第4話 彼らの理由

 しおあきら、五十一歳。

 光谷商事、界力開発部門の執行役員である。


 彼は人生で最大の窮地に立たされていた。


 桐生グランドクテン。桐生ビルと通称される52階建てのビルであり、あけみねが主導して行った都市開発計画の一つである。現在は桐生コーポレーションがビルの運営の権利を得ているが、当初は光谷商事が運用に関して多くの権利を得るはずだった。


 ビルのテーマは、界力カイ未来みらい


 光谷商事は『』を新しいビジネスに組み込もうとする企業の一つだ。おそらく十年以内には誰もが電気のように界力を扱う時代がやって来る。それを見越して光谷商事は『自社が界力に関しての先駆者である』という印象を世間に植え付けるために、今回のプロジェクトに名乗りを上げたのだ。


 現在、界力は石油や天然ガスに代わる新時代エネルギーとして注目されている。


 化石燃料の限界量が叫ばれ始めたここ数年で、多くの企業が誰もが界力を扱えるように実用化する研究に投資を始めた。実際に『界術陣カイじん』のてらじまや『刻印術式』のとしもりは、製品として界力術を扱うために、デジタルで術式を表現する技術を研究している。他の方式では無理だが、この二つの方式は術式をデジタルデータに変換することが可能なのだ。すでに製品への応用実験も始まっており、実用化はもはや夢物語ではない。


 また界術師は日本にしか現われない。多くの学者がその原因を研究しているが、いまだに解明できていない。そのため界力の研究を行えるのは日本だけであり、実用化された暁には世界中から莫大な利益の発生が見込めるのだ。


 潮見晃は光谷商事内における界力開発部門の役員だ。九天市中心部に巨大ビルを建設する今回のプロジェクトには責任者として参加していた。


 彼はこの事業が成功すれば取締役員への昇格が内定していた。世界を代表する大企業である光谷商事の幹部になれる。それは犯罪行為に手を染めてまでも他者を蹴落すほど出世欲の強い潮見にはこれ以上ない喜びであった。


 だが、蓋を開けてみれば話が変わっていた。


 ビル建設も七年が経った頃。

 様々な権利がライバル企業である桐生コーポレーションに奪われ、最終的に光谷商事は何も手に入れる事ができないような状況になっていたのだ。


 何故、突如として明峰家が手の平を返したのか潮見には分からなかった。


 事態は賠償を巡って裁判に発展したが、潮見晃は権利を取り戻せなかった。

 潮見には自分自身が他よりも劣っているという自覚はなかった。それは事実であり、彼は人生の色々な場面で勝利している。現在の地位こそ、潮見の人間としての格の大きさの最高の証明だろう。

 

 だからこそ、潮見は理解できなかった。

 自分が手も足も出ずに追い詰められているという状況に。

 

 まるで神を相手にしているかのような錯覚すらした。


 潮見は必死に抵抗した。今までの人生の中で培ってきたモノを全て叩きつけたが、それも徒労に終わってしまった。彼は大きな失態を犯してしまったのだ。

 このままでは幹部への昇格はおそか、現在の地位すらも危うい。定年まで適当な日陰部署へと飛ばされてしまう可能性すらある。それは地位や名誉に固執する潮見にとって、泥水を啜るようなとても耐えられない屈辱だった。


 潮見は自分に敵が多いことを理解していた。今まで数え切れないほどの敵対者を卑劣な方法で目の前から消してきたのだ。恨まれていても無理はない。

 だが今までは、どんな局面だろうと乗り越えてきたのだ。今回のように為す術なく撤退を余儀なくされるという状況は初めてだった。


 ビルの権利を失ってしばらく経ち、心を暗い諦観ていかんが覆い尽くした頃。

 今から数ヶ月前に、柊グループから声が掛かった。

 界力開発部門に長年勤めていた潮見は柊グループがどれだけ闇の深い集団なのか理解していた。平時なら無視するような甘言だが、今は飛びつかざるを得なかったのだ。


「……あと少し、もう少しで、この苦痛から解放される」


 潮見は自宅として利用しているマンションの地下四階の部屋で、高級な革張りの椅子に座っていた。


 時刻は午後11時。潮見晃は落ち着かない心をなだめようと深く息を吐き出した。

 眠れてしまえば楽なのだが、近頃は寝付きが非常に悪い。日に日に疲労が溜まっているのが分かり、頭痛にも悩まされるようになった。


 だが、この地獄のような時間ももう少しで終わりを迎える。


 桐生ビルへのテロが成功さえすれば、あとは柊グループの策略によって桐生コーポレーションからビルの利権を奪い取れる手はずになっている。ビルの利権さえ取り戻せば当初の予定通り潮見は取締役員への昇格という目的を達成する事ができる。そのために決して少なくない額の資金を提供してきたのだ。


