第20話

 茂は、芙紗子の物言いと、座り込む姿のギャップに同解釈していいか困惑しながら、ここで引き下がったら、自分の位置が下がるばかりだ。

「保育士の勉強を知った時あんたは何を思ったの。口出ししなかった。このまま家に閉じ込められるとでも思ったんですか」

茂は芙紗子に反復するように口走っていた。

言葉が強すぎたのか、芙紗子は精も根も尽き果てたみたいに、目が虚ろにさ迷いだした。夢遊病者のようだ。

さっきさめざめと泣いたのは、良美の可愛さだけのことではなかったのだ。園長から聞いた話があまりに衝撃的だった。抑えていた気持ちに良美のことが加わって耐え切れ無くなった。気がつかなかった。芙紗子もか弱い女性の感性を持ち合わせている。だが待てよ、惑わされるな。という気持ちもあるが、茂は全身に震えのようなものが走った。すまない気持ちになる。芙紗子もそれなりに悩んでいたのだ。どうすればいいのだ。この空間から脱却するには俺が何をすればいいのだ。託児所を諦めたことを言えばいいのか。職場に戻ってどんな屈辱的な配置になっても我慢しますと言えばいいのか。

 それは、嫌だ。

芙紗子とおなじ職場でなかったら堪えることも出来るだろうが、割り切れぬものが何時も頭を過ぎる。この結婚間違っていたのだろうか。サクラデパートにも共働きは何組も居る。坂谷家は事情が違う。年上女房と結婚している者も居る。だけど同等の気持ちで働いているのだ。偉い女房と結婚するには、それなりの覚悟が必要だったのだ。茂はそこをすっぽりと抜かしてしまっていた。

芙紗子は、うだつの上らない俺のことを承知で、アタックかけて結婚したのだろうか。それとも俺を買い被っていたのだろうか。

「俺が戻ると、お前はどうなるのだ。部長の顔を潰すことになるじゃないか?」

「そんなことはないは、貴方はあなたの職種を頑張ればいいのよ」

「俺の年齢の一年間のブランクは大きいよな。一番ランクがつく時で、あいつが課長付きになったとか、そんな話が飛び交う時期なのだ。同期の奴らも、皆出世しただろうし、給料は各種の社会保障だけであとは無給だった。その一年無給は、いろんなことに影響するだろう。昇給も止まっているはずだ」

 芙紗子が下を向いた。肯定したことだ。

「同期の者の処に配属されて、しもべとなって働けと言うのかよ、笑いものだぜ」

「そんなこと誰も感じないと思うは。どうして笑うことが出来るの。病欠していた人が二年ぶりに出社してきたわ。皆、心からよかったと温かく迎えたわ」

「それは病気が回復してよかったということだ。俺の身体は何処も悪くない。強いて言うなら、後になって気が着くぼんくら者ということぐらいだ。もっとも気付く回転の鈍さに自分で辟易しているけどな」

「嫌がらせ言うのは止めて」

芙紗子の叫び声。

 何処まで突っ込めばいいのか。このあたりが限界。丁々発止と遣りあえば、後は離婚と繋がり兼ねない。俺は避けたい。どこかで芙紗子に甘えている部分は確かにある。考え込んでいると、芙紗子が、

「何か遣りたいことが有るのだったら、言って。出来るだけお手伝いします。逃げないで、わたしは貴方を家に閉じ込めたつもりもないし、納得してくれたから、一年間良美をお願いしたの……。お願いしたというのは可笑しいわね。貴方もパパなのですから、どっちらが育児に携わってもいいことだと思う。たまたま貴方になったと考えてもらいたいわ」

 芙紗子は真に迫って引き下がることもしない。毅然と向き合ってきた。この一年夫婦と言う枠に拘り、お互いに自分の真意を理解しろ、と我を通す二人になっていた。夫婦といえども、分け入れぬところがあるのが人の感情なのだろうが、夫婦であるが故に侘しい。

 茂は託児所の夢が破れたのだ。それも今日のことだ。

次の目標など考える余裕も、心の整理も出来ていない。辛うじて平静を保とうとしているが、心の糸がはじけたらまっさかさまに奈落の底に落ちていく。

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