第26話

田舎を懐かしく思いだしていた。俺はもう帰る場所はない。もう少し考えが深ければ、父親が残した財産も幾らか貰えるはずだったが、なにもいらないからお袋をお願いすると、姉に懇願していた。今さら悔いたところで元には戻れない。もし芙紗子との話がこじれ、芙紗子に引導渡されたら、良美を連れて田舎へ帰ることだって出来たはずだ。良美はどんなことがあっても俺が育てる。離すものか。芙紗子はどう出てくるか。頑張るぞと、つり革にしがみついている自分に気が突き、あたりをきょろきょろ見回した。誰も俺のことなど眼中になくそれぞれ自分の世界に居る。ほっとして車窓に目を向けると、目的駅に近付いている。立ち並ぶのはビルの窓と、ビルの屋上にすえられた華々しい広告塔だ。K市は都会から離れたオアシスなのだ。駅前は戦後幾度となく開発されて大都会の百戦錬磨の社会で鍛えられた集まりになったが、ちょっと駅から離れると憩いの場所だ。大学があり、その周辺は長閑な雰囲気の中に家が建ち並ぶ。駅の反対側に降りると恩賜公園がある。その環境に浸かったままの茂には、都心が近づくにつれてますます気後れしていく。転職を考えることになるとはデパートに就職した時思ってもいなかった。結構自分に会った職場だと思った。昼日中にご婦人の買い物に立ち会わされることに辟易したこともあったが、一年もすると慣れに従って如何すればいいのかが身について対処も自然に身についてきた。

全て俺の立ち位置が狂ったのはどこからなのか。

芙紗子との出会い? 

いろんな場面が走馬灯のように頭を回っている時、下車する駅名が車内アナウンスで流れている。

ホームに降りると、駅は大都会の中心にありながら十数年の時を経ても、そのままの薄汚れた雰囲気をもたらす変わりないホームだった。なぜかほっとする。

改札を出で幹線道路に出るとそこは紛れも無く大都会だった。

M方面に向かって三、四分歩くと蓮見の入っているビルが見える。エレベーターで五階に上るとワンフロアーが蓮見の事務所になっていた。気後れしてくる。あいつ司法修習生が終わり、親父のところで修行するといった。その時以来の訪問だが、あの時は同じ場所だがもっとこじんまりしてしたように思った。プレートを見ると『蓮見法律事務所』と書かれている。その下に、五人の弁護士の名前が並んでいた。その横に司法書士の名前も書かれていた。

オープンに開けられている扉の前で、受付と書かれたカウンターから、女子事務員がじっと茂を見詰めている。ちょっと早かった。まだ十一時だ。受付の奥からシーンとした空気が漂ってくる。戸惑いながらも、

「昨日、蓮見伸吾さんにアポイントしました坂谷ですが」

「伺っております。どうぞ」

女子事務員の後に続くと、個室に案内された。その個室が何部屋も続いているようだ。扉を開けて、

「今参りますから、お掛けになってお待ちください」

 茂は違和感を持った。あいつ法律相談と勘違いしたのだろうか。確かに資格を取りたい旨のことを伝えたはずだ。その相談だ。何か手の届かない世界に迷い込んだ気がする。

 お茶を運んできた女子事務員が、

「直ぐ参ります」

と丁寧に頭を下げて出て行ってから、もう二十分間窓と向き合っている。茂の勤務時の経験から二十分間は途轍もない貴重な時間だった。敏速にお客さんの対応に当らないと、上司からも同僚からもクレームがついた。

茂は向いのビルのオフィスの窓に蠢く人を見詰めているといろんなことが頭を過ぎる。招かざる客。友達だからといって甘えるな。蓮見の仕事は、対人関係を重要視しない職種なのだろうか? そんなことはない筈だ。

依頼を受けた以上その人となりを把握し意志の疎通が図れなければ弁護は出来ないだろう。

去るべきか、ここに留まるべきか、揺らぐ心にまいりかけた時、ノックの音と同時に、

蓮見が顔を出した。

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