の物差しとするために、彼は手元の剣にマイティ・ブレイブを融合させていた。

 云うまでもないが、非常に強力なマイティ・ブレイブだ。完全な戦闘向きで射程が伸縮自在ということから、戦いにおいて重要な間合いを制することができる。このマイティ・ブレイブに覚醒したおかげで、ジュリアンは既に壁外遠征チームの若きエースになっていた。

「おらっ!」

 ジュリアンのインフィニット・ブレイドがアデプトタイガーの巨大な頭を一撃した。が、無傷である。

「硬え!」

 ジュリアンが顔をしかめた。アツシはジュリアンのインフィニット・ブレイドが多くのモンスターを膾斬りにするのを見てきたから、ジュリアンの剣が脆弱ではないことを知っている。つまりアデプトタイガーが硬すぎるのだ。きっと攻撃されたとも思わなかったのだろう、アデプトタイガーはジュリアンを無視するとアツシを見た。アツシもアデプトタイガーを見ていたから目が合った。恐怖の一瞬のあと、アデプトタイガーが地を蹴った。

 ――え、なんで。

 電光石火に飛びかかってくるアデプトタイガーの動きが、アツシにはやけにゆっくりに見える。まるで慈悲ある何者かが死ぬ前に生涯を振り返る時間を与えてくれているかのようだが、アツシはただただ自分の不幸を呪い、後悔に溺れていた。

 ――なんで俺のときなんだ。今まで色んな勇者がマイティ・ブレイブに覚醒するために壁の外に出てただろ。なのにどうして、俺のときなんだ。どうして、他にもいっぱいいる人間のなかから、俺を狙うんだ。なんで、どうして、よりによって、俺なんだよおっ!

 アツシが絶望的な気持ちで胸裡に理不尽を叫んだそのときだ。

「アツシ様!」

 レナが両手をひろげてアツシの前に立った。その光景に、アツシはただ恐怖する。

 ――馬鹿! なにやってるんだ、逃げろ!

 そんな気持ちを言葉にするだけの時間もない、アデプトタイガーが爪を振り下ろしてくるまでの刹那の時間にアツシは思った。自分はレナの体が、さっきのハリーのように無残に切り裂かれるところを目の当たりにすることになる。しかもそれは無駄死になのだ。レナが我が身を盾にしてアツシを庇ったところでなんになるだろう。アツシの死が一秒延びるだけだ。そんなことためにレナが死ぬ。死んでしまう。

「そんなの――」

 胸の奥から、腹の底から、爆発的に湧き起こるものがあった。その溢れる力を感じながら、アツシはレナに手を伸ばして叫ぶ。

「そんなの駄目だ!」

 そのときレナに向かって伸ばしたアツシの手の先で光りが生じ、その光りは小日輪となってアデプトタイガーの鼻先で炸裂した。あまりに眩しかったせいなのか、アデプトタイガーは「ぎゃうっ」と一声叫ぶと、体をねじりながらしかし着地に失敗し、レナの数メートル先でどうと倒れたのだ。

 そのとき、やっと後ろから勇者たちが駆けつけてきてくれた。蹄を鳴らして躍り込んできたトロイが、目を瞠りながら叫ぶ。

「マイティ・ブレイブに目醒めたのか、アツシ!」

 ――マイティ・ブレイブ? これが俺のマイティ・ブレイブ? でも俺のマイティ・ブレイブは召喚系のはずだ。あんな光りの玉みたいなのを出すはずが……いや、違う!

