第8話 水面下の闇

 ※前回のあらすじ


 潮見晃からの刺客である界術師――杉下を撃退した角宮恭介。草薙二郎と共に地下四階にある大部屋へと到達するが、そこに潮見晃の姿はなかった。


 裏口から逃げ出した潮見晃を九凪皆が追い掛ける。


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 しおあきらは体の震えが止まらなかった。


 夜空の下は突き刺すように寒く、じっとしていれば骨までも凍ってしまいそうだ。しかし、体の震えの原因は気温の低さだけではないのだろう。だらだらと垂れる脂汗がそれを証明していた。


 高級マンションの隠し通路を通って地上へと出た潮見は、表通りではなくビルとビルの合間のような裏路地を走っていた。

 何者かによって襲撃を受けた場合の対処はすでに柊グループから伝えられている。すでに担当者にも連絡済みだ。後は合流地点まで逃げ切れば潮見の安全は確保されるはずである。


 空調の室外機や雑に置かれたコンテナなどを避けながら、潮見は走り続ける。


 長期間、部屋から出ずに生活をしていたせいか、体が思うように動いてくれない。少し走っただけで息が上がってしまう。自身の老体に舌打ちしながらも、潮見は必死の想いで指示された場所まで急いだ。


 柊グループの救助隊との合流地点は、マンションから走って十分ほどの所だった。月明かりがあまり差し込まない裏路地は冷たく暗い。濃密な夜の闇を見通そうと目を凝らしてみるが、どこにも救助隊の姿はなかった。


 額に浮かんだ脂汗をスーツの袖で拭い、潮見は携帯で柊グループに連絡する。


『ハイハーイ! みんなのアイドル受付ちゃんだぜ!! そんなに慌ててどうしたんだいマイフレンド。何かあったのかい?』


 幼い少女のような声。柊グループとの連絡役だ。

 ふざけた口調や言葉遣いに舌打ちしそうになりつつもぐっと堪え、潮見は胸中から溢れ出す焦燥を言葉に乗せた。


「合流地点に到着したが、救助の連中が見当たらない。一体どうなっているんだ……っ!」

『そいつは済まねぇ。だがマイフレンド、安心してくれ。すでに到着しているぜ』

「……なに?」


 潮見は慌てて視線を走らせる。


 りん、と。

 澄んだ鈴の音色が空気を揺らした。


 一人の青年が闇の中から浮かび上がってくる。


 手入れされた紫色の長髪は後頭部で結ばれ、腰まで真っ直ぐ流れている。線の細い長身痩躯な見た目も相まってまるで女性のようだ。優しげで端正な顔付きだが、どこか浮き世離れしているような飄々とした雰囲気は、月光に照らされた夜桜のように妖しげだった。


 着ているのは紫色を基調としたデザインで、裾を伸ばした学生服のような造りの服だった。燕尾服とは少し違う。両手の甲には、腕に続いていくように黒い刺青のような模様が浮かんでいる。

 腰には鞘に入った一振りの太刀が下げられている。それのせいで、まるで写真に無理やり貼り付けたように青年の存在は周囲の風景から浮いていた。


「お前が、そうか?」


 潮見は恐る恐る問い掛ける。

 すると、青年は無言のまま歩み寄ってきた。まるで闇を引き連れてくるかのような青年の不気味さに、潮見は動けずにただただ見ていることしかできない。


 青年は潮見の目の前に立ち、すっと人差し指の先で潮見の額に触れた。


「な、なにを、している……?」

『驚かしてすまねぇ。だが安心してくれ、彼が我々からの使者さ。まあもっとも、マイフレンドにとっては救世主というより――』


 ぐさっ、と。

 潮見の体を、白刃が貫いた。


『――死神、になるだろうけどね』

「……あ、……あぁぁ……」


 空白は一瞬。

 突如、焼きごてを体内に突っ込まれたような灼熱の激痛が炸裂する。


「があああああ、ああああああああああああああああッ!!!!」


 絶叫が夜闇に響き渡った。

 立っていられずに、潮見は地面に倒れ込んだ。傷を両手で押さえるが、どくどくと血は止まらずにコンクリートに赤い池を作っていく。


『殺される理由はわざわざ言わなくてもいいよね? 極悪非道が服を着て歩いているようなマイフレンドだ。心当たりなら無限にあるんじゃないかい?』

「……貴様、ら……っ! 私に、こんな事をして、タダで済むと思うのか。私を敵に回せば、光谷商事まで、敵に回すぞ。社会的な制裁が、怖くなのか……!?」

『どうでもいいんだよね。お金とか社会的な立場とか、そんな些末な事はさ』

「……なん、だと……」


 潮見は信じられなかった。地位や名誉を何よりも大切にしてきた潮見にとって、電話の相手の言葉は理解できないものだったのだ。


『そもそもだよ、マイフレンド。君を本当に守るなら、あんなに少ない護衛を派遣したり、簡単に撤退させたりしない。こっちは天下の柊様なんだぜ。本気で守るんなら君の為に本物の城塞を作るくらいはしてあげるね』