 しかし、彼は決して油断していなかった。大きな挫折。そして自分が追い詰められているという状況が潮見を用心深くさせているのだろう。


 今回のテロを成功させるためだけにマンションの地下三階分を丸々と買い取っている。地上は普通の高級マンションだが、地下部分は潮見晃を守る要塞と化していた。

 エレベーターには地下のボタンはなく、特殊な操作をしない限り地下へは動かない。また正式な手順を踏まずに侵入した愚か者を抹殺する設備や迎撃システムも配備した。もはや蟻の一匹ですら出入りする事は叶わない。


 また無事にテロが成功するように彼は一ヶ月近くこのビルの地下から出ていない。仕事は全てこの地下で行っていた。地上に出るというリスクを嫌ったのだ。


 完璧な防御。もはや一分の隙もなかった。


 ポーン、という短い電子音に潮見は反応する。連絡用の無線。相手は柊グループが護衛のために手配した杉下という界術師だ。

 要人警護の専門家エキスパート。かつて裏社会で行われた六家連盟内の抗争にも参加した事もあるそうだ。戦闘経験はもちろん、殺しや拷問の技術にも深く精通しているらしい。


 無愛想な男で、その目付きは油断すれば殺されると思わせるほど鋭くて冷たい。背中を刺される事はないはずだが潮見はなるべく杉下とは直接会わないようにしていた。


「どうした?」

『侵入者です。地下部分へとすでに侵入しています』

「なんだと!?」


 思わず椅子から立ち上がった潮見は凄まじい剣幕で無線に怒鳴りつける。


「迎撃システムはどうした! そもそも地下へは入れないはずだ!!」

『マンションのシステム自体にハッキングを受けている影響で迎撃システムが作動しません。現在、自分の部下が侵入者と交戦中。敵は若い男が二人です』


 まったく感情の起伏を感じさせない杉下の声を聞いて、潮見は荒立っていた心が少しずつ落ち着きを取り戻していくのを感じていた。


 代わりに湧き上がってきたのはドス黒い怒り。

 たった二名の侵入者。

 愚かな若造に、自分の心が一瞬でも動揺させられた事がこの上なく腹立たしい。


『侵入者はどうしますか? 捕らえて尋問しますか?』

「いや、殺せ」


 そう、短く命じた。


「出来るだけ苦しめて殺せ。私の平穏を脅かす奴など、生かしておく必要はない」



      ×   ×   ×



 くさなぎろうは、突然変異型の界術師だ。


 界力の素質は九割以上の確率で遺伝による発現である。草薙二郎の両親は界術師ではなく、確認できるだけの家系にも界術師はいない。その為、まさか自分が界力の素質に目覚めるとは全く思っていなかったのだ。


 小学校の高学年で界術師育成専門機関ラクニルへの転校。


 最初は心を躍らせた。草薙にとって界術師とは、他の少年達と変わらずに漫画やアニメのヒーローという認識だった。超人的な力を使って、弱きを助けて強きをくじくような存在。自分もそんなヒーローになれると思っていたのだ。


 だが、現実は違った。

 草薙二郎には、界力の才能が足りなかった。


 成績は極めて平凡。

 界術師として戦闘に耐えうるだけの最低限の能力は有しているが、それ以上のモノは望めない。それはつまり、草薙二郎少年が願ったようなヒーローには遠く及ばないという意味だった。


 努力はした。

 界術師として力を付けるために必死に足掻いた。


 それでも、草薙は望んだような力を手に入れる事はできなかった。界力の素質は才能に強く依存する。彼はどうしても自分の限界を超えられなかった。


 自分は一番にはなれない。絶対に勝てない相手は絶対に存在する。

 その事実に気付いた瞬間、草薙は全てがどうでも良くなった。


 挫折。


 誰もが人生で何度も経験するであろう辛い体験。それは草薙を自暴自棄にさせてしまった。同じようにやる気をなくした連中で集まって悪さをするようになった。ラクニルでは界術師としての能力で待遇が変わる。一度劣等感を抱いてしまえば、立ち直る事は不可能に近い環境にあるのだ。


