第1話 懸念

 十二月初旬。

 なぎかいは職場である玖形請負事務所を掃除していた。

 脱ぎ散らかされた玖形由美の洋服を洗濯カゴに突っ込み、仕事机の上に放置されっぱなりのコップを流しに持って行き、掃除機で床の埃を取り除いていく。


 この後、事務所に角宮恭介と狩江美波がやって来て、潮見晃による桐生ビルへのテロ未遂事件の報告会が行われることになっていた。先日の戦闘で足を痛めた草薙二郎は今日はお休みだった。今は新谷零士が二人を迎えに行っている。


 半年以上も掃除しなかったと言われても信じられるほど散らかっていた事務所に二人を呼ぶ訳にもいかない。そう思った九凪があらかじめ早く事務所に来てこうして掃除をしているのだ。


 黙々と手際よく掃除を続ける九凪を眺めて、来客用のソファに座った玖形が呆れ混じりに言った。


「……ホント、カイも綺麗好きだよな。アタシには分からん」

「師匠が物臭なだけです。僕が普通なんですよ」


 一通り掃除をし終わった九凪は、玖形の仕事机の上に散乱している書類の山の整理に取りかかっていた。種類ごとに仕分けして、それぞれをファイルに収めていく。

 雑然としていた書類の山が整然とファイリングされていく。探しやすさと見やすさを意識した九凪の整理術である。すっかり綺麗になった仕事机の上や事務所内を見渡して晴れ晴れとした気持ちになった。


 あとは流しに集めた食器類を洗うだけだ。九凪は事務所の奥にある流しへと向かい、慣れた手付きでコップを洗っていく。


 時間的にも余裕ができたせいか、九凪は頭の中にある整理されていない情報をまとめる為に思考を回す。暇な時間に色々と考えるのは九凪の癖だ。メモ帳が欲しくなるが、手が濡れている為に我慢する。


 夢。


 解放リベラを使用したせいだろうか。今まで以上に光景がはっきりとしていた。相変わらず会話は聞き取れない箇所が多いままだったが。


「(……やっぱりあの夢は、僕がなくした記憶なのか?)」


 確証はない。

 それでも、あれだけ心に迫るような光景が他人のものだとは考えにくい。


 思い出そうとする度に、まるであの夢の中に自分がいるような錯覚に陥る。居ても立っても居られないような焦燥感も、何かをなくした喪失感も、何もできなかった口惜しさも、全てが実感を伴った感情として心に突き刺さるのだ。


 この夢を見る度に、九凪は考えてしまう。

 なくした記憶は、思い出さない方がいいのではないだろうか。


 きっと九凪の過去は辛いものだったのだ。知らぬが仏という言葉もある。思い出すことによって辛い記憶を背負う羽目になるのなら、知らないままの方が何倍もましだ。


 それに、九凪自身も過去の記憶に執着はなかった。


 もちろん、失った記憶を取り戻さなければ、いつまでも心にぽっかりと空いた穴が埋まらないことは分かっている。そのせいで、自分という認識が希薄なままなのではないかという危惧はある。


 だが、それは考えることで解決できるだろう。他人の意見でもいい、場の雰囲気にすぐに流されるような薄っぺらい主張でもいい。考えて、考えて、考え続ければ、いつかは辿り着く筈なのだ。九凪皆が失った自分の根源。そこから湧き出した真の想いに。簡単には譲れない本当の願いを見つけられるだろう。


 この夢とは、きっと向き合わない方がいい。


 それが辛いものなら、悲しいものなら、無視するべきだ。

 今に不満がないのなら、今を大切にするべきなのだ。

 変えた先の未来が、必ずしも幸せではないのだから。


「(……それと、気になることはもう一つ)」


 先日、名桜の一員であるくろがねが口にしたこと。


 玖形由美も、かつては記憶を失っていた。


 あの場面で黒鐘が嘘を言うとは考えにくい。だがこの情報が真実だとしたら、いくつか謎が浮かび上がる。


 何故、玖形由美はこの事を九凪に黙っていたのだろうか。

 九凪皆と玖形由美が、都合良く同じような症状で記憶を失うものだろうか。


 何か、あるのかもしれない。

 九凪皆が知らない事情が。玖形由美が隠している理由が。


 ならば本人に訊けばいいと思うのだが、どうにも九凪は玖形に問い掛けることができなかった。訊こうと思って口を動かす度に、舌が動かなくなる。決定的な何かが隠されていると思うと、気軽に訊いていいものかどうか分からないのだ。


