第1話 玖形請負事務所
引き締まった体格の少年だ。
大人びた顔立ちも相まって、物腰は歳不相応に落ち着いて見えた。髪は長めで、襟足がうなじを隠している。前髪の掛かる瞳は夜の海のような深さと黒さを持ち、十六歳には似つかわしくない翳を感じさせた。
「これが今回の案件ですか?」
硝子製の座卓に黒い革張りのソファ。いかにも事務所然とした内装の部屋で、九凪は座卓を挟んで正面に座った
「そう、術式の盗難。それもかなり危険な術式がやられたんだ」
春の薫風のように爽やかな青年だった。
緩いウェーブのかかった茶髪だが、軽率な印象は全く受けない。雑誌の表紙を飾れそうなほど長身の優男で、年齢は29歳。手入れの行き届いた高級スーツに身を包むその姿は、まさにやり手の若手実業家といった雰囲気だった。
ある業界では名の通った『情報屋』である。
「術式名は『森の王』。方式は
約70年前に存在が公になって世界の常識を一変させた粒子状の物体である。
人類がいかなる手段を用いても界力を観測することはできなかった。しかし、界力に干渉して超常の異能を操ることができる人種がいる。
それが
彼らが操る異能の力は『
「でもその禁術の資料が盗まれた。つまり、黒幕はお伽噺でしかなかった禁術を完成させたということ」
「その通り。だからこうして依頼をしに来た訳さ」
新谷零士は満足げに頷いた。
ここは様々な理由から公にしたくない
界力術が禁術に指定される理由は二種類ある。
発動時に発生する破壊が甚大であるか、その術式によって引き起こされる精神的影響や肉体的損傷が非人道的であり、倫理観から大きく逸脱しているかのどちらかだ。
九凪はメモ帳とペンと取り出し、分かっている情報を書き込んでいく。
「僕も専門じゃないから詳しくは知らないんだけどね。『森の王』が発動したら計算上は周囲数キロが火の海に沈むらしい。流石は神話の完全再現といった所かな。人口密集地が標的になったら一体どれだけの人が犠牲になるか分からないよ。黒幕の狙いが分からないのが不安だね」
「……漠然としていますね。うまく想像できないです」
「だろうね、僕だって現実味が湧かないよ。この辺りは、由美なら実感が湧くんじゃないかな?」
「まあ、それなりにはな」
超然とした雰囲気を放つ麗人。
燃えるように真っ赤な髪が腰まで落ちている。見上げるような長身は無駄がなく、20代後半の女性らしい色香を帯びていた。しゅっと鋭利な顔のライン。切れ長の両目に浮かぶ瞳は烈火の如く
彼女こそ、玖形請負事務所の所長である。
むすっとした仏頂面だ。着ているのは古びたジーパンにTシャツで、部屋に落ちていた服を適当に取って着たという感じか。
「禁術は言わばでっかい爆弾みたいなもんだ。盗まれた術式の資料ってのが爆弾の設計図か火薬の調合表か。爆弾を完成されても都合が悪いし、実際に爆発しやがったらもう最悪だ。だから何かが起きる前にどうにかしようってんだろ?」
「正解。由美は理解が早くて助かるよ」
「まどろっこしいのは嫌いなんだ。新谷の説明は遠回りが多いんだよ」
玖形は不機嫌そうに表情を曇らせた。突き放すように言うとソファに深く座り直す。
「……師匠、そろそろ機嫌を直してくださいよ」
「受け入れられねえことだってあるんだよ、大人にはな」
九凪皆にとって、玖形由美とは二つの顔を持つ。
一つは界術師の師匠。
もう一つは育ての親――母親の代わり。
数年前に一人暮らしを始めるまで、九凪は玖形由美と一緒に生活してきた。
玖形由美は全く家事ができない。掃除もしなければ洗濯もしない。部屋が汚くなれば引越しをして、一度袖を通した服は買い換える。エコという概念をどこかに捨ててきたような性格。村人から恐れられる山賊の長だってもう少しまともだろう。
そんないい加減を極めた玖形由美を反面教師にしてきたせいか、九凪は重度の綺麗好きになってしまった。一人暮らしを始めたのも玖形由美の暴挙に耐えられなくなったからだ。
今では全く家事をしない玖形由美の代わりに、この事務所の管理の一切を引き受けていた。
だがその途中で事件が起こる。
「カイ、テメェが捨てちまったあいつらはな、アタシにとっては宝物だったんだ。それを適当なゴミと同等に扱った。もうその時点でアタシの怒りは沸点を超えちまってんだよ……!」
ぎろり、と玖形由美が鋭い視線を向ける。
うっと言葉を失ってから、九凪皆は申し訳なさそうな口調で言った。
「何度も謝ったじゃないですか……それに代わりの物だって取り寄せてますし」
玖形由美には趣味があった。
酒瓶の収集。
古今東西、珍しいお酒の容器を集めては観賞用に保管するのだ。
昔から一緒に暮らしてきた九凪皆ではあったが、ついぞその良さを理解することはできなかった。物の価値は人それぞれというのは分かっているが、残念ながら九凪皆には玖形由美のコレクションがゴミの山にしか見えなかったのだ。
今回も雑然という言葉を極めた玖形由美の部屋を掃除している最中に誤ってコレクションの一部を捨ててしまった。その結果が現在の不機嫌ということになる。