 望んでもいない界力の素質を与えられ、劣等感を植え付けられる。


 理不尽だと思った。

 草薙二郎の心はどんどん黒く染まっていった。


 そんな彼の目を覚まさせたのが、角宮恭介だった。


 いつもと同じように悪さをしているところに、角宮恭介はたった一人でやって来た。だが草薙達はそのたった一人に打ちのめされたのだ。


 圧倒的だった。手も足も出ないとはまさにこの事である。

 その姿は、かつて少年の頃に抱いた理想のヒーローそのものだった。


『どうしてそんな馬鹿な事をしてんだ?』


 地面に横たわる草薙に、角宮恭介は呆れたように問い掛ける。

 草薙は湧き上がる怒りに任せて叫んだ。


 ――アンタには分からない。誰かを助けられるような力を持ってて、劣等感を抱いた事のない恵まれたヤツには。


『お前さ、なんか勘違いしてねぇか?』


 ――勘違い?


『誰かを助ける力なんてお前も持ってんだろうが。お前だけじゃない、そういう力は全員が持ってる。だけど、お前はそれを忘れてるんだ』


 ――力なんて持ってない。実際、アンタにこうして負けたじゃないか。


『だから違うって。誰かの為に、テメェの二本の足で立ち上がれる。それだけでもうテメェにはヒーローの素質があるんだよ』


 草薙は耳を疑った。

 こんな恥ずかしい台詞を真顔で言い切れる事にも驚いたが、それ以上に角宮は己の言葉や行動に全く疑問を感じていない事に驚愕した。


 信じていたのだ。

 これが正しい事なのだと。


『誇りを持って進め。じゃなきゃ、テメェの歩みに価値はない。――なあ、お前の歩いてきた道ってのは胸を張って振り返られるモンなのか? もしできねぇなら今すぐその二本の足で立ち上がって新しい道を歩き始めろ。そうすりゃお前はヒーローになれるはずだ』


 これが草薙二郎と角宮恭介の出会いだった。この一件を経て、草薙は角宮と行動を共にするようになる。


 おそらく、角宮恭介と出会わなければ草薙は変われなかっただろう。劣等感に心を蝕まれ、道を踏み外していたかもしれない。少なくともラクニルで楽しい思い出を作る事は、今こうして誰かを助けるために行動する事は、絶対になかったはずだ。


 草薙二郎は角宮恭介に大きな恩を感じている。

 この先もずっと角宮恭介の隣で戦えるとは限らない。だが彼の力になれる内は、彼が頼りにしてくれている内は角宮についていくつもりだった。


 これが、原点。

 草薙二郎という界術師の戦う理由だった。



      ×   ×   ×



 辺りは完全に夜の帳が下りていた。

 だが、表通りにはまばらだが人通りはあった。九天駅から近いからだろうか。会社帰りのサラリーマンや友人と一緒に笑いながら歩く大学生など通行人の年齢は様々だ。


 九天駅は南北で景色を大きく変える。


 北側は企業のオフィスが入った高層ビルが立ち並んでおり、まさに大都会と呼ぶにふさわしい。映画館や百貨店など様々な施設があり、休日の昼間になると多くの人で溢れかえる。この時間でも多くの店舗の明かりが付いているだろう。件の桐生ビルがあるのも北側だった。


 反対に南側は、どちらかと言えば猥雑わいざつな印象があった。大手家電量販店の巨大店舗がある以外は雑居ビルが多く、法律的にグレーな店舗もちらほら見かける。片道四車線の国道を挟んだ向こう側には高層マンションが建ち並び、そのエリアを越えれば昔ながらの住宅街が広がっている。角宮恭介の実家の酒屋がある商店街はこの住宅街の中にあった。


 草薙と角宮が歩いているのは南側。高層マンションと住宅街の境目のような場所である。再開発の波に逆らうように残る古い外見の民家群の近くに、目的としていた高級マンションはあった。


「ここっスか、ヤツの根城は」

「ああ、随分と立派じゃねえか。憧れるよ」


 歩道を進みながら、二人はすぐ横に屹立する見上げるような建造物を眺めた。


 レジデンスタワー新九天。

 主に都心近郊の企業に勤める富裕層をターゲットにした家族向けのマンションだ。


 九天市は都心まで電車で一時間程度であり、ベッドタウンとして栄えているという面もある。この手のマンションの需要は高まる一方であり、毎年新しい物件が増えているという状況だった。


