第1話 本当の願い

 市立九天総合病院。

 九天市中心部にあり、明峰家や名桜との関わりも深い大規模病院だ。


 九天市や周辺の六家連盟が幅を利かせる土地では、市立九天総合病院のように界術師の組織の息が掛かった病院が多く存在していた。これは非合法の戦闘で負った怪我を治療してもらう為である。


 特別な事情を抱えた患者を診るために用意された地下の病棟。

 九凪皆は、廊下の長椅子に浮かない顔で座っていた。


 消毒のツンとした匂いに満ちた廊下は、十分な照明が設置されているはずなのにどこか薄暗い。無機質な材質の壁や床は、氷のように冷たく見えた。


 柊グループと寺山伸一の取引が行われた倉庫が大崩壊してから、すでに数時間が経過していた。時刻は午後四時を過ぎている。おそらく外では太陽が西に傾き、景色が茜色を帯びている頃だろう。


「良かったよ、ナッギーは大怪我をしなくて」


 隣に座るかりなみが気遣うような口調で言った。精一杯気丈を繕ってはいるが、その声に張りは感じられない。雨降る鉛色の空のように表情は暗かった。二人の正面に立っているくさなぎろうの顔にも険が浮かんでいた。


「すいません、僕がもっと、もっとしっかり戦っていれば……」


 申し訳なさで胸が詰まり、九凪は視線を逸らして唇を噛んだ。


「ナッギーが謝ることはないって。あたしだって、何も支援できなかった……」

「そうっスよ。アニキがあんなにボロボロになるような相手だったんスから。誰もかいくんを責めたりしないっス」

「……ですけど」


 倉庫内で行われた戦闘で、九凪は何もできなかった。


 前川みさきが事件の黒幕だった。

 その事実が心を支配し、彼から気力を失わせたのだ。


 前川みさきを信じたい。でも、目の前には変えられない現実がある。板挟みとなった心では前に踏み出す力を生み出せなかった。それが罪の意識となって九凪の胸を痛めていた。


 ただあの時、九凪が角宮と共闘していても状況を打破できたとは思えない。相手は玖形由美と同じ裏の五本指レフト・ファイブなのだ。相手の術の発動すら感知できなかった時点で対等に戦えるとは考えにくい。


 不意に静かな音を立てて、病室から新谷零士が出てきた。


「新谷さん! 恭ちゃんは大丈夫なんですか……!」


 跳び上がるように立った狩江が、新谷へと詰め寄る。


「ああ、命に別状はないよ……ただ、」

「ただ……ただなんですか!」

「衰弱が激しい。敵は精神系の術を使ったみたいだし、恭介君自身もかなりの氣を消費したようだ。肉体じゃなくて精神へのダメージが甚大だ。医者の話だと、いつ意識を取り戻すか分からないそうだ」