「あれは!」

 勇者の誰かが叫んだ。

 アデプトタイガーは素早く身を起こそうともがいているが、そのアデプトタイガーの首根っこを両手で捕まえて押さえ込んでいる、異形の影があるのだ。

 その異形は光りのなかから現れた。特撮ヒーローのような白いメタルプロテクターに身を包んでおり、背中に機械の翼を背負っている、ただし体つきは全体的に丸っこい。

「なんだよ、あれ?」

 そう云ったアツシに、ジュリアンが呆れたように怒鳴る。

「てめえが召喚したんだろ! だがありゃあ、なんだ? 翼があるから天使か?」

「天使? あれが? いや、でも云われてみれば……」

 アツシは目を丸くした。白いプロテクターに機械の翼を背負ったその姿は、機械仕掛けの天使と云えるかもしれない。

「でも、なんであんなにデブなんだろう……?」

「知るか。なんかさっき死んだハリーみたいな体型してるが、そんなことはどうでもいい。あれがおまえの召喚したものなら、おまえはあれを使役できるはずなんだ。やれるか?」

 その言葉にアツシは即答できなかった。そんなアツシを睨んでジュリアンが云う。

「あのファットな天使、信じられんが力はSランクモンスターと互角らしい」

 そう、機械仕掛けの白い天使は立ち上がろうと藻掻くアデプトタイガーを押さえ込んでいるのだ。その天使を親指で示しながらジュリアンはなおも云う。

「あれを支配できれば奴を倒せるかもしれん。出来るか?」

 重ねて問われたとき、レナがアツシの方へふらつく足取りでやってきた。

「アツシ様……」

 そんなレナの声を聞いたとき、アツシは心の一本の芯が通るのを感覚した。

「やってやる!」

 それからアツシは天使を睨みつけると、声と心の両方で呼びかけた。

「おい、天使! 俺の声がわかるか! わかるならなんとか云ってみろ!」

 答えがあると期待していたわけではなかったが、いきなり頭のなかに声がする。

 ――わかるよ、アツシ。

 テレパシーのようなその声を聞いて、アツシは倒れそうなほど驚いた。聞き覚えのある声だった。

「えっ……」

「アツシ様?」

 そう自分を心配そうに見るレナの顔も、このときばかりは目に入らない。アツシはアデプトタイガーを押さえ込もうと奮闘する天使の姿に釘付けだった。

「ハリー、さん? ハリーさんなのか?」

 ――そうだ、アツシ。僕だ。僕は死んだ。だが君が僕をこの姿に生まれ変わらせた! 勇者のマイティ・ブレイブには無条件で発動できるものもあれば、発動に代償や条件が必要なものもある。君のマイティ・ブレイブは天使の召喚、そのために必要な代償は人間の魂だ! つまり君は死んだ人間をあの世から戦闘天使として召喚する! ある意味では、死霊使いネクロマンサーなんだ!

 その言葉は稲妻となってアツシの心を照らし、引き裂き、鳴動させた。そしてこの力をどう使えばいいのかわからないでいるところへ、ハリーがなおも云うのだ。

 ――さあ、アツシ、命令をくれ。今はレナを守れという君の無意識の命令が僕を動かしているけど、この先は君の命令がなければ戦えない。

「命令……」

 ――倒すんだ、こいつを。

 ハリーは今まさに自分がねじ伏せているアデプトタイガーを見ながら、心の声でそう云った。アツシは軽く動揺した。相手はSランクモンスターだ。SランクどころかBランクでさえ撤退するのが勇者の常識である。それをハリーは倒すと云う。

 ――出来るのか、そんなことが。

 アツシがそう可能性を疑ったとき、心に昔聞いた老女の言葉が落ちてきた。

 ――いい予言が当たったとしたら、それは私たちが努め励んでその予言をつかみ取ることができたから。逆に外れたとしたら、それは私たちが過ちを犯してその未来を掴むことが出来なかったから。それが予言というものに対する向き合い方なのです。

 もう長いこと忘れていたその言葉を急に思い出したそのとき、アツシは運命を掴もうとするかのように右手を握りしめ、それをハリーに向かって突き出しながら叫ぶ。

「ぶっちめろ!」

 その言葉を待っていたように、ハリーがアデプトタイガーを思い切り殴りつけた。それが信じられない音をさせる。そしてそんな殴打を浴びてなお、怒り狂い叫びながら四肢をばたつかせているアデプトタイガーは正真正銘の化け物だ。

 しかし何度目かの殴打で、アデプトタイガーが急にぐったりした。弱ったのだ。それを好機と見たハリーが、機械のつばさをひろげて空へ舞い上がる。が、その瞬間にアデプトタイガーも力強く立ち上がり、ハリーを睨みつけた。

