第6章 彼と、彼女の、正しさ

07 / 九凪皆の間違い

「九凪君なら、どうする?」


 立ち上がった前川みさきに、九凪皆は真っ直ぐ見下ろされた。


「どうするって、なにを……?」

「例えば……そうね、映画の話」


 前川は顔から表情を消したまま、静かに話し始める。


「ヒロインがいるの。彼女にはどうしても叶えたい夢があった。その夢を実現させるために生きていた。そして、彼女は主人公のことが好きだった。本当に、心の底から、大好きだった。だけどお互いに気持ちを口にはしていなかったから、まだ恋人という関係ではなかった」


 突然の事に動揺して、九凪は唖然として前川の言葉に耳を傾けていた。


「ある日、ヒロインに夢を叶えるチャンスが訪れるの。だけどそれは主人公との永遠の別れを意味していた。主人公を諦めて夢を叶えるか、夢を諦めて主人公との未来を選択するか。二つに一つ。これ以外の選択肢は存在しない。そして映画の最後の場面で、ヒロインは主人公に会いに行くの。事情を全ては話さない。事情を知ることが主人公の選択を歪ませてしまう可能性があるから。だからそれとなく伝えて、主人公に言ったの。これから、私はどうしたらいいって」


 前川の揺るがない熱のこもった視線が、余すことなく注がれる。


 なにを、急に言い出したのか。

 過去に一度も前川とは映画の話などしたことがないのに、どうして突然こんな話題を振ってきたのか。


 分からない。

 ただ、一つだけ確信に近いものがあった。


 この例え話は、ただの冗談なんかではない。

 取るに足らない日常の雑談なんかではない。

 前川の鬼気迫るほど真剣な表情が、そうだと言外で語っている気がした。


 そして、九凪の狼狽する脳内にある懸念が降ってきた。

 この話は、まるで――


「ねえ、九凪君ならどうする?」


 前川は逃げ道を奪うように詰め寄る。九凪は体を引いて距離を取ろうとするが、思うように体を動かせなかった。


「ど、どうするって、そんなの……」


 まるで射るように鋭い前川の視線から逃げる為に、九凪は目線を逸らす。

 前川の質問に、簡単に答えられなかった。

 その答えが、彼女の人生や、自分の人生を、大きく変えてしまうような気がしたからだ。


「答えてよ。九凪君なら、どういう選択をするの? ……何を、選ぶの?」


 少し強い口調で、前川は急かした。


 九凪は恐る恐る視線を正面に戻す。いまだにぶれる事なく注がれる縋り付くような前川の視線。彼女の瞳に浮かぶ感情は期待、それとも不安なのか。まるで湖面に落ちた月のように揺らぐ光からは、うまく読み取れなかった。


「僕、は」


 九凪皆は、考える。

 


 それは、いつもと変わらない行為だった。

 メモ帳にペンを走らせて心を落ち着かせるのと同じ。

 自分のものかどうかも怪しい理論を、理屈を、想いを、ひたすらに積み重ねていく。心に浮かんだ感情に理論武装を施していく。最初に心に浮かんだものが見えなくなるまで外装を嵌めていく。


 そして。


「……分からないよ」


 肯定でも、否定でもない。どっち付かずの答え。

 だがこれは、答えていないのと同じだった。


「僕にはどちらを選択させることなんてできない。ヒロインと主人公は結ばれて欲しいし、ヒロインには夢も叶えて欲しい。片方だけなんて、そんなの無理だよ」


 これは言い訳だった。

 あくまで映画の話だとする事で、誤魔化そうとしていた。


 今を大切にするべきなのだ。

 過不足なく、幸せを感じているのなら、この瞬間を掴んで離すべきではない。

 きっと、前川みさきの質問に答えてしまえば、何かが決定的に変わる。


 変化にはリスクが付きまとう。


 それが幸せな結末に繋がるとは限らない。進んだ先には辛いことがあるかもしれないし、ひどく後悔するかもしれない。だからこそ、九凪皆は思うのだ。不確定な未来を選ぶくらいなら、変わらない今を大切にしたいと。

 

 自分のなくした過去から目を背け続けているように。

 燃え盛る森の中の光景。胸が詰まるような夢の幻視。


 それを知る必要はない。

 向き合う必要など、ないのだ。


「……そっか、そうなんだ」


 一瞬だけ、前川の顔が哀切に歪んだ。すぐに俯いて表情を隠す。次に顔を上げた時には、いつもの何気ない笑みが浮かんでいた。


「それが、九凪くんの選択なんだね」

「みさき……っ」


 焦燥感が槍となって全身を鋭く貫く。


 何か、致命的な間違いを犯したような感覚。

 みさきの顔に貼り付いているのは取り繕われた笑みだというのは一目瞭然だ。このままでは状況が悪くなる一方だという事も瞬時に理解できた。


「違うんだ、僕はただ……!」


 このままでは駄目だ。

 何かを言わなければ、致命的な終わりを迎える。


 だが、一体何を言えばいいのだろうか。


 さっきの答えを撤回すればいいのか?

 それとも、彼女の心に届くような言葉を言えばいいのか?

 ずっと前から抱いてきたこの感情をぶつければいいのか?


 でも、それは――


「僕は……僕、は」


 喉元へと迫り上がってくるのは薄っぺらい言葉だけ。

 舌が麻痺したかのように動いてくれない。

 唇を閉じてしまった九凪を見て、前川の瞳がきらりと悲しげに潤んだ。そのまま彼女は踵を返して、部屋から出て行こうとする。


 待ってくれ、と心の中で叫びながら九凪は手を伸ばした。

 しかし、届かない。


「こんな時間までごめんね。じゃあ、おやすみなさい」


 最後まで九凪に顔を見せないまま、前川はダイニングから出て行った。


 キリキリ、と万力で締め付けられるように心が痛む。

 取り返しの付かないような失態。

 九凪は虚空へと伸ばされた右手を、力なく下げた。


「……みさき」


 だが、その声に応えてくれる人はもういない。

 雪降る夜のような静寂の中で、九凪は項垂うなだれることしかできなかった。

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