第33話

「……つまり?」

「一応ルイセンコが広めたミチューリンの育種法の中には春化処理ヤロビザーツィヤとか混合花粉を用いた受粉法、栄養接木雑種法の様に今でも重視されてるものもあるんだが――それ以外が酷すぎてな。ルイセンコはラマルク主義という、いわゆるダーウィンの進化論とはまた異なる進化論を支持してた。その柱のひとつが要不要論、よく使う器官は必要に応じて発達し、使わない器官は退化し、必要が生じれば新たな形質を獲得するというものだ――それによって個体が得た特質が次世代にも引き継がれると考えるのが、獲得形質の遺伝性だ。いわゆる個体進化ミューティションの一種と言えるんだろうが――もう少しわかりやすく言うと、生物は自分の進化したい様に進化する、というところかな」

「悪い、ちっともわかりやすくない」 ライはその返答に適当に首をすくめ、

「たとえば盲腸は草食動物が草、特にセルロースという炭水化物の一種――いわゆる難消化性食物繊維デキストリンのことだが――を消化するために必要な器官だ。草食動物の場合は発達し、雑食や肉食動物の場合は小さい――人間の盲腸は消化器官が進化する過程で変化した結果セルロースを消化吸収する機能を失って久しいから、今は痕跡程度しか残ってない。最近になって盲腸、つまりちゅうずいが腸内の免疫機構上きわめて重要な役割を果たしてることがわかってきたから(※)、不要になった結果退化したんじゃなく食性の変化に伴ってセルロースを分解消化する機能を破棄する進化をし、その結果小型化してこの形に落ち着いたんだと考えるのが妥当なんだろうが、まあ不要な器官だという定説で話をしようか。つまり生物の器官は使退使、その変化が次世代にも継承される――これが要不要論の基本的な考え方だ。形質の獲得は表現型、つまり外見上に顕れる特徴の変化のみの話というわけじゃなく、体質や体の内部構造に変化が起こることもあるが――言い方を変えれば環境が変わって使わなくなる、あるいは使う様になれば、生物の器官は劇的に退化あるいは発達する、もしくは必要に応じてそれ以外のなんらかの変化をするわけだ。人間が埃っぽい環境で過ごすと鼻毛が伸びる様に――ここまではいいな」 ライは康太郎がうなずくのを確認してから、

「実際にこれを試みた人物に、パウル・カンメラーというオーストリアの遺伝学者がいる。彼は陸上で繁殖するさんがえるという蛙の一種を、水中で交尾させる実験を行ったそうだ――水中で交尾を行う蛙は、雄の前肢に婚姻こんいんりゅうと呼ばれる瘤がある。交尾行動の際に雌の体からずり落ちない様に支えるためのものらしいが、実験に使われたサンバガエルには婚姻瘤が存在しない――カンメラーは陸棲の蛙を水中で繁殖せざるを得ない生育環境で飼育することで、その蛙に婚姻瘤が発現するのではないかと考えたんだ。鼻毛でいうなら、鼻毛の毛根を持たない生物種の生き物を埃だらけの場所で飼育したら、そいつの子供は生まれつき鼻毛の毛根を備えて生まれてくるわけだな」

「……鼻毛から離れようぜ」 康太郎の呈した苦言に適当に首をすくめ、ライが先を続ける。

「なら、白人の夫婦がアフリカにでも移住して子供を作ったら子、あるいは孫の代で黒人の赤ん坊が生まれ、黒人の夫婦がシベリアあたりに移り住んで子を作ったら子や孫の代には白人の赤ん坊が生まれるわけだ――子供はワンクッション置いて、褐色の肌で生まれてくるかもしれんが。もしそうなら人類史には有色人種差別カラード・ディスクリミネイション人種隔離政策アパルトヘイトも無かったわけだから、ある意味世界は平和だっただろうが――話を戻すが、この蛙を三世代にわたって水中で交尾させた結果、二世代目はわずかに、三世代目でははっきりと、前肢に婚姻瘤が確認出来たらしい」

「確認出来たんなら、その学説は正しかったんじゃないのか」 その理論通りに、環境に適応して瘤が出来たんだろ?と素朴な疑問を口にすると、ライはそうだなと小さくうなずいてみせた。


※……

https://www.jst.go.jp/pr/announce/20140410/index.html

 大阪大学大学院医学系研究科免疫学フロンティア研究センターの竹田きよし教授のグループが、人体で不要な器官と考えられていた虫垂が粘膜の免疫において重要な抗体IgAの産生の場であり、腸内細菌叢さいきんそうの制御に重要な役割を果たしていることを突き止めました。

 虫垂のリンパ組織を欠如させたマウスを作成したところ、大腸のIgA産生細胞の数が減少し、大腸の腸内細菌叢が変化することを確認したそうです。IgAは腸内の免疫環境の維持に重要な役割を果たしており、虫垂の機能異常は腸癌から腸内細菌叢のバランスの変化で起こる腸疾患まで、さまざまな疾病を引き起こす様です。

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