コレクションを取り戻すために世界各地から酒を取り寄せているが、なかなか見つからない逸品も多い。全てを手に入れるまではこの状態が続きそうだ。九凪皆は内心で溜息をついた。
「それで皆くん、僕の依頼の件だけど」
「はい、引き受けさせていただきます」
苦笑する新谷零士に向き直り、九凪皆は軽く頭を下げた。
九凪皆一人では依頼を解決できない。必ず玖形由美の力を借りる場面は出てくる。今はスイッチが切れたように働かないが、いざとなれば活躍してくれるはずだ。長年隣で戦ってきた九凪皆は疑うことすらしなかった。
「お、そう言えば! なあ、カイ」
玖形由美が唐突に起き上がる。悪戯を仕掛けた子どものようにニマニマと両頬が緩んでいた。明らかに何かあると直感した九凪皆はわずかに身構える。
「……なんですか?」
「お前、同棲してる彼女とはどうなったんだよ」
「はい? ちょっと何を言ってるのか、僕にはさっぱり……」
すっと目を逸らすと、九凪皆は語尾を濁した。
「誤魔化すんじゃねえよ。知ってんだぜ、アタシは。みさきちゃんだっけ? 結構長いこと一緒に暮らしてるみたいじゃねえか」
「……それ、誰から聞きました?」
「聞くまでもねえだろ、新谷だぜ」
「新谷さん……っ!」
「ご、ごめん。でも仕方なかったんだよ! 言わなきゃ殺すって脅されたんだから……ほら、由美ならやりかねないだろ?」
九凪皆に恨みがましい視線で睨まれた新谷零士は、両手を合わせて慌てて頭を下げた。
「ほれカイ、全部言っちまいな。どこまで進んだ? ん?」
「……師匠、」
一度目を伏せた九凪皆はゆっくり顔を上げた。
にっこり、と。
絵に描いたように完璧な笑みを仮面のように貼り付けながら。
「この話は、ここで終わりです」
「……いや、でもお前」
「終わりです」
「……、」
絶句する玖形由美を無視して、九凪皆は立ち上がる。
「それじゃ新谷さん、僕は先に車で待ってます。そこでじっっっくり話ましょう」
「……ああ、分かった。僕もすぐに行くよ……皆くん、怒ってる?」
「いえ、怒ってないです。全然」
「目が! 目が笑ってないよ!」
狼狽する新谷零士を尻目に九凪皆はハンガーに掛かったロングコートを羽織って事務所から出て行く。その間、九凪皆の顔から凄絶な笑顔が絶えることはなかった。
「……まずいって、皆くんかなり怒ってるよ」
「あいつ、偶にびっくりするくらい怖い顔で笑うんだよな。頑張れよ、新谷」
「他人事みたいに言わないでくれよ! 尻拭いする僕の気持ちにもなって……」
大きな溜息を
「今回は勢いで誤魔化されたけど、どっかで一回しっかり話を聞かねえとな」
「……それは、皆くんの恋の行方が気になるって意味かい?」
「当たり前だろ、アタシはあいつの母親の代わりなんだ。まあ、それだけじゃねえんだけどよ」
玖形由美は立ち上がって、事務所の奥にある洋服タンスの方へと向かう。
「カイは色々と考え過ぎなんだよ。もっと気楽に生きねえとどっかで必ずパンクするぞ。息抜きの方法を学ぶべきだ」
「息抜き、ね」
「んで、みさきちゃんだっけ? その子がカイの心の拠り所になってくれればって思ったんだが……ありゃ上手くいってねえな」
玖形由美は何の躊躇もなく着ていたTシャツを脱いだ。メリハリの付いた女性らしい肢体が露わになる。瑞々しい肌が差し込んでいる陽光を受けて白く輝いていた。
「……あのー、由美さん。一応、僕も男なんだけど」
「あ? 今更アタシの裸くらいでお前も驚かねえだろ、一晩を共にした仲じゃねえか。
視線のやり場に困る新谷零士に構うことなく、玖形由美は洋服タンスから燃えるように赤いライダースーツを取り出した。上下が繋がったウェットスーツのような造りだが、玖形由美は慣れた様子で手足を入れていく。
「考えなしに暴れるのだけはやめてくれよ。ただでさえ由美は
「そん時は全力で抵抗してやるよ。アタシには首輪を嵌められねえってことを教えてやるまでさ」
憮然とした様子で玖形由美はライダースーツに入っている長髪を掻き上げる。スーツから放たれてばさっと広がる赤は風に揺れる炎のようだった。
「んで新谷。確認なんだけどよ、アタシに依頼を持ってくるってことは『メソロジア』に繋がってるってことだよな?」
「あくまで可能性だけどね、対策するに越したことはないよ。でも、いいのかい? 皆くんには説明しなくて。まだ記憶の事も話していないんだろ?」
「……時が来たら話すよ。今はまだ早い」
「やっぱり、由美は皆くんに甘いね」
「あぁ?」
「
「……チッ、分かってるよ」
目線を逸らして舌打ちした玖形由美は、大型二輪の鍵を指に入れてクルクル回しながら、
「何にしても、『メソロジア』が関係してるならアタシ達の領分だ。他の誰かの手に渡る前に食い止めるぞ」
「言われなくても。その為に僕達はここにいるんだからね」
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