時間よ止まれ、
此花朔夜
第1話
弁護士を名乗るその女性が、私の前に現れたのは今から3ヶ月前のことだ。
何某とかいう、高名な洋画家の遺言執行者を務める彼女は、私に、彼の人の遺産を相続してほしいのだと言う。
まさに青天の霹靂である。
幼い頃、両親が離婚し、女手ひとつで育てられた身としては、今まで見たこともないような額面の現金と、有価証券。お屋敷と呼ぶに相応しい家屋に、彼の人が趣味で蒐集したという美術品の数々が、本当にいきなり、私のものになると言うのだ。俄かに信じられずとも、それは致し方のないことだろう。
私の困惑を察したのか、彼女はまず、これから私の財産となるものについて、実物をひとつひとつ見せてまわりたいと言った。夢うつつの心地のまま、私はなんとかそれを了承し、かくして、3ヶ月もの多大な時間をかけて、途方もない現実を受け入れる準備をしてきたのである。
彼の人の遺産は実に素晴らしいものばかりだった。金銭的価値は言うに及ばず、流石は芸術家と言うべき美的センスの賜物だった。私は殊に、諏訪の別荘が気に入っており、諸々の財産を適切に処分した暁には、早めのリタイアに名乗りをあげて、ここでのんびり過ごしたいと思ってさえいる。
人間というものは、本当に欲深く、現金なものである。
彼女が最後に私を連れてきたのは、ささやかな画廊だった。
黄昏時だからか、人の出入りもまばらで、寂れているわけではないようだが、不思議な静けさに満ちている。
彼女が言うには、ここでは彼の洋画家の、追悼展が催されているとのことだった。会期最終日の閉館前ということで、この人少なさにも納得がいく。ここに展示されている作品は、彼の人があえて手元に残したものであり、私の相続対象なのだと言う。
主催の許可は得ているので、時間を気にせず、じっくりご覧になって下さいーーそう言って、彼女は私ひとりを残して辞した。芸術などは門外漢だが、折角の機会なのでのんびりと眺めていくことにする。
幸いにして、彼の作風は写実的であり、私の理解の範疇にあった。風景画がほとんどで、時折、静物も手掛けている。制作年代ごとに分けられているのか、初期は今まで見たこともないような異国の風景が多いのだが、年を下るごとに、見慣れた国内の景色の方が優位になっていく。
展示の年代が、彼の人の晩年にさしかかった頃、唐突に変化は訪れた。
彼の描き出す街並みが、急に時代めいた雰囲気になっていく。木造のアパートがひしめき合うカンヴァス。辛うじて土瀝青で舗装された大通りには、路面電車と、ボンネットバスが行き交う。私がまだ、子どもだった時分の原風景がそこにあった。
突然のタイムスリップに困惑しながらも、私は素直に順路を辿っていく。不意に、大きく空間がひらけ、恐らく、この展示最大の目玉である作品が、私の眼前に現れた。
その瞬間の、私の感情を、どう言い表せばいいのか。私は未だに、適切な言葉が見つけられないでいる。
その絵は、彼の人には珍しい、肖像画だった。舞台は恐らく、あの長屋のようなアパートの一室で、木造の桟とソーダガラスで組み上げられた窓を背に、見慣れた顔をした女が微笑んでいる。窓の外には小さく花火が上がり、女の出で立ちはというと、麻の生成りに、赤と青の朝顔を添えた浴衣であった。涼をとろうと携えた団扇には、四つ尾の金魚が泳いでいる。
女はまさしく、私の母であった。
私は母の若い時分の話を、終ぞ聞いたことがない。否、ただ一度だけ、母がぽつりと漏らしたことがあった。末期の癌を宣告され、病床にあった母がただ一度きり、花火を見たいと言ったのである。母がまだ乙女の頃、貧乏な美大生と交際していたのだと言う。彼のアパートには何もなかったが、唯一、夏になると、祭の花火が特等席で見られたのだそうだ。
結局、母は祭の季節を待たずして逝ってしまった。私の親孝行の機会は、永遠に失われたのである。
肖像画のタイトルは、『時間よ止まれ、』。
確か、彼の人は、生涯独身を貫いたのだと聞いている。
私は、本当に途方もない遺産を手に入れてしまったのだと悟った。
時間よ止まれ、 此花朔夜 @MockTurtle_0v0
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