第5話 遠い闇

 ※前回のあらすじ


 禁術『森の王』の資料を持った敵を追い掛けるなぎかいあられい。敵の内通者であった辻井の陽動に引っ掛かるも別働隊を発見する。九凪皆と新谷零士はそれぞれの戦場へと向かっていく。


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 九凪皆は乱立する木々の隙間を青嵐せいらんのように走り抜ける。


 界視眼ビュード・イーを発動した九凪には安全なエリアと儀式術式が仕掛けられた場所が手に取るように分かる。本来なら術者以外は絶対に知らないような術式の死角を正確に洗い出し、身体強化マスクルを使って最短距離で敵へと近づいていく。


 ガサガサと踏み抜いた湿った地面で枯葉が鳴る。

 そして、何本かの木立の向こうに敵の姿を捉えた。


 九凪は目にも留まらぬ速さで肉薄する。体から漏れ出した白い界力光が木々の隙間にわだかまった薄闇に刻み込まれ、一瞬のうちに白い帯が引かれた。


 そこにいたのは大柄な体格でごつい顔付きの男だ。軍人のような迷彩服を着ている。足下には肩掛けの鞄。あの中に術式の資料があるはずだ。


 大きな樹の前で作業をしていた男は驚愕と共に振り向いた。体から滲み出る血のように赤い界力光。身体強化マスクルを発動して、その場から俊敏な動きで鞄を掴んで跳び退いた。


 界力光の色は、その界術師がどれだけ界力を処理できるかを示している。

 青、緑、黄、橙、赤、紫、黒の順で界力の処理量は上がっていく。より強力で、広範囲に効果を及ぼすような界力術を使えるようになるという訳だ。一般的に戦闘要員としての界術師には橙色以上の実力カラーが求められる。だが橙以上の界力光を発せられる界術師は、全体の三割未満しか存在しない。


 跳び退いた敵はそのまま木々の間を縫うように距離を取りながら、右腕を勢いよく九凪に向かって突き出した。


 直後、針のように鋭い光が空間に模様を描き始める。


 始まりの八家の一つ――てらじま。生み出した方式は『界術陣カイじん』。


 魔方陣を想像すると分かりやすいだろうか。

 円形領域内に術式を投影し、そこへ界力を流し込むことで記憶次元に保管された世界の記憶メモリアを現実次元に引き落とす方式である。


 男のてのひらの先に赤い界術陣が五重に重なって出現する。界術陣は一枚ではなく、最大九枚まで重ねる事で術の効力を上げていく。個人レベルなら七枚を展開できれば一人前だとされていた。


 男の掌が一際強い光を放つ。樹の幹や地面が夕焼けに照らされたように赤色に染め上げられた。


 ぴりっ、と九凪のこめかみの辺りが痺れを発する。

 来る、と直感したその瞬間。


 閃光。

 血のように赤い一条の光が、真っ直ぐ薄暗い空気を穿孔した。


 九凪は腕を持ち上げる。


 九凪皆は能力者プラージだ。

 能力は『界力の流れに自由に干渉できる』というもの。


 故に。

 シュバァッ!! と、放たれた赤い閃光は九凪の腕に近づいた途端に霧散した。


 界力術による赤い閃光は術者によって操られた界力の流れの集合体である。ならばその界力の流れを意味を持たない流れへと変えてやればいい。


 自分の界力術が無効化されたのを見て男は両目を丸くした。

 だが動揺は一瞬だけ。すぐさま行動を開始する。九凪を近づけさせないようにするために、舌打ちしながらも男は再び赤い界術陣を展開してリボルバーのように一定間隔で閃光を連射した。


 しかし、そのどれもが九凪には当たらない。


 九凪には界視眼ビュード・イーという特殊な瞳が備わっている。また界力の流れに干渉するという能力の影響で他の界術師に比べて桁外れに界力術の気配に敏感だ。身体強化マスクルを使った状態なら万が一にも命中することはない。


 バキッ! と背後から渇いた破砕音が聞こえる。男の閃光が幹に激突したのだろう。ちらりと確認すると焦茶色の樹皮が床に落ちた陶器のように砕け散っていた。


 その樹から、突如として猛烈な界力術の気配を感じた。


「(しま――っ)」


 この森には明峰家の重要施設群を守るために様々な儀式術式が仕掛けられている。そんな中で界力術を使った戦闘を行っているのだ。地雷原の中を裸足で走り回るのと同じ自殺行為である。


