第2話 闇底の光

 ※前回のあらすじ


 なぎかいと同様にひさかたもまたかつては記憶を失っていた。九凪皆の失った記憶の秘密を知っている玖形由美は、全てが終わった後に真実を教えると告げる。


 桐生ビル。

 ついに九凪皆が一連の事件の中心地へと足を踏み入れた。


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 九凪皆は桐生ビルの中へと足を踏み入れた。


 呼吸すら躊躇うような静謐な空気。


 広大なエントランスには明かりが付いておらず、二階分の高さを持つ窓硝子から差し込んだ月明かりだけが、淡く薄闇を照らしていた。開放感を意識しているのか、ビルの壁面は全て硝子で覆われており、室内にも壁はなかった。

 大理石のような質感の床はひんやりとした空気を吸収したように冷たそうだ。まだ物品は運び入れていないのだろう。受付のカウンターだけが鎮座し、他の場所には何も置かれていなかった。


 広いエントランスを進み、壁に沿うように作られたエスカレーターを上って三階へと向かう。


 そこは、まるで巨大な縦坑たてあなの最下層だった。


 八階まで五階層分の吹き抜け構造。桐生ビルが正式に開放されれば、ここはショッピングエリアになるのだろうか。ビルの壁面に沿うように通路があり、多くの店舗用のテナントが配置されている。八階の天井からは直径三メートルほどの巨大なシャンデリアが吊されており、ガラス片が差し込む月光をキラキラと湛えていた。


 巨大な窓硝子から差し込む月明かりだけに照らされた薄暗い室内。

 まるで誰も居ない夜の礼拝堂のような静謐な雰囲気。


 そんな広いフロアの真ん中で、一人の青年が不敵に微笑んでいた。


 中性的な容姿をした青年だ。学生服の裾を伸ばしたようなデザインの服で、紫色を基調としている。女性のように手入れされた紫色の長髪は後頭部で一本に括られた状態で腰まで落ちていた。腰に掛けているのは一振りの日本刀だ。鞘には黄金の鈴が紐によって結び付けられている。


「そこを退いてください、夢の使者ファントム


 裏の五本指レフト・ファイブ夢の使者ファントム

 最後に立ちはだかるのは、最悪の怪物モンスター


 しかし、九凪は臆せずに言い切った。


「おや、君が来ましたか。ボクはてっきり切斬女キラーレディが来ると思ってましたけど。なにせ、君では役者が不足している」


 優雅に微笑むその姿は、その格好も相まってまるで舞台役者のように景色から浮いて見えた。


 九凪は界視眼ビュード・イーを発動して、周囲を確認する。

 青みがかった視界には全く黄金の界力光は映り込まなかった。てっきり桐生ビル全体を世界樹として定義していると予想していたがどうやら下層部分は違うらしい。


「礼儀として、訊ねておきましょうか」


 キンと澄んだ音と共に、青年は鞘から太刀を引き抜いた。りん、という闇を弾くような鈴の音が縦に長い空間の中で何度も反響する。


「ここから先は立ち入り禁止です。早急にお引き取りを」

「それはできません。僕はこの実験を止めにきたんですから」

「そうですか。なら」


 反射した月光で薄闇を振り払うように太刀を構えた――直後。


「この茶番を、すぐに終わらせましょう」


 すでに太刀を振り上げた状態で、九凪の目の前に肉薄していた。


「その手品はもう見飽きた」


 だが、九凪は動じない。

 何もせずに、迫り来る青年ではなく正面を向いたまま直立していた。


 確かな殺気を放った青年の一閃が、九凪を袈裟懸けに切り刻――まなかった。

 太刀が九凪の身体に触れた瞬間、まるで存在する力を失ったかのように青年の幻影が霧散する。


「何の策もなく、貴方の前に立つとでも思っていましたか?」


 数秒前まで立っていた場所に、霧散したもやを集めるようにして再び出現した夢の使者ファントムに対し、九凪は突き刺すように告げる。


「存在性の強調。『悪魔』の特性の一つである神出鬼没の応用ですね。それに貴方の悪魔は誰の夢の中にでも出向くことができる。実体を持たない幻影を相手に見せるのはさぞや得意なんでしょうね」