 訊いてしまえば、もう引き返せなくなるかもしれない。

 漠然とした不安が、最後の一歩を躊躇わせていた。


 洗い物を終えた九凪は、布巾ふきんで手を拭いて事務所へと戻っていく。変わらずに玖形由美は来客用のソファに座ったまま、大きく口を開けて欠伸あくびをした。昼食を取った後であり、眠たいのかもしれない。


「(……師匠が、そんな器用に隠し事とかできるか?)」


 九凪は首を横に振る。いい加減という言葉が服を着て歩いているような性格なのだ。秘密を知った瞬間に大声で話す姿の方が想像しやすい。


「……なんだよ、カイ。人の顔をじろじろ見やがって」

「別に、大したことじゃないです。こんな師匠でも裏社会じゃ裏の五本指レフト・ファイブと恐れられてるんだって考えて首を傾げてたんですよ」

「まあな。なにせ、アタシは最強の界術師なんだ」


 にやり、と玖形は不敵な笑みを片頬に浮かべた。


 最強の界術師。


 他の誰かが言っても陳腐で薄っぺらい虚言にしか聞こえないが、玖形由美だけは違った。最強とはまさに玖形由美を形容するにふさわしい。そう思わせるだけの確かな根拠を、隣で戦っている九凪はいくつも知っていた。


「そう言えば、カイ。お前、解放リベラを使う時にいつもブレーキを掛けてんのか?」

「……ブレーキ?」

「意図的に解放の出力を抑えているのかって意味だよ」

「それは……」


 九凪は言葉に詰まった。


 頭の中に映し出される光景。九凪皆がなくした記憶の残滓。

 それと向き合わないようにしていることが脳裏を過ぎったのだ。


「前の戦闘で、カイの解放じゃルリカの完全憑依を解除し切れなかった。あの時は最初から明日美との二段構えのつもりだったが良かったけどな、今後も上手くいくとは限らねえぞ」

「……そう、ですね」

「今時に流行らねえぜ。機転を利かせて相手の術式の隙を付き、身体強化マスクルを使って拳で殴り勝つ界術師なんざ、少年漫画じゃねえんだから。それにいくら能力で界力術を無力化できるって言っても限度や相性があるんだ。恭介と戦うことを想定してみろよ。解放リベラを全力で使えなきゃ勝負にもならねえぞ」


 角宮恭介は闘術とうじゅつを使う界術師だ。闘術のような肉体に直接付与する術式は、術式解除アルス・リーズでなければ無効化できない。だが、霞進脚カシンキャク宙蹴脚チュウシュウキャクといった闘術の歩法を使われれば相手の速度についていけず、術式解除アルス・リーズを発動する間もなく敗北するだろう。


 対して、儀式術式や界術陣カイじんといった方式を相手にした時は有利に立ち回れるだろう。界術陣は界力を何らかの形に変換して放出する術式が多く、儀式術式は設置してある術式を無力化すればいい。界視眼ビュード・イーで界力の流れを視覚的に捉えられる九凪にはそれが容易にできる場合が多かった。


 九凪皆の弱点は、圧倒的な火力の不足だ。

 それを補う為に次元干渉バリス・フルクティアという技があり、解放リベラという方法がある。


 通常の状態では、九凪皆という界術師は未完成なのだ。


「まあ、すぐに何とかしろとは言わねえよ。界力術は精神なんつーよく分からねえモンを使って発動するんだ。大切なのは理路整然とした理屈じゃねえ。根性と気合いだよ。その証拠にアタシを見てみろ。いつも根拠のねえ自信に満ちあふれてるだろ?」

