第4章 森の王

03 / 前川みさきの戸惑い

 それは、秋になった頃の記憶。

 次第に日没が早くなってきたのを実感し始めた頃。


 わたし――前川みさきは、九凪君と一緒に九天市内にある総合公園に来ていた。海辺に作られた公園で、野球やサッカーなどのスポーツができるような広場や海が見渡せる遊歩道などがあり、週末には多くの人にとって憩いの場となっていた。


「う、み、だあーー!」


 石畳の遊歩道を進みながら、わたしは両手を高々と掲げて伸びをする。

 時刻はすでに夕方。地平線の向こうへと真っ赤に燃える太陽が沈んでいく。海面は茜色の陽光を湛え、きらきらと煌めいていた。隣の広場からは小学生くらいの子ども達の元気に遊んでいる声が聞こえてくる。


 九天市は界術師の街。基本的には普通の地方都市と変わらないけど、特殊な場所がある。この公園もその一つ。

 公園の中には制限付きで界力術を発動できる『開放区画』がある。見張りの警備員がいるから戦闘はできないけど、界力省に許可を取らずに界力術を使える数少ない場所の一つだった。


 ラクニルで界力術を学んだとしても、大部分の人は界術師ではなく普通の人と同じような日常へと帰って行く。中にはラクニルを卒業してから一度も界力術を使ってないという人もいるほどだ。


 だけど、使ってはいけないと言われると使いたくなるのが人間のさが


 そういう人が何か犯罪に手を染めたり、危険な事をしたりさせないために、こうして欲求を発散させる場所が用意されていた。界術師が多く住む九天市らしい配慮だと言える。


 最近では、料理教室やダンスのような習い事として、界力術を再び学び直そうとする人もいる。参加しているのは子育てが落ち着いた奥様方が多く、界力術を趣味の一環として売り出すという商売の流れもあるらしい。このような教室を大々的に開けるのも九天市が界術師との共生の為の実験都市であるからだった。


「みさき、なんか楽しそうだね」

「そう?」


 首を傾げながら、隣を歩く九凪君を覗き見る。

 確かにいつもより機嫌は良い。わたしは海が好きだ。ラクニル時代でも、嫌な事があったらよく一人で眺めていた。何というか、心が落ち着くのだ。


「そういえば、九凪君はラクニルには通ってないんだよね?」

「……うん、色々あってさ。僕は本土にある学校に通ってたよ」

「色々、か……」


 ちくり、と針に刺されたような小さな痛みが胸に走る。


 わたしはまだ九凪君の『事情』を知らないままでいた。正確には訊けないでいた。決して短くない時間を一緒に過ごしてきたのに、本当の意味で分り合えたと言えない。心の底からお互いに信頼しているとは言えなかった。


 そんな状況に、わたしは寂しさを感じている。

 本来、わたしは決して幸せになっていはいけない人間だ。誰かと触れ合って、わかり合って、想いを共有して……そんな人間なら誰もが持つ欲求を表に出してはいけない。孤独に寂しく消えなくてはいけない。