「……へぇ、誰の入れ知恵ですか?」

「世界一の情報屋ですよ、恐怖を司る悪魔――『デイモス』!」


 デイモスと呼ばれた青年は、少しだけ顔に険を浮かべた。


 儀式術式とは、記憶次元に保管された世界の記憶メモリアを、伝承や神話の形で術式化して現実次元にて再現する方式だ。だがその対象はなにも天上カレティスに君臨する神々だけに限った話ではない。


 地底グロードに生息する悪魔。

 彼らに関する記述もまた世界の記憶メモリアには存在する。


 神々が界力術における六大元素を司るように、悪魔は人間の感情を司る。

 夢の使者ファントムが術式として扱っている悪魔はデイモス。恐怖を司る最上位の悪魔だ。


 大前提として、悪魔とは人間によって召喚され、契約によって使役されて代償をもって使役者の願いを叶える。


 また、悪魔の世界の記憶メモリアを記憶次元から引き出すと、術者の精神は悪魔によって汚染される。これは世界の記憶メモリアすいたいを通じて精神に逆流することで起こる一種の反動だ。精神の耐久力が低ければ正気を失って発狂し、最終的には死に至る。実際、悪魔の術式を使っていた界術師が狂乱の末に死亡するという例は何件も報告されている。


 だが、悪魔の術式は危険であるが故にいずれも強力だ。一部の研究者や力を欲した者など、今でも一部の界術師によって使われていた。


 デイモスは夢の中にだけ召喚される悪魔で、その怪談の多くは対象者を文字通りの永遠の眠りに誘うというものだ。夢の中で対象者を追い詰め、自分の栄養源となる『恐怖』という感情を吸い尽くしてから、古今東西様々な刃物で切り刻む。

 夢の中に登場するのは対象者の精神体である。よって、現実世界の肉体は傷付けられないが、精神体を殺すことで内側から対象者の生命活動を停止させていた。


「貴方の幻影は、僕の恐怖を利用して生み出しています。恐怖という感情がデイモスの栄養源だからです。刀を見た僕がわずかでも『斬られるかもしれない』という恐怖を感じれば条件は達成されます。そして幻影は僕の精神体のみを傷付ける」


 しおあきらの死体を見た時の違和感。

 絶叫を放って殺されたような鬼気迫る表情の割には、彼の衣服の乱れや怪我はなく、また周囲の様子が綺麗過ぎて争ったような形跡は見られなかった。この状況はデイモスによって精神体のみを殺されたから生まれたのだ。


「なら、貴方の界力術から逃れるのは簡単です。恐怖を打ち消せばいい。恐怖は精神の乱れから生まれる気の迷い。だったら、そんな曖昧な感情は意識の外に追いやってしまえばいい」

「不可能です。恐怖は三大欲求の次に根源から近い部類の感情なんですよ。例え君が辰岡家の『洗脳』を受けて精神状態が固定されていたとしても、本能から呼び起こされる感情を無にはできない」

「ええ。だから、能力を使って完全に打ち消しました」


 すると、堰を切ったように九凪の身体から大量の白い界力光が溢れ出してきた。燎原の火の如く一瞬で広がり、雪原のように周囲の景色を白く染め上げる。


 解放リベラ

 玖形由美が考案した界術師の能力を飛躍的に向上させるための技術。


 本日はすでに界力石の取引を妨害する時に一度発動している。そのため完全な状態の解放リベラとはいかなかった。

 しかし、それでも十分だったようだ。その証拠に解放リベラを使えば全く反応できなかった夢の使者ファントムの界力術に対して余裕を残して対応できている。


「僕のことを役者不足だと言いましたね? でも、本当は違うんですよ」


 九凪が姿勢を低くし、鋭く青年をめ付ける。


の界術師に、師匠をぶつけることの方が役不足なんです!」


 床を蹴る。

 空気を穿って烈風を巻き起こしながら青年へと肉薄した。


 想像以上の速さで移動した九凪に驚いたのだろう。青年が慌てて構えを取る。


 だがその隣を素通りする。そのままフロアの奥へと走り抜けて高く跳び上がった。体を捻って回転させ、勢いの乗った蹴りを月明かりの届かない陰の中へと放つ。


 ドガァッ!! という打撃音。

 それは九凪の蹴りが、何故か今まで姿が見えなかった青年の防御の為に持ち上げられた腕に直撃した音だった。


「っ!?」

「そんなに不思議な事じゃないでしょ」


 界視眼ビュード・イー

 九凪皆のみが持つ特殊な蒼い瞳。


 界術師によって界力次元から現実次元に落とされた界力の流れを、視覚的に捉えることができる。夢の使者ファントムによって生み出される幻影は全て界力によって構成されており、姿を隠す時も界力を使っている。ならば、界視眼ビュード・イーによってどこに本体がいるのか知る事は容易だ。


