第5話 いつか隣に立つために
※前回のあらすじ
柊グループと光谷商事によるテロ計画を掴んだ
地下二階に到着し、いよいよ作戦が始まる。
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エレベーターの扉が開く。
薄暗い通路だ。天井に等間隔に並べられた照明は光量が足りておらず、通路の隅には色濃く闇がわだかまっている。空調はそもそも存在しないのだろう。太陽の光が全く当たらないせいか、屋外よりもひんやりと冷たい空気が流れていた。
草薙二郎は足音に注意して深夜の病院を想起させる無機質な通路を進んでいく。監視カメラやセンサー類は狩江が無効化している事もあり、通路は耳が痛くなるような静寂に支配されていた。痺れるような緊張が草薙の呼吸を浅くする。
何事もなく二人は地下二階を踏破する。
地下三階への階段に辿り着いた所で角宮恭介に止めた。
「下の階で敵さんが待ち伏せしてる。階段を降りた所か? さすがに一筋縄じゃいかねぇな」
角宮の体がわずかに紫色の燐光の帯びている。
「アニキ、あっし達から奇襲を掛けてやりましょう。いいっスか?」
「ああ、頼む」
草薙はリュックサックの中から小さなペットボトルを取り出した。自販機で売っている最も小さいサイズのものだ。中には水と金属片が入っている。
階段は中央の踊り場で折り返すような形になっている。そのため、ここからでは踊り場までしか見えない。草薙は下の階の様子を窺うために慎重な足取りで踊り場の前まで階段を降りる。
そこで、界力術を発動させた。
草薙二郎の体が
始まりの八家が一つ――
キース文字と呼ばれる特殊な『言葉』を使った術式である。
まるで加工された音声のように、草薙の声がぶれる。
【
呪言術式が操れるのは火・水・地・風・雷・光の
【――
界術師は体内の
また界力下垂体は、界術師の『精神』へも深く関わっている。
界術師の精神内には『術式保管領域』と『術式構築領域』と呼ばれる二つの領域が形成されている。界術師は界力や方式の『感覚』を保管領域に蓄積させる。必要に応じてそれらを構築領域へ送り、界力下垂体を通して界力次元へと術式の情報を伝えるのだ。
キース文字。
記憶次元へと書き込む事で、
【――
草薙が小さなペットボトルを二つほど踊り場から下の階へと投げ入れた。放物線を描くペットボトルが淡い橙色の光を放ちながら宙に帯を引いている。
【――
変化は瞬時に訪れた。
静寂に包まれていた通路に、耳を劈くような破砕音が炸裂する。
二つのペットボトルが通路に落ちるのと同時に、まるで手榴弾のように爆発した。正確には内部の水が凄まじい勢いで飛び散り、まるで火薬を使ったかのような衝撃を巻き起こしたのだ。
猛烈に渦巻いた水がペットボトルを食い破り、周囲へと拡散する。その衝撃に乗って金属片も飛び回る。それらは撃ち出された弾丸と大差なかった。回避不可能な速度で通路内へ弾かれた破壊の牙が待ち伏せしていた敵へ襲い掛かる。
「行くぞ!!」
紫色の界力光を帯びた角宮が隣を雷光のような速度で通り過ぎる。
草薙はリュックサックから2Lペットボトルを二本取り出す。残りを階段の下へと投げ入れると同時に、
左右に視線を走らせる。角宮は左側の敵へ突撃したようだ。右側は草薙のペットボトル手榴弾が直撃したようで、敵のほとんどがダメージを負っているようだ。軍人が着ている迷彩服のような衣服のせいか、薄暗い中では見えにくい。
「(……敵は全部で七人。アニキの方に四人、こっちに三人)」
草薙の登場に気が付いた右側の敵が動き出した。軽傷を負った一人が、意識を奪われた一人を引きずるように後退していく。
残った一人と、草薙が向かい会う。
先に動いたのは草薙だった。ぶわっと橙色の界力光が体が溢れ出す。
【