「……ならば、貴様らは何故、私に近づいたのだ……っ!」

『一つはマイフレンドへの報復依頼。胸に手を当てて顔を思い浮かべてごらん。何人の顔が浮かんだかは知らないけど、きっとその内の誰かが依頼主だよ。もう一つは単純にお金の問題。ちょっと込み入った事情があってね、必要な金額を用意しなくちゃいけなかったんだ』

「悪党が……正義の味方の、真似事か……?」

『おいおい、勘違いしてもらったら困るぜ、マイフレンド。柊が影響力を強めていった経緯を思い出してくれ。我々は悪い事もたくさんやるけど、良い事だって同じくらいやってるんだぜ』

「……私から、あのビルの権利を奪ったのも、貴様らの仕業か……?」

『それは違うね。君達さ、ビルの構造であけみねと揉めたでしょ? ダメだよ、口を出しちゃ。あのビルはね、明峰家にとっての為に建設されたんだよ。それを邪魔するヤツは排除されても文句は言えないね。ま、そんなバカなマイフレンドがいてくれたからこそ、我々が資金集めに苦労しなくても済んだんだけどさ』

「……き、貴様らっ!」


 頭に血が上った潮見が、青筋を立てて低い怒声を漏らした。


「……なん、なのだ! 私の野望を邪魔した、明峰家の重要な目的とは……っ!!」



 謳うように、電話の相手は告げた。


『記憶次元の最も深い場所に保管された世界の記憶メモリア。この世のことわりと成り立ちを記録した人類の可能性さ』


 潮見には、電話の相手が何を言っているのか理解できなかった。

 仕事柄、一般人である潮見は界力カイに関してある程度の知識を有している。だがメソロジアなる単語を耳にした事はなかった。


 ざっ、と体のすぐ近くから足音が聞こえる。

 いつの間にか、青年が手を伸ばせば届くような距離まで近づいていた。


『さよならだ、マイフレンド。せめて、良い夢を』


 唐突に電話が切れる。

 りん、という鈴の音。殺される、と潮見は本能的に感じ取った。猛烈な怒りと痛みによってぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた感情が嵐の海のように荒れ狂う。


「……知っているぞ、界術師」


 潮見は服の内ポケットから一丁のオートマチックを取り出した。

 朦朧とする意識を必死に保たせつつ、潮見は虚勢を張る。


拳銃これを向けられて、まともに対処できる界術師は、実はあまり多くない」


 界力術の中に放たれた銃弾を防ぐ、あるいは回避する術は存在する。最も簡単な方法は界術師全員が使える身体強化マスクルだろう。高速で動き回ればまず銃弾は当たらない。その隙に射手の懐に潜り込めばいい。


 だがそれは、実力カラーがある程度上の界術師に限られる。

 実力カラーが低ければ、それだけ身体強化マスクルで発揮される運動性能は下がっていく。最低ランクの青や緑は自身の身体能力をわずかに向上させるだけであり、元となる運動能力が低ければ、強化したところで常人に負けてしまう事も多い。


 術式を用いればどうだろうか。

 例えば草薙二郎ならば、水の壁を出現させるだろう。豊富な水源が近くにあって十分な厚さの壁を作れれば、実力カラーが橙の草薙二郎は銃弾を防ぐ事ができる。だが先ほどの戦闘で用いたような薄い水の壁では銃弾を防げないだろう。


 角宮恭介なら身体強化マスクルや氣法である『ショウホウ』を使うだろう。彼の力量ならどんな手段でも銃弾を回避できる。だが実力カラーが低かったり、力量が足りてなかったりした場合、衝放波では銃弾を弾けない可能性も出てくる。


 潮見は震える手で辛うじて照準を青年に合わせたまま、体を起こして膝立ちの状態になった。


「……貴様らは、私を殺すつもりだろうが、簡単にくたばって堪るか……!!」


 潮見は眦を吊り上げ、眉間に深い谷を刻み込む。その凄まじい険相は、まるで般若のようだ。絶対的な窮地に陥りながらも、その瞳から希望は失われていない。


「ふふっ」


 長身の青年が、妖しく口許を緩めた。


「……なにが、おかしい」

「滑稽だな、と思いまして」


 潮見の憤怒の形相を意に介さないように、青年は柔和な笑みを浮かべた。


「あと数秒後には息絶えるというのに、生にしがみつくあなたの姿はまるで道化師のようです。そう思うと、笑いが堪えられなかったんですよ」

「ふざ、けるなッ!」


 パン!! と。

 渇いた銃声がビルの合間に響き渡った。遊底スライドが瞬時に後退し、マズルフラッシュが刹那の間だけ夜闇を散らす。

 潮見が放った銃弾は、運良く青年の左肩に命中した。


「……人間を舐めるなよ、界術師が」


 しかし、潮見は異変に気付く。

 いつまで経っても青年が何も反応を示さない。左肩を撃ちぬかれたのだ。致命傷には至らないにしても、耐えがたい激痛に襲われているはずである。それに体も銃弾に押されて後退しなければおかしい。