 ただ、何の反撃もなく大人しく九凪の蹴りを受けたというのは少し予想外だった。何らかの反撃があると思って身構えていたこともあり拍子抜けする。


 困惑は一瞬だけ。すぐに流れるような動きで連続して体術を繰り出した。解放リベラを使っているためその速さは闘術にすら匹敵する。

 手刀が空気を切り裂き、蹴りが大気を唸らせる。白い残像を薄闇に刻み込みながら青年を蹴り飛ばした。射出されたような勢いで青年の体が床を転がっていく。


「(……硬いっ)」


 まるで岩を殴ったかのような感触だ。五本指の呼び名は伊達ではなかった。身体強化マスクルで強化できる肉体の強度の幅が並の界術師とは比べものにならない。不意打ちでも大したダメージを与えられている気がしない。


 やはり、次元干渉バリス・フルクティアを直接ぶつけるしかないだろう。


「……まさか、このボクが蹴り飛ばされるとは」


 夢の使者ファントムはゆっくりと立ち上がり、服についた埃を払いながら九凪を見た。

 対して、九凪は蒼い光を帯びた瞳で睨み返す。


「実体を持たない幻影を見せられるのなら、逆に本体の姿を隠すことだってできるんじゃないですか? ここにいるはずがないという誤った認識。『思い込み』は人間の恐怖を語る上で外せない要素なんですから」

「……なるほど。それに。いいものが見られました」


 得心したように呟いた青年は、りん、と鈴を鳴らして太刀を高々と掲げた。


 瞬間、九凪を中心として上空に無数の太刀が出現する。まるで天上を埋め尽くすほど巨大な剣山が、その切っ先を床に向けて浮いているかのようだった。


 ちらりと刀の群れを一瞥してから、九凪は低い声で話し始める。


「『黄金の鈴』――デイモスの術式における供物です。供物が鈴自体なのか、それとも音を奏でる事なのかは分からなかったですけど。その刀は『戦慄のナイフ』に対応させた象徴物グランオーリングですね」


 ぴくり、と太刀を振り下ろそうとしていた青年の腕が止まった。


「精神体に干渉する方法は何種類かあります。デイモスが利用したのは『音』。怪談の中では黄金のハンドベルを使っていたはずです。悪魔に払う代償は金銭や自分の宝物、正確に言うならば失うことで契約者の精神が激しく揺さぶられるもの。これならば界力の消費を代償とすることができますね」


 デイモスを対象の夢の中に送り込む方法は簡単だ。

 殺したい相手が夜に眠っている時に、傍で黄金のハンドベルを鳴らすだけでいい。事前にデイモスと契約を結んで代償を払っておけばたったこれだけで済む。


 鈴とは、儀式術式において上位存在との交信の為に用いられる。悪魔デイモスと繋がる為に、また『音』を術式に組み込む為に、夢の使者ファントムは『黄金の鈴』を供物としたのだろう。


 顔を伏せて押し黙った青年に対し、九凪は突き付けるように言った。


「理解は恐怖を薄めます。分からないから怖いんです。知らないから不安なんだ。なら解き明かせばいい。正体を明かしてやればいい。正体不明の怪物モンスターから、ただの界術師へと格を下げるまで」

「……なにが、言いたいんですか?」

「タネが分かった手品ほど退屈なものはないんですよ。僕にはもう、貴方が怖くない!!」


 無言の反撃があった。

 夢の使者ファントムは勢いよく太刀を振り下ろす。それに連動するように、天を埋め尽くす刃が豪雨の如く降り注いだ。


 九凪の深層心理に浮かび上がった『斬られるかもしれない』という恐怖から生み出された幻影。


 それを、否定する。

 九凪は両手を大きく左右に広げて、能力を発動した。


 領域干渉クリペース・フルクティア

 九凪皆が持つ絶対の盾。

 解放リベラ状態の時のみ発動できる完全守護領域。


 九凪皆が界術師としての本領を発揮していく。

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