第3話 最悪の敵

 ※前回のあらすじ


 禁術『森の王』の発動に必要な界力石の取引を妨害するためになぎかいかどみやきょうすけと共に襲撃を掛ける。しかし界力石を持っていたのは白衣を着た少女――前川みさきだった。


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 その少女を見て。

 九凪皆は溢れる感情の全てを込めて叫んだ。


 「!!」


 みさき――前川みさきは、きゅっと唇を引き結ぶとすぐに顔を俯けた。濃い陰翳が目許に浮かび上がり、前髪と共に彼女の表情を隠す。


「みさき! ねえって! どうしてみさきがここにい――」


 ドガッ!! と、強烈な衝撃が脇腹に襲い掛かる。


 後方に残してきた敵に蹴り飛ばされたと気付いた時には、すでに九凪の体は倉庫の床を転がっていた。肺から酸素が無理やり押し出されたように息苦しい。完全に無防備の瞬間にやられたせいか、意識が明滅してすぐには立ち上がれない。


 何者かが近づいてくる足音。おそらくは先ほど九凪を蹴り飛ばした敵か。このまま寝ていてはとどめを刺される。だが動けない。体の問題ではない。心が壊死してしまったように、戦うための活力が湧いてこない。


 しかし、いつまで経っても敵がやって来る事はなかった。


「なに寝てるんだ? しっかりしてくれよ、皆」

「……恭介、さん……?」


 いつの間にか隣には汗一つ掻いていない角宮恭介がいた。手を借りて何とか膝立ちの状態に起き上がる。


「……みさき」


 締め付けるような胸の痛みを誤魔化すように彼女の名前を口にした。前川は相変わらず俯いたままで、表情を窺い知ることはできない。だが悄然とした立ち姿は、彼女も少なからず衝撃を受けていることを物語っていた。


「あそこに界力石があるんだな? なら、俺が行こう」

「待ってください恭介さん! まだ敵がいるんじゃ……」


 言っている途中で気が付いた。ふと背後を振り返る。そこには先ほどまで九凪と戦っていた三人の敵が気絶して倒れていた。


 それだけではない。

 取引現場で怯えたような表情でこちらを見ている研究者達。まるで檻から脱走した猛獣を目の前にしたような彼らの態度から、九凪は状況を悟る。


 すでに、角宮恭介が倉庫内にいた界術師を全滅させていたのだ。


 今もまだ倉庫の外からは爆発音や戦闘音が聞こえてくる。ルリカの部隊の陽動が効果を発揮している証拠だ。すでに外の連中に救援要請は出しているのだろうが、苦戦しているせいか倉庫内に増援は来ていなかった。


 戦況が確立する。

 追う者と、追い詰められた者が、はっきりと決定する。


「(……どうして、みさきがここにいるんだ?)」


 単純に考えるなら、前川みさきは『森の王』を発動するために柊や明峰家と手を組んだ黒幕の一員という事になるだろう。白衣を着た研究者然とした佇まいと雰囲気は一朝一夕で身につくようなものではない。


 しかし、九凪はすぐには受け入れられなかった。


「(みさきが、この事件の黒幕だった? しかも界力石を持っているってことは、森の王を発動させるのはみさきなのか!? そんな、はずが……)」


 本当に、前川みさきが、非人道的なテロ計画に加担しているのか?


 誰よりも正しさを追い求め、己の罪に胸を痛めていた彼女が。

 こんなはっきりと『悪』だと分かる事を、率先して行っているのか?


