第24話

茂は、昨夜から興奮気味で寝付かれずにいたが、心地よい目覚めが続いている。子供の時、初めて家族とデズニーランドに行くときに覚えた心地よい眠りの中にいたのだ。

すがすがしい朝を迎えていたのだ。昨夜、芙紗子に蓮見に会いに行くことを告げると、

勘の鋭い芙紗子は、用件も聞かずに、

「久しぶりに会うのでしょう。恥をかかない程度のお金を持っていって、怒らないで」

 と言いながら、茂が出勤する時使っていた財布を、芙紗子はサイドボードの引き出しから出すと『五万円』と言って入れた。財布は何処にしまったかも忘れていた。

芙紗子は、会いに行く目的も聞かない。

「俺もそのくらいの金は持っている」

 と言うと『電話した方がご馳走するのよ』と言う。

 暗に、蓮見に相談しに行くのでしょう。と言っているのだ。

相談ではなく資格を取って、自立したいのだ。蓮見は知察している。         

全く主従の関係が逆転していると思いながら、受け取らざるを得ない今の自分が寂しかった。

芙紗子の幸せって何だ。こういう状況が幸せなのだろう。やり切れぬ気持ちを切り替えて、良美を保育園に送りに行く。

その時、珍しく芙紗子はまだ家に居た。

園長が園児達をさわやかな顔で受け入れている。その笑顔を茂に向けてきた。穏やかな風に乗っているように見え、思ったより卑屈にもならず挨拶することが出来た。

このまま今日の良き日が続くことを祈りながら、芙紗子の言葉にも抵抗を感じずに済むように。そんなことを思いながら考えるのだった。これじゃ良美と同じレベルじゃないかと自分に苦笑する。

玄関を開けると、ピカピカに磨かれた茂の靴が真ん中に置かれている。

芙紗子のやつ結構気を使っているのだ。リビングには背広とネクタイがハンガーに掛けられていた。

一年振りに鏡を見ながらネクタイを締め、背広を着る。髪を整えながら、幾度も鏡を見直すが、身体が背広を忘れてしまったかのように板に就いていない感がする。一年間一度も背広を着る機会がなかった。なんとなく腹が出っ張っていて、ズボンのベルトの穴が、以前より二つも先になっていた。これはまさしく刺激のない社会に閉じ込められた気の緩みが身体に染み付いてしまった。如何にだらしない生活環境だったのか。

人は、刺激を受け、社会の中で切磋琢磨しながら、生活していることがシャキッとした身体を演出することが出来る。それを物語っている俺の身体。

今さら嘆いても、時間の無駄だ。今は蓮見の気持ちを損ねずに、適した資格を取れることをお願いしに行くのだ。

俺の日常の相手は、ませた二歳児の良美だが、表現とは裏腹に使う言葉とは幼児言葉での生活だった。もっと何かを求めるものを忘れていた。

そんなことは愚痴っているにすぎない。と自分を叱咤する。

一度保育士合格書の写真を撮るとき、背広にしようかと迷ったが、着なれたジャケットで済ませてしまった。まさか、転職するのは保育士と考えていたから、背広のことまで気が回らなかった。

資格を取りたいと、蓮見に相談するからには、背広が必要な職種になるだろうと思うが、合ってみないことには分らない。予想外の職種だったら、どうすればいいのだ。即決で断る。それは失礼にあたるのか。だが、俺のことを最も知りつくしている蓮見だ。まさか、職業に差別はないが、自分が受け入れなれない職種だったら、どうすればいいのだ。

その職種を自分は何を考えているか。

 まさか蓮見がそんな失礼なことを考えるはずはない。昨日の電話の向こうで、

「僕の処に来るからにはそれなりの職業を考えて来たのだろう」と言った。

茂も、こう言った。

「司法試験は無理だとわかっている」それに関連した職業と言う事だ。

 頭の中が破裂しそうに渦巻くが、蓮見法律事務所に行くのだと自分を諭す。

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