第37話

 あるいは魔物の月マァル・シャーイの伝承が真実であれば、人間の軍勢を率いてこの砦で戦ったという神臣シーン・ハリが神通力で水を用意したりしたのかもしれないが――

 まあ考えても仕方無い――どうせ伝説の真相がどうあれ、今の状況にはなんの影響も無い。

 バスの周りに残っていた足跡から数えた限り、拉致実行犯エクスレイの数は三十人ほど――あの砦に三十人を超える数の人間を数日間潤せるだけの水を持ち込むというのは、相当な手間のはずだ。

 『淚斬るいざんしょく』――『泣いてしょくを斬る』の故事ではないが、この砦を戦争の拠点として考えた場合、水源から離れているというだけでも自殺行為だと言っていい。水源の確保を考えなかったことが原因で、馬謖は街亭がいていの戦でちょうこうに敗れたのだ。

 軍に包囲された馬謖と違ってあの砦を根城にしている連中は水を断たれているわけではないが、実際の状況はそれとさほど変わりない――連中の飲料水事情は、相当に貧相であるに違い無い。洗濯もまともに出来ていないだろう。大航海時代の交易船に乗り組んだ船乗りたちは洗濯物を自分たちの小便に浸してから海水ですすいだそうだが、連中はそれすら出来ているか怪しい。

 水源地までは直線距離でも十数キロ、川までだって二キロは離れている。さらに高低差も数百メートル――しかもポリタンクの様な扱いの容易な資材は存在しない。汲んだ水をここまで運んでくるだけでも、一苦労どころか十苦労くらいはあるだろう。

 ――

「一時的なものだよなぁ……たぶん」

 

 人質としては極めて強力だ。だが強力すぎて諸刃の剣だ――王女がたとえ生還しても追討の手が緩められることは無いし、もし凌辱などされようものなら君主によっては王女を殺して罪を犯人になすりつけ、と称して軍を発するだろう。

 下賤な蛮族に純潔を奪われた子女など、王侯にとっては使い物にならない――政略結婚の道具としての価値は無い。

 ――君主によってはそう考えるだろう。

 王女リーシャ・エルフィの場合は隣国エルディア王国の王太子ゾット・ルキシュ・ド・エルドーラの婚約者なので、この拉致事件の影響は国内のみにとどまらない――貴族に自由恋愛による結婚が無いわけではないし今回もその例に漏れないが、同時にそれによって生じた縁故を利用して最近回復した二国間の国交をより強固なものにするという政治的な目的もある。

 デュメテア・イルトは娘を愛している様に見えるが、だ――王侯貴族が純潔を奪われた娘を誰かにめあわせるなど、普通は考えられない。そんな状況というのはよほど条件の悪い相手と娶せるか、でなければ足元を見られている場合だ――あとは相手に喧嘩を売る場合とか。

 もし連中が王女を穢せば、王女は家族の元に帰るや否や、その犯人に仕立て上げられた賊たちは国軍全軍でもってひとり残らず死ぬまで追い回される。リスクが大きすぎる。

 そもそも王女が誘拐された時点で、王侯にとっては自分たちの面子にかかわる大問題なのだ――王女の身辺の無事や生死のいかんにかかわらず、いったん手を出したが最後追討の手が緩められることは絶対にあり得ない。

 ろくな教育も受けていない蛮族とはいえ、ゴロツキ稼業で生き延びてきた連中だ。そういったリスクに考えが及ばないとも思えないが――

「まあ、行ってみればわかるか――」 そんなつぶやきを漏らしながら、ライは簡単に砦までのルートを確認した。ここから砦までの間には疎林がいくつかあるが、その中で一番近いものは砦から百メートルほど。砦と自分の間にその疎林を置きながら進めば、疎林の手前までは発見される事無く近づける。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る