第21話

細い、細い糸がこの地に留れと言っている。糸の先にいる者は見えてこない。今目の前に居る芙紗子が、糸に繋がっているとしたら、まだ結婚の形態は続くことになるのだ。芙紗子をどこかで信じている。ぎくしゃくしながら常に芙紗子が居る。     

茂の心の片隅を占領している芙紗子。だが茂は意を決して言う。

「これだけは言っておく。俺はデパートに戻る気持ちは皆無だ。退職願を出しても一向に構わない。意地もあるが夫婦を維持しようと考えているなら、二人にとって同じ職場はマイナス面だけだ。俺達夫婦はあまりにも格差がつき過ぎた。あんたが家庭に入ることはまずないだろう。今度はあんたが家に入る番だと言えば困るだけだろう。そうなれば俺が転職しない限りこの家は納まらないのだ。それとも良美に言っていたな、こんどパパとママは早い方が食事の支度をするとか…。それとも今度も相談しなくて悪かったけど『わたし重役になったの』とでも言うの? それだったら、話は別だけど」

「有り得ないこと言わないで。感情が先走って、退職しますと言うのは危険だと思うわ。退職願いを出してからでは戻れないのよ。それとも何か心に秘めているものがあるの? 聞かせてくれないかしら」

「審査されるのはいやだね。展望が見えてきた時点で言うよ」

「少しぐらい相談してくれてもいいでしょう」

「迷惑はかけないよ。退職金でどうにかまかなえると思う。食費の負担はバイトで補う」

「良く飲み込めないのだけど。バイトと言っても何でもいいと言う事ではないのでしょ。心積もりはあるの」

「飲め込めない? 咀嚼できないというの? 判っているだろう。今までのように全てあんたの肩に掛かっていた食費も払う。その代わり後のことは一応分担にしよう。一年前に戻るといっても、家事の分担と、良美の育児を平等に分担すると言いたいが、出来るか? まだ良美には育児が必要なのだ。確りしてきたからって二歳児は二歳児だよ。どうお?」

「今までのように家事一切を全て貴方にお願いしておきながら。またお願いとはいえないことは分かっているの。わたしの仕事も段取りとか時間の配分も出来るようになったわ。良美のことも出来る限りのことはします。だけど、概略だけでも聞かせてくれないかしら。皆目分からない目標では、わたしもどう分担していいか分からないわ」

「はっきり分担してしまったら困るだろう。時間が取れるようになったからって、あんたの不規則な時間は変わらないだろう。それはあんたが知っていることじゃないか。もやもやの状態の方がいいのだ。どうにかなるさ。一年の経験がものを言うことだ。決めたところでお前が困るだけだ」

 芙紗子は、俺の言う事に反論できずに戸惑いを見せた。しばらく間があったが、

「お願い貴方が描いている概略を少しでいいから教えて」と言う。

 言えるはずがない。挫折を繰り返すかもしれない。

「はっきりしたら言う」

それでも、また何を考えているのか教えてくれと食い下がられるが、茂は答えなかった。曖昧な事を言ってしまうと、話がこじれて最悪な結果につながる恐れがある。何かの資格を取ろうと思っている。それだけを言うか迷った。保育士も資格を取ればどうにかなると思った甘さ。まさか園長が言ったように、園で保育士になって働く。あの若い女性と一緒におむつの交換は出来るか。出来る物ではない。それを忘れて保育士になるっていうことを考えていた自分が、情けない程幼稚だった。だが、良美のおむつ替えは出来た。

まだ保育士のことが頭から離れない自分に辟易してくる。

芙紗子と向き合いながら、どうして保育士になりたいと思ったのか、その切っ掛けは何だったのか考えていた。病気の幼児を抱えた母親が困り果てている場景にほだされて、正義感が疼きだした。子供すぎる発想だと言う事が気付かずにいた。託児所の成り立ち、そこに係わる経営の成り立ち、すべて考えることすら抜けていた。

一途な考えは浅はかだった。今振り返ったところで遅い気もするが、考えるきっかけが出来ただけでも何か職業に携わった時に活きい来る。

後々参考になって活かせるはずだ。芙紗子の不満は手に取るように分かるが。この辺で留めておくべきと考えたのだろうか。

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