第25話

駅のホームに立つと一年の空白は何処へ、何の違和感も無く電車に乗った。周りの雰囲気にもすんなりと馴染めた。これなら仕事へ出陣していく人々の中にも溶け込めそうだ。  

いまさら自分で開業できる資格を取らなくても、蓮見のところに相談に行くこともないような気がしてくる。このままどこかに就職しても大丈夫だ。

無理を重ねて資格に拘ることはない。

どんな職種が合っているか。資格はゼロ。

まさかデパートを探す。以前の職歴を書いたら一発で駄目。それとも面接まで漕ぎ着いたとしても、職種はと聞かれ、退職する理由をあげざるを得ないだろう。

俺には出来ない。家内に頭が上がらずにいるから……。

だが俺の歳で、どこか再就職できるところはあるだろうか。保育士の資格は茂に取ってあまりにも大きな衝撃だった。

また挫折を味わうのは嫌だ。臆病になっている。

そう言っても、元の職場に戻る気がないのだから、年齢からしても資格を取る最後のチャンスなのだ、と思い直した。思いなおしながらも、定まらない心中に自身が嘆いている。

電車のつり革に掴まりながら、車窓を眺めていると、酷暑だったこの夏の名残か、線路に平行して立ち並ぶ民家の窓にまだ簾が掛かっている家がぽつぽつとみ当たる。簾を見るのは田舎で過ごした高校生の時だから、二十年程前になるだろうか。東京の郊外は、田舎の風景がまだ残っている。懐かしい風景に田舎にいる母を思う。

大学を卒業する時、出来たら田舎で就職してくれないか、と母が言った。

「東京で就職するのが僕の夢」

と即答した。

母の応答は返ってこなかった。俺は、気にも留めなかった。

まだ親父も現在だったし、さほど望んでもいない軽い気持ちで言ったように思えたからだ。うかつだったと気付いたのは、後々のことだった。

親父が脳溢血であっけなく逝ってしまった。母はまだまだ元気だったから、一人の生活になる事がどういうものになるのかも考えることもしなかった。物事を真剣に考えなかった。母の一人暮らしも、二度目の青春を謳歌しているとばかり思っていた。

そんなある日、姉の玲子から電話がかかって来た。

「茂、たまにはお母さんを見舞いなさいよ。長男の一人息子の貴方は何を考えているの。お母さんは頼りにしているのも知らないの。薄情ね」

「だって元気で遣っているんだろう」

「お母さんこの間、転んで手をついて、痛いのを我慢していたが、我慢しきれずに病院に行ったらすぐに整形外科に回されて検査の結果骨折していたのよ。私の処に知らせてきたのはずいぶん経ってから。私も仕事を持っているでしょう。毎日は覗きに行くことが出来ないの。少しは茂も考えて」

 と言うなり電話は切れた。すぐに母親に電話すると、

「大丈夫よ。大げさなのよ、玲子は。お母さんまだまだ元気。心配いらないわ」

 声も大きく元気な張りのある声にホッとしてそのまま母に甘えて、田舎にも帰らなかった。そのつけが回って来た。俺が結婚すると言った時、相手のことをいろいろ聞かれて、仕方なく年上で上司であると言った。母は言葉を失ったのか、しばらく声も出さずに何かを堪えているかのようだった。そして小さな声で、

「もう婚約したの」と言った。

 すぐ姉から電話が入った。長い、長い電話の末に「一度二人で田舎に挨拶に来るのが常識でしょうと捲くし立てられた。いろいろ仕事の条件が重なり、母と芙紗子の最初の挨拶は電話での事だった。母は「茂をおっとり育ててしまって世間知らずです。よろしくお願いします」と言ったと言う。芙紗子は喜び勇んで「お母さんって優しい穏やかな人なんでしょう」と言う。すぐに姉から電話が入る。また来たかと思っていると、

「茂、電話で挨拶済まそうなんて、非常識にも程があるわ。茂はそこまで、何とかさんに尻に敷かれているの。茂、あんたは馬鹿ね。後々しくじったでは済まないわよ」

 皮肉とも見下されたともとれるが、俺ってそんなところなのだ。

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