「だから言ったでしょう――」


 突如として、青年の体が輪郭を失って煙のように消える。

 暗闇に残ったのは、潮見を嘲笑うかのような笑み。


「――滑稽だと」


 強烈な悪寒が背筋を走り抜ける。

 体の痛みを無視して、潮見はバッと背後を振り返った。


 そこに、いた。

 無傷の青年が、その端正な顔に微笑を浮かべて。


「……ああ、ああああああ――」


 潮見の頭が真っ白に染め上げられる。

 気付いた時には、オートマチックを構えていた。


「――ああああ、ああ、ああああああああッ!!」


 パン、パン、パン、と、何度も銃声が炸裂した。完全に恐慌状態に陥った潮見は冷静さを失い、絶叫と共に引き金を絞り続ける。


 しかし、青年には当たらない。

 銃弾が命中しても、まるで水面に小石が落ちたような波紋だけを残して、青年の体を通り過ぎていく。揺れる煙で作られた青年の像は一瞬で穴だらけになった。


 カチ、とプラスチックを擦るような音がする。弾切れだ。どうやら弾倉マガジンに入っていた弾を撃ち尽くしたようだ。潮見の周りには空の薬莢が散乱している。


「気は、済みましたか?」


 背後から聞こえる声。

 心臓を握り潰されるような衝撃が、潮見に襲い掛かる。

 津波のように圧倒的な恐怖に飲み込まれた潮見は、ガクガクと震える体で振り返った。狭窄した視界の中で、青年がりんと鈴を鳴らして片手を上げた。


 太刀。


 鞘から抜かれ、銀の刀身を月光に濡らした凶刃が、潮見の頭上に浮いている。それも一本ではない。五つの切っ先がギロチンの刃のように、宙に浮遊しながら潮見へと狙いを定めていた。


 これは、夢なのか?

 声の出し方を忘れたように、潮見は口を開けたままただ呆然と上を向いている。


良い夢をあなたにグッドナイト


 愉快そうな口調で、青年は告げた。

 それが、潮見晃の聞いた最後の言葉となった。

 一斉に落下する五振りの太刀。

 反射した月明かりを夜闇に引きながら、潮見の体を一直線に貫く。


 断末魔すら、上げられなかった。



      ×   ×   ×



 なぎかいは慌てた様子で、ビルとビルの合間の裏路地を疾走していた。


 狩江美波に連絡を受けて、高級マンションの地下から脱出した潮見晃を追っていた。潮見の位置は把握していた。狩江美波が途中まで逃げる潮見の姿を監視カメラの映像を使って追っていたからだ。


 だが、九凪が潮見の後ろ姿を目視で確認した時だった。


 一瞬の、違和感。


 目眩にも似た感覚に襲われ、九凪は瞼を閉じてしまう。再び目を開けた時には、すでに潮見の姿はそこにはなかった。

 見失ったと慌てた九凪だったが、おかしな点に気が付く。瞼を閉じていたのはたったの一瞬だ。その間に九凪の存在に気付いていない潮見が身を隠すとは思えない。そもそも裏路地なのだ。適当に角を曲がる以外に逃げ道はないはずだ。


 だが、九凪は潮見を見つける事ができなかった。

 どうしようかと困っていた時に、強い界力術が使用された気配を感じた。

 界視眼ビュード・イーを発動して、周囲のの流れを視認する。そして界力術の痕跡が濃く残る方へと走っているのだ。


「あれは……っ」


 路地の上に倒れている人影を見つけて、九凪はすぐさま走り寄った。

 潮見晃。写真で見た通りの外見だ。間違いない。脈拍などを調べてみたが、すでに死んでいるようだった。


「……間に合わなかったか」


 悔しそうに唇を噛む。おそらく、本物の黒幕が潮見晃から情報が漏れる事を防ぐために口を封じたのだろう。


「……?」


 九凪は潮見の遺体と周囲の状況を見比べて、怪訝そうに眉をしかめた。


 どうにも、合致しないのだ。


 潮見の死に顔は今にも叫び出しそうなほど鬼気迫っている。対して、彼を取り巻く状態が綺麗過ぎるのだ。衣服に乱れは一切ない。、戦闘後というような雰囲気でもない。

 潮見の体にも目立った外傷はなかった。スーツの内側からは弾倉マガジンのオートマチックが出てきた。仮に、何者かに襲われればこの拳銃で反撃する筈だ。だがそうしていないという事は、反撃できるような余裕すら与えられずに殺されたのだろう。


 一瞬で潮見晃を殺す事は可能だ。しかし、そうするのなら周りに血痕や戦闘の跡が残っているはずである。ここまで何も変化がないのは不自然だ。


「……一体、何が起きたんだ?」


 潮見晃の不自然な変死。

 九凪が潮見晃の姿を見失ってしまった謎。


 月が雲に隠れて、ただでさえ暗かった路地が更に濃密な闇に沈む。


 ただただ、九凪は首を捻る事しかできなかった。

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