第3章 界力と正義は使いよう

02 / 前川みさきの驚愕

 それは夏の終わりの頃の記憶。

 わたし――前川みさきは、なぎ君の家で夕飯の支度をしていた。


 時刻は午後五時。九凪君はまだ『仕事』から帰ってきていない。

 料理の腕に関しては取り立てて自信がある訳じゃない。ただラクニルにいた頃に否応なく覚えることになったからある程度できるという感じだった。


 ラクニルは界術師の素質を持った子どもが通う学園。そこに親は含まれない。

 中等部までは全員が学校ごとに割り当てられた寮で生活するけど、高等部に進学すると一人暮らしをする許可が学園から下りる。高等部も寮生活を続ける人もいるけど、半分くらいの生徒は一人暮らしを始めるというのが毎年の流れだ。


 寮は生徒三人のルームシェアで、自室の掃除以外の家事は全て管理会社がやってくれる。一人暮らしを始める場合は学園が宛がってくれた学生マンションの一室で生活することになる。当然、全ての家事を自分でやらなければならない。


 わたしは一人暮らしを選択した。

 理由はいくつかある。だけど、やっぱりプライベートな空間が欲しかったというのが一番大きいかな。ルームシェアも嫌いじゃないけど一人になりたい時だってあるのよ。


 幸いわたしは家事が苦にならない性格だった。料理を作るのも楽しいし、掃除や洗濯も嫌いじゃない。良いお嫁さんになるよなんて言われたりしたけど、特に努力している訳じゃないからあんまり実感は湧かなかった。


「……えーと、次は」


 調理台の端に置いた端末の画面を眺めて、次の工程を確認する。

 今日は予定していたよりも早く『仕事』が終わった。だから、レシピを検索しないと分からないような手の込んだ料理に挑戦している。九凪君はちゃんと美味しいと言って食べてくれるから作り甲斐がある。やはり、誰かの為に料理することが上達の近道なんだろう。


 だけど、別に毎日ご飯を作ってあげている訳じゃない。『仕事』が忙しい日もあれば、疲れている日もある。ただ、わたしは居候の身分だ。何もしないのでは居心地が悪いし、余裕がある時は九凪君の代わりに家事全般をするようにしていた。


 料理や洗濯に関しては特に文句を言わない九凪君だけど、掃除についてだけは結構細かい。神経質……という訳じゃなさそう。綺麗好きなのかな? 何にせよ、九凪君のおかげで一人暮らしには広いこの家は隅々まで綺麗だった。


「こんなもんかな」


 出来上がったスープを味見してみる。うん、結構な自信作だ。

 弱火にして、鍋に蓋をする。あとは待つだけね。


 さてもう一品作ろうと冷蔵庫に向かった時、ガチャリと玄関から鍵が開く音が聞こえてきた。どうやら、九凪君が帰ってきたらしい。


 出迎える為に、わたしは玄関へと向かう。


「おかえり、九凪、君……?」


 最初。

 わたしはその光景が理解できなかった。


 だって。

 九凪君が。

 ぐったりとして、見るからにボロボロな九凪君が。


 知らない少女に肩を貸された状態で立っていたんだから!


 歳は九凪君と同じくらいだろうか。くりんとした大きな瞳に、先っぽがカールしたショートカットで、頭の後ろの方でぴょこんと二つに括られている。小柄な体格に快活な印象のせいか、わたしにはやんちゃな子どもというように見えた。


「うわー、美人だ……」


 その少女は思わずと言った様子で呟きを漏らした。好奇心に満ちた目でわたしを見ると、急に顔を輝かせて九凪君をぐらぐらと揺さぶった。


「すっっっごい美人がいるよナギサン! すっごい美人が!!」

「……分かったから、揺らさないでくれ。あと、もう肩は大丈夫……」

「あいさー!」


 快活に頷くと、少女は九凪君をかまちに腰掛けさせた。

 そこで、ようやくわたしはフリーズ状態から回復する。


「く、九凪君!? どうしたのよ、その怪我!」

「……やあ、みさき。ただいま……」


 慌てて駆け寄ると、わたしを心配させない為か九凪君はぎこちなく笑みを浮かべてくれた。だけど体が痛むのか、すぐにうっと顔を顰めてしまった。


「残念ながら、ナギサンはボコボコにされてしまったのです」

「……へ?」

「ゆみっちが大切に残しておいた食べかけのお菓子を捨てて、激怒したゆみっちは修行と称してナギサンに暴行をうぎゃぁッ!! なにすんだよ!!」

「ルリカ、適当な説明をしないで」


 更に入って来た男性が、ルリカと呼ばれた少女の頭を軽くこづいた。


「いいじゃんか! 半分くらい本当なんだし!」

「半分は嘘なんだから、それを嬉々として話さないでよ」


 どこが本当で、何が嘘なのか、少し気になった。


「……すいません、あらさん。いつも家まで送ってもらって」

「気にしないで。皆くんにはいつも世話になってるんだ。それに今回は由美も大人げなかったし」

「……師匠が大人げないのは、いつもですけどね。でも、次はボコボコに仕返します。やられっぱなしってのは、僕の精神衛生上よろしくないですから」

あら……っ!?」


 愕然とする。

 その名前を、わたしは『仕事』中に聞いた事があった。


 あられい


 裏社会の中でも屈指の実力を誇る組織『めいおう』の幹部にして、情報屋。会いたいと思って会えるような相手じゃない。実際にわたしも実物を見るのは初めてだ。


 どうして、そんな大物がここに……?


