第28話

「ありがたい」           

茂は言葉とは裏腹に鷹揚に構えて言う。言ってしまってから、子供の様にはにかんでしまった。俺は何を考えているのだ。蓮見と張り合っているのか。今そんな状況ではないことぐらいわきまえろ。と自分を諭す。蓮見は淡々として表情も変えなかった。

「飯に誘いたいのだが行かないか、時間は取れますか」

静かに言葉を選んで言った。

「飯を食いに行く前に、坂谷に迷いがないなら、司法書士の田辺を紹介する」

茂は子供の様に頷き、お願いすると言った。

蓮見はポケットから携帯電話を取り出すと、プッシュしてすぐにポケットにおさめた。何故取りやめるのか怪訝に思っていると間もなくノックがして、男性が小脇に書類らしきものを抱えて入って来た。俺より少し若いと思う。すると男が話し始めた。

「田辺です。初めてお目にかかりますが、昨日、蓮見先輩から、坂谷さんのことを窺っています。僕に出来ること、専門学校に行って資格を取る準備とか何かお役に立てばと思い幾つかのパンフレットや、専門書を用意してきました。僕は司法試験脱落者ですが、蓮見先輩の助言で司法書士に鞍替えしました」

 田辺は真顔で真剣に茂に向き合ってきた。俺より若い田辺にすがるしかない。ここは胸中を開いてすべてを蓮見と田辺にお願いしてみよう。

「僕は、職種の選択を蓮見にお願いしました。今挑戦しようと心構えが出てきたところです。よろしくお願いします」

 丁寧に頭を下げると、蓮見が、

「一晩ゆっくり考えて、奥さんとも納得いくまで話し合い、そこで揺ぎ無かったら、明日ここで田辺と計画を立てると言う事にしてはどうだろう」と言う。

 もちろん茂には異存はなかった。そこで昼飯をたべにいくことになり、田辺も誘ったが、今日は仕事もあると、やんわりと断ったが、遠慮したことが分かっている。

 茂と蓮見がビルを出ると昼休みになったサラリーマンが、ワイシャツのまま道を塞ぐぐらい大勢行き交っている。茂はすっかりご無沙汰状態の都会の真ん中で戸惑う。

この一年、良美の保父さん。なんと違う世界に迷い込んだ子羊だ。そんな思いが過ぎりながらも、蓮見に心尽くしをしないといけない。

「今日は俺に任せてくれ。ちょっと良い店に行かないか。手土産も持ってこなかった代わりだ。何処かないか」

「気を使うなといっても、かえって気を使うだろうから、美味い中華屋がある」

 蓮見はすたすた歩き出した。茂は首筋に汗が滲んでくる。強い日差しも斜めに射し秋の訪れなのだろう。が遮る木々も無く、ビルの谷間から生暖かい風が通り抜ける。むっとした感触が茂の身体に残る。ふと不安になった。俺は、この大気の雑多の中にいる子羊。司法書士の資格が取れたとして、息苦しいまでの人樹の中で、掻き分け、競り合い、足も踏まれず、遣っていけるだろうか。

K市の緑樹の繁った木の中にいる子羊。保育士の夢をもう一度考え直す。木々の空間から爽やかに差し込む日差しと、あどけない子供たちの声に聞き入る安らぎと、ともに育み成長していく過程を重んずるか。蓮見を意識しながら、胸の内を悟られまいと、取り留めのない話に相槌を打ちながら肩を並べて歩く。

子羊は何処へ歩き出そうとしているのだろう。固い決意で蓮見に会いに来たはずが、迷う。そこに職場復帰も、まだ間に合うぞ、頭の隅が囁きだした。

 蓮見は大都会の中心駅に近いビルに入ると、地下に下りていく。連なる飲食街の中の一軒に中華屋はあった。特別な構えにも思えないごくありふれた店だ。茂はもぞもぞと、背中に痒さを感じた。蓮見の奴、俺の今を察して、かなり気を使っている。だが、ここは何気なくやり過ごそう。

「お互いに旧友の再会を祝福して、乾杯」

蓮見が杯をあげる。ジョッキ一杯のビールは食事に旨みを添えた。

地上に出て貴重な時間を費やさせた礼と、久しぶりの再会に快く付き合ってくれた礼を述べた。

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