05 / 前川みさきの過去
正しく生きろ。
それが、お父さんの口癖だった。
わたしの家――前川家は、始まりの八家の一つである明峰の『御三家』の一つなの。分家の中でも格が一つ上。場合によっては明峰家の時期当主を選出できるほどの権利を持った家よ。
御三家には、明峰家の運営に関わる義務がある。
前川家に与えられた役割は、人事。第一から第四分家、分家候補に名前が挙がっている家の管理ね。明峰家が最も発展できるように人材の面から支えるのが前川家に任された仕事だった。
言い換えれば。
お父さんの決定一つで、分家という立場を剥奪することもできたし、新しく分家にしてあげることもできたってこと。
もちろん、そんな大きな人事には他の御三家や本家の意向も関係してくるけど、人事という面において前川家は他のどの家よりも本家に近い権力を持っていた。
第一から第四分家はね、毎年本家に対して何らかの成果を示さないと降格処分の対象になるの。だから、特に第四分家はすごく必死だった。どんな手段を使ってでも分家という立場にしがみつこうと必死だった。
毎年ね、多くの人がお父さんを訪ねてきた。分家候補から昇格したい家、分家に残りたい現分家。賄賂なんて当たり前。金品、技術、情報、知識、身体……自分達が出せる物なら何でもお父さんの前に並べて、一族総出で頭を下げていた。
大量のゴミが捨てられた川でも見ているような気分だった。
ただただ、気持ち悪かった。
その流れは子どもだったわたしにも向けられた。見ず知らずの大人達が、小学校に入る前のわたしを様付けで呼んで、必死にご機嫌を取ろうとしていた。吐き気がした。これが権力の奴隷が行き着く先なのかって思うと、景色が歪んで見えた。
わたしは、界術師のそういう慣習が大嫌いだった。
――僕は、正しくない。
お父さんは、いつもそう言っていた。
その気持ちには同情したわ。だって、お父さんの決定によって笑う人と泣く人が絶対に生まれるのだから。人の一生を決めるような重みなんて、一人で背負えるようなものじゃない。だからお父さんが俯くように生きるのは理解できた。
だけど、納得はできなかった。
だって自分が間違っているって認めながら、抵抗しなかったんだから。
お父さんは機械みたいに無感動に、明峰家の家則や本家の意向に従って、悲痛な通告を下していた。汚くて、非道な手段を使って分家に成り上がった家もいた。やむを得ない状況で分家を剥奪された家もあった。でも、そういう事情を全て見なかったことにして、お父さんは仕事を忠実にこなしていたの。
わたしは、そんなお父さんが嫌いだった。大っっ嫌いだった。
なんで反対しないの! お父さんは正しくないよ!
いつも、わたしが納得できない時はそうやってお父さんを責めていた。
子どもだったわたしは分からなかったのよ。お父さんには選択肢がなかったんだって。本家の意向に従って、本当は正しくないと思いながらも無慈悲に人事を伝えることが、仕方のないことなんだって。
だけど、お父さんはわたしの意見に対して怒ったりしなかった。
正しく生きろ。
疲れた顔で、繰り返しわたしに言うだけだった。
多分、これはお父さんの願いだったんだと思う。自分は大きな流れに抗うことはできない。だからこそ、娘であるわたしには自分のように間違った大人になって欲しくなかったんでしょうね。
そんなある日のことだった。
ある家の代表が、お父さんを訪ねてきた。
いつも通りの光景だった。けど、その日だけは違った。
その家はね、わたしの友達の家だった。仲の良かった女の子。去年、陰謀に巻き込まれて卑劣な手段で分家の権利を剥奪されちゃったのよ。だから、今年は分家に戻ろうって息巻いていた。
少し不穏な空気があった。
友達の両親は何度もやって来ては頭を下げていた。でも何故か友達の両親は二人共どんどん痩せていった。顔にも疲れが滲んでいって、最後の方には今にも倒れそう程まで弱っていた。
友達に訊いたらね、分家の権利を剥奪された責任を全て背負っていたんだって。親族からは恥さらしだって罵られて、精神的に追い詰められていたそうよ。親族にすれば自分達が明峰家の保護を受けられなくなったのは、友達の両親が悪いって理屈になるんでしょうね。本当に可哀想だった。
わたしは、友達と約束をしたの。
絶対に分家に戻してもらえるようにお父さんにお願いするって。お父さんもわたしの申し出に賛同してくれた。元々、お父さんも納得していなかったの。
わたしはすぐに友達に報告した。そうしたら、すごく喜んでくれたわ。わたしはそれが嬉しかった。
だって、正しいことをしたんだって思えたから。
でも、現実は非情だった。
お父さんは、わたしを裏切った。
卑劣な方法を使って分家に成り上がった家が、また卑怯な手を使って友達の家を罠に陥れたの。お父さんはそれを知っていながら、いつも通り見ない振りをした。友達の家は分家に戻ることができなかった。
その結果。
友達の両親は、自殺した。
精神的な疲労がピークに達したそうよ。分家に戻れなかったことで、最後の最後に堪えていた負の感情が抑えきれなくなった。
友達は親族に連れて行かれたわ。わたしが謝ることすらできない遠くに行ってしまったの。
わたしは、お父さんに向かって怒鳴った。
許せなかった。
人間はこんなにも感情が
わたしの言葉を最後まで黙って聞いたお父さんはね、一言だけ呟いた。
――僕は、やっぱり正しくないんだな。