 樹の根元で風が巻き起こる。それは小さな竜巻のように大きくなり、地面に落ちていた枯葉や腐葉土を舞い上げながら九凪へと襲い掛かった。


 界視眼ビュード・イーで術式の発生を察知していた九凪は、能力を使って迫り来る風の腕を無力化する。無秩序に撒き散らされた突風が、九凪の前髪を激しく揺らした。


 だが、それは一回だけではない。

 辺りにある樹の根元から何本もの風の腕が生え、それらが九凪へと降り注ぐ。


 本来なら儀式術式そのものを能力を使って無力化したい。だが、ゆっくりと術式の核を探している余裕はなかった。豪雨のように地面に突き刺さる風の腕を、間一髪のところで掻い潜っていく。

 風の腕を無力化するだけでは長くは持たない。そう判断した九凪は能力を使って迫り来る風の腕に触れた。


 ただ無害な状態の界力の流れへと戻すのではない。

 変換する。

 九凪皆が自由に扱える界力の奔流として。


 風の腕に触れていた九凪の右手にふわりと白い光が生まれた。炎のように揺らめく純白の界力光。それを鞭のようにしならせながら、背後から迫り来る風の腕へと叩き付けた。


 確かな手応え。空中で水風船を破裂させたように、大量の風が四方八方へ放たれる。同じ要領で九凪は襲ってくる風の腕を打ち落としていく。


「(くそ、キリがない!)」


 打ち落としてもえ続ける風の腕を見て、九凪は奥歯を噛んだ。

 男の様子を確認する。男も風の腕を撃退するために界術陣から閃光を放っており、九凪を気に掛ける余裕はないようだ。


「(考えろ)」


 勝利条件は二つ。

 襲い掛かる『風の腕』の儀式術式を解除する方法を見つける。

 目の前で風の腕を躱している男を倒す。


「(どうしたらこの状況を打破できる? なにを優先にするべきだ?)」


 メモ帳が欲しくなるが、我慢して思考を回していた時だった。

 ぱたり、と。

 夕凪のように、風の腕の動きが止まった。


「……?」


 思考の、空白。

 だがすぐに、界視眼ビュード・イーで辺りをた九凪は理解する。


「(新谷さん!)」


 先ほどまではこの辺り一帯に仕掛けられていた儀式術式はすでにえなくなっている。新谷零士が術式を正式な手順で解除してくれたのだ。


 少し離れた位置にいる男へと視線を向ける。


 不思議そうな表情をしていた男だったが、九凪を一瞥すると一目散に駆け出した。逃げたのではない。儀式術式が仕掛けられた場所で戦闘を続けることを嫌ったのだ。丁度、少し進んだ場所で森は途切れていて崖を跳び降りれば山道へと抜けられる。


 九凪は資料の入った鞄を持った男を追いかけながら森の中を疾走する。


 そして、迷わずに崖から飛び降りた。梢を突き破る感覚と、刹那の浮遊感。先ほどよりも低い。せいぜい十メートル程度だろう。身体強化マスクルを使い、足下で白い光芒を散らしながら道路に着地する。


 途端、幾条もの赤い閃光が襲い掛かった。

 能力を使って危なげなく全てを回避する。近くの地面に閃光が突き刺さり、粉塵と共にコンクリートを抉った。


 これ以上、戦闘を長引かせる理由はない。

 決着を付ける為に走りだそうと足に力を込める。


「調子に乗るなよクソガキがあ!!」


 資料の入っている鞄を足下に投げ捨てた男が鋭く吼えた。

 激しい情動が迸る両眼を獰猛に見開き、パンと両手を勢いよく合わせる。両手を花の蕾のような形に膨らませ、それぞれの指を合わせて半球状を形作った。


 直後。

 赤い輝きが九凪の周囲で咲き誇った。


 それは十数枚もの界術陣。九凪の退路を断つように前後左右だけではなく上空まで界術陣が埋め尽くしているのだ。


 まるで、檻。

 男が両手の指で形作った半球状の領域。


 界術陣とは界力による光の集合体であり、物理的な障壁ではない。そのため迷わずに突っ切れば檻から抜けられたかもしれない。だが、突如として自分を囲い込むように出現した界術陣に虚を突かれた。


