第3話 九凪皆の向かう先

 玖形請負事務所。


 少しだけ気まずさを感じながらも、九凪皆はその扉を開けた。

 久しぶりに入ったその部屋は意外にも綺麗に片付けられていた。まずは大掃除からだと覚悟していたためちょっと拍子抜けした気分になった。


「……すいません師匠、遅くなりました」

「ようカイ、大した重役出勤じゃねえか」


 革製の椅子に座って足を組んだ玖形由美は驚くことなく迎えてくれた。


「十日もサボりやがって、もう今年度の有給は残ってねえからな」

「分かっていますよ。これからはバリバリ働きます」

「んで、いつまで入り口に突っ立ってるんだ?」

「……いえ、綺麗に片付いてて驚いてるんです。もっと酷い有様だと思ったのに」

「なんだ、散らかってた方が良かったのか?」

「違います、感心してるんですよ。僕がどれだけ言っても師匠は整理整頓を覚えてくれなかったですし」


 九凪は事務所の中へと入り、ぐるりと見回した。


「それに、いつも僕が片付けるそばから散らかしてきて軽く殺意を覚えてましたからね。相手が師匠じゃなかったらどうなっていたことか。どんな気持ちの変化があったんですか?」

「別に、ただの気まぐれさ……深い意味はねえよ」


 玖形にしては珍しく歯切れの悪い返答だった。

 不思議に思いつつも、荷物を自分の机に置いた九凪は玖形の正面へと移動する。


「師匠、お話があります」

「なんだ、そんなに改まって」


 九凪の言葉に反応して玖形の作業の手が止まる。切れ長の両目が無言で九凪へと向けられる。


「僕の、これからのことです」


 試すような玖形の視線に九凪の体は思わず強張る。

 それでも、懸命に唇を動かした。


「僕はこれから何をするべきか。どこへ向かうべきなのか。頭じゃなくて、心に訊けと師匠は言いました。すっごく悩んで、いくつもの選択肢を切り捨てて、ようやく見つけました。僕の本当にやりたい事を」

「ほう。なんだ、それは」

「……それは」


 緊張した面持ちで、意を決したように言葉を口にした。


「僕は、界術師育成専門機関ラクニルに行きたいです」


 居住まいを正し、決然とした表情で玖形を見詰める。


「もちろんこんな勝手なことが許されないのは承知してます……だけど! 僕にはやらなきゃいけない事があるんです。彼女から託された願いを叶える為には、彼女がそれを失った場所に行く必要があるんです!」

「……、」

「それに、ここにいたら多分何も見えないままなんだと思うんです。変化を恐れちゃいけないんだ。僕自身が変わらないと、知らない世界に踏み込まないと、彼女の願いには届かない。だから!!」

「うん、いいんじゃねえの」


 あっけらかんとした様子で玖形は即答する。

 もっと反論されると思っていた九凪は、ぽかんと口を開けて固まった。


「いや、いいって……そんな簡単に認めてくれるんですか? これは僕の我が侭なんですよ。それに本当にラクニルに編入するなら、手続きとかお金の面で師匠にも新谷さんにも迷惑を掛けることになりますし」

「ンなことをガキが気にしてんじゃねえ。息子が学校に行きたいって言ってんのにそれを拒む親がどこにいるんだよ……それに、この展開は予想してなかった訳じゃねえしな」

「?」

「何の為にアタシが慣れねえ掃除なんかしたと思ってやがる。もう皆がいなくても大丈夫だ。だからラクニルでもどこにでも行って暴れてこいっつってんだよ」


 照れを隠すように声を荒げる玖形を見て、九凪の顔に明るい色が広がっていく。


「師匠……!」

「だがな、一つだけ条件がある。これを守れねえならこの話はなしだ」

「条件?」

「難しいことじゃねえよ。皆、お前は今回の事件で後悔をした。十日も引きこもる程だ、小さな後悔じゃねえだろ? 後悔ってのは一生癒えねえ傷みたいなもんだ。きっと忘れることはできねえ。影のように付きまとい続ける」


 九凪は無言で頷いた。

 何度も、何度も、九凪は想像した。


 もし、もっと、前川みさきという少女に踏み込めていたら。

 自分の想いに素直になれていたら。


 それが後悔となって、今もまだ思い出す度に胸が痛くなる。


「だから、アタシが提示する条件はたった一つだ――もう二度と、後悔をするな」


 玖形由美の言葉が、九凪の心を激しく揺らした。


「失敗を誇れ、どんな過去でも目を背けるな。カイ、お前に蓄積された経験も、今はなくしている記憶も、全部前に進むための糧にしてやれ。それは世界中の誰も持っていない、お前だけの力なんだ。それがどんなモンでも恥じることなんてねえんだよ。だから、自分の歩いてきた道を信じて、テメェが望むモン全部手に入れて来い!」

「……はい!」


 全身の肌が粟立あわだつような興奮が駆け巡る。

 一歩踏み出したら、周りを覆っていた霧が一気に晴れたような爽快感。


 気付けば、九凪の瞳には希望に満ちたような明るい光が浮かんでいた。


「僕は絶対に見付けます。みさきが見付けられなかった、本当の正しさを!」


 不安はある。しかし、希望もあった。


 まるで大海原に出航していく船乗りのような気分だ。

 この海の向こうには、何があるのだろうか。

 どんな苦難があって、どんな幸福が待ち構えているのだろうか。


 それを知りたい。

 きっとその先に、求める答えがあるはずだから。


 ここが、スタート。

 九凪皆という少年の物語は――こうして幕を上げた。

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