第34話

「たとえば、そうだな――」 ライは言葉を選んでちょっと考え、鞄の中に戻した消毒用の蒸留酒の瓶を取り出した。それを翳して軽く揺すりながら、

「稀釈熱といって、高酒精度の酒を水に混ぜると水の温度が上がる――同じ様に水に混ぜたり溶かしたりすると、温度が上がったり下がったりするものがあるんだよ」 で、硝石を大量に水に溶かすと温度が下がるんだ――と続けると、リーシャ・エルフィは興味深げにメルヴィアの手にしたカップに手を伸ばした。ひんやりと冷たいカップに触れて目を見開く王女に、

「そんな感じでな――アーランドには天然の氷を作れる場所が無いから、極端に冷やすことは出来ないけど」

「それでは、飲み物を冷やす目的などにも――」

「飲み物にじかに放り込んじゃ駄目よ? でもあのカップみたいに冷えた水の中に、瓶入りの飲み物を瓶ごと漬けて冷やすことなら出来る」

 硝石を水に溶かすと温度が下がる――地球においてその発見がされたのは十六世紀初頭、イタリアでのことだ。パドヴァ大学教授であったマルク・アントニウス・ジマラが、水に大量の硝石を溶かすと溶解熱により温度が低下することを発見したのだ。

 かき氷とまでは言わなくても、細かく砕いた氷に硝石を混ぜることでマイナス二十度の低温を得ることも出来る――濡れた氷に食塩を振ると瞬間的に乾燥し、指がくっつくのも同じ現象だ。表面の水が溶解熱により温度低下を起こし、氷で冷却されているために瞬時に凍結する。

「ところで、というのは?」 と尋ねてくるリーシャ・エルフィに、ライは首をすくめた。

「熔けた鉄が冷えると固まる様に、水も冷えると固まる――というより空気も水も、俺たちが普通にその状態で目にしてるあらゆるものが、一定の温度よりも冷えると固まる。水が固まった状態のものを氷っていうのさ――少なくともアーランドでお目にかかることはまず無いだろうがな」

 年間を通して気温が氷点下に下がることの無いアーランドではそもそも氷という概念が存在しないのだが、とにかくこの発見によって中世ヨーロッパの貴族の甘味事情は大きく発展した。

 飲み物を冷却したり、シャーベットのたぐいが作れる様になったのだ。

「へぇ、そんな使い道があるんだ」 感心した様なメルヴィアに、ライは首をすくめた。

「言ったろ? 硝石はどんな状況でも使えるって」

「でもこの水はどうするの?」

「水気を飛ばせばまた硝石が回収出来るよ――多少不純物が混じってるだろうけど」 あと有毒だから飲んじゃ駄目よ?と付け加えると、メルヴィアは手にしたカップをそら恐ろしげに見下ろした。

「毒なの?」

「と、言われてる――実際にはそこらの土の中にいくらでも含まれてて、農作物由来で口に入る。俺の世界だと、燻製を作るときに硝石を添加することを義務づけてる国もある。燻製を避けても摂取量が減らせるだけだし、因果関係も証明されてない」 食品添加物の本なんかだと、よく槍玉に挙げられてるけどな――胸中でつぶやいて、ライは軽く肩甲骨を寄せた。

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