第22話

信じられない程明るい声で芙紗子が言った。

「コーヒーの香りって癒されるは、貴方の淹れ方最高」

 茂はのけ反ってしまった。芙紗子の切り替えに乗せられたと苦笑するが、まだ夫婦としてやっていこうと芙紗子は精いっぱいのジョークを飛ばしたと解釈した。


 茂宛に人事課から、復職申請書類が届いたのは、一カ月前だった。郵送で届いた。その期限がぎりぎりの時期に来てしまった。芙紗子には見せていない。だが、知らないはずはないのだ。自分の課の部下の復帰に就いて人事課から、何らかの接触はあったはずだ。その証拠に芙紗子は何時も、

「届けるものがあるのなら、私が届けます」

 と暗にどうするのだと催促していたのだ。

 復職申請を眺めながら迷っている現状。

出すべきか。出せない。

気持ちの上では、退職すると意気込んでいるが、心は揺れ続けている。託児所の開設出来ない事の影響は計り知れない打撃を受け、しょ気返っているのだ。

もっとも俺は、計画を立てたまでは誰もがすること。それからが問題なのだ。実行出来るまでの過程も図らず、ただ緻密さに欠けている自分をさらけ出したに過ぎなかった。それに加えて、転職と大見栄を切ったが、皆目見当すら立てられず、何が俺に適している職業なのかも図れない。見栄と決められない狭間で一人もがく俺って、他人から見たらどう映るのだろう。芙紗子はその俺に苛立っている。何を考えているのか。夫婦であるなら打ち明ければいいじゃないか「早く言うのだ」と思っているのは分かる。それって脅迫されていることか。胸の内を早く明かせと催促されても、追いつめられても、無の状態の俺に迫られても、どうしようもない。結論なんか遠い彼方の先にも見えないのだ。ぎりぎりの時期に来ている今でさえ見出せずにいる。

託児所の挫折と、復職時期が重なるなんて最悪だ。それに加え、茂がだんまりを決め込んでいることに、芙紗子の苛立ちは頂点に達している。それも分かるが、奈落の底に撃ち落とされ、反省せよと言われても、頭は空洞、思考能力ゼロ。

一つだけ分っていること。二度の失敗は避けるべき。だから優柔不断と化している俺。


申請期限がとうとう五日になってしまった。芙紗子が、苛立ちを隠しきれなくなったのだ。人事課から、芙紗子に何らかの接触はあったはずだ。

「概略だけでいいから聞かせてもらえないかしら」

 芙紗子にしてみれば自分の職責にも係わる事案なのかも知れない。宙ぶらりんの亭主に、部下に秩序を重んじることと説いていながら、同じ課に所属する亭主の不甲斐ない態度に何処まで我慢できるか。

 芙紗子の心情も分かる。

茂の心情の中にこういう状態にさせたのは芙佐子が、育児休暇という名目で俺を家に閉じ籠めたと言う思いがある。今それを口に出さないのは、家族の将来のことを思わんばかりに差し控えている。この家、すなわち家族崩壊を避けたい思いが強いのだ。だからめったのことを口走ってしまえば後ずさりできない。それにしても期限五日前にしてうろたえている自分に腹が立つ。の足り、くらりも限度がある。

転職を考えている俺だから、いい加減なことには答えられないのだ。

 その都度、自分で片付けると突っぱねる。

 茂の揺らいでいる気持ちを知りながら芙紗子は、自分で決断しろと、突っぱねているようにも思う。そう願いたいと思いながら、今になって揺らいでいるのだ。

昨日、大学時代の友達蓮見に電話をした。学生時代は一番付きあいがあったが、蓮見は弁護士になり都心で開業している。

職種の違いからか何時しか年賀状のやり取りぐらいで疎遠になっていた。電話するのも躊躇したが、思い切ってかけた。

「やあー、しばらく。変わりないか」

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