その瞬間、お父さんにどんな言葉をぶつけたのかは覚えてない。多分、信じられないような罵詈雑言を浴びせたんだと思う。それ以来、お父さんとは一度しか話してないわ。
わたしは誓った。
絶対に、お父さんのようにはならないって。
それから少しして、わたしは
大人でさえ、分家の関係者は権力の奴隷だった。それが正しいものとして育ってきた子どももまた権力に従順な連中ばかりだったわ。それが子どもだから手が付けられない。教師も親を怖がって強く言えなかったから。結果として、分家や本家に関連のある子どもは横暴で威張り散らすようになった。
だから、わたしはそんな連中を粛正した。
お父さんのようにはならない。正しくないことは、しっかり正しくないって言うんだ。間違っている状況は絶対に認めちゃいけない。
正しく生きろ。別にお父さんの言葉を守ろうとした訳じゃない。ただ、正しくないんだって後になって悔いることだけはしたくなかった。
幸い、わたしは界術師として優秀だった。それに頭もキレた。だから同学年はもちろん、一つ二つ上の学年の生徒だって打ち負かすことができたのよ。それに問題になるような事態になっても、前川家の名前を出せば大抵は水に流せた。
気付いたら、わたしの周りにはいつも笑顔でいっぱいだった。
沢山の人を救ってきた。いくつも悲劇を食い止めてきた。その自負がわたしに自信を与えてくれた。わたしは正しいことをしているんだって。きっとわたしの正しさが絶対的な正しさなんだって確信できた。
……そんな訳ないのにね。
そんな勘違いをしていたから負けちゃったんだ。
黒くて、暗くて、冬の雨みたいに冷たい、本物の悪意に。
幸せで、充実した時間は、あっという間に過ぎた。
初等部でも、中等部でも、多くの人を救ってきた。明峰御三家出身ってこともあって、わたしはちょっとした有名人になっていたの。このまま、わたしの周りを正しさで埋め尽くそうとしていた。
でも、唐突に終わりを迎える。
高等部二年生の夏のことだった。
わたしは罠に嵌められた。いつもみたいに困っている人を助けようとして、本物の悪意に
まるで、わたしに復讐することが正しいと言うように。
退路も断たれて、分かりやすいくらいに絶体絶命。わたしは為す術なく地面に組み伏せられた。
……痛かったよ。
すごく、すっごく、怖かった。
誰かがわたしの頭を踏みつけてきた。無様な姿を晒すわたしを見て、みんなが楽しそうに笑った。重油みたいにドロドロで濁った悪意の渦に、沈んでいくみたいな気持ちだった。嘲笑がじっとりと降る夏の
この計画を実行したのが、誰だと思う?
お父さんの決定のせいで、両親が自殺したあの友達だったのよ。
友達は、わたしに復讐することだけを生きがいにしてきた。界術師の適性が見つかってラクニルに通っている間も、どうしたらわたしが苦しむかを考えて計画を練っていたの。
ドス黒い悪意を熟成させながら。
両親がこの世を去ってから、友達は引き取られた親族に酷い扱いを受けてきたそうよ。恥さらしの娘だって理由でね。女の子の肌とは思えないほど体のあちこちに傷痕があった。眼帯を嵌めていた。彼女曰く、片目は親族の暴行によって潰されたんだって。
全部わたしが悪いって、友達は言った。
わたしが約束を破って、裏切ったから、両親は死んだんだって。自分は地獄のような辛い時間を過ごすことになったんだって叫んだ。
それにここに集まった連中は、わたしが間違っている証拠だって言われた。わたしは正しいことなんかしていない。悲劇を食い止めていない。また別の悲劇を生むだけの悪魔だって言われた。
確かに、それは間違ってなかった。
前川家の力を使って、自分が正しいと思ったことをする。
これってさ。
分家や本家の力を使って、悪さをする生徒と変わらないよね?
正しさ、悪さ。
それって、わたしの基準だけで決めていいものじゃなかったのよ。
実際に、わたしの行動によって生まれた悲劇の被害者が、こうして一堂に会してわたしに復讐をしようとしているんだから。
これが、わたしが実現しようとしてきた正しさの代償なんだ。
心の奥では、そう理解していた。
でも認められなかった。
だって認めてしまえば、同じになるから。
絶対にならないと誓ったお父さんと同じになってしまうから。
わたしは正しくなかったって、後になって悔いるようなことはしたくない。そう思ってずっと誰かを救って、笑顔にしてきたのに。
友達がわたしに近づいてきた。手には無骨なナイフが握られていた。自分と同じ目にわたしを遭わせるつもりだったみたい。体中を傷だらけにして、目を抉り取って、苦しめてから殺すって言われたわ。
もう、耐えられなかった。
恐怖と屈辱、口惜しさと怒り。
色んな感情の奔流が炎のような熱さを伴って全身を駆け巡った。
ここでわたしが負ければ、わたしは自分の正しくなさを認めることになる。
わたしは正しくあろうと決めた。誰かを救って、悲劇を食い止めて、笑顔にすることでお父さんを否定しようとしてきた。
だから、勝たなくちゃいけない。
ここで心が折れる訳にはいかない。
だって。
わたしは、正しいんだから。
それから先はよく覚えてない。
今まで人を傷付けないようにとか、物を壊さないようにとか、そういう風に意図して抑えてきた
気付いたら。
わたしの目の前には一つの死体があった。
それは、かつて友達だった女の子のものだった。
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