第69話


   §


 川岸で作業を眺めていた不破康太郎のかたわらを通り過ぎ、門を開けて野営地の敷地内へと足を踏み入れる――作業台のそばで足を止めずに先ほど猪の内臓を抜くのに使ったナイフを回収し、シースに納めることはせずに抜身のまま手に持って竹小屋のほうへと歩いていく。

ナア、ライ」

 竹小屋に足を踏み入れると、中央のユーコン・ストーヴの前でこちらに背中を向けていたメルヴィアが振り返って笑顔を見せた――ユーコン・ストーヴの煙突の上には輪の中に『井』の文字を入れた様な形の鍋置き用の五徳が載せてあり、その上でチタン製のソロクッカーが湯気を立てている。

 学生や兵士たちの飲用にするために、お湯を沸かしていてもらったのだ――冷えた体を温めるには、温かい飲み物を与えるのが手っ取り早い。低体温症に陥った人間の体温を回復させることを復温リウォームというが、復温の作業は火に当たらせるなどして体外からエクスターナル熱を与えるだけでは片手落ちになる――どころか低体温症の進行度合いによっては、ウォーム・ショックによる患者死亡の原因のひとつになりうる。確実を期すには温かい飲み物を摂取させる、温めた空気を吸入させる、温水を直腸に流し込むなどの方法で体内からインターナル熱を与えてやらねばならない。

 無論、彼らの場合はそこまで深刻なものではない――衣服は乾かしたし温めた飲み物も用意した、それで十分だ。

「……」 昔を思い出して顔を顰めながら、ライは学生のひとりが手にしたマグカップを受け取って深底のソロクッカーの中で沸騰するお湯を一杯掬い取った――小屋の外に出て適当な立木のそばへと近づき、ナイフを翳して刃を汚す脂肪へとお湯を浴びせかける。

 鋼の表面を白く曇らせる脂が、またたく間に融けてお湯と一緒に流れてゆく――刃が輝きを取り戻したところで、ライはナイフを水銀式の体温計みたいに何度か振って水気を振り払ってから袖で刃を軽く拭ってシースに戻した。いかなステンレス鋼とはいえ、水に濡れたままだと場合によっては錆びることがある――VG-10はATS-34に比べると炭素量が低く硬度で劣る反面、クロームの含有量が高く若干ではあるが耐蝕性では上回る。とはいえ、しょせんは程度の違いでしかないが。

 シースをポケットに戻し、竹小屋のほうへと歩き出す――冷え切った体を温めなければならないのは、学生たちだけではなくライも同様だ。ついさっきまで腰まで水に浸かって作業をしていたので、状態はより深刻だと言える――だからどうだというほどのものでもないが。

 竹小屋の中に入ると、ライは手近な丸太の山に腰かけた。たっぷりと水気を含んだ脚絆が肌に張りついて不快だったが、それは意識から締め出しておく。

白湯さゆ飲む?」 メルヴィアにそう問いかけられて、ライはああと小さくうなずいた。

「もらうよ」 メルヴィアが手を伸ばして、ライが差し出したマグカップを受け取る――お湯を満たして返してきたカップを礼を言って受け取り、ライはそのカップに口をつけた。

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