 37階建て。外壁はレンガを模しており、周囲の無骨な外壁とは一線を画している。歩道を敷地を隔てるように花壇が整備されており、入口の自動ドアの前には何かの動物を模した石像まで置かれていた。如何にも高級志向の顧客を狙い撃ちにしているというような印象を受ける。


「本当にこんな所に住んでるんスかね。普通に他の住人もいるのに」

「カモフラージュのつもりなのか? それかマンションの大家と光谷商事とでコネがあったのかもな。何にせよ、異常に金が掛かってるのは確かだよ」


 自動ドアはオートロックであり入れない。二人は敷地内に入り、建物の外周をぐるりと回る。すると地下へと続く駐車場の入口が見えてきた。新谷零士に頼んで事前に入手したカードキーを使い、車用の入口の隣にある作業員専用の扉を開けて階段を降りていく。


 マンションの地下は広大な駐車場となっていた。太い直方体のコンクリート柱の陰を使い住人に気付かれないように移動して、狩江美波の指示通りにエレベーターを目指す。


「……これか」


 業務用と扉に書かれた少し大きめのエレベーターの前で角宮が立ち止まる。先ほどのカードキーを使ってエレベーターの中へと入った。


「こっからは、あっしの出番っスね」


 背負っていたリュックサックを下に置いて工具箱を取り出した。慣れた様子でボタンの下にあるカバーを取り外す。黒い絶縁手袋を嵌めてカバーの下から現れた基盤や赤青のコードを触っていく。


「やっぱ、慣れてるよな」

「半分くらい趣味っスけどね。端子同士を繋げるだけっスし、仕組みが分かれば誰でもできるっスよ。あ、一応ちゃんと資格は持ってるので安心してください」


 水を得た魚のように作業を続け、古い携帯ゲーム機のような分厚い端末と基盤を繋いでいく。端末を操作しながら片手で器用に電話を掛けた。


『はいはーい、こちら美波。いつでも準備はできてるよん』


 スピーカーモードにした携帯端末から狩江美波の気楽な声が流れ出てくる。


「姐さん、こっちも準備ができました。やっちゃってください!」

『あいさー! 承った!』


 現在、狩江美波は『仕事場』にこもってハッキングに勤しんでいた。


 潮見晃がいるとされるのは地下四階。だがこのエレベーターは通常の操作では地下へと降りてくれない。流石の新谷零士でも地下へと動かすためのカードキーは手に入れられなかった。次の手段として狩江の力を使っているのである。


「どうだ、美波」

『……うーん、もうチョイ』


 カタカタと高速でキーボードを叩く音が携帯端末から響く。

 しばらくして。


『うん、これでいける! 地下に動くようにしたよ』

「さすが、相変わらずの腕だな」

『ふふーん。スーパーハッカー美波ちゃんに破れないシステムはないのだあ!』


 狩江の得意げな声が聞こえてきた。胸を張っている光景が容易に想像できる。


『監視カメラも掌握できた。下の階に敵はいないみたいだね。でも……これは、赤外線センサー? 侵入者検知のシステムがあるのか。ふふ、無効化しちゃうぞ』


 まるでゲームでもしているかのような楽しげな声だった。

 不意にエレベーターが動き出す。いよいよ作戦開始だ。


『恭ちゃん、ジロー、気をつけてね』


 その声を最後に通話が終了した。画面の表示は圏外。潮見晃によって地下には電波が届かないように処置が施されているのだろう。エレベーター特有の浮遊感の中、草薙は荷物をまとめてからリュックサックを背負い直した。


 今回マンションの地下に侵入するのは草薙と角宮の二人だけだ。九凪皆と新谷零士には外で待機してもらっている。万が一マンションから潮見晃を逃がした時に対応してもらうためだ。


 いくら角宮恭介がいるとは言え、戦力的には少し心許ない。

 一人の界術師として、草薙二郎が情けない姿を晒す訳にはいかなかった。


「まだ侵入はバレてねぇはずだが、あまり時間はねぇ。一気に行くぞ」

「了解っス」


 エレベーターの扉が開く。

 作戦開始だ。

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