「君が、前川みさきさんだね?」

「……はい」


 名前を呼ばれて、わたしは血の気が引く想いになった。


 わたしのことを、知っている……? 調べられた?


 両目を鋭く細めて警戒する。しかし、新谷零士の真意はおぼろづきのように微笑の中でかすんでいて、うまく読み取れなかった。


「……大丈夫だよ、みさき。新谷さんは、僕の味方だから」

「だ、だけど……」

「ごめんね、驚かすつもりはなかったんだ」


 新谷零士は大げさに肩をすくめて見せた。人畜無害そうな優男で、ぱりっとした清潔感漂うスーツを着ていることもあって、その仕草はすごく絵になっている。

 確かに、悪い人には見えない。九凪君も信頼しているみたいだし、敵じゃないんだろう。わたしの事も特に詮索してこないし。


 でも、だからと言って、信用する気はなかった。

 わたしの『仕事』の内容的に、名桜の新谷零士に知られるのは都合が悪い。隙を見せて足下を掬われるのだけはゴメンだ。


 警戒したまま、わたしは新谷零士を見つ――


「良い香りがします!」


 にゅっ、とルリカの顔がわたしの視界の中に唐突に出現した。


「それはルリカの空きっ腹をグサグサ刺激してきます! 具体的にはなんかとてつもなく美味しそうな感じのヤツが!!」

「……え、ええ。夕飯を作ってるから」

「夕飯!!」


 キラリと、新しいおもちゃを与えられた子どものようにルリカの両目が輝いた。


「ルリカは猛烈にお腹が空いています! という事でルリカは味見をしてこようと思うのでいただきますっ!」


 ばっと駆け出して、土足のまま廊下に上がろうとしたルリカの腕を――


「待てルリカ」


 ――怪我をしているとは思えない俊敏な動きで、九凪君が掴んで止めた。


「靴のまま上がって廊下をわずかでも汚してみろ。僕はお前を死んでも許さない」

「……おぉ~、目がマジだぜナギサン。ほら、にっこりスマーイル」

「僕がこの手のことで冗談を言ったことがある?」

「ないです! ごめんなさいもうしないので許して下さい!!」


 顔を真っ青にしたルリカは、九凪君の腕を振り切るとぴゅーっと慌てて新谷零士の背中へと隠れていった。ぶるぶると小動物のように震えながら、涙目で九凪君を見ている。


「……なんか、ルリカが随分と怯えてるんだけど、皆くん前に何かした?」

「特別なことはしてないですよ。ただ、僕は粗相をしたルリカに、教育的指導を施してあげただけで。ね、ルリカ?」

「……ナギサン、怖い。逆らったら、ダメ……暗い部屋は、イヤ」

「いや、皆くん本当になにしたの!?」


 ルリカは虚ろな目になって呪文のように唱え始める。

 一体、どんなことをしたらあんな小さな少女をここまで怯えさせられるのだろうか。……ちょっと九凪君の黒い部分が心配になった。


「じゃあ、僕たちはそろそろ帰るよ。ほら、ルリカも目を覚まして」

「はっ、危うく心を閉ざして廃人になってしまうところでした!」


 瞳に色を取り戻したルリカが、差し出された新谷の手を握る。


「アラヤ! ルリカはお腹が空きました!」

「はいはい。帰りに何かご馳走するよ」

「ホント!? アラヤ大好きっ!!」


 ルリカは夏の陽射しを浴びた向日葵ひまわりのような眩しい笑みを咲かせる。ばたん、と扉が閉まって二人の姿は見えなくなった。


「……九凪君って、結構容赦ないよね」

「そんなことないよ……ただ、」


 すっと九凪君の両目に嗜虐的な光が浮かび上がる。


「聞き分けの悪い人には、ちょっと厳しいかもね」


 ぞくり、と。

 わたしは背筋に冷たいモノを感じた。うん、絶対に九凪君の前で粗相はしないようにしよう。特に掃除はちゃんとやろう。そう心に決めた。


「それにしても、嵐のような子だったね」

「師匠を見た後だとそよ風くらいかな、ルリカは。それにあんな奴でも、部隊長なんだ。界術師としては一流だよ」


 ぐったりと壁に背中を預けた九凪君は、疲れたように溜息をついた。


 ……師匠、か。


 わたしはその言葉を噛み締める。

 この短い時間で、九凪君の事情を少しだけ垣間見られた気がする。新谷零士と親しい仲ということは、九凪君は名桜の一員なのかな? そうだとしたら、わたしが思っていた以上に裏社会にどっぷり浸かっていることになる。


「……ねぇ、九凪君」


 今なら、聞ける気がした。

 九凪君の事情。わたしの知りたいことが。

 頑なに話さなかった九凪君の口から、ぽろっと漏れた今なら。


「師匠って、一体どんな人な――」

「なんか、ジュージュー聞こえない……?」

「えっ? ……って、うわぁああああ!」


 火を付けっぱなしだったの忘れてた! 吹き零れてる!


「ははは、みさきってちょっと天然だよね」

「九凪君に言われたくないよ!」

「?」


 きょとん、と九凪君は首を傾げる。もう、そういうトコだよっ!




 幸い、スープは無事だった。

 だけど煮込みすぎたせいか、納得のできる味じゃない。リベンジしないと。

 色々と立て込んだせいか、九凪君の事情は聞けずじまいだった。

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