 一瞬の心の空白。

 それが致命的な隙となって牙を剥く。


 界術陣が目を刺すような光を帯びた。


「っ!!」


 反射的に体が体が動いて能力が発動する。


 次元干渉バリス・フルクティア


 通常、界術師は物理的な手段で界力次元へと干渉する事はできない。界力次元に情報を届けるためには、生命力マナを放出して次元の壁を越えるしかない。


 だが、九凪皆は能力を使えば次元の壁を突破できる。

 界力の流れに自由に干渉できる。

 相手の界力術を打ち消すのではなく、こちらが能力の本来の使用法だ。


 両腕を左右に伸ばして能力を発動する。金属を溶接するような青白い光と共に、九凪の掌は次元の壁を越えて界力次元に触れた。嵐の後の川のような激流。凄まじい奔流の界力の一部を通常次元へと引き出し、両腕を振って自分の周囲を覆うように展開する。


 九凪の全身を覆い隠したのは、まるでまゆのような界力の防壁。


 同時に、無数の光が放たれた。


 鋭い破壊力を伴った光の束が防壁に激突し、凄まじい衝撃が空気を振動させる。構えた盾に無数の槍を突き刺されているかのような状況。繭のような界力の防壁に弾かれた光の槍が地面へと弾き飛ばされ、大量の粉塵を巻き上げる。


 界術陣による一斉射撃が終わった。

 九凪は界力の防壁を解除する。いまだに舞い上がっている粉塵を突き破るように車道を疾駆して男への距離を詰める。


 男の顔に驚愕の色が走り抜けた。まさか、自分の界力術が切り抜けられるとは思っていなかったのだろう。


 九凪は拳を握って振りかぶる。大きく胸を張ると同時に、彼は能力を使って界力次元へと干渉した。硬く握った右腕だけを界力次元に触れさせる。拳の周りで白い燐光が煌めく。もやのようなその光は次第に輝きを増していった。


 男はなんとか鞄だけ拾って両腕を交差させるが、構わず助走によって得たエネルギーを腕に乗せて拳ごと界力の塊を叩きつけた。


 轟音が炸裂する。


 確かな手応えが九凪の腕を貫いた。巨大な扇子で煽ったかのような暴風が吹き抜ける。拳に帯びていた界力が莫大な奔流として放たれたのだ。


 男の体が蹴られたボールのように飛んでいった。何メートルも道路を転がってようやく止まる。その過程で鞄を手放していた。


「……っ、」


 男は辛うじて体を起こす。全身のあちこちから出血しており、目線もどこか虚ろだ。

 道路に放り投げられた鞄を見て、男は歯を軋ませた。だが先ほど受けた一撃のダメージが大きかったのだろう。鞄に未練がましい視線を送りながらも、身体強化マスクルを使って九凪から離れていった。


「……やっぱり、厳しいか」


 男が離れて行くのを確認してから、九凪はがくっと道路に膝を付いた。


 次元干渉バリス・フルクティアは非常に強力だが、その分だけ体力や気力の消費が大きいという欠点がある。これは他の界力術の比ではない。そのため、九凪は滅多な事がない限りは使わないように心掛けていた。


かいくん、無事だったかい!!」


 道路の先から、新谷零士と太堂が息を切らして走ってきた。どこか痛めたのか、新谷は腕をもう片方の腕で庇っているようだった。


「敵はどうなった!? 資料は!?」

「撃退しましたよ。資料はそこに転がっている鞄に入っている筈です。……新谷さんこそ、その腕……っ!」

「……ああ、これかい?」


 ぎこちなく頬を緩めながら、新谷は額に大粒の脂汗を浮かべる。


「ちょっと無理をしてね、失敗しちゃった」

「『呪い』じゃないですか! 早く見せてください!」


 九凪は気が動転したように叫ぶ。新谷はゆっくりとした動作で膝を付くと、痛みに堪えるように歯を食い縛りながら茶色のスーツの袖を捲った。


「……ひどい、」


 晒された新谷の腕を見て、太堂は息を飲んだ。初めて呪いが人体を侵すところを見たのだろう。その顔は恐怖の色に覆われてた。


 新谷の腕には明らかに体に異常を来していると言わんばかりのドス黒い斑点が幾つも浮かび上がっていた。今までは我慢していたのだろうが、激痛に堪えられなくなったのか、新谷は唇を真一文字に引き結んでその場にうずくまった。