「……みさき、答えてくれ」


 気付けば、九凪の口から言葉が漏れ出していた。

 呟きのような、小さく低い声での問い掛け。


 全員の視線が九凪へと向けられる。角宮も歩みを止めた。


 一瞬の躊躇いが、唇を凍り付かせる。だが、九凪は無理やり言葉を絞り出した。


「……どうして、みさきがこんな事をしているんだ? 僕には理解できない。だってみさきはあんなにも、自分の正しさについて悩んでいたじゃないか……!」

「……、」


 しかし、前川は答えない。

 ちくちくとした苛立ちが募る。九凪は立ち上がって、身を乗り出すように詰問した。


「どうしてだよ……! なあ、みさき! 答えてくれよ!!」


 それは奇しくも、『あの日』の逆だった。


 前川みさきが問い掛け、九凪皆が答えを出せなかったあの夜。

 二人の間に致命的な距離が生まれてしまったあの時。


「……どうして、か」


 前川は、ゆっくり顔を上げる。

 鋭い眼光だった。まなじりはきつく吊り上げられ、口許は真横に引かれている。瞋恚しんいの光を湛えた黒曜石のような瞳は、しかしわずかに揺らいでいた。


「これが、わたしの『正しさ』だからよ」


 そう言い切ると、前川は再び顔を伏せた。


「ずっと考えてきたの。どうしたら、わたしの正しさを証明できるかって。その答えがこれよ」

「……どうして、そんな。正しくなんかないよ。みさきは間違っている……!」

「っ」


 俯いた前川の肩がぴくりと撥ねる。背中で長い黒髪が小さく揺れた。


「……間違っている、か。九凪君に、一番言われたくなかったな……」

「だったら今すぐこんな事は止めてくれ! 持っている界力石を渡して! そうすれば、みさきは正しいままでいられるんだ!」

「もう駄目なの、九凪君。遅すぎたんだよ」


 その声はわずかに濡れていた。まるで決壊しそうな心を必死に押しとどめているかのような響きが感じられた。


 そんな前川の前に、一人の研究員が移動した。

 歳は70を越えているだろうか。全く衰えを感じさせない力強い立ち姿。白髪の髪はオールバックに整えている。見る者を竦ませるような三白眼に、髭を蓄えた口許。気むずかしさを感じさせるような雰囲気の老翁だった。


 てらやましんいち

 禁術研究の第一人者であり、また今回の事件の主犯格の一人である。


「悪いが、界力石を渡す訳にはいかない」


 張りのある声には、強い意志が込められていた。


「貴様らも界術師なのだろ? なら、私の実験がなにをもたらすか分かるはずだ」

「……メソロジア、か?」


 寺山を鋭く睨み付けた角宮が、低い声で答えた。


「左様。ならば、メソロジアがどれほどの価値を持っているのか理解できるはずだ。であれば、貴様らの行動がどれだけ愚かなのか分からないのか?」

「興味ねぇんだよ、じーさん。テメェらにとっては宝石かもしれねぇけどな、俺たちからすれば道端に転がったガラクタにしか思えねぇんだ」


 角宮が寺山伸一に近づきつつ、きっぱりと言い放った。


「だが、ただ一つ。てめぇらがやろうとしてる事が、許せねぇくらい外道だってことには興味がある。だから止めるぞ、このイカれた実験を!」

「呆れるほどに低次元な考え方だ。その程度の犠牲に固執するのは愚かな連中のやることだよ。メソロジアとは何よりも優先されるべきなのだ。それがしかばねの上にしか築けない物であれば、私は喜んで屍を生み出そう」

「……狂ってやがる」

「崇高な目的を受け入れられない貴様の方が、私からすれば理解できないがね」


 寺山伸一と角宮恭介の間に、一触即発の空気が流れる。

 すでに倉庫内に侵入してからかなりの時間が経過している。新谷零士が設定した制限時間十分までもう余裕はない。陽動が敵を引き付けている間に界力石を奪取しなければ、今度は九凪と角宮が敵に囲まれて脱出を困難にしてしまう。


「最後の警告だ」


 寺山から少し離れた位置で足を止めた角宮が、刺すように言った。


「界力石を渡せ。悪いけどよ、返答次第じゃ加減はできねぇぞ。それ相応の覚悟をしてもらうことになるぜ」

「無理な相談だ。それに貴様は一つ勘違いをしているぞ」

「なに?」

「自分達が追い詰める立場だと思っているのか? 本当は、追い詰めらている立場だとも知らずに」


 りん、と。

 涼しげな鈴の音が聞こえた。


「覚悟をするのは貴様らの方だ。自分達がどれほど愚かだったか、あの世で悔いるがいい」


 ぞくり、と。

 九凪の背筋に鋭い悪寒が走る。


 なにか。

 来る。


 そう直感した瞬間だった。


 その青年は、まるでずっとそこにいたかのように現われた。

 長い紫色の長髪は一本に束ねられている。長身痩躯で端正な顔付き。着ているのは紫色を基調とした服で、裾を足下まで伸ばした学生服のようなデザインだ。両手の甲には腕に続くように黒い刺青のような模様が浮かんでいる。