「……、」

「なんだよ、そんな鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔をしやがって」

「いえ、師匠がまともな事を言っているので驚いたんですよ。いつもは本当に大人か疑うような事しか言わないのに」

「てめぇ、アタシをなんだと思ってるんだ」


 文句を言いたそうにしている玖形を無視して、九凪は出しっ放しになっている掃除道具を片付けていく。そろそろ角宮恭介と狩江美波が来る時間だ。


「(……確かに、僕はチグハグな界術師だ)」


 界力の流れに自由に干渉する。

 自分の能力に関しては、もうこれ以上ないほどに九凪は考察を重ねているつもりだった。だが、まだ課題は解決できていない。


 何か策を考える必要がある。

 九凪はメモ帳を取り出して、ペンを走らせた。



      ×   ×   ×



 新谷零士が角宮恭介と狩江美波を事務所に連れてきたのは、それからすぐのことだった。

 角宮と狩江が報告会の準備をしている隙に、九凪は小声で新谷に訊ねる。


「……新谷さん、界力石の盗難の件はどうなりましたか?」

「そのことだけどね……」


 眉を曇らせた新谷が、疲れの滲んだ声で答えた。


「やっぱり、名桜めいおうから許可が降りないんだ。どうもかなり上流から圧力が掛かっているみたいでね。僕の力が及ばないところで話がまとまったんだ」


 界力石盗難。

 界力省の高官であった豊田隆夫の手引きによって、輸送中の界力石が盗まれた。九凪は名桜のルリカの部隊と共に捜査に当たったが、あと一歩のところで名桜からの命令により豊田隆夫を見逃してしまった。


 その後、新谷零士が何度も名桜に掛け合ってくれたが、この件に関する調査は一切が禁じられたまま返答がないらしい。


 二週間ほど前、明峰家の資料館から禁術『森の王』の資料が盗まれたことによって始まった一連の事件も、現在は暗礁に乗り上げていた。森の王の発動に必要とされる貴重な界力石が黒幕の手に渡ったのだ。一刻を争う状況であり、すぐにでも黒幕の正体を掴む必要があるが、ここ数日は全く動けていない。


「多分、名桜としてはもう動けない。だからこれからは由美と皆くんの二人で捜査に戻ってもらうことになりそうなんだ……その場合でも、僕は力を貸せないんだけどね」

「それは、厳しいですね」


 玖形由美と九凪ならば戦闘力に関しては問題がない。しかし情報収集や政治的な交渉などの面で、どうしても組織と個人に存在する差は埋められなかった。


「場合によっては、恭介君に頼みたいと思っているんだ。今日の報告会の後にでも少し話をしてみるつもりだよ」


 報告会の準備が終わった為、新谷と九凪は来客用のソファへと向かう。硝子製の座卓を挟んで、角宮と狩江に向き合った。玖形は九凪が整理したばかりの仕事机に座って聞き耳を立てている。


「それじゃあ恭介君、報告会を始めようか」

「お願いします、新谷さん」


 角宮が深く頭を下げた。


 今回の報告会は形式的な意味合いが強い。

 新谷零士は名桜の幹部として角宮恭介のグループを下部組織と認め、今回の作戦を実行させた。その際に角宮達の界力術不正使用の証拠隠滅などを行う為に名桜の力を借りている。故に新谷零士は下部組織の監督役として報告を受け、それを組織に説明する義務があるのだ。


 だが、特に何か損害があった訳ではない。角宮達も事前に申請していた通りの運びで作戦を完了させた。責任の所在を追及するような議題もなく、報告会では判明した事と今後の予定を確認して終わりになる予定である。


 光谷商事と柊グループによる桐生ビルへのテロ計画。


 結果としては、逃げ出した潮見晃が謎の変死を遂げることで未遂に終わった事件だ。本日の報告会の内容を新谷零士が名桜に伝え、名桜が然るべき方法で公的機関を使って事件を処理してくれる手はずになっていた。