 ハリーが空中で蹴りの構えを取り、アデプトタイガーに向かって急降下を始める。一方、アデプトタイガーは口を大きく開けたかと思うと、その口のなかに光りを含んだ。その光りはみるみる輝きを増し、そして一条の怪光線となって迸る。それにハリーは、真っ向から蹴り込んだ。そして両者は激突し、蹴りで光りを切り裂いたのはハリーだった。彼は錐揉みしながらアデプトタイガーの頭を蹴り、次の瞬間、轟音と爆発が起こった。

 爆風によって大地がめくれあがり、土砂が礫となって周囲にいた勇者たちを襲う。アツシは咄嗟にレナを抱きしめて彼女を庇っていた。

 そしてその爆風がみ、土埃が収まってすべてが明瞭になったとき、爆心地の大穴に機械仕掛けの白い天使が一人静かに佇んでいた。

「アデプトタイガー、は……?」

 勇者の一人がそう云うと、ハリーは黙って自分の足下を指差した。だが、そこにはなにもない。つまりは跡形もなく消え去ってしまったのだ。

 それを全員が理解するには時間が必要だった。だが何秒経ってもあの恐ろしい怪物が復活しないのを見て、誰かが叫ぶ。

「か、勝った! 倒した! マジか!」

 それを皮切りにわっと歓声が起こって、あとはもう興奮の渦だった。アツシはもみくちゃにされながら色々なことを問い糾された。あれはハリーなのか。どういうマイティ・ブレイブなのか。おまえがやったのか――と云った矢継ぎ早の質問に、しかしアツシはなにをどう答えてよいかわからない。そこへ威厳ある男の声がする。

「質問に答えろ、アツシ」

「トロイさん」

 いつの間にかトロイが馬から下りてアツシの前にやってきていた。アツシはほっとしながら、自分のマイティ・ブレイブについてわかったことのすべてをトロイに話した。話を聞いたトロイは、自分の顎に指をあてたまましばらく沈黙していたが、やっと口を開いた。

「記録にある限り、Sランクのモンスターを倒したことはない。あのレベルのモンスターを倒せたということは、我々の可能性が広がることを意味している。これほどの戦闘力を持つ者を召喚し、使役するとはな。死者が転生した天使か……」

 トロイはそこで言葉を切ると、ハリーを振り仰いで云う。

「アツシ、ハリーと話せるか?」

 ハリーは先ほどから大穴の真上に浮かんで佇んだままだ。

「ハリーさん、こっちへ」

 アツシがためしにそう呼びかけてみると、ハリーは空中をすべるように動いて、アツシたちのところまでやってきた。

「この樽のような腹は間違いなくハリーだぜ」と、ジュリアン。

「ハリー、なんとか云ってみろ」

 トロイの言葉に、しかしハリーは答えない。なんの反応も示さない。

「見たところ、顔らしきものはあるが口がないな。発声器官がないのか?」

「ハリーさん?」

 ――聞こえてるよ。でもトロイさんの云う通り、僕はどうやら君の心にしか話しかけられないみたいだ。

 アツシはそれをそのままトロイに通訳したあと、ハリーを見て眉をひそめた。

「ハリーさん……死んで天使になって生まれ変わってきたのも、それをやったのが俺のマイティ・ブレイブだって云うのもわかったんですけど、これからどうするんです?」

 ――さあ、それは僕が聞きたいことなんだ。僕は君のマイティ・ブレイブによってこの場に召喚されている。でも本当は死んだはずなんだ。果たしていつまで地上に留まっていられるんだろう? そして一回あの世へ送り返されたら、もう戻ってはこられないんだろうか?