「そんな……」


 両手で口許を覆った狩江の顔が、みるみる青く染まっていく。倒れそうによろめいた彼女を、慌てて草薙が背中から支える。


「……アニキの傍にいても、いいっスか?」

「ああ、頼む」


 草薙は頷くと、雨だれのように両目から大粒の涙を流す狩江の背を押して病室へと入っていった。そんな二人を見て九凪の胸に一段と鋭い疼痛が走った。


「ンだよ、暗い顔をしやがって。こっちまで気が滅入っちまうじゃねえか」


 少しすると、廊下の先から玖形由美が歩いてきた。


 倉庫の大崩壊。

 あれは自然に起きた事ではなく、玖形由美によって引き起こされたものだ。


 視界に入ったものならば、距離や硬度など全ての要素を無視して切断する能力。

 相変わらず、やることが滅茶苦茶だった。


「由美、六家連盟からの警告は大丈夫なのかい?」

「大丈夫なワケねえだろ。さっきまでひっきりなしに電話が鳴り続けてたよ。ま、あまりにも鬱陶しいもんだからぶっ壊してやったけどな」

「ぶっ壊したって……、携帯をかい!?」

「ああ。勢いよく踏み抜いてやってぜ」


 あっけらかんと言い放った玖形を見て、新谷は苦い顔で頭を抱えた。頭に血が上り、激昂して携帯を叩き割る玖形の姿が容易に想像できた。


「連盟も相当揉めてるみたいだぜ。軽く話を聞いたけどよ、向こうも言ってることが支離滅裂で話にならねえ。取り敢えず連盟の方針が決まるまでは動くなの一点張りだった」

「……だろうね。実験開始が現実味を帯びてきて、いよいよ看過できない段階まで事態が進んだんだ。これから下す決定を一つでも間違えれば、何万人という命が犠牲になるかもしれない。そんな時代を揺るがすような瀬戸際に立っているんだ。六家連盟の動きは益々遅くなるだろうね」


 森の王は界力省によって禁術に指定されている。何よりも九天市を炎の海に飲み込むような危険な実験は界力省にも国会にも承認されていない。


 今すぐに実験を中止させればいいと思うかもしれない。

 だが、現実はそんなに簡単ではないのだ。


 十年も前から六家連盟や明峰家の一部の役員によって進められてきた計画。今まで携わってきた人間からすれば何としてでも実行したいと思っているだろう。

 それに実験自体には反対していても、森の王の発動によって顕現するとされているメソロジアに興味がある連中はいる筈だ。漁夫の利を画策する連中からすれば、実験が完全に中止になるのは面白くない。どうにかして被害を最小限に留めて実験を継続させる道を探っているかもしれない。


 賛成と反対というような単純な二律背反で計れない欲望の渦。


 六家連盟の会議は紛糾しているのだろう。様々な相容れない意見が対立を生み、結論が一つに纏まるなど何時いつになるのか。その頃には実験は行われているかもしれないというのに。

 連盟が動きを止めれば、この最悪な状況を覆せる力を持った個人や組織が動けないままだというのに。

 会議を長引かせて、六家連盟の動きを鈍くすることこそ、黒幕の目的なのかもしれないのに。


 森の王の実験が行われるのは今夜だ。あと数時間しか猶予は残されていない。

 そもそも、今夜に実験が行われるという情報を連盟は掴んでいない可能性すらある。でなければ、こんなに悠長な対応にはならない筈だ。


 メソロジアによって、一体何がもたらされるのかは九凪には分からない。

 お金かもしれない。名誉かもしれない。技術かもしれない。知識かもしれない。


 だが、どちらにしても。

 そんなくだらない理由の為に、何万人という人間の命が天秤に乗せられている。


 そして、このふざけた計画の黒幕の中には、前川みさきがいる。

 ひたすら正しさを追い求め、自分の罪に胸を痛めた少女がいる。


 分からない。

 何もかもが、分からない。


 六家連盟という大きな流れに逆らうことが正しいのか?

 前川みさきの前に立ちはだかり、歩みを止めさせることが正しいのか?


 九凪には。

 自分がどうするべきなのか分からなかった。


「んで、カイ。ひでえ面だな。そんなにこっぴどくやられたのか?」


 俯いた状態で唇を噛んでいた九凪に、玖形が軽い感じで声を掛けた。


「……ええ、僕は何もできませんでした。でもこれは仕方のないことなんですよ」


 九凪皆は、


「相手は師匠と同じ裏の五本指レフト・ファイブなんです。例え僕が戦っていたとしても、多分何も変わってない。僕にどうこうできる問題じゃなかったんです。だから、ここで諦めるのは仕方ないんだ……」

「おいカイ。てめえ、それ本気で言ってンのか?」

「……え?」


 九凪が視線を上げると、切れ長の両目に力を入れた玖形と眼が合った。

 責めるような、怒っているような、鋭い色を浮かべた瞳。

 罪悪感を直接炙られたような気分になり、九凪は目線を逸らした。


「答えろよ。お前は、諦めるって本気で言ってンのか?」

「……本気も何も、もうどうしようもないじゃないですか。相手は六家連盟と明峰家の役員、それに柊グループなんですよ。界術師の頂点に君臨する組織に加えて、裏の五本指レフト・ファイブまで出てきたんです。僕たちで何とかできる状況を遙かに越えてます」