右手に持っていた方の2Lペットボトルの蓋を開け、大きく上に振り上げた。遠心力によって飛び出した水が、崩れた球体状に連なりながら薄闇に橋を架ける。
【――
ウォータージェットカッターと呼ばれる工業機械がある。
気圧で言うならば地上の四千倍という途轍もなく高圧にした水を発射し、鋼鉄を切断する機械だ。水に
草薙が発動した術式は、それと似ていた。
三本の『水の槍』。
鋭利な先端をした凶器が、放たれた矢のように空気を穿孔する。
敵は後方へ跳び退く事で回避した。
「(……赤か。ちょっと分が悪い)」
界術師は界力光の色が青、緑、黄、橙、赤、紫、黒という順で術式の出力や威力が増す。
草薙二郎は橙色で、敵は赤色。
これはそれほど絶望的な差ではない。
一般的に、橙色の
だがもちろん、
分が悪いと言ったのには、もう一つ理由がある。
視認できる距離に実物が存在しているのなら、六大元素を自由に操れるという多彩さが持ち味の方式。もちろん、キース文字の単語や文法で表現できるという制限はあるが、それもあってないようなものでしかない。
だが、操る物がなければ、その真価は発揮されない。
草薙二郎が操る元素は『水』。
川や海、水道の蛇口が近くにあるというような環境なら彼は界術師としての真価を発揮する事ができる。だが今回のように水量に限りがある場合は戦闘力は大幅に下がってしまう。
草薙が持ち込んだ水は2Lペットボトルを四本と、手榴弾のように使う小さなペットボトルを五本と、羽織ったジャケットの内ポケットに入れてある五〇〇ミリLのペットボトルが一本。これで全てだ。
更に言えば、今後の道中で水を補給できるとは限らないため、ある程度は使わずに取っておく必要がある。そのため今回の戦闘で使えるのは両手に持った合計二本の2Lと内ポケットの一本だけと決めていた。
ちらり、と草薙は水の槍が着弾した場所へ視線を向ける。
床は水を弾く加工がされているのか、そもそも水が流れ込んでくる事を想定しておらず排水機構がないのか、水は染み込む事なくその場でちりぢりに散っていた。多量の水が一カ所に固まっているのなら呪言術式で再利用できるが、少量の水滴が飛び散っている現状ではそれも望めない。
「(長期戦は不利。なら、さっさと終わらせる!)」
草薙は
敵が右腕を真っ直ぐ草薙へと伸ばした。掌の正面で針のような赤い輝きが渦巻き、複雑な文様を描き始める。
草薙は猛烈な危機感に衝き動かされるように右に跳んだ。
目の前を、赤い閃光が穿孔する。
「……っ、」
つい数瞬前まで草薙がいた場所へ一条の光が打ち込まれた。黒く焦げた床。当たっていた場合を想像した草薙の体から冷や汗が噴き出す。
間髪入れずに敵は
直後。
バッ! と射出されたように加速した。
右手にはすでに展開された掌サイズの四重界術陣。赤い輝きが一本の帯となって、通路内に伸びる。
咄嗟に。
【――――――、
草薙は界力術を発動する。
狙いは付けない。ただ、敵がいると思われる前方へ水の槍を闇雲に放った。同時に草薙は
ドゴォッ!! と鈍い音が空気を炸裂させた。
それは、草薙が立っていた場所に正確に停止した敵の空を切った拳が、展開した界術陣ごと壁を殴りつけた音だった。壁はまるで硬い槌で殴られたように砕け散っている。
界術陣に触れた対象に直接衝撃を流し込む術式か。専用の工具を使わなければ打ち破れそうにない壁を容易く砕いた事から、その威力の高さは証明済みである。
「(あの界術陣に触れるのはマズい……っ)」
大砲の口に縛られた状態で直接砲撃されるようなものだ。
一度でも当たれば、草薙の
「(それにさっきの加速、あんなものを連発されたら対応できないぞ)」
更に量の減ったペットボトルを見つつ、草薙は小さく舌打ちした。
界力術の大原則として、一つの術式の中で同時に発生させられない現象の組み合わせというものが存在する。火と水といった六大元素の相性であったり、活性と衰退のような矛盾するものと様々だ。これは『術式構成上の不可能性』と呼ばれ、多くの研究者がこの理由や原理を解明しようとしている。