 アツシがそれを訳して聞かせると、先ほどの土砂を浴びて砂混じりになった髪に手櫛を入れていたジュリアンが云った。

「その辺りは検証が必要だな。マイティ・ブレイブは勇者の命綱だ。だからマイティ・ブレイブに覚醒した勇者は、まず自分のマイティ・ブレイブについてあらゆる角度から検証することが急務となる」

「ジュリアンの云う通りだ。アツシ、おまえのマイティ・ブレイブは、どうやら死者の魂を媒介とする。この強力な天使の召喚には、人間の死が前提となるわけだ。血を欲する俺のマイティ・ブレイブ以上に業の深いマイティ・ブレイブだな」

 トロイの声の調子は責めるでもなく同情するでもなく、ただ平坦だった。一方アツシは、自分のマイティ・ブレイブの呪わしさを改めて痛感していた。

 ――そうだよ。今後、俺のマイティ・ブレイブを戦術に組み込んで使うってことは、誰かに死んでくれって云うようなものだ。こんなマイティ・ブレイブ、どうすればいい?

 愕然としたアツシの表情を読んだか、トロイが云う。

「自分のマイティ・ブレイブとの付き合い方を考えるのもいいが、それ以上に重要なのは検証だ。おまえは自分のマイティ・ブレイブの発動条件や効果をあらゆる角度から徹底的に確かめねばならん」

「た、確かめると云っても……」

「王都に戻り次第、自然死した人間を使って実験する。老衰や病気で死ぬ人間は毎日一定数いるから、彼らに事情を話して協力してもらおう」

「いや、協力って……」

 人間を実験動物かなにかのように云うトロイの物云いに、アツシは軽く仰のいた。ジュリアンも顔をしかめている。だがトロイは淡々としたものだった。

「殺すわけではない。放っておいても死ぬ人間に、最後に協力を求めるだけだ。なにか問題があるのか?」

「い、いや、理屈はわかりますけど……」

 理屈はわかるが、感情が納得しない。おもえばレナの心臓を使う使わないで揉めたときもそうだった。トロイの言葉は正しいが、心には響かない。

 ――この人もしかして、人の心がわからないんじゃないのか。それとも俺の方が子供なのか? 俺がわがままなだけなのか?

 アツシがそこまで思ったところで、トロイが冷たく云う。

「ならばいいだろう。検証の内容は、誰が天使として召喚できて誰が召喚できないのか。天使の力量に個体差はあるのか、あるとしたらその差はなんによって生ずるのか。死んでからどれだけの時間内なら天使として召喚できるのか、どれだけ経ったら天使として召喚できなくなるのか。死体との距離は? そもそも魂を媒体にするのに死体は必要なのか? 死体が必要でないとしたら魂との繋がりはなにによって生ずるのか。一度召喚した天使が現世に留まっていられる時間は? 同時に何体の天使を召喚できるのか? 天使はどこまでおまえの命令に従い、場合によっては叛逆できるのか。召喚した存在を元の世界に返した場合に再度召喚できるのか……などなどだ」

「そんな――」

 死者の冥福をなんとも思わぬ提案の数々に、アツシは恐れをなして一歩退こうとしたが、トロイが腕を伸ばしてアツシの肩を掴んできた。

「アツシ。おまえのマイティ・ブレイブは非常に有用だ。大袈裟に云うと歴史を変える可能性を持っている。そういうマイティ・ブレイブに目醒めてしまった以上、周りが逃がさない。おまえはこの仕事に取り組まねばならん。それが勇者の義務だ」

 なるほど、それはそうだ。トロイの云うことは正しい。だが心情的に反発を覚えたアツシは、その義務とやらを逆手に取ることにした。

「わかりましたよ。じゃあ早速一つ検証してみましょうか」

 アツシはそう云うとハリーを振り仰いだ。

「ハリーさん、成仏したいですか?」

 ――成仏? 神に召されるってこと? そうだなあ、どっちかって云うと死にたくないけど、でも僕ってもう死んでるんだっけ。じゃあしょうがないな、ハハハ!