「それが、そういう訳でもないらしいんだ」


 冷静な口調で、新谷が会話に加わった。


「そもそも論になるけど、森の王の実験は界力省や国会の承認を受けている訳じゃない。調べたけど、そんな記録はどこにもなかった。だから六家連盟や明峰家は実験を止めようとする行為を、本来は止めることはできない筈なんだ。でも今は連盟が権力を使って実験を止められる力を持った個人や組織を抑え付けている状態だ。由美や僕

が権力を使って動きを妨害されているようにね」

「……は、はい」

「逆に考えてみてくれ。この状況なら、実験を成功させたい連中も満足に動けないと思えないかい? この場面で何か行動を起こしたら、それは自分が黒幕の仲間だと言っているようなものだからね。それに明峰家以外の五家の目もある。大義名分がない黒幕には実験を妨害しようとする僕達を公的に止めることができないんだ」


 今頃、六家連盟は今後の対応について揉めているはずだ。そこには当然黒幕も巻き込まれている。つまり会議が続く間は、黒幕も含めて全ての勢力が動きを止めるという訳だろう。

 黒幕が一部役員とは言え、彼らも組織に身を置く人間だ。

 なら、自分の感情に任せて行動を起こせるとは考えにくい。相当な無理をすれば可能かもしれないが、そんな事をすれば他の誰かに止められるだろう。


「だったら障害になるのは柊グループだけだ。でも、柊に関しても問題にならないかもしれない。そうだよね、由美」

「ああ。今回の一件、柊は本気を出せない状態なんだって思ってるよ」

「本気を、出せない……?」

「もし柊が本気だったら、そもそも美波ちゃんは光谷商事のしおあきらに辿り着けてねえだろうな。徹底的に情報が隠されて、気付いた時には手遅れになってる。これが柊のやり方だよ。術式の資料盗難の件も、豊田隆夫の件も、界力石の取引の件も、。つまり、連中は本気じゃねえって訳さ」


 真面目なトーンで、玖形は続ける。


「それに本当に柊は森の王を発動するつもりならもっと五本指が動くぞ。連中に味方するのが夢の使者ファントムだけって言うのはあり得ねえ。やることが柊にしては小さ過ぎる。アタシには柊の中の個人か、小組織が独断で動いているようにしか思えねえんだ」


 反論は、思い浮かばなかった。

 明確な証拠はない。だが、今までの事実を並べていけばこの予想に違和感はなかった。むしろゴチャゴチャしていた経緯が整地されてすっきりしたという感覚すらある。


「……でも」


 九凪は、まだ胸に引っかかるものが残っていた。


 六家連盟や明峰家に逆らうのは、本当に正しいのか?


 界術師である以上、どうしてもこの二つの組織を無視することはできない。どれだけ納得できな命令でも一介の会社員が社長の命令に逆らえないように、界術師として生きていくのなら見て見ぬ振りは許されない。現状ですでに、玖形由美は連盟に強く警告を受けているのだ。これ以上、目立つ行為は避けた方がいい。


 それに。


「今回の件が無事に終わったとしても、その後に報復される可能性があります。僕たちは連盟の方針に反することをするんですから」

「……確かに、それは否定できないね」

「ンなもん、アタシが何とでもしてやるよ」


 そう言うと、玖形はベンチに座る九凪の両肩に手を置いて力を込めた。顔を上げた九凪の両目を強い意志が込められた瞳でじっと覗き込む。


「御託はいいんだよ、カイ。アタシはお前がどうしたいかを訊いてるんだ」

「……どう、したいか」

「お前にはあるんだろ? 絶対に諦められない理由が、立ち上がるだけの想いが。その為の決断をしろ。もし目の前に邪魔なモンが現れるなら、アタシが全部薙ぎ払って道を切り拓いてやるさ。ゴチャゴチャ考えんな、やりたい事を言ってみろ」