 それが、罰だから。

 決して拭い去れない罪を犯したわたしの贖罪。


 だけど、そんな固い決意は、九凪君と一緒にいると簡単に揺らいでしまう。

 触れ合いたい、分かり合いたい、想いを共有したい。

 幸せになりたい。


 もしかしたら、わたしの存在を受け入れてくるかもしれない。そんな甘い可能性に期待して、息苦しいような寂しさを誤魔化しているんだ。

 最後の一線を越えられないこの状況は、本来なら都合がいい。

 でも、自分の想いを殺して冷徹になれるほど、わたしの精神こころは強くなかった。


 ……訊いてみようか。


 界術師なのにラクニルに行っていない理由。

 十六歳という若さで、裏社会で界術師として戦っている理由。


 知れば、変わるかもしれない。

 わたしも、秘密を打ち明けられるかもしれない。

 そうすれば――


「……く、九凪君」


 意を決して、わたしは言葉を紡ぎ出す。緊張のせいか、舌が強張って上手く言葉を発音できない。


「なに、みさき?」


 言え。訊いてしまえ。

 わたしは必死に言葉を喉の奥から迫り上げる。


「……えと、あの……」


 欲望と理性が激突して、火花が散る。

 想いの奔流が溢れ出し、胸が詰まった。


「……九凪君は、海は好き?」


 言えなかった。

 口から出てきたのは、誤魔化すような曖昧な問いだった。


「え、海?」


 わたしが余りにも神妙な顔をして問い掛けたからだろう。九凪君は質問の意図が分からずにきょとんとしたが、すぐに視線を海へと向ける。西日をきらきらと反射して揺れる海面は、夜の訪れを知らせるように薄紫色を帯びていた。


「どうだろ、考えたこともないよ。……でも、なんか懐かしい感じがする」

「懐かしい?」

「うん。ずっと見ていると、思い出しそうになる……」

「?」


 わたしには、九凪君が言っている事の意味が分からなかった。

 だけど遠くを見詰める九凪君の瞳は風口の蝋燭のように儚げで、その横顔はどこか苦しそうに見えて、浮かんできた疑問を投げかけることは憚られた。


 ぴょい、と。

 無言の間に耐えられなくなったわたしは、遊歩道とグラウンドを区切っている細い段差へと飛び乗った。くるぶし辺りまでの高さしかない段差を、両手を広げてバランスを取りながら平均台を歩くように進んでいく。


 ふと、九凪君の視線を感じた。


「どうしたの? そんなにじっと見詰めて」

「いや、その状態のみさきをどうやったら一番驚かせられるかなって」

「そんなことを真剣に考えないで!」


 ……まったく、油断も隙もあったもんじゃない。


 不意に、わたしの足下へころころとサッカーボールが転がってきた。失敗してこっちに蹴ってしまったのかな。グラウンドの少し離れた場所で、小学生くらいの男の子がわたしに手を振っている。取って欲しいんだろう。


「よーし」


 わたしは段差から降りて助走距離を取る。勢いよく走り出して、軸足を地面に突き刺して右足を大きく振り上げた。そのままボールを蹴り返そうとした。


「いっくよー! うりゃ……わあっ!?」


 どてーん、と。

 自分でも驚くほど鮮やかにボールを蹴り損ねて、派手にバランスを崩した。あらぬ方向へと転がっていくサッカーボール。その行方を確認できないまま、わたしはお尻から上半身を地面に激突させる。


 遠くから聞こえてくる「お姉ちゃんのヘタクソー」という声。見てみると、先ほどの少年が慌ててボールを拾いに走っていた。


「う、うっさい! ありがとうぐらい言いなさいよ! ……あー、ジンジンする」

「っ、あはは!」

「笑わないでよ九凪君! これ本当に痛いんだよ!」


 じんじんと熱を帯びる背中を手で擦りながら、わたしは腹を抱えて笑っている九凪君を恨みがましく見詰めた。


「ごめんって! でもすごく綺麗に転けたから……ぷ、あはははは!」

「く、九凪君っ!! もう!」


 わたしは唇を尖らせるようにして、九凪君を睨み付ける。だけど無邪気に笑っている九凪君を見ていると、次第にどうでもよくなってきた。ふっとほころ口許くちもと。気付けば、わたしも大きな声で笑っていた。