だが寺嶋家が生み出した方式である界術陣はこの縛りを受けない。
他の方式が記憶次元に保管された
独自の法則とは、数式である。
寺嶋家は界力的な現象を方程式で表現し、机上で説明することに成功した。
界術陣を使う界術師は、精神内の術式構成領域で発動したい現象を数式で表現する。それを界術陣として現実次元に投影する。後は出来上がった界術陣に界力を流し込めば、陣に込められた数式情報が界力に作用して性質を変化させ、術として放たれるのだ。
術式構成上の不可能性を受けないからこそ、『加速』と『停止』という矛盾する二つの事象を一つの術式に組み込むことができたのだ。これを他の方式で実行しようとすれば、二つの術式を用いなければならない。
草薙は右手に持ったペットボトルを敵へ放り投げた。
【――――――、
草薙は高速でキース文字を界力次元に投影した。
ペットボトル内に残った水が激しく渦巻いてプラスチックの壁を食い破る。それらが水の槍となって再び走りだそうとしていた敵へと降り注いだ。
敵は後ろに下がって水の槍を回避する。足下に落ちて溜まった水を踏み潰すようにして、すぐに草薙に向かって駆け出した。右手には赤い輝きを湛えた四重界術陣が展開されている。
「(……まずい、)」
このまま逃げていてもジリ貧だ。いつか草薙が水を失って敗北するだろう。
草薙が勝つためには一撃必殺の威力が込められた界術陣に触れる事なく、敵の懐に潜り込んで超至近距離で水の槍を叩き込むしかない。
だが、それはかなり難易度が高い。
草薙はあまり体術や近距離戦が得意ではない。彼は術式の性格上、豊富な水源があって
草薙は距離を取るために後ずさる。
対して敵は、術式を展開していない左手を後ろに伸ばした。
赤い輝きが敵の背後で爆発的に広がる。展開される複数の界術陣の輝きにより、床に落ちた敵の影が刹那だけ伸長した。そして、まるでカメラのフラッシュのようにキラめいた界術陣から幾条もの熱線が放たれる。
ただし、それは草薙を狙ったものではない。
仮に草薙を狙っていたら、射線上にいる敵の体も貫いていただろう。
幾条もの光の束は、草薙の体をわずかに外した場所を通過していった。
え? という思考の空白。
だが直後、草薙は湧き上がる怒りによってギリリと歯軋りした。
「クソがっ!!」
わざと体からズレた場所へ閃光を通過させる事で、敵は草薙から心理的に逃げ道を奪ったのだ。
少しでも動けば、閃光に貫かれる。
無意識にそう考えてしまい体が硬直する。このまま立っていれば間違いなく界術陣を叩き込まれるのに、体が銅像になったように動いてくれない。
草薙は咄嗟に、空いている手をジャケットの内ポケットに伸ばす。
【
500mLのペットボトルを掴み取り、敵と自分の間へと放り投げる。
【
バッ! とペットボトルが弾け飛ぶ。中の水が溢れ出し、姿見鏡ほどの大きさの薄い水の壁を形作った。
だが、敵を止める事はできなかった。更に敵の背後から放たれた赤い閃光によって、水の壁は障子に貼られた和紙のように打ち破られる。
仮に草薙の
水の薄壁を破られた草薙だが、その表情に悲観はなかった。彼も
草薙の目論見は水の薄壁によって敵の視界を悪くする事だ。実際に草薙からも敵の輪郭はぼやけて見えていた。この状態でなら、正確な距離感を掴む事はできないはずだ。草薙は敵に気付かれないように一歩後退する。
水の薄壁を突き破った敵が、四重界術陣を展開させた右手を引き絞った。わずかに驚いたような顔。草薙が後退している事にようやく気が付いたのだろう。
だが、もう攻撃は止まらない。
敵の右手に展開された界術陣は空を切――らなかった。
草薙の体には命中したのではない。
2Lのペットボトル。
