第29話

別れ際に、蓮見がさらっと言った。

「迷うとそれだけ出発が遅れる。一年毎に吸収は鈍り、社会に溶け込む切掛けを失うぞ。

失い兼ねない場合だってある。決めるのは坂谷自身だ。余計なことかも知れないが、職業を選べと言っているのではない。そのことだけは分かってくれ。子どもに影響を与えない環境を作っておいた方がいい」

 茂は,他人事のように、涼しい顔で何も感じない風を装っていたが、一言も聞き逃しはしていなかった。蓮見が同年ということが茂の心に疼くのだ。

 蓮見は、ちょっと手を挙げ『じゃあ』と言って背を向けて行った。

茂は蓮見の言葉を反芻する。蓮見は俺の迷いを感じ取っていたのだ。

 茂はK市に降り立つと久しぶりに駅前を散策することにした。良美を迎に行く時間にはまだ間があった。この街に溶け込んで何年になるだろう。芙紗子と結婚して直ぐに建てた家だ。芙紗子が身ごもって、新生児の用意をするのを、サクラデパートではなく、二人でこの街でそろえたのだ。懐かしさが込み上げてくる。半年振りに商店街を歩く。半年の間にあったはずの店が見つからない。ごみごみした横地の店を眺めたが、買う当ても無く、買いたい物も見つからずに歩いて家に向かった。振り返れば街は一望できる。茂は振り向く気持ちはなかった。職場復帰は完全に失せた自分を知り一つの決断が出来たとほっとした。腕時計を見る。三時を回ろうとしている。良美を迎に行くにはまだ時間がある。


家までぶらぶら歩いていると、向こうから、赤い帽子を被った子どもたちが長い列を連ねて遣ってくる。長い列の後ろから、大きな乳母車に小さな子どもを乗せた三台が遣ってくる。あれは昼寝から醒めた子どもたちを午後の散歩に連れて行く園児たちだ。あの中に良美もいる。茂は横道にそれた。あれも、保育士の仕事の一つなのだ。茂はあの中の一人に自分を置いた。

何処に入れるだろうか。

あの幾人も乗った乳母車を押す。立ち上がる子どもをあやしながら……。

 縦列の前に立って号令をかけ、逸脱する子どもを連れ戻しながら歩く。その細やかな神経は俺の中にあるようで、欠けている部分だ。『あなたって大雑把だから』と芙紗子は言う。何事に置いても。 

芙紗子は、俺の性格を言いえているのかも知れない。今思えば芙紗子との結婚もその類に入るのだろうか。その辺りが、芙紗子と俺の相違点だ。

 保育士は表面的感覚で維持できる仕事ではないようだ。冷静に考えると、無理だろうし、男が歳を重ねて、遣り通せることは難しい。

特に俺の性格からして。

 茂は子供たちを避け、川沿いの道に回った。ぶらぶら歩きながら両岸に植えられた名も知らぬ木々を見上げると、青々とした葉の中に、黄色く色づいている葉が目に付いた。俺のように気早すぎてしまった。それとも繁った葉に、反骨精神を見せ付けているのか。いずれにせよ俺は何かから逸脱している。それが何であるか分かれば悩みも生まれない。今は悩むより、自分と重ね合わせることを避けようと決めた。


 玄関の前でポケットの中の鍵を探しながら、もしかして、ピカピカの靴の代わりに芙紗子が立っている。と有り得ないことを想像して「あまい、あまいのだ」と茂という男に、言い聞かせた。

着替えをしながら、ネクタイに戻れる日に向ってまい進することだ。ぐらつく要素は全て自分の目で確かめた。


 茂は机に向うと、退職願を書いた。芙紗子に届けを持っていってもらう事ではない。

自分の決断だ。

 良美を迎えに行く途中にポストはある。失敗になるかもしれない。それも一つの経験になる。だが待てよ。二度の失敗は俺自身が許さないと決断することだ。

茂は迷うことなく投函した。

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