「……笑ってないで真面目に答えてくださいよ」

 ――うーん、正直云うと一度自由にしてほしいかな。だってこの姿だと美味しいものとか食べられそうにないし、それだと生きる喜びがないんだよね。君の召使いとしてこの世に留まるっていうのもなんか人間的じゃないって思うし。それにそもそも君は僕をあの世へちゃんと導けるのかな? 一回、僕で実験してみた方がいいんじゃない? いつまでこの状態が続くのかわからないし、やるなら今のうちだよ。

「じゃあ、帰っていいですよ」

 アツシは笑いながらそう云った。ハリーがあんまりにも気楽だから、つい自分も気楽にそう云ってしまったのだ。

 すると次の瞬間、天上から一条の光りが差してきて、ハリーはその光りに吸い込まれるように空へ昇っていってしまった。あっと云う間の出来事だった。

 ――グッバーイ!

 そんな声を最後に、ハリーと云う機械仕掛けの戦闘天使は消えてしまった。それを誰もがぽかんと口を開けて見ていたが、一番に我に返ったトロイがアツシに食ってかかった。

「おい、なにをした?」

「えっと、なんか自由になりたいみたいだったので、そうしてあげました」

「あの世へ返したのか?」

「はい。これで検証が一つ終わりましたね。召喚した天使は俺の意思であの世へ導くことができる」

 それはアツシにとっては前進だった。死んだ人間を永遠に束縛するようなマイティ・ブレイブではないのだ。友を一人失ったことは寂しいが、これが自然なことなのだ。

 トロイはふうとため息をつくとアツシを見て云った。

「再召喚はできるか?」

「えっと……」

 アツシはその場であれこれ試したみたがなにも起きない。

「駄目かも……」

「そうか、再召喚は不可能か。わかった。次の天使は天に還すな。時間経過で自動的に昇天するのかどうかを検証する。おまえのマイティ・ブレイブに関する話は、ひとまず以上だ」

 ――そんな人間を玩具みたいに。

 アツシは自分のなかで、トロイへの不満が高まっていくのを感じていた。天使召喚マイティ・ブレイブの検証をするためには、人の不幸を踏み台にしなければならぬ。この時点でアツシはもう自分のマイティ・ブレイブが嫌だったし、どうやって検証を断ろうかと考えていた。

 ――壁のなかに戻ったら、いっそレナを連れて行方をくらましてやろうか。

 そんなアツシの胸の裡も知らず、トロイはハリーの穿った大穴へと視線をやってうっそりと云う。

「しかし八十年前、魔王とともに現れて大勢の仲間を殺したのがアデプトタイガーだった。同じ個体なのだろうか、それとも種族が同じだけで別のやつか……」

 それには誰も答えようがない。トロイにしたところで、寄り道のような独り言だったのだろう。彼は作った咳をすると、顔つきを改めて声を張り上げた。

「全員荷物を纏めて集まれ。こういう事態になったのだ。ひとまず俺のマイティ・ブレイブで壁内に帰投する。ハリーの亡骸もなんとか回収してやれ。血はハリーの分で足りるだろう」

 そう云うトロイの顔には苦渋が滲んでいる。ここしばらくの遠征では犠牲者がなかったという話だから、久しぶりに被害を出してしまったのだ。口惜しいに違いない。だがそれが仲間の死を悼むものなのか、作戦が上手くいかなかったことを嘆いているのか、アツシにはもうわからなかった。

「さあ、動け動け!」

 トロイがそう手を叩いて、まだ立ち尽くしているアツシたちに迅速な行動を促した。レナがアツシに一言告げて、馬を集めに向かう。アツシもなにか手伝わねばと思ったところで、ポールとぶつかってしまった。

「おっと、悪い」

「いえ、こちらこそ」

 アツシとポールがお互いに謝った、そのときである。

「――そいつはあのときの個体と同じやつだよ。勇者たちを大勢屠った勇猛な部下だった。まさかそれを打倒するような勇者が現れようとはな」

 紳士を気取ったような男の声が辺りに響き渡り、アツシたちはぎょっとした。だが誰より激越な反応を示したのはトロイだ。驚愕、憤怒、恐怖、動揺――無数の感情に彩られたトロイが、激しい身振りで背後の空を振り仰いで叫ぶ。