 呪い。

 儀式術式だけに存在するリスクだ。


 術式を無理やり中断したり、誤った手順で発動したりすると、儀式を完遂できなかった代償として術者に襲い掛かる反動。呪いの強さは術の規模の比例し、最悪の場合は術者を苦痛の末に死に追いやるような場合も存在する。


 なお、呪いは明峰家の儀式術式にしか存在しないとされている。これは他の方式が世界の記憶メモリアの一部を術式化しているのに対し、儀式術式は世界の記憶メモリアそのものを再現しているからだとされていた。より多彩で強力な力を得られる反面、こうしてデメリットが発生してしまうのである。


 新谷零士は明峰家の方式である儀式術式を使う界術師だ。だが、自分の術式の発動を失敗するような初歩的なミスを犯すとは思えない。


「処置します。少し痛むかもしれないですけど、我慢して下さい」

「……ああ、頼む」


 新谷が頷くのを確認してから、九凪は黒い斑点に手を添えた。

 そして能力を発動する。


 呪いとは一種の界力の暴走だ。新谷の右腕には術の反動して人体に有害な界力の流れが形成さえているのだ。ならば、その有害な流れを無害なものへと戻してやればいい。


 界視眼ビュード・イーを使って呪いの流れに干渉していく。時折、痛みに耐えるように新谷がきゅっと片目を瞑っていた。


「どうして、こんな無茶をしたんですか」

「はは、面目ない……」

「……あ、新谷さんは、」


 震える声だが、瞳に力を込めた太堂が話し始める。


「一刻も早く儀式術式を解除する為に、『供物』を直接壊したんです」

「そ、そんな危険なことを!? 本当ですか新谷さん!!」

「……『畑守はたもりの風』、皆くんを襲った術式の名前だよ」


 幾分か和らいだ表情で、新谷は話し始める。


「ある村で信仰されていた神が、作物が実った畑を害虫や泥棒から風を吹かして守ってくれたっていう伝承さ。特定の神が出てくる訳じゃないし、出典が曖昧な言い伝えだからね、術式自体のレベルは低い。だけど、少し解除が面倒なんだ」

「……本来、この術式を解除する為には、村人が神を信仰していない状態にするのがセオリーなんです。ですが、私にはそれができなくて……」


 申し訳なさそうに言う太堂に対し、新谷は首を横に振った。


「太堂さんは悪くありません。むしろ誇るべきだ。儀式術式を使う僕達でも、容易に解除できないように術式が組まれているんですから」

「……はい」

「僕も解除しようとしてみた。だけど、正攻法だと時間が掛かった。僕はこうの色が黄色だからね、力で無理やりって訳にはいかなかったんだよ」


 青、緑、黄、橙、赤、紫、黒、の順で示される界術師の能力の高さ。

 界術師として一人前と言われる実力カラーが橙色である為、新谷零士の黄色というのは少し物足りない。仮に新谷の実力カラーが紫や黒なら、どれだけ複雑な術式でも手順さえ守れば簡単に解除できただろう。


 だが、上位の界力光になればなる程、発せられる界術師は減っていく。

 最上位の実力カラーである黒色を発せられる界術師は、全部で十人しかいない。彼らは畏敬の念を込めて『表の五本指ライト・ファイブ』と『裏の五本指レフト・ファイブ』と呼ばれていた。


 表と裏の違いは、その活動が公の場で行われ、一般人や表世界の界術師に広く認知されているかどうかである。そのため『普通の人』からすれば裏の五本指レフト・ファイブとは都市伝説のようなもので、ネットなどで一人歩きしている噂だという認識だった。これは六家界術師連盟による情報操作によるものであり、例え裏の五本指レフト・ファイブについて真実を公表したとしても、それが事実として広まる事はなかった。


 例えば、九凪皆の師匠である玖形由美は裏の五本指レフト・ファイブ切斬女キラーレディ』として、裏社会でその名前を轟かせている。しかし、一般人からすればそのような認識はなく、その他大勢の界術師の内の一人という事になるのだ。