草薙二郎に残された最後の攻撃手段へと
なにッ!? と草薙は両眼を見開く。界術陣に触れたペットボトルはまるで地面に叩きつけられた氷のように砕け散り、大量の水がその場に撒き散らされた。
「うお、おおおおおおおお!!」
敵を近づかせたままではいけない。
そう直感した草薙は、最後の手段を奪われたショックから回復しないまま、雄叫びを上げながら右足を振り抜いた。だが敵には当たらない。余裕の表情を浮かべた敵は軽く跳び退いて、距離を取った。
最悪の状況だ。
全ての水を失った。これではもう、敵の攻撃を防ぐ術がない。
「(リュックサックまで戻るか!? いやそんな時間はない。でも水がなければ攻撃できな、い……)」
草薙は自分の濡れた革靴を見て、思考を止めた。
それは、閃き。
この絶望的な状況を打破でき得るだけの可能性。
敵は動きを止めた草薙を見てにんまりと勝ち誇ったように唇を吊り上げる。再び右手に四重界術陣を展開して、とどめを差す為に草薙へと飛びかかってきた。
【
床は水を弾くような加工をしてあるのか、染み込んでいかない。
そのため、通路には草薙が戦闘で使った水が点々と飛び散っている。
【――
少量の水であれば意味がない。術式で使っても威力は知れているし、呪言術式を掛ける対象が増えれば、
だが、大量の水が溜まっていたとしたら?
敵が破壊したのは水が満タンに入っていた2Lのペットボトルだ。それだけの水が足下にこぼれているのだ。
【――
高速でキース文字を界力次元に投影するのと同時に、草薙は中指を突き立てた。
グサッ!! と。
唐突に地面から屹立した一本の水の槍が、丁度上を通り過ぎようとした敵の胴体に命中した。
天井へと突き上げられる敵の体。
「(……最後)」
草薙は額に浮かんだ冷や汗を拭う。
「(こいつが油断してくれなかったら、危なかった……)」
今までの戦闘の中で、草薙は地面に飛び散った水を再利用して攻撃する事はなかった。その為、最後のペットボトルを破壊したならもう草薙の反撃はないと思い込んでいたからこそ、敵は無防備に突っ込んできたのだろう。
「なんとか、なったっスね……」
動かなくなった敵から目を逸らさずに、草薙は荒い呼吸を落ち着かせる。
あまりじっと休憩している時間はない。後ろでは角宮が四人の敵を相手にしているはずなのだ。いくら角宮が強いとは言っても人数差は歴然としている。窮地に陥っているのなら助けに行かなければならない。
草薙は立ち上がって、振り返った。
「終わったな。お疲れ、二郎」
「……、」
言葉を失ってしまった。
そもそも、心配などする必要はなかったのだ。
床に倒れて気絶する四人の敵。角宮はその中心で悠然と佇んでいた。汗一つ掻いておらず、衣服も全く乱れていなかった。
「……はは、アニキはすごいっスね。四人の敵を一人で倒すなんて」
「おいおい、俺は柊に喧嘩を売ろうとしてるんだぜ。こんな所で躓く訳にはいかねぇだろうよ」
にっ、と角宮は力強い笑みを浮かべる。
「(ああ、やっぱり……)」
草薙は込み上げる暖かい感情を堪えられず、唇を綻ばせた。
今も昔も変わらない。
角宮恭介は、草薙二郎の憧れのヒーローだ。
「(あっしもいつか、アニキみたいになれるっスかね)」
草薙は角宮の隣へと並び立つ。
今はまだ憧れへの距離は遠い。その背中は目を凝らさないと見えない。
「(……だけど、いつか)」
草薙は腕に嵌めた青いリストバンドに軽く触れて、決意を新たにした。
絶対に、角宮恭介へと追い付く。
かつて憧れたようなヒーローになってみせる。
今なら、歩んできた道だって胸を張って振り返られた。
「先に進むぞ」
角宮恭介は鋭く通路の先の薄闇を見詰めた。
「俺達はな、こんな場所で足止めを喰らう訳にはいかねぇんだよ」
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