 玖形の力強い言葉が、九凪の心を揺らす。

 だが、どうしても九凪はあと一歩が踏み出せない。


「でも、きっとこの想いは正しくない」


 九凪皆は、否定したのだ。

 自分の感情に身を任せて、豊田隆夫に飛びかかろうとしたルリカを。


 ならば、この願望は間違っている。

 自分の願いだけを大切にして、状況を顧みずに前に進むことは。

 自分勝手な正義を『正しさ』だと決め付けて、相手にも強要することは。


「なにが正しいかなんて自分で決めろ。誰かに正解を求めるな。大切なのはお前がどう考えて、何を感じるかだ。それにさ、六家連盟や明峰家は何万人もの人の命を奪いかねないようなテロリストなんだぜ。それを止めることが正しくないって言うなら、それは世界の方が間違っているよ」


 九凪の肩から手を離し、玖形は諭すように続ける。


「別に間違ってもいいんだ。ガキの分際で大人ぶってんじゃねえよ。子どもは間違って当たり前なんだから。カイが進む道が正しくないならアタシが止めてやる。アタシが間違ってると思うなら全力でぶつかってこい。そういうモンだろ、家族っていうのは、母親っていうのは。だからお前は迷わずに前に進んでみろ」

「師匠……」

「じゃあもう一度訊くぜ。カイ、お前はどうしたい? 何を望む?」


 玖形由美は問い掛ける。

 師匠として、母親として。


「考えるな、感じろ。アタシはお前の頭じゃなくて、心に訊いてるんだ」


 きっと。

 九凪皆にとって『考える』という行為は逃げだったのだ。


 夢として見るあの光景。

 燃え盛る森の中で何かから逃げるというなくした記憶の残滓。


 それを辛いものだと思い込み、目を背け続けていた。そのせいでいつの間にか、自分の心と正面から向き合うことが怖くなっていたのだ。知ってしまえば、もう逃げ続けることはできないのだから。


 だから、


 自分のものではなく、他人の考え方や想いを借りた。

 そうすることで、自分の内から湧き上がってきた『本当の願い』を上書きしていった。誰の物から分からないような、簡単に諦められる薄っぺらい想いに。冷たく澄んだ雪解け水に、泥水を混ぜてただの水へと変質させるような行為だ。


 そうやって生きるのは楽だった。

 情熱がなければ失う恐怖もなく、悔しさとも無縁だ。世界は分厚いガラスの向こう側に存在するフィクション。傍観者として眺めていれば感情を揺さぶられることはなかった。


 過不足なく、幸せを感じるならば、今を大切にするべき。


 これは変えること、変わることを恐れた九凪皆の逃げ腰の象徴。変化に巻き込まれれば傍観者ではいられない。不確定な未来へと自分の足で進んでいかなければならない。それを恐れてしまったのだ。


 だが、そのせいで、九凪皆は掛け替えのないものを失ってしまった。


 前川みさきとの繋がり。

 どんなモノにも執着しなかった九凪が、唯一失ってからも心を痛めていたもの。


「……僕がしたいこと」


 それこそ、考える前から決まっていた。

 メモ帳とペンは、今は必要ない。


 簡単には譲れない想い。九凪皆の内側から確かに湧き出してきた本当の願い。

 それは、始めから心の奥底にあった。


 もう一度、前川みさきに会って話したい。真意を確かめたい。


 前川は言った。正しさを示す為に森の王を発動すると。

 だが、それはおかしい。

 森の王は九天市を炎の生みに飲み込むような禁術だ。正しさとは何かという命題を誰よりも追い求めていた前川みさきが、こんな分かりやすい悪事に手を染める筈がない。


 何か、あるのだ。

 前川みさきが、森の王を発動しなければならない理由が。

 自分の信念さえ捻じ曲げて、多くの悲劇を生まなければならない理不尽が。


 だったら。

 そのふざけた現実を、破壊する。

 不確定な未来だろうが、後悔するかもしれない選択だろうが、今を変えるのだ。


「師匠、お願いがあります」


 本来は、実に簡単な物語だった。


 好きな女の子が、辛い想いをしている。

 好きな女の子が、何か理不尽に巻き込まれている。

 立ち上がる理由は、たったそれだけで良かった。


 助けたい、と。

 そう願うだけで十分だったのだ。


「今から好きな女の子に告白しに行きます。だから、力を貸してください」

「あいよ。最高の舞台へ連れて行ってやる」

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