「だけど、『供物』の在処は太堂さんが知っていたんだ。森にある祭壇に、実のった稲の束がお供え物として置かれているってね。だから、」


 にやり、と新谷は得意そうに唇の端を持ち上げる。


「祭壇の入り口をこじ開けて、中に入っていた稲の束を燃やしてやったんだ。守るものがなくなれば神は存在意義を失うからね。そしたらこの様さ。見事に呪いに襲われたよ」


 儀式術式は『条件』や『配置』を利用して、記憶次元に保管された神話や伝承を再現する方式だ。供物の存在は条件の達成に必要不可欠なものである。供物がなければ術式を発動することは絶対にできない。


 そんな術式の核とも呼べる存在を破壊したのだ。

 術式の強制中断と判断され、呪いが発生する。


 基本的に、呪いとは術者に跳ね返るものだ。だが新谷が術式として機能している状態の供物に触れたため新たに術者と認識されてしまい、過去に儀式術式を仕掛けた術者の代わりに呪いを受けてしまったのだろう。


 新谷零士の実力カラーは黄色であり、呪いに対する抵抗力も決して高くはない。そのためこうして激痛を伴うような大事になってしまった。実力カラーがもっと高ければ軽傷で済んだはずだ。


「……よし、終わりましたよ」

「ありがとう、助かった」


 新谷は黒い斑点が浮かんでいた腕を動かしてみる。まだ痺れがあるのかスムーズではないが、特に問題はなさそうだ。それを見た太堂がほっと安堵に胸を撫で下ろしていた。


「太堂さん。悪いんですが、あの鞄に入っている資料を確認してきてもらってもいいですか? 正確な資料の内容を知っているのは太堂さんだけなので」

「あ、そそそそうでしたっ!! 確認してきます!」


 思い出したようにピンと背筋を伸ばし、太堂は気を動転させて駆け出した。


「すいません、新谷さん。敵を逃がしてしまって……」


 顔を俯けた九凪が、口惜しげに言う。


「仕方ないよ。それにまだ逃げられたとは決まった訳じゃない。深手を負った状態で森を抜けられるとは思えないし、正面から出ようと思ったら守衛がいるんだ。これから警備の人たちが森を捜索するだろうしね」

「でも、辻井みたいな内通者がいたら逃げ出せますよね」

「……それは、そうだね」

「それに、僕が捕らえていれば尋問して色々聞き出せたかもしれないんですよ」

「尋問って……、皆くんできるの? 僕はそういう血生臭いのは苦手で、いつも組織に任せてるからよく分からないんだけど……」

「できますよ、やり方は師匠に教わってますし。それに、」


 両端を軽く引き上げた九凪の唇に、酷薄な色が浮かぶ。


「楽しいじゃないですか、絶対抵抗できない相手を一方的に痛めつけるなんて」

「……、」

「冗談ですよ、真に受けないで下さい」


 ふっと九凪は表情を緩める。しかし、新谷は少し身を引いていた。


「何というか、九凪君って偶に黒くなるよね……」

「そんな、僕は真面目な好青年ですよー?」


 にこりと微笑む九凪に対し、新谷は引きつった笑みを浮かべて誤魔化した。

 道路の先からエンジン音が聞こえてきた。腹に響くような重低音は、九凪と新谷の予想通り玖形由美の大型二輪から奏でられていた。


「おっす、二人とも! こっちは無事に終わったぜ」


 バイクから降りた玖形はヘルメットを取った。風になびく真っ赤な長髪が下午かごの陽光を吸い尽くして燃えるように輝く。


「お疲れ様、由美。僕達も無事……って訳じゃないか。何とか切り抜けたよ」

「情けねえな、この程度の相手によ。もっとバシッと気持ちよく快勝しろっての」

「それは師匠だからできるんですよ、僕には荷が重いです」


 疲れたように言う九凪を見て、玖形は怪訝そうに眉をひそめた。


「……カイ、お前また『解放リベラ』を使わなかったのか?」

「え、まあ、そうですね……、」


 九凪は誤魔化すように目線を逸らした。


 解放リベラ


 制限時間付きで、界力の処理量を飛躍的に向上させる技術である。玖形由美が独自に開発した方法であり、使える界術師は九凪と玖形の二人だけだった。


 本来、次元干渉バリス・フルクティア解放リベラ状態の時に使用することを想定されている。通常の状態では、脳に掛かる負担も大きく、界力次元へと干渉する際に大量の生命力マナを消費してしまうからだ。


