第68話

 ガラがこちらに向かってきびすを返し、防柵の外側に竹を立てかけて門から中に入ってくる――ライはというとまた腰まで水に浸かりながら、上体をかがめて猪相手になにか作業をしている。

 目を離している間に一度水から上がってはずしたのか、地面に撃ち込まれた丸太に二本の丸太を括りつけて作られたフレームに分厚い木綿の布で作られた鞄や二個の矢筒、コンパウンド・ボウのケースを取りつけた幅広のなめし革で作られたベルトを引っかけて身軽な格好になっている――作業の邪魔になるからか大型ナイフの鞘やナイロンの雑嚢を取りつけた装備ベルトも同様に引っかけられているが、一緒にかけた迷彩柄に染色された外套はすでにぐっしょりと濡れそぼっていた。

 不破康太郎が近づいていくと、毛足の短いブラシで水に浸けた猪の毛皮をガシガシ洗っていたライが作業の手を止めて顔を上げた。

 もともとあまり汚れてはいなかったが、体毛に絡みついて残った泥の粒子を洗い流しているらしい。ライが作業を止めてこちらに視線を向けた拍子に猪の死骸を抑えつけていた左手の力が抜け、猪が流され――るより早く、川底に撃ち込まれた杭の間でなにかに引っかかって止まった。

 杭の周囲に発生している水面の乱れのせいでわかりづらかったが、杭と杭の間に数本の細い縄が張りめぐらされている――獲物が流れていかない様にするためのものなのだろう。

「どうした」

「否、なにか手伝えることは無いか?」 ライはその質問に自分の手元に視線を落とし、

「無い。どうせ泥を落とし終わったら、しばらくは放っておかなくちゃならん――これが地球だったら先に泥を落とすんだが、には水道が無いからな」

 ライがそう返事をしてくる。というのはこの野営地サイトという意味ではなく、彼がエルンと呼んだこの土地そのものという意味だろう――日本の江戸の井戸や兼六園の噴水など、この世界の技術水準でも水を送水する方法が無いわけではないだろうが、それをするには高低差のある水源が必要だ。

 ライいわく動物が死んで免疫細胞の活動が停止すると、外傷から入り込んだ細菌やウィルスが残った体温と血液中の栄養を使って高速で繁殖し、血管を伝って全身に拡散する――飼養管理されていないジビエ肉の臭みがよく指摘されるのは主にこれが理由で、それを防ぐためには放血と内臓除去のあと速やかに冷却しなければならない。

「さいわい今は水が冷たいからな、夏場ほどには時間はかからんだろう」

 ライはそう続けてから、杭の間に張りめぐらせた縄に引っかかって止まった猪の死骸を引き寄せた。

 ふたたびブラシで猪の毛皮をこする作業を再開すると、意外に泥が残っているのか水が茶色に染まる――とはいえ昔実家で飼っていたシベリアンハスキーが泥遊びしたあとに家の風呂場で洗ったら床が茶色を通り越して真っ黒になったので、その地獄絵図に比べるとたいしたことは無いのだろうが。ライは猪の体をどこをこすっても色が出なくなるまで念入りに洗ってから、用が済んだのか川岸にブラシを置いた。

「もう引き揚げるのか?」 という康太郎の質問に、ライが軽くかぶりを振ってみせる。さすがに体が冷えたのだろう、ライはかじかんでいるらしい両手を軽く開いたり閉じたりしながら、

「否――さっき言ったとおり、数時間は水に浸けて肉を冷やさなくちゃならん。出来れば一晩くらいは置いておきたいが、その余裕は無いだろうな」

 そう返事をして、ライが水から上がる――迷彩柄のズボンから大量の水がしたたり落ちるのを気に留めた様子も無く、彼は少し体を温めることにしたのか野営地のほうへと歩いていった。

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