 腰から吊されているのは鞘に入った一振りの太刀。柄の先端に鈴のような球体が付いていた。


「(……界力術!? だとしたら、僕が全く気付かないなんて……っ)」


 九凪は界力の気配には誰よりも敏感だ。仮に青年が何かしらの界力術で九凪の視界を誤魔化していたのだとすれば、術を掛けられた時点で何かしらの違和感を覚えるはずだ。それだけではない。青年が姿を現した瞬間も、全く界力の気配が感じられなかった。


 相手の界力術に全く反応できない。

 それは剣士同士の戦いなら、相手の太刀筋が視えないのと同義だ。


「(こいつはヤバい! 僕とはレベルが違う。下手したら……っ!?)」


 青年が出現してから、倉庫内の気温が下がったような気がした。


 静かな威圧感。

 まるで青年の一挙一動で、この空間そのものが変わってしまうような錯覚。


 額に汗が滲む。気付けば、九凪は完全に気圧されていた。


『――こちら新谷! すまないが、こちらはもう限界、これ以上の陽動は不可能だ! 残った界術師がそっちに向かってる!』


 耳に付けた通信用の界力武装から、焦燥に満ちた新谷の声が飛んだ。


『そっちはどういう状況だ!? 龍の瞳はどう


 ブチッ、と新谷の声が途絶えた。おそらく新谷が何らかの攻撃を受けて、通信用の界力武装が破損したのだろう。


 時間がない。

 龍の瞳の回収は諦めて脱出に専念しなければ、元も子もなくなってしまう。


「恭介さん! もう時間が……っ!」


 しかし、角宮からの反応はない。その大きな背中は大木のように動かない。


 更にあろう事か。

 青年に向かって足を踏み出した。


「な、なにしてるんですか!! 恭介さんっ!!」


 青年の実力は未知数だ。玖形由美と同等だと九凪は感じているが、それも絶対ではない。しかし、今は脱出に専念しなければ取り返しが付かないことになる。


 だが九凪の考えとは裏腹に、角宮は青年へとゆっくり近づいていく。


「へぇ、ボクに立ち向かってくるんですね。ただの界術師ぜいが」


 曖昧な笑みを浮かべた青年が、楽しそうに言った。


 その瞬間。

 光が、青年の身体を包んだ。


 表と裏の五本指。

 全界術師の中で、最上級の実力カラーである『黒い』界力光を発せられる十人。

 その内の一人。


 青年の身体が霧のように、霞む。

 輪郭が空気に溶ける。


 直後。

 太刀を振り上げた格好で、角宮恭介の背後に出現した。


「――ッ!!」


 九凪は声を上げることすらできなかった。当事者である角宮は尚更だろう。

 白刃が角宮恭介の首へと吸い込まれてい――


 ボゴッ!! と。

 振り向きざまに放たれた角宮の裏拳が、青年の頬に直撃した。


「そう焦るなよ。せっかくだ、もっとゆっくりやろうぜ」


 拳の激突した青年の身体が煙のように消えていく。そして、再び角宮から少し離れた場所に再び現われ、感心したような表情で角宮を見詰めた。


「そんな驚くようなことじゃねぇだろ。裏の五本指レフト・ファイブ夢の使者ファントム

「よくご存じで。ボクの正体を知っているなら、尚更立ち向かってくることを理解できないんですけどね?」

「かもな。俺だってびっくりしてるよ」


 言いながらも、角宮は拳を硬く握る。


「ずっと疑問だったんだ。本当に俺は強くなれてるのか、すみを取り戻せるだけの力を手に入れられているのか不安だった。だからさ、望んでたんだよ……この瞬間を! 五本指テメェらと本気で戦えるこの時をよォ!!」


 角宮恭介は、笑った。

 双眸に熱い闘志をぎらつかせ、両頬を獣のように荒々しく持ち上げて。


「胸を借りるぞ、五本指」


 角宮から溢れ出した荒々しい紫色の界力光が、倉庫の床を染め上げる。


「俺が越さなきゃならねぇモンってのがどの程度なのか、試させてもらうぜ!!」

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