 ……ああ、楽しいな。


 笑っているはずなのに、嬉しいはずなのに、何故か目の奥が熱くなった。

 氷雨みぞれのように冷たい感情に、胸が詰まる。

 こうして幸せな勘違いを続けられるのも、あと少しだと気付いたから。


 わたしには、やり遂げなければならない目標がある。

 その目標を達成するためだけに生きていると言っても過言ではない。

 そして決定的な瞬間が訪れるまで、あまり時間は残されていなかった。

 目標を叶えようと思ったら、きっと九凪君には会えなくなるんだろう。


 ……それは、いやだな。


 九凪君と一緒にいたい。

 もっと近くで触れ合って、互いの気持ちを伝え合いたい。


 強烈な衝動が一本の奔流となって、体の奥から湧き出してくる。

 それは何日も灼熱の砂漠で彷徨う旅人が、たった一滴の水を渇望するように。

 人間の心では、抗えないほど強く――


「大丈夫、立てる?」


 尻餅をつくわたしに、九凪君は手を差し出してくれる。

 わたしはその手をじっと見詰めた。


 とくん、と高鳴る鼓動。


 曖昧になる。

 自分で引いたはずの最後の一線が薄くなる。

 水に落ちた絵の具のように、滲む。


 もう。


「え、――み、みさき……?」


 我慢ができなかった。

 地面に座り込んだわたしを引っ張り上げる九凪君の力を利用して、わたしは九凪君の胸へと飛び込んだ。


 突然の事に対応できずに九凪君は後ずさる。遊歩道の木製の柵に当たって止まるけど、わたしはずっと九凪君に体を預け続けた。


「……ごめん、……ごめんなさい」


 一体、誰への謝罪なのだろう。

 自分の想いを言葉にできない切なさ。罪悪感に苛まれて締め付けられる心。処理し切れない情動の渦で溺れた結果、ただただ謝る事しかできなくなった。


「どう、したの……?」

「……わたしね、もう誰とも触れ合えないんだって思ってた」


 九凪君の胸に顔を埋めたまま、わたしは言った。決して涙で真っ赤に染まった顔を見せないように。


「……誰かと笑い合う事も、誰かと嬉しさを分かち合う事も、全部できないんだって諦めてた。だって、そう決めたから。わたしは、それくらいの罪を犯した。だからそれは仕方ないんだって思ってた。それが、わたしへの罰なんだから……」

「なにを、言って……」


 分からないよね。急にこんな事を言われても困るよね。

 だけど、許して。

 何もあなたに伝えられないわたしの弱さと、わたしの罪を。


「でも、今こうして九凪君に触れている。体温を感じて、鼓動の音を聞いている。それがすごく嬉しいの。すごく、すごく、嬉しいんだ。例えそれが束の間の夢だとしても、決して届かない願いだとしても、今は人生で一番幸せなんだよ」


 ありがとう。

 こんなわたしに、幸せな夢を見させてくれて。


 でも、それも終わりにしないと。

 いつまでも余韻に浸っている訳にはいかない。わたしは許されざる罪人だ。どれだけ神様が優しくても、これ以上のこぼしを望んでいけない。


 けれど、せめて涙が止まるまでの時間は下さい。


 この時間を忘れないように、九凪君の温もりを宝物のように抱き締めながら、わたしは瞼を閉じる。しばらくして、ゆっくりと九凪君から体を離した。


 秋の夜の冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。

 夜闇に沈んだ九凪君の顔は、苦しそうに顰められていた。俯き気味に硬く引き結ばれた唇には、憂苦が色濃く滲んでいる。


「……じゃ、帰ろっか」


 なるべく普段通りを装って歩き出した。でも背後から足音が聞こえてこない。不思議に思って振り返ってみた。


 目が合った。

 ただ真っ直ぐに、真摯に、九凪君はわたしを見詰めていた。


「みさき、僕は……っ!」


 何かを伝えようと、九凪君は唇を開ける。

 だけど、どれだけ口を動かそうとしても、次の言葉は聞こえてこない。


 ……やっぱり、言ってはくれないんだね。


 心に、翳が落ちる。

 ほんのわずかな不信感。美しい絵画に付いた小さな汚れのように、どれだけ無視しようとしても意識から消えてはくれない。九凪君への想いは変わらない。だけど、あと一歩の距離を更に遠ざけるには十分だった。


 これ以上考えたくない。わたしは気付かない振りをした。


「どうしたの? 置いてくよ」

「……あ、ああ。ごめん、すぐに行くよ」


 慌てた様子で、九凪君が傍に駆け寄ってくる。

 今日の風はやけに冷たい。冬の到来を寂しく予感させた。

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