「貴様は――!」

 青空の一点に染みが広がるように黒い靄が現れ、そこから一人の魔人が姿を現わし、空から下りてきた。

 魔人は、全体としては人間のような体つきをしている。ただし爬虫類のような尻尾があり、頭は二つあった。まるで結合双生児のように、一つの体に二つの頭を持っているのだ。右の頭は金髪で額に一本の角があり、目を開けてこちらを見ている。左側の頭は銀髪で額に二本の角があり、眠るように目を閉じて項垂れている。そしてどちらの顔も、頭髪があるのに面貌自体は爬虫類……いや、ドラゴンのようだった。それが禍々しい鎧と黒いマントを身につけている。手の指は恐らく五本あるだろう。

 双頭の竜魔人――そう呼ぶしかない化け物が、上空五メートルのところで静止してアツシたちを見下ろしてくる。

 それを見上げて、トロイがぶるぶると震えながら叫んだ。

「魔王!」

「魔王だって!」

 勇者の誰かがそう叫んだが、それは誰もが叫びたかっただろう。

 双頭の竜魔王。モンスターの軍勢を率いて何度も壁に攻めてくる人類の敵対者。勇者オヴェリアのマイティ・ブレイブによる箱庭の世界が実現していなければ、この世界の人々は魔王によって滅ぼされていたと云う、敵の総大将だ。

 その魔王は、トロイを見ると右の顔で嬉しげに笑った。

「久しぶりだな、勇者トロイ。やつに遭遇して私のことまで思い出しておきながら、あのときと同じく私がいると考えなかったのは君の落ち度。そして先ほどの戦闘天使を早々に帰還させてしまったのは失敗だったな」

 そう云って魔王が右手を振り上げた。すると空中に氷の槍が生じ、魔王が右手を振り下ろすと、その槍が弾丸の速さで飛んでくる。

 ――は?

 アツシは、氷の槍が自分を狙っているのに気づいて愕然とした。先ほどの戦闘をどこかで見ていた魔王は、恐らく天使を警戒して姿を隠していた。しかし天使が去ったので姿を現し、アツシを消しにかかったのである。アツシにはそれをどうしようもない。突然のことにただ立ち尽くして、槍が自分に迫るのを見ていることしかできなかった。

「避けろ馬鹿野郎!」

「アツシ様!」

 ジュリアンが叫び、レナがアツシを庇おうとするが、そのどちらでもない三人目の人物が、アツシを横から突き飛ばした。そしてアツシは、氷の槍が肥満した彼の肉体を串刺しにする瞬間を見た。

「あ……」

 アツシは咄嗟のことに声が出ない。そんなアツシの代わりに、ジュリアンが叫ぶ。

「て、てめえ! てめえ! なにやってやがる、ポール!」

 そう、ジュリアンの従者であるはずのポールが、主人のジュリアンではなく他人のアツシを庇って、串刺しになったのだ。ポールは自分の身に致命的なことが起きているとは感じさせぬ、朗らかな笑みを浮かべてジュリアンに向かって云った。

「す、すみませんジュリアン様……でも、つい……」

 それを最後にポールの体がぐらりと傾ぎ、倒れていく。それをレナが抱き留めた。

「ポールくん! そんな! それは私の、私の役目――」

 だが、もうポールにはレナの言葉も届いていない。氷の槍は魔王の魔力を帯びており、ポールの死体はあっという間に凍りついてしまったのだ。

「……惜しいな、外したか」

 魔王の冷たい声の直後、トロイが叫んだ。

「アツシを守れ!」

 その号令が下るや否や、勇者たちが一斉にアツシを守りに動いた。なぜアツシがこのような待遇を受けるのか。それはアツシが今まで誰もなしえたことのない、Sランクのモンスターを倒したからだ。そしてトロイもまた自らのマイティ・ブレイブを発動させようとするのだが、そこへ魔王の声がした。

「おっと、逃げるのはなしだ、トロイ君。あのときの話の続きをしようじゃないか」

 魔王がそう云った直後、トロイのマイティ・ブレイブが発動して、アツシたちは空間を転移するカーテンの向こうに隠された。

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