「……どうも安定しないんですよね。持続時間も師匠みたいに長くないですし」

「そりゃお前が練習不足なんだよ。繰り返し使ってる内にできるようになる」

「いやいや、スポーツじゃないんですから……」


 九凪が解放リベラの使用に乗り気ではない理由は、他にもある。

 解放リベラを使う度に、頭に景色が浮かぶのだ。


 知らない筈の場所に、見たことない筈の景色。

 そしていつも、一人の男性が真剣な顔で何かを語りかけてくる。

 そのイメージが、一体何を意味しているのかは分からない。

 ただ一つだけ、予想していることがある。


 その幻視が、なくした筈の過去の記憶から溢れ出した残滓なのかもしれない。


 九凪皆には、九天市に来る前の記憶がない。

 最初の思い出は、九天市の市街地を玖形由美に手を引かれた歩いている光景。

 それ以前のことは、何も思い出せないのだ。

 故郷の風景も、両親の顔も、友の声も、なにも知らない。


 だが、何故かその幻視を見ると、猛烈に心がざわめくのだ。


 このままではいけない。

 手を伸ばさなければ、大切なものを失ってしまう。

 そんな胸が詰まるような葛藤に苛まれる為、九凪は解放リベラをあまり使いたくはなかった。


「それで、皆くん。敵はどんな術式を使ってきたの? 敵に関する情報が少しでも欲しい。できるだけ正確に思い出してくれるかい?」

「敵の使った方式は『界術陣』でした。実力カラーは赤色で、よく使ったの――」

「ん、界術陣? 儀式術式じゃなくて? それとも敵は二人だったのかい?」

「いえ、敵は一人でしたよ。それがどうかしましたか?」

「おかしいぞ、そんなはずはない……」


 新谷は考え込むように顔を伏せる。


「なら……?」

「……っ!!」


 新谷の言葉を聞いて、ようやく九凪は思い至った。


 一人の界術師が使える方式は原則一つだけと決まっている。これは脳の処理能力に由来するため覆りようのない真理だ。


 敵は森に仕掛けられた儀式術式を解除しながら進んでいた。それは九凪が界視眼ビュード・イーを使って確認した事実だ。だが、九凪が戦ったのは寺嶋家が生み出した方式である界術陣カイじんを使う界術師だけだった。明峰家が生み出した方式である儀式術式は使えない。


 それは、つまり――


「……あれ、ない! ないない、ないですっ!!」


 少し離れた位置で界術陣を使った男が落としていった鞄の中を見ていた太堂が、焦ったように叫んだ。


「枚数が足りません! 資料の中から何枚か引き抜かれています!! と、特異点の『世界樹』の資料がありません!!」

「……そういうことか」


 新谷は吐き捨てるように言った。


「敵はもう一人いたんだ。皆くんともう一人が戦闘をしている間に、そいつは必要な資料だけを抜き取って森を脱出しようとした!」

「でも、だったらまだ森にいるかも……!」


 言い終わるや否や、九凪は道路の端にあるガードレールに駆け寄る。そこから崖下へと広がる森を眺めながら、界視眼ビュード・イーを発動した。


 青みがかる視界の中、森の中にはいくつもの黄金の光が松明のように輝いている。だが、その内の幾つかは輝きを失っていた。


「……駄目です。森の外まで続くように儀式術式が解除されています」

「敵はすでに、暮峰山から出てるってことか」

「追いかけますか?」

「……いや、無理だ。山を出られたらもう手掛かりはない。闇雲に探す訳にもいかないからね、お手上げだよ」


 九凪の隣に移動した新谷が、ガードレールに手を掛けて森を俯瞰する。

 乾燥した冷たい風が崖下から吹き上がって九凪の前髪を揺らした。どんよりとした脱力感が染み込んだ無言の空間に木枯らしだけが鳴いている。


「新谷、こいつはちょっとマズいんじゃねえか?」

「ああ、僕が想定していたよりも事件は進んでいるのかもしれない。油断していた」


 珍しく神妙な顔の玖形に対し、新谷は表情を引き締めた。

 不意に、新谷はロングコートのポケットから携帯端末を取り出した。どうやら着信らしい。憂慮を滲ませた表情のまま新谷は電話に出た。


 その直後。


「……え?」


 新谷零士の顔から、血の気が引いた。


「界力省が管理していたはずのせきが、盗まれた……?」

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