「それでは、調査の結果はあたしが報告します」


 狩江はパソコンを座卓の上に出して、画面を新谷と九凪に見せた。


「まずは、今回のテロ計画の目的が判明しました。桐生ビルの利権に関する事みたいですね。潮見晃は桐生ビルの権利を失った為に光谷商事の中で非常に立場を危うくしていました。テロを利用して柊によってビルの権利を取り戻し、自分の地位を回復させるのが目的だったようです。……まあ、肝心の潮見晃が死んでしまった為、計画は頓挫したでしょうけど」

「他には?」

「潮見晃と柊グループとのメールを復元できました。どうやら、潮見晃はテロの内容を気にしていたようですね。かなりしつこく質問していました。パソコンが破壊されてデータが飛んでいたせいで全てのメールを復元できたわけではありませんけど、断片的な情報から推測するに、どうやら柊は桐生ビルで界力術の実験を企んでいたようです」

「……実験? 桐生ビルでかい?」

「はい。それもかなり大規模な界力術みたいです」


 狩江の報告に対し、新谷は指を口許に添えて押し黙った。何か引っかかる箇所があったのかと気になったのだろう。角宮が不安そうに訊ねた。


「新谷さん。なにか問題が……?」

「いや、大丈夫だよ。美波ちゃん、続けて」

「はい。実験される界力術の中身までは分かりませんでした。ただメールの中で頻繁に『寺山伸一』という人物の名前が挙がっています」


 寺山伸一。

 その名前に、何故か九凪は聞き覚えがあった。もしかしたらメモしているかもしれない。そう思って、九凪はメモを取る手を止めてメモ帳を捲った。


「メールの中では柊グループの目的は分かりませんでした。桐生ビルの方に何かあると思って調べてみたんですけど、こちらも手掛かりなしです。……ただ、」

「ただ?」

「建設計画が立ち上がった当時……今から大体十年前ですね。桐生ビルは建設の専門家からいくつか問題点を指摘されていたようです。設計に無駄が多いそうです。鉄骨や壁、天井や床、耐震強度などは法律上問題がないんですけど、必要のないパーツや無駄な造りが何故か散見されるみたいでして、この件で当時の出資者であった光谷商事と明峰家が揉めています……これが桐生ビルの設計図です」


 狩江は鞄から数枚の資料を取り出した。桐生ビルの設計図。それを手渡された新谷がゆっくりと目を通していく。


「調査で判明した事実は以上です……ですが、一つだけ理解ができない内容のメールがありました。何かの暗喩にも思えて判断が付かなかったので、新谷さんとナッギーにも見ておいてもらいたくて……」


 狩江はパソコンの画面を、新谷と九凪に向ける。宛先を見ると、どうやら潮見晃から柊グループに向けて送信された内容のようだ。


 そこには、こんな内容の文章が書かれていた。


?』


「……っ!?」


 九凪は脳天に雷が落ちたような衝撃に見舞われた。

 界力省から盗んだ界力石。

 これはまさしく、九凪と新谷が捜査していた事件のことではないのか?


 それともう一つ。

 捲っていたメモ帳が、あるページで止められる。

 寺山伸一。明峰家の界術師で、優秀な研究者だ。最も有名なのは、とある儀式術式の論文である。界力省によって禁術指定されたその術式とは――


「森の王……!!」

「ああ、確定だ」


 桐生ビルの設計図を食い入るように見詰める新谷が、驚愕に震える声で言った。


「なら、潮見晃が死んだところで事件は終わらない。いや、そもそもテロを実行する気なんてなかったんじゃないか? だって柊の目的は――」

「メソロジア」


 いつの間にか、新谷の隣まで近づいてきていた玖形が低い声で言った。


「記憶次元の最も遠い場所に保管された世界の記憶メモリア。この世のことわりと成り立ちを記録した人類の可能性……ったく、つまんねえモンに手を出しやがって」


 吐き捨てるように言うと、玖形は激情を堪えるようにギリッと歯軋りする。その顔に浮かんだ怒りの色がいつもより濃くて、九